空中散歩

1.カフェ「ル・クール」



 「ル・クール」 は、ビルの一角にある十坪ほどの小さなカフェだ。
 席数十五、美味しいコーヒーと美味しいスイーツが自慢で、昼には軽めのランチも出す。
 天井が高く、奥行きがあり、木をふんだんに使った少しレトロで落ち着いた内装のため、客層は、若い女の子ばかりでなく、デート中のカップルや、お喋りを楽しみたい奥様方や、純粋に癒しの空間を求めにくる男性と、意外に幅広い。



 授業が終わってからダッシュで来たのだが、成海が店に到着したのはすでに五時を少し廻ったところだった。
「遅くなりました!」
 従業員用の裏口から入り、大急ぎで黒いワンピースの制服に着替えてからカウンターの中に飛び込んで、頭を下げる。
「やあ、成海ちゃん」
 コーヒーを淹れていた、この店のオーナー兼店長である常陸征司が振り返り、おっとりと微笑んだ。
「毎回言うけど、そんなに大慌てで来なくてもいいんだよ。この時間、そんなにお客さんも多くないしね」
「いえ、バイトたるもの、一分でも遅刻するなんて万死に値する大罪ですから! すみません、五分遅れた分は五倍の労働でお返しします!」
「……なんだか計算がおかしい、と思うのは僕だけかな。僕、自分で言うのもなんだけど、そんなに口うるさい雇用主じゃないほうだと思うのに、どうして成海ちゃんはそう、昔の強制労働者みたいな厳しい掟を自分に課してるんだろう……」
 征司がぼそぼそと呟いて首を捻る。しかし成海は白いエプロンの紐を後ろできっちりと縛って、さあやるぞと張り切っていたので、ほとんど耳には入らなかった。
 店内をぐるりと見回す。
 この時間は、彼の言うとおり、あまり客が入っていない。それでも三組ほどが席について、のんびりと寛いでいた。
 男女のカップル、若い女の子の三人グループ、あとは若い男性の一人客だ。
 カップルのところも女の子たちのところも、すでにテーブルには飲み物の入ったグラスやカップが置かれている。とすると、現在、征司が淹れているコーヒーは、男性客のオーダーであるらしい。
 よし、まずはあそこね、と成海は銀色の盆を手に取り、深呼吸した。
 なにしろ、この店でバイトをはじめてまだ一週間、覚えきれていないことは山とある。頑張るぞという決意とやる気だけは売るほどあり余っているのだが、その情熱とは反比例して、まだまだポカも多い。気を引き締めてかからねば。
 征司は自分で言うように口うるさい雇用主ではなく、どちらかというと優しすぎるくらいなのだが、それに甘えてばかりではいられない。彼だってこのカフェを開店させてからまだ一年ほどしか経っていないのだし、年齢も二十七歳と若いのだから、なんとしてもこの店を成功させたい気持ちがあるだろう。
 リピーターが行列を作って、テレビ局が取材しにくるくらいに繁盛させる手助けをしなければ、後輩の妹、というだけの理由で成海を雇ってくれた恩には報いることが出来ないではないか。
「じゃあ成海ちゃん、これ、五番テーブルね」
「はい、おまかせください!」
 元気よく返事をして、征司がカウンターテーブルの上にことりと置いたコーヒーカップとソーサーを、盆の上に載せる。我ながら危なっかしい手つきだと思うので、こちらを見る征司も少し心配げだ。彼はとても整った容姿をした男性であるから、正直、じっと見つめられるとかえって緊張してしまうのだが。
「お待たせいたしました……」
 とりあえず、五番テーブルには問題なく到着した。本を読むでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ座っていた客の男性がこちらを見たが、成海の目はほぼ盆の上のみに集中して注がれていた。今のところ、片手に盆、片手にコーヒーの入ったカップを持ちながら、軽やかに愛想を振るなんて芸当は成海には出来ない。
 カップからコーヒーを零さないように、慎重に慎重にと心掛けるあまり、盆からそれをテーブルに移す手は、プルプルと微妙に震えている。しかも無理やりキープしている笑顔も思いきり引き攣って、口許までが一緒にプルプルと震えている。それに気づいたのか、男性客がぷっと軽く噴き出すのが判ったが、そのことを恥ずかしく感じるゆとりもなかった。
 なんとか無事、カップとソーサーをテーブルに着地させる。その瞬間、ふう、と安堵の溜め息が出た。
「はい、よくできました」
「頑張りました!」
 男性客に褒められて、思わず満面のいい笑顔になったら、もう一度噴き出されてしまった。どうやら褒められたというよりはからかわれたらしいが、慣れないバイトにむっとするようなお客さんでなくてよかった、と思うことにした。
 手元の伝票に目を移し、確認する。
「キリマンジャロおひとつですね。ご注文はこれでお済みでしょうか」
「うん、いいよ」
「ありがとうございました。では、ごゆっくりどうぞ」
 伝票をテーブルに置き、軽く頭を下げて、席から離れる──という、マニュアルどおりの行動をしようとしたら、その前に、「ねえ」 と声をかけられた。
「はっ、はい! なんでしょう!」
 やっぱり何か粗相をしてしまっただろうかと身体を固くし、足を止めて問い返す。何も言われていないのに、すみません、と謝りかけ、その時はじめて、成海は目の前の男性客を正面から見た。
 席に座っていたのは、二十代半ばくらいの青年だった。遠目でも目立ちそうな明るい栗色の髪、白いカットソーに色物のシャツの重ね着で、下はジーンズというラフな格好をしている。でもさりげなくカットソーの襟元にサングラスがかかっていたりして、全体的にお洒落でバランスがいいなという印象を受けた。
 背も高いし、顔も悪くないし、「街で見かけた素敵なカレ」 というようなタイトルで写真を撮られて雑誌に載りそうな感じがする。
 彼は成海と目を合わせると、ニコッと笑った。
「君、ここのバイト? 可愛いねー」

