空中散歩

11.戦利品



 本来の目的であった駅に到着すると、時刻はすでに十二時を廻っていた。
 駅周辺にある飲食店は、どこも昼休み中の会社員などで溢れかえっていて、店の外まで行列が出来ているようなところもある。ぶらっと廻って探してみよう、と言っていた晃星は、それらの店を眺めて、うーんと迷うような声を出した後、成海を振り向いて提案した。
「あのさ成海ちゃん、我慢できないほど空腹でなければ、先に銀行に行ってみようか。あの性格悪そうなオジサン行員も昼休みで外に出てるかもしれないけど、そうしたらアポだけ取っておいて、それまでゆっくり時間を潰せばいいことだし」
「はい、そうですね」
 朝はちゃんと食べてきたので、我慢できないほど空腹、などということはない。もしも実際にそうだとしても、花も恥じらう女子高校生として、死んでもそんなことは口に出せるはずがない。
 と思いながら返事をした成海の顔を、晃星が覗き込んできた。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「なんなら、ドーナツくらいつまんでいく?」
「大丈夫です」
「せめてジュースだけでも胃に入れておこうか?」
「大丈夫です」
「成海ちゃんのお腹がぐうぐう鳴っちゃったら、俺、聞こえないフリしたほうがいい?」
「……しつこいですよ?」
 一体どれだけ成海のことを食欲おばけだと思っているのだ。やっぱり最初に会った日、一心不乱にパフェをもぐもぐ食べていたのが悪かったのか。顔を赤くして上目遣いで睨むと、晃星があははと笑った。
 サングラスをかけているので顔全体は見えないが、晃星のいつもの陽気な笑い方だ。心なしか、血色もわずかに良くなっているように思える。そのことに安心して、成海も目を細めた。
「では我らが戦場にまいりましょうか、お姫様」
 晃星は気障な台詞を吐いて、気障な仕草で礼を取った。


          ***


 飲食店とは逆に、この時間帯はあまり客も来ないのか、銀行内は静かだった。
 カウンターに座っている客と、順番を待っている客は、合わせて十人にも満たないくらいだ。行員も交代で昼を取るのか、窓口のいくつかは白い札が立てられて無人となっている。
 しかし、幸いにも、先週晃星にやり込められて渋い顔をした男性行員は在席していた。
 彼は入ってきた成海を──というより晃星の姿を見つけると、一瞬正直にイヤそうな表情をした後で、わざわざカウンターの向こうから出てきて近づいてきた。
「あちらへどうぞ」
 と抑えた声で言って、店舗内の端を手で指し示す。そこは部屋になっていて、ドアには 「応接室」 と書かれたプレートが貼られてあった。
 行員は、近くにいた女性行員に何かを囁いてから、成海と晃星をそこへ案内した。
「こちらで少々お待ちを」
 茶色い革のソファと、素っ気ない木のテーブルの置かれた応接室は、どこか雰囲気的に学校の校長室によく似ていた。妙に偉そうで、威圧感の漂うところが共通しているのかもしれない。どちらにしろそのような場所に縁のない成海はすっかり緊張して小さくなるばかりだが、晃星はまったく堂々とした様子でどっかりとソファに座り、もの珍しそうに室内のあちこちを見回している。
 ややあって、ドアがノックされ、男性行員と、もう一人、はじめて見る人物が室内に入ってきた。
 立派な背広と全体の印象から、偉い人なのかなというのは成海でも推測できたが、胸ポケットにつけられた名札に、支店長、と記されているのを見て、驚いてしまう。どうしよう、話がどんどん大きくなっていくようで、ドキドキが収まらない。
 石のように固くなって身動きも出来ないでいる成海の背を、晃星がぽんと軽く叩いた。ニコッと笑いかけられて、自分もなんとか笑い返してみたが、きっと泣き笑いのような形になっていることだろう。
 支店長は成海たちの向かいのソファに、男性行員と並んで腰かけると、重々しく頭を下げて、支店長の安原と申します、と挨拶をし、名刺を差し出した。
 差し出された先である晃星は 「どうも」 と軽く言っただけで、名刺も片手で受け取りちらっと見てすぐに成海に渡してしまう。安原支店長は、サングラスをかけた晃星の上から下までをざっと一瞥したが、無表情のままだ。成海のほうが必要もないのにぺこぺこと頭を下げて、すみません、ご面倒をかけて、と小声で言ったが、相手の耳に届いたかどうかは判らなかった。
「──さて、早速本題に入ってよろしいでしょうかね」
「そうしてください」
 支店長の言葉に、晃星はあっさり言った。さっきまで浮かべられていた人懐っこい笑みは、すでに跡形もなく引っ込められている。
「お訊ねの件につきまして、本店のほうにも問い合わせをして、前例なども調べてみたのですが、なにしろこういうのはレアケースでして」
 と言いながら、支店長はちらっと成海のほうに視線を寄越した。成海は出来るだけ平気な顔をしてそちらを見返したが、本当のところ、応接室の中のしんとした静けさと、目の前の二人から流れてくる棘のある空気に、心臓は縮む一方だ。どうやっても、これを楽しむ余裕は生まれてきそうにない。
 支店長は表情を変えないまま、手元にある書類に目をやって、淡々とした口調で箇条書きのような内容を読み上げた。
 銀行側の言い分は、要約すると、こんなようなことだった。

