空中散歩

10.新しい景色



「ううーん……」
 さて、水曜日。やっぱりこの日も、朝から成海は迷っていた。
 目の前の床には、ジーンズとミニスカートが並んで、さあどっちにするの、と成海に決断を迫っている。正座をして腕を組み、その二つを交互に見比べ、うううーーん……とさらに唸った。
「誠ちゃん、どっちがいいと思う……?」
 困り果て、誠人形に訊ねてみるが、もちろん答えは返ってこない。判っている、判っているのだ。人形というか枕なのだから、成海の代わりにどちらかを選んでくれるはずがないということも、ここに本人がいたら、コンマ一秒も迷わずにジーンズのほうを選ぶだろうということも。
 ここは間を取って、以前のような膝丈くらいのスカートにしようか、と日和りかける。
 でもそれにした場合の、晃星のあからさまにガッカリした顔が容易に頭に浮かんで、なんとなく後ろめたい。かといって、ミニスカートを着ていったらいったで、どんな反応をされるだろうと考えるのも居たたまれない。しかしジーンズを履いていくのもなんだか頑なに拒絶しているみたいでそれも……うううううーーーん。
 そんな馬鹿馬鹿しいことで二時間ほど延々と悩んでから、結局、ミニスカートでも濃い色のタイツを履けばあんまり恥ずかしくないかも、というところで、無理やり自分を納得させた。
 色もモノトーンで統一して地味めにし、何度も鏡の前で確認する。成海と兄の二人だけで暮らすアパートの部屋には、全身映る鏡はホームセンターで購入した細いスタンドミラーしかない。近寄ったり後ろに下がってみたりしてチェックしてみるが、自分では今ひとつ判断できなかった。どうかな。変じゃないかな?
 うーんうーんと声を出しながら、ずっと鏡の中の自分と睨めっこを続けていたが、時間は無限にあるわけでもない。意を決して出かけることにして、鞄を手に持つ。
「じゃあ、いってきます。お父さんお母さん誠ちゃん」
 挨拶をして、ドアを開けたところで、そういえば銀行に行くんだと本来の目的を思い出した。
 前の時、ずっと気にしていたのは、どうやったら少しでも子供っぽく見えずに済むか、銀行員に相手をしてもらえるようなちゃんとした格好になっているか、そればかりだったのに。
 ──今回、考えているのは晃星のことばかりだ。
 そこに思い至って、急に恥ずかしくなり、頬を赤く染めた。


         ***


 前回のように晃星を待たせては申し訳ないと思い、早めに駅に到着したはいいが、やっぱり二十分前は早すぎたようだ。
 もっとゆっくり歩けばよかったかなと、急いた足取りでここまでやって来た自分がまた恥ずかしい。以前の晃星と同じように駅の出口の柱にもたれ、少し俯き加減で大人しくじっと待つ。
 平日の午前中とはいえ、駅はそれなりに人が多かった。入る人、出ていく人、大半がぽつりと立っている成海のことなどまるで気にも留めずに目の前を通り過ぎていくが、たまにちらっと振り返っていく人もいる。高校生がこんな時間に何をしてるのか、と咎めるような目つきに見えて仕方ない。すみません学校をサボってます、と心の中で平謝りだ。
 せめて本でも持ってこればよかったかな、と少し後悔した。ガラケーしか持っていない成海は、こういう時、時間を潰す手段がない。手持無沙汰になると、晃星はいつ来るのだろう、この格好を見て何か言うだろうか、などということを考えてしまって、無駄にドキドキする。ゲームでもしていれば、思考を逸らすことも出来るのだろうに。
 十一時を過ぎても、晃星は現れなかった。
 昨日わざわざ電話があったくらいなのだから、忘れているとは思えない。なんだか忙しそうにしていたし、どこに行っていたのかは判らないが、ひょっとしたらまだこちらには帰ってきていないとも考えられる。もしくは寝過ごしているとか。
 あと二、三十分くらい待って、それでも姿が見えないようだったら、電話をしてみようか、と思っていたら、後ろからぽんと肩を叩かれた。
 ほっとしながら笑顔で振り返り──それはすぐに、困惑した表情に変わった。