 わあ、でも軽ーい!

 見た目はなかなか爽やかな好青年なのに、ニコニコしながらそのセリフを出す時の声と言い方がいかにも軽くて、成海はかえって感嘆してしまった。羞恥心のカケラも見せずにこういうことが言える男の人は、案外少数なのではないだろうか。
「ありがとうございます」
 ここでのバイトをはじめてまだ一週間とはいえ、この手のことを言われたのはなにもこれが初めてというわけではない。最初こそまごついてしまったが、おじいちゃんのような年齢の男性でも言う人は言うので、今はもう受け流すことにしている。大体、こんなことをバイトに向かって言うのは、九割が社交辞令だ。あとの一割は本当のナンパだったりするが、ここにいる男性はそんなに相手に不自由しているようには見えない。
 ぺこんとお辞儀して、こちらも軽くお礼を言うと、青年はまたニコッとした。
 人懐っこい笑い方をする人だなあ、と成海は思う。
 たとえ中身が軽くとも、この笑顔で、大抵の人は彼に悪印象は抱くまい。
「高校生かな?」
「はい、三年生です」
「学校には内緒?」
「いえ、本当は禁止なんですけど、特別に許可を貰っているので」
「でも、勉強と両立させるのって、大変じゃない?」
「大変といえば大変かもしれません」
「店が閉まるまでやってんの?」
「はい、そうですね」
「ここ、夜の十時まででしょ」
「はい」
「じゃあ、帰りは真っ暗で危険だね」
「いえ、駅が近いですし──」
 そこまでなにげなく会話を続けてから、はっとした。親しげに話してくるのでつい答えてしまっていたが、勤務中、バイト店員と客の間で、いつまでもお喋りしていてよいわけがない。それは遅刻よりも悪い、職務怠慢というものだ。
「あの、ではどうぞ、ごゆっくり」
 慌ててもう一度深く頭を下げると、成海は急いでカウンターに戻った。
「なに、成海ちゃん、ナンパされちゃった?」
「あ、いいえ」
 こっそりと声を潜めて征司に訊ねられたが、それには笑って首を横に振った。ナンパというには、内容が他愛なさすぎる。きっと、話すことが好きなお客さんなのだろう。
「もしも困ったことがあったら、すぐに僕に言うんだよ、いいね?」
「はい」
 征司の瞳には、子供を案じる保護者のような色合いがある。見慣れているその色に、成海の胸はちょっとだけ懐かしさにじんとして、ちょっとだけ痛んだ。
「大丈夫です。店長、その言い方──」
「うん?」
「誠ちゃんに、そっくりですね」
 余計なことを言ってしまったなと思ったのは、征司の顔がさっと曇ったのが見て取れたからだ。しまった、と思い、急いで言い繕おうとした瞬間、背後で、ガチャンという高い音がした。
 驚いて振り返ると、音を出したのは、さっきの男性客だった。
 どうやら、ソーサーにカップを置く時に、勢いがつきすぎてしまったらしい。彼自身は窓の外に視線をやっていて、自分が出した大きな音のことも気にするような様子がない。何かよほど興味のあるものが、外を通っていったのだろうか。
 こちらに後ろ姿を見せながら、彼は身動きもせずに、窓の外を眺め続けていた。