 まず、未成年である成海が相手では、やはり銀行としてはどうしようもない、ということ。
 けれど法に則った正式な後見人を家庭裁判所から選定してもらい、その人物を交えての話し合いであれば応じる用意はある、ということ。
 その場合、問題の預金のうち、成海所有と思われる金額の範囲内に限り、特例として払い出しを認めることが可能であるかもしれない、ということ。
 もちろん、それらを証明する書類を、山のように提出してもらう必要がある、ということ。
 また、後々のために、念書を書いてもらうこともあるので、その点は承知してもらいたい、ということ。

 やたらと持って回った文章で、おまけにところどころ難解な言葉も挟んであって判りにくいことこの上なかったが、とにかくそういうことなのだろう、と成海は解釈した。
「……今ひとつはっきりしないけど」
 黙って聞き終えた晃星が、唇の端を上げて言葉を出す。
「つまり、すべてが確定ではない、と。とりあえず、後見人を決めてから出直してこい、と、そういうことだね。あと、誠が戻ってきた時、絶対に銀行を訴えたりしませんっていう念書を書かなきゃお断りってことか」
 露骨な言い方に、男性行員のほうがむっとしたように顔を顰めたが、支店長は眉ひとつ動かさなかった。やっぱり偉い人は違うなあ、と成海はしみじみ感心してしまう。
「こちらのお嬢さんの苦境を鑑みて、当方としては精一杯譲歩した結果です。これで納得していただけないとあれば、それこそ弁護士でも立てて、本店のほうと直接掛け合っていただくより仕方ありませんね」
「大金払って弁護士雇って裁判起こして長い時間をかけるより、この条件で妥協しろって?」
 晃星は皮肉っぽく返したが、支店長は無言を貫いていた。
 ──少しの間、室内に沈黙が落ちた。
 口元に手を当て、テーブルの上に向けられた晃星の視線が止まる。そこにはガラス製の灰皿くらいしか置かれていないので、何かを見ているというわけではないのだろう。
「……じゃあ、たとえば」
 しばらくして、ぽつりと言葉が零されたが、目線はびくとも動かない。

「この子が成人してからなら、対等の話相手として扱う、ってことでいいんだね?」

 一瞬、支店長と行員がぽかんとした。
 質問の意図を捉えかねて戸惑う二人に対し、晃星がサングラス越しに目を向ける。
「あんたたちは何か勘違いをしているようだけど、この件の主体は俺じゃなくて、ここにいる天野成海嬢だよ。未成年だからって理由だけでまったく相手をしてくれない時代錯誤のオジサンたちのために、成人の俺が付き添いとして出張ってるだけに過ぎない。現在の彼女には後見人が必要だというのは判った。だったら、彼女自身が成人になった場合も、今言った条件は、そのまま適用されるわけだね? きちんとした話し合いの場をもち、柔軟な対応をとるよう尽力する、ということで、間違いない?」
「え……え、そう、なりますね」
 強い調子で出された確認に、支店長の周りを囲う鉄壁の端が少々崩れた。目線がふらりと揺れて、晃星から成海へと移る。
 ようやく正面から向けられたその視線を、成海は唇をまっすぐにして受け止めた。
 その時になってはじめて、彼の目は、成海という存在をまともに認識したようだった。
「……現在、十八、でしたか」
「はい、そうです」
 支店長の質問に、頷いて答える。
「では、あと二年で成人になられる」
「はい。二年かかります。でも、成人になったら、その時はちゃんと、『私』 と話し合ってもらえますか。隣に誰もいなくても、一人でも、私の話を聞いてもらえますか」
 ちょっと早口になりかけたが、成海は落ち着いた声を出す努力をした。ドキドキは大きくなるばかりだし、心臓はもはや痛いくらいに縮み上がっていたけれど、ここでまた子供扱いは、どうしてもされたくはない。
「…………」
 支店長は少しの間、成海の顔を見たままじっと黙り込んでいたが、やがて、ほんのわずか唇を綻ばせた。
 今までの冷たい印象ががらりと変わるような、柔らかい微笑だった。
「そうしましょう」
 安原支店長は、はっきりとそう言った。
「後見人を連れてこられても、私たちのお相手はあなただということを大前提とした上で、交渉のテーブルに着くことをお約束しましょう。その代わり、私たちも仕事である以上、決して、甘くも優しくもいたしませんのでね。覚悟していらっしゃい」
 ぴしりとした厳しい声だったが、成海は嬉しくて、「はい!」 と弾むように返事をした。
 彼はこれ以降、自分を対等の話相手として認める、と言ってくれているのだ。結果は話し合い次第、ということでも、少なくとも 「その場所」 を、成海に与えると保証してくれた。