 そこにいたのは、晃星ではなかった。

「さっきから、ずーっと待ってるね」
 と声をかけてきたのは、成海と年齢の近そうな、十代後半、あるいはハタチくらいの若者だった。
 茶色と黒が入り混じったような中途半端な色の短髪は、前髪がぴんぴんと勢いよく跳ねている。腰の下あたりまで下げられたジーンズには、鎖のアクセサリーがじゃらっという音を立てそうなほどにくっついていた。
 だ、誰? と戸惑うのに要したのが五秒ほど。その五秒の間に、話しかけてきた男の子は、やけに親しげな笑いを浮かべて、さらにずいっと距離を詰めてきた。
「すっぽかされちゃった? かわいそーだね」
「は? いえ……」
 あまりにも馴れ馴れしい態度で接してくるので、知り合いだったっけ? と頭を働かせるのにまた五秒ほどかかった。成海のこの合計十秒の反応の遅さは、どうやら相手に、御しやすい、ととられても無理はない鈍さだったらしい。
「せっかくだからさ、俺と遊ばない? 俺も時間が余っちゃって、ヒマなんだよね。カラオケとかさ、ゲーセンとか。あ、別に変なことしないし。一人でいるよりは二人でいたほうが楽しいじゃん?」
 ようやくここで、ナンパだ、という結論が頭の中に導き出されたが、その時にはすでに、成海の腕は男の子の手によって捕われてしまっていた。愛想笑いを浮かべているわりに、腕を掴む手には、遠慮会釈なく強い力が込められていて、振りほどくことも出来ない。
「あの、困ります。私、人を待ってますから」
 慌てて言ったが、彼はまるで気にも留めないで、成海の腕を掴んだまま足を動かしはじめた。
「だからそいつが来ないんでしょ。あ、そーか。二人ってのがイヤ? じゃあ今から俺のツレ呼ぶよ。あと二人くらいいれば賑やかでいいっしょ」
 言いながら、空いた片方の手でスマホを取り出した。成海は精一杯足を踏ん張って抵抗を示しているのに、彼はまったくお構いなしで、階段を下りて駅の敷地から出ようとする。ぐいぐいと力ずくだ。
「車持ってるやつがいるからさ、みんなでドライブでもしようか」
 薄っすらとした笑みを見て、困惑がはっきりと恐怖に変わった。
 もしもその 「連れ」 というのがすぐ近くにいたら、という可能性に思い至り、顔から血の気が引く。囲まれて、強引に車に押し込まれたりしたら逃げられない。
「やめてください」
 眉を上げて、必死に言ったつもりだが、引っ張る力は弱まるどころか強まる一方だ。男の子はニヤニヤ笑いを浮かべ、無言のまま成海を引きずっていこうとしている。周りに目をやって助けを求めようとしたが、若いカップルが揉めているようにしか映らないのか、通行人たちは誰もまともに顔を向けてもくれなかった。
 これはもう、大声で叫ぶしかない、と決意を固めて、すうっと息を吸った瞬間。

「Hey,brat!」
 背後から鋭い声が飛んできた。

 耳に慣れない言語に、成海の腕を引っ張っていた男の子が、ぎょっとした顔で後ろを振り返る。
 そして、自分たちの後ろに立っているのが、金髪碧眼の英国紳士などではなく、いかにも街の中をふらりと歩いていそうなサングラスをした若い男であるのを見て取って、当惑を隠せない顔つきになった。
「Keep your hands off from my precious.Get out!」
「は……あ? なん、だよ、こいつ、ガイジン?」
 男の子は、いきなり意味不明の言葉を投げつけられて、明らかに動揺したようだ。反抗することも言い返すこともせず、目を何回もしばたいて、苛立たしそうにぼそぼそと、なんだよ、という言葉を繰り返す。
 同時に、成海の腕を掴んでいた手から力が抜けた。すぐにそこから逃げだして、晃星の背中へと廻る。
 成海を背に庇って、晃星が一歩前へ出る。男の子は一瞬、突っかかろうかどうしようかと判断に迷う素振りを見せて、結局、チッと舌打ちすると、くるりと踵を返して走り去った。自分に理解できない言語を扱う人間と喧嘩をしてもしょうがない、と思ったのだろう。
 その背中が見えなくなってから、成海はようやく心から安堵して、ほーっと深い息を吐いた。
 今さらになって怖さが甦り、足が小さく震えだす。