          ***


 十時を過ぎて、店を出ると、外はもう真っ暗だ。
「気をつけて帰るんだよ。変なやつに声をかけられたら、迷わず大声で叫んで逃げること。暗いところはなるべく駆け足で通るようにね」
 毎晩繰り返される、征司の恒例の注意事項だが、成海はひとつひとつに 「はい」 と返事をしながら頷いた。ちゃんと聞いておかないと、「やっぱり駅まで送っていこう」 などと言いだされて、それも困ってしまうのだ。心配してくれるその気持ちは嬉しいが、征司だってこれからまだ閉店後の後片付けがあるのだし、そこまで無遠慮に親切ばかりを受けるわけにはいかない。
「わかりました、気をつけます。それではまた明日、よろしくお願いします、店長」
 ぺこっと頭を下げる。
「……いつまでも他人行儀だね、成海ちゃん」
 と征司は少し寂しげだったが、兄のような人とはいえ、やっぱり征司は征司であって、誠ではない。バイトとして雇ってもらっている以上、けじめはきっちりとつけるべきだ、と成海は考えていた。
 さよなら、と挨拶をしてから、駅に向かって歩き出す。暗いといっても、ここは繁華街。ビルにはまだ明かりが点いているところもあるし、コンビニなどの店も開いているから、成海としてはそんなに怖いわけでもない。どちらかといえば、学校の制服姿でこんな時間にこんな場所をウロウロしている女子高校生こそが怪しくて、警察に補導されそうだ。
 常陸さんて心配性のところがあるのかな、と思いながら足を動かしていたら、ぽん、と後ろから肩を叩かれて飛び上がった。