 ……もしかしたら、晃星の目的は、本当は、そこにあったのかもしれない。


          ***


 銀行を出て、青空の下で、ふうーっと身体の奥から深い息を吐きだすと、晃星がちょっと笑った。
「ひと仕事終わった、って感じだね。でも水を差すようで悪いけど、大変なのはまだまだこれからだよ」
「そうですね」
 そこは成海も神妙に同意する。とにかく、預金の問題自体は未だ何も解決されていないのである。折衝の時期が先送りされただけで、結論はまったく出ていない。銀行は、引き出しが、あくまで 「可能になるかもしれない」 という曖昧なことしか言っていないのだ。
「でも、私にとっては、大きな前進です」
 門前払いをされて、相手にもなってもらえなかった時は、まるで空気に対して手を伸ばして押しているようだった。手応えどころか、掴むもの自体が何もない状態は、ひたすら虚しくやるせない。どちらの方向に行けばいいのかも判らずに、ぽつんと途方に暮れるしかなかった。
 でも、進むべき道が見えてきた今は、これからが大変だということは承知していても、よほど思考が建設的になれて、その分だけ、ずいぶんと楽だ。
「──それで、どうする、成海ちゃん。後見人の手続きをとるかい」
 晃星が何事かを考えるように、中空に視線を固定させてぼそりと問いかけた。サングラスで隠されているのでよく判らないが、その横顔は、なんだか難しい表情をしているようにも見える。
 成海は首を横に振った。
「……いえ、今のところは」
「する気がない?」
「はい。後見人って、どうやって決められるのか、どういう人になってもらえるのかも、よく判らないんですけど。多分、まず役所に行って、いろいろと相談をすることになるんじゃないかなって思うんです」
「そうだね……普通は親類がなったりするものだけど、成海ちゃんにはいないし。そうすると、弁護士とか……あるいは、その意思のある誰か、とか」
 最後の言葉だけ、声が低くなったように感じられた。
「どちらにしろ、そうすると、現在の状況をおおっぴらにしないといけなくなりますよね? 私、それはちょっと避けたいなあと思っているんです。ですから、今のところは後見人を立てることは考えていません」
 兄が行方不明で、成海だけがあのアパートに一人で暮らしていることを、公にしたくはない。それをしたら、すぐにでもどこかに保護されてしまうのではないか、という恐れが強くある。
 成海が望むのはただ、あの場所で、いつも通りに兄の帰りを待ち続けること、それだけなのだ。
 ──たとえ、あと半年ほどの猶予しかなくても。
「金銭的には、高校を卒業するまではなんとかなりそうなので、それから就職して自活が出来ればいちばんいいかなって思います」
 あのアパートを出ることになっても、どこか近くの場所で暮らせればいいのだが。成海だって、兄と二人で大事に取っておこうねと約束した預金には、出来れば手をつけたくない。どうしても切羽詰まって、生きるか死ぬかの瀬戸際になったら考えよう、と思っている。銀行との話し合いはそれからだ。