「……ごめん。遅くなった」

 上から降ってきた声に顔を上げると、晃星が真面目な顔でこちらを見下ろしていた。
 今日はサングラスをかけているので、表情がよく判らないが、口許は下がっている。いつものようにニコッと笑いかけられないと、声までが低く聞こえて、知らない男の人と向き合っているみたいだった。
 白いシャツに、オリーブ色の薄手のミリタリージャケットを着て、足は短いブーツ姿だ。肩には、小さめだが丈夫そうなデイパックがかけられている。もしかして本当に旅先から──旅に出ていたのかどうかも定かではないが、とにかく、そのまま直行してきたのかな、と思わせる出で立ちをしていた。
「あ、いえ、ありがとうございました」
 遅くなったと言っても、時間的には、待ち合わせの時間を五分かそこらを過ぎたくらいだ。成海がここに到着したのが早すぎたせいで、結果的にヒマそうだと目をつけられることになったわけで、晃星に謝られるようなことではない。
 そもそも、成海は外見が少々ボーッとして見えるのか、こういうことがままあるのである。本人はしっかり者のつもりでいるので不本意極まりないが、よく考えてみたら母親もどこか呑気そうな顔立ちをしていたから、それに似たとしたら仕方のないことなのかもしれない。
「ご面倒かけてすみませんでした。これから駅前で人を待つ時は、もうちょっと気を引き締めて、隙のなさそうな顔をするようにします」
「…………。そういう、ことじゃないんだけど」
 首を傾げて、晃星はまたさらに口の端を下げた。濃いグレーのグラスレンズの向こうに彼の目が見えるが、それがどういう感情を浮かべているかまでは見て取ることが出来ない。
 などと思っていたら、突然、晃星に手を取られた。さっきの男の子のように腕を掴まれたわけではなく、まるで握手をするようにいきなり持ち上げられたのだ。晃星の大きな手の平に、成海の手はすっぽりと収まって、心臓が勢いよく跳ねた。
「……震えてる」
 やんわりと包んだ成海の手にじっと視線を落として、晃星が呟く。自分ではそんなつもりはなかったのに、まだ震えは残っていたらしい。
「怖かっただろ。ごめんな」
 視線を再び成海の顔に戻して、真面目な声で謝る晃星に、ぶるぶると頭を振った。顔が染まってくるのが自分でも感じられて、慌てて手を抜こうと思ったら、その前に、がっちりと掴まれた。

 えっ、と晃星を見返したら、にやりと笑われた。

「じゃあ行こうか。ミニスカが可愛いね、成海ちゃん。思った通り、綺麗な脚だ。これこそ目の保養だねえ。変な虫がたかるのも判る」
 いつもの彼の声になった。それはいいが、サングラス越しでも、その目が、自分のスカートの裾よりも下に向かっているのがよく判る。というより、まったくそこから動く気配も見せないくらい固定されている。はっきり言ってガン見だ。やっぱりジーンズを履いて来ればよかった、とちょっと泣きそうになった。
「……あの、そろそろ手を離してもらえませんか」
 さっさと改札に向かいたいのに、逃げられない。晃星はまだ視線を下に向けながら、しかししっかりと成海の手を握り、上機嫌だ。
「またタチの悪いのに捕まったらいけないから、俺がこうしてガードしてあげる。遅れたお詫びに」
「お気持ちだけで結構です」
「日本人は謙遜と遠慮を美徳とするけど、同時に本音と建前を使い分けるから、真に受けちゃダメなんだってさ」
「これは心の底から本音です。結構です」
「いっそこのまま一日ずっと手を繋いでいようか」
「イヤです」
「トイレに行く時は離してあげるから大丈夫」
「イヤですってば!」
 結局、晃星は改札を通ってそのまま階段上のホームに入り、電車が来るまで、本当に成海の手を解放してくれなかった。
 怖さと震えは去ったが、その代わり羞恥心と戦うのが大変だった。