「きゃああっ!」

「……うわ、すごい驚き方された」
 つい大きな悲鳴を上げてしまったが、その驚愕の仕方に、相手のほうがよっぽどびっくりしたようだ。ちょっと引いたような声が耳に入り、大きく踏み出しかけていたところだった右足を、思い留まって止めた。
「あれ……」
 身構えながら振り返ってまじまじと見てみると、そこにいたのは、夕方、成海に話しかけてきた青年だった。
「なんだー、びっくりした!」
「俺のほうがびっくりした」
 店にいた時と同じ気軽ないでたちで、彼は心臓部分に手を当てている。「まだドキドキいってるよ」 と不満を言うように口を尖らせたが、怒っているわけではないようだ。
「だって、いきなり肩を掴むんですもん。てっきり口を塞がれて暴行されて殺されると思いました」
「いや、軽く叩いただけだから。この一瞬で、そこまで想像を暴走させるって、逆にすごいよね」
「危うく股間に蹴りを入れるところでしたよー。えへへ」
「それは屈託なく笑って言うようなことかな。叫びながら足を動かしかけたのは、逃げようとしてたんじゃなくて、そんなことするためだったわけ? 可愛い顔して怖いよ」
 青年は一歩後ずさって、警戒するように成海を見た。視線が成海と自分との間を行ったり来たりしているのは、どうやら蹴りの届かない範囲を目測しているらしい。
「このあたりでお仕事なさってるんですか?」
 あまり仕事中、とも、仕事帰り、とも見えない格好をしているが、世の中にはいろいろな職業があるのだろうし、そのこと自体は不思議ではない。休憩中に店に来て、帰る時にたまたままた成海と会った、ということなのかなと首を傾げると、彼はくすっと笑った。
「──偶然の重なりは運命だ、っていう方向に話を持っていってもいいけど、君はどうも、百回故意の偶然を作っても、偶然だとしか思わないタイプみたいだなあ。だから正攻法でいくけど、違います。そろそろ君がバイトを終える頃かなと思って、待ってたんだよ」
「…………」
 その言葉には、ちょっと面喰らった。
 あらら。

 あれは本当に、ナンパでしたか。

「私に何かご用でしょうか」
「話がしたくて」
「うーん、私にはないです」
 ごめんなさい、と言って、くるりと踵を返したら、「待った待った」 と止められた。聞こえないフリをして歩き出したものの、青年はぴったりと離れない。
 うーん、どうしよう。
 現在、成海はアパートで一人暮らしをしているから、このままついてこられても困ってしまう。かといって、征司にはこれ以上の迷惑をかけたくないし。
 青年は、すたすたと歩き続ける成海を追いながら歩いて、苦笑した。
「あのね、違うよ?」
「何がでしょう」
「ナンパじゃないんだって。ただ話がしたいだけ」
「それをナンパと呼ぶんじゃありませんでしたっけ」
「もうちょっと聞く耳を持とうよ、天野成海ちゃん」
「…………」
 ぴた、と足を止める。
 店での征司は確か、「成海ちゃん」 とは呼んでも、姓までは口にしなかったはず。ル・クールでは、店員は特に、名札なども付けてはいない。
 立ち止まって青年を見上げると、彼はまたあの人懐っこい笑顔で、ニコッとした。
「俺、八神晃星」
 やがみ、こうせい、と口の中で繰り返して、頭の中の名簿をひっくり返してみたが、該当名が出てこない。
 どこをどう探してみても、「八神」 という名に一致する記憶を、はじき出すことは出来なかった。
「八神……さん?」
「そ。君のお兄さんの、昔からの友達」
「誠ちゃんの?」
 驚いて、兄の、と言うべきところが、いつもの呼び方になってしまった成海に、青年は目を細めた。
「うん、誠ちゃんのね」
 それはどこかしら、温かい言い方だった。
「ごめんなさい、私、あんまり兄の交友関係は把握していなくて」
「いや、無理ないよ。なにしろ、成海ちゃんとは齢が七つも離れてるんだし。それに俺、中学校の時以来、あいつと顔を合わせた回数もそんなにはなかったから」
「はい?」
 怪訝な思いで見返すと、彼は軽く笑い、自分の栗色の髪の毛に指を突っ込んで、ぽりぽりと掻いた。
「実はずっと長いこと海外で暮らしてて、日本に帰ってきたのは最近なんだ」
「最近、ですか……じゃあ」
 どう言おうか迷って言葉を濁すと、相手はそれまでの笑みを引っ込め、「うん」 と答えてそっと目を伏せた。
「だからついこの間、そのことを聞いたばっかり。誠──君のお兄さん」
 ぽつりと声音を落とす。
「半年前から、行方不明なんだってね」



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