空中散歩

13.警告



 アパートの部屋に入って、いつも通り、両親の写真と誠人形にただいまの挨拶をしてから、首にかけられたネックレスの留め具を外した。
 手の平に乗せ、床にぺたんと座り込んだ格好で、しげしげと見入る。
「……もらっちゃった……」
 ぽそりと洩らしたただの独り言でも、静かな部屋の中だとやけに大きく聞こえる。顔を赤くし、誰もいないのにぱっともう片方の手をかぶせて、ネックレスを隠した。
 それから、自分でもバカなことをしているなと思い、そうっとまた開けてみた。手の平にさらさらとした感触を伝える繊細な鎖の上で、成海が星の欠片みたいだと思った小さな石が、今は部屋の蛍光灯の光を受けて、きらきらと輝いている。
「綺麗……」
 呟いて、指先でそっと石に触れた。ああそうだ、晃星も、こうしていたっけ。
 こうして実際に手にしてみると、それは、ショーケースのガラス越しに見ていた時よりも、雰囲気が柔らかいような感じがした。上品なシルバーで、曲線のみのフォルムが女性的なしなやかさを思わせるからだろうか。
 何にしろ、デザインも価格も、女子高校生が持つには分不相応な品物には違いない。
 ここに実際誠がいたら、そんな高価なものをもらうなんてと怒ることは確実だ。今すぐ返してこい、と言われるかもしれない。成海も、理屈では、そうするのが正しいのだろうと思う──思った、のだが。
 ……でも、なんとなく、それはしてはいけないような気がする。
 たとえば晃星が、店で気に入っていたようだから、というだけの理由でこれを差し出していたのなら、成海はまず間違いなく断っていたと思う。ただの知り合いの女の子に一万を超える品物をぽんとプレゼントする、ということが、晃星にとって精神的金銭的にどれほどの比重をもった行為なのかは判らないが、成海にとっては完全に受容の範囲外である。気持ちはありがたいですけどと、丁寧に辞退していただろう。
 けれどあの時、成海にネックレスをつけてくれた晃星は、そういう感じではなかった。彼だったら、女の子をただ喜ばせるためにプレゼントをするのなら、もっと上手いことを言ったり笑いかけたり言葉を飾ることだって出来ただろうに、そういうこともしなかった。
 あの時の晃星を見て、成海は思ったのだ。

 もしかしたら、品物はなんでもよかったんじゃないか──と。

 たまたま成海が、このネックレスをじっと見つめていた。晃星はそれに気づいたからこれを選んだ。それだけの話だったんじゃないだろうか。本当は、ぬいぐるみでも、キーホルダーでも、文具でも、なんでもよかったのかもしれない。
 思い返してみれば、地下街での晃星は、やたらと店に並ぶあれこれを成海に見せて、反応を窺っていたような気もする (ミニスカートは晃星の趣味だと思うが)。そうやって、たくさんある品物の中で、成海が気に入って、身につけそうなもの、持ち歩けそうなものを探していたのではないか。
 要するにこのネックレスは、単なる媒体として選ばれただけなのであって、晃星が成海にくれようとしたのは、もっと別の何かであったように思うのである。
 目には見えない、「何か」。
 案ずる気持ち、願い、祈り、そんなようなもの。
 ──晃星にとって、これは、キリスト教でいう十字架、神道でいうお守り袋、みたいなものなのでは?
 それなら、あの意味不明な台詞も少しは理解できる。よく聞き取れなかったが、確かに、「God」 という英単語を口にしていたし。
 そういうつもりで渡されたのなら、成海はやっぱりどうしても、これを突っ返す気にはなれない。そんなことは、してはいけない気がする。それは、彼のその気持ちを押し返すことと同じだ。
 彼のその、優しさを。
「……きっと、私のことを心配してくれてるんだね」
 晃星から見ると、頼りない子供でしかない成海のことを、心配してくれているのだろう。無理やり見知らぬ男の子に連れて行かれそうだった場面をその目で見ているわけだし、征司と同じように、危なっかしいなとハラハラしているのかもしれない。
 さもなくば。

 親を失い、兄も失いかけている独りぼっちの女の子に、同情している──のかも、しれない。

「…………」
 目を伏せ、黙り込んだのは、ほんの三秒ほどのことだ。再び顔を上げると、誠人形に向かって、にこっと笑いかけた。
「そんなわけで誠ちゃん、これは誠ちゃんが帰って来るまで、お守りとして、ずっと身につけておくことにするよ。いいよね?」
 自分で首に手を廻して、ネックレスをつける。学校の制服はセーラーではなくブレザーなので、ブラウスを着てしまえば判らない。クラスメートの中には、彼氏とのペアリングを鎖につけて首から下げている女の子も結構いるので、特に目立ったりすることもないだろう。園加あたりにはいろいろとツッコまれるかもしれないが。
「晃星くんには、いずれちゃんとお礼を……でも、どうお礼をすればいいんだろ。お茶や食事を高校生に奢られるのはイヤみたいだし」
 食事、と言ったところで思い出した。そうだ、今の成海はもうひとつ、大事な問題を抱えていたのだった。
 横に置いてあった鞄の中をごそごそ探って、今日の昼に行ったラーメン店の箸袋を取り出す。
 それを見て、改めて、店名、営業時間、電話番号を確認した。
 店の名前は、「ラーメンにし」 とある。店にかかっている看板は、すっかり黒くなっていてほとんど読めなくなっていたので、はじめて、あ、そういう名前だったんだ、と思った。あの店主のおじさんの名前が、西さん、っていうのかな。
 営業時間は、十一時から九時となっている。定休日は月曜日だ。
「うーん……」
 眉を寄せて、唸る。
 この場合、電話をかける時間として、いつがベストなのだろう。こちらの事情を話して、「お会いしてお話を伺いたいのですが」 という内容の電話を、まさか営業時間中にかけるわけにはいかない。しかし店