          ***


 電車内では空いている座席があったので、二人で並んで座った。
 腰を落ち着けた時、晃星がひそかに、けれど深く静かに、息を吐きだしたことに、成海は気づいた。
 隣の横顔にそっと目をやる。正面からだとサングラスで隠されてしまう目が、端のほうだけちらりと見えた。
「あの」
 声を出すと、晃星が 「うん?」 と笑みを浮かべてこちらを向いた。よくよく見てみたら、少し顔色もよくない。
「ちょっと、サングラス、取ってもらっていいですか?」
「え、なに、いきなり」
 案の定、晃星の笑みが一瞬、少し困ったようなものになった。それからすぐに取ってつけたような明るい声を出す。
「なに成海ちゃん、俺の顔が見えないと寂しい?」
「そういうことでいいです」
「そういうことでいいって何? あ、成海ちゃん、今日のランチは何食べようか。俺さー、今回は予約取ってないから、二人でぶらっと良さそうな店を探してみよう。ちょっと待つかもしれないけど──」
「サングラス、外してもらえますか」
「あのさ」
「お願いします、晃星くん」
「…………」
 はあー、と晃星が溜め息をつく。「それはちょっとズルいんじゃないかな……」 とぶつぶつ言いながら、渋々のようにかけていたサングラスを外した。

 ……少し垂れ気味の彼の目の下には、はっきりとしたクマがある。

 今度、溜め息をついたのは成海のほうだ。
「無理をしなくてもいいって言ったのに……」
「そういうことを言われるのがイヤだから隠してたの。無理はしてません。ただちょっと、上手に眠れなかっただけなんだよ」
 上手に眠る、というのがよく判らない。時間か、環境か、それとも他の理由かで、十分に睡眠をとることが出来なかった、という意味なのだろうか。
「言っとくけど、夜遊びして寝不足、ってわけじゃないからね」
 別に誰もそんなことは言っていないのに、晃星はそう言い訳をして、さっさとサングラスをかけ直した。よっぽどクマで彩られた目を見せたくないらしい。
「……あの」
「なに? 付き合わせてごめんなさい、ってのは勘弁してよ」
「そうじゃなく、少しだけでも眠ったらどうでしょう」
 目的の駅に到着するまで、三十分近くかかる。その間ただ電車に揺られているだけよりは、少しでも睡眠不足を解消する方向で時間を消費してみたらどうか、というつもりで提案してみたのだが、晃星は少しだけ唇を曲げた。
「うーん……けど、俺、他人がいるところではあんまり……」
「寝られませんか?」
「苦手だね」
「意外と繊細ですね、晃星くん」
「意外とは余計だよ」
 むっつりと言う。
「だったら、目を瞑ってるだけでも。少しは楽になれるかもしれないですよ」
「けど、成海ちゃん、その間ヒマじゃない?」
「空想の世界で遊んでるので平気です。電車の窓から景色を眺めて、ぼんやりしてるのは、昔から好きだったんです。どこか遠いところを旅してるような想像をするのって、楽しいじゃないですか。想像だけならお金もかからないし」
 そう言ったら、晃星に噴き出された。
「じゃあさ」
 と、サングラスの向こうの目がこちらを向く。
「成海ちゃんの肩、貸してくれる?」
「肩でも膝でも、お貸しします。無料で」
 真面目に答えたら、今度は、ははっと声を出して笑われた。今日会ってから、はじめて聞く笑い声だった。
「さすがに電車の中で膝枕はまずいでしょ。じゃあ、ちょっとだけ肩を借りようかな」