「……成海ちゃんは、それでいいの?」

 問われて顔を上げたら、今まで前を向いていた晃星が、こちらをじっと見つめていた。色のついたレンズ越しに薄っすらと見える目が、真面目な色を帯びている、ような気がする。
「え、それでって」
「高校卒業して、就職──で、いいの?」
「はい」
 いいも何も、成海にはその選択肢しかないので、きょとんとする。道が分かれるとしたら、正社員かバイトか、くらいだ。
「成海ちゃん、他にやりたいことがあるんじゃないの?」
「…………」
 思わず、口を噤んだ。晃星はどこまで判っていてこんなことを言うのだろう、と見返してみたが、その顔つきから読み取れるものは何もない。けれどこちらに向けられる視線は、どこか含んでいるものがありそうで、なんと返せばいいのか迷ってしまう。
「ないです。他にやりたいことなんて」
 その返事に納得したかどうかは定かではないものの、晃星は一拍の無言の後、「ふうん」 と呟いただけで、この話題を終わらせてくれた。
「じゃあ成海ちゃん、昼は何を食べようか」
 明るい口調になってそう言われ、ほっとする。
「え、と……そうですね」
 きょろきょろ辺りを見回してみたが、目につくのはファミレスやファーストフードの店ばかりだった。成海はそういうところでも全然構わないのだが、晃星はあまり賛成しないような気がする。
「あ」
 その時視界に入った店を見て、つい声を上げてしまった。
「ん? なに? よさそうな店があった?」
「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど」
 晃星が成海と目の高さを合わせるように上体を傾けて、視線を同じ方向に向ける。彼の顔が自分の顔のすぐ近くにまで寄ってきて、ドキドキした。
「えーと、あのラーメン屋、ずっと前に、誠ちゃんに連れてきてもらったなあと思って」
 少々うろたえながら指差す先には、古びた佇まいの小さな店がある。店名の書いてある看板は、すでに文字も読めないくらいに黒くなりかけているし、店内もカウンター席しかなくて、メニューに至ってはラーメンのみだ。しかし昼時を過ぎた今も、五人ほどの客が店の外で列を作って待っている。
「へえ。ずっと前?」
「私が中学生になった時に、入学祝いだって、奢ってくれたんです。誠ちゃんは、あのお店の常連だったらしくて」
「ああそうか。成海ちゃんの家は、この近所にあったんだもんな」
 晃星が思い出すように言った。
 そうなのである。どうして通帳を作った銀行の支店に行くまで、アパートから電車で三十分もかけなければならないかというと、成海の住んでいた家がもともとこの町内にあったからなのだ。家族四人で暮らしていた家は、住人が入れ替わっただけで、今もまだ同じ場所にある。
 兄がこの店に連れてきてくれた当時、両親はまだ健在で、家族は仲が良くて、その幸福がずっと続くものだと、成海は無邪気に信じ切っていた。
「美味いから成海にも食わせてやるって言って連れてきてくれたんですけど、お店の中で、『安心しろ、古くて汚くて親父の愛想も悪いけど味はいいから』 って大きな声で言うから、店員さんにじろじろ見られて、私、もう恥ずかしくて恥ずかしくて」
 多感な思春期だった成海は赤くなって俯くことしか出来なかったが、それでも運ばれてきたラーメンは確かにとても美味しかったのをよく覚えている。美味しいね、と言った時に、兄が嬉しそうに、そうだろそうだろと何度も頷いていた笑顔も。
 晃星は声を立てて笑った。
「誠らしいよ。じゃあ、今日のランチはあの店にしようか」
「えっ」
 驚いて振り返ると、晃星は、ん? というように首を傾げた。
「晃星くん、ラーメンなんて食べるんですか」
「え、なにそれ。なんで真顔? 俺、あんまり好き嫌いはないほうなんだけど」
「なんとなく、オシャレ系の食べ物しか興味がないかと思ってました」
「……成海ちゃんてもしかして、俺のことをものすごく軽薄で浮ついた男だと思ってない?」
「あそこ、普通の醤油や味噌のラーメンしかないですよ。クリーム味やコーンポタージュ味はないです」
「あのさ、じっくり聞いてみたいんだけど、成海ちゃんの俺に対するイメージって、一体どんな?」
「内装も今どきのカフェ風だったりしないです」
「見れば判るし。だから成海ちゃんの俺に対するイメージって……」
「ひょっとして、牛丼とかも食べるんですか」
「食べるよ」
「コンビニ弁当とかも?」
「食べるよ、普通に! 納豆も干物もぶっかけ飯も食べる! これでいい?!」
 ヤケになったように叫んで、晃星は成海の手を引っ張り、ラーメン屋へと向かった。
 足を動かしながら、今日はいろいろと収穫のある日だなあ、と成海は心の中で考えていた。
 なんだろう、たったこれだけのことなのに。
 ……ちょっと、嬉しい。



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