 自分の肩に、ことんともたれてきた頭は、意外と軽かった。
 成海が重さを感じないようにと、晃星が調整をしているのだろう。その事実で彼が起きていることの証明にもなるが、よく喋る口を閉じ、目も閉じて、大人しく寝入っているフリをしているようだった。
 こんなにもすぐ間近に、誰かの顔があるというのも変な気分だ。照れる、のはもちろんだが、なるべくそのことは考えないようにした。今の自分はただの枕だ、と言い聞かせる。そんなに寝心地がいいとは思えないが、せめて出来るだけ動かないようにと心掛けた。
 晃星は長い脚を組んで、腕も組んでいる。わずかにこちらに傾いた姿勢になった身体が、電車の振動とともに小刻みに揺れている。すぐ近くにある栗色の髪の毛からは、ふわりと軽く良い香りがした。誠ちゃんの使う整髪料とはぜんぜん違うなあ、と成海は視線を向かいの窓に向けながら思う。
 そのまま二駅ほど通過したところで、いきなり肩にずしっとした重みが来た。
 ん? と目をやると、さっきまでより晃星の頭が下に垂れている。身体の傾斜も深くなっているようだ。どうやら本気で沈没したらしい。
 うん、とちょっとホッとした。
 無理している、していないはともかくとして、眠れる時には眠って欲しい。成海自身、両親が亡くなってから、そして兄がいなくなってから、何度も眠れぬ夜を過ごしたことがあるので、穏やかな眠りにつけることの幸福をよく知っている。悪夢に捉われない限り、睡眠は人生の福音だ。
 カタン、カタン、という音と、足許から伝わる優しい揺れと、どこかで交わされる小さな話し声。寝息に合わせて静かに上下する晃星の胸板の動きと、肩に預けられた重み、そして体温。
 ──あったかい。
 流れていく窓の向こうの景色は、まるで知らない場所のように新鮮で、綺麗に見えた。


          ***


 目が覚めた時の、晃星の顔はなかなか見ものだった。
 あれっ、と声を出して、肩から顔を上げ、成海を見て、周囲を見る。ぽかんとした顔がまるで子供みたいで、言ってはなんだが可愛らしく、成海は笑い出しそうになるのをなんとかこらえた。
「あれ、俺、寝ちゃった?」
「はい。少しは楽になりましたか?」
「うん、なった。なったけど……え、どれくらい寝てた? 十分くらい?」
「えーと、四十五分くらいでしょうか。もうすぐ終点です」
「は?!」
 仰天した晃星が大声を出したが、近くに乗客はほとんどいなかったので、注目を浴びずに済んだ。終点間際の車内は、ずいぶん乗客も少なくなって、閑散としている。
「え、終点?!」
「はい、そうです。電車の中では、もう少し音量を下げましょう」
「いやちょっと、ちょっと待って、俺、イマイチ現状が把握できないんだけど。終点って……えっ、ウッソでしょ。俺、そんなに寝てたの?」
「熟睡でした。やっぱり疲れてたんですね」
「いやいやあのね成海ちゃん、ちょっと待って、なんで終点?」
「なんでと言われても……線路はいつか終わりがあるので」
「なに詩的なこと言ってんの? そうじゃなくてさ、駅は? 降りるはずだった駅! もうすぐ終点ってことは、とっくに通過しちゃってんじゃないの?!」
「そうですね」
「そうですねじゃないよ! なんで起こさなかったわけ?!」
「よく寝てたので」
「なんか話が噛み合わない!」
 晃星はここでちょっと気を落ち着かせようと思ったらしい。動きを止めて黙り込み、じっと窓の外の移り変わる風景に視線を据える。
「……そんなに俺、よく寝てた?」
 しばらくして、ぼそっと訊ねた。
「はい」
「成海ちゃんが、起こすのもためらうくらい?」
「どちらにしろ、終点に着いたら駅員さんに起こされるだろうなあと思って。この電車、たぶん折り返すことはないだろうし。だからまあいいかなと」
「まあいいかなじゃないって……」
 顔を伏せ、呻くような声を出す晃星に、成海も眉を下げて首を傾げた。
 起こさずにいたのはまずかっただろうか、と反省する。銀行の窓口は三時まで開いているのだし、そんなに急ぐ必要もないかと思ったのだが、晃星にはこの後に予定でも入っていたかもしれない。
「ごめんなさい。用事があるなら、そちらを優先してください。銀行へは私一人で行きますから」
「……あーもー、またおかしなこと言ってるし……」
 晃星が、顔を伏せたまま、くぐもるような声でもごもごと呟いている。どんな表情をしているのかは見えなかったが、髪の隙間から耳は見えた。
「晃星くん」
「……なに」
「耳が赤いですけど」
「…………」
 終点の駅に着くやいなや、晃星はなにも言わずに立ち上がり、さっさと電車を降りて行った。
 成海は後を追ったが、前を歩く晃星は、ずっと 「一生の不覚だ……」 とぶつぶつ独り言を漏らしていて、再び逆方向の電車に乗るまで、決して成海と目を合わせようとしなかった。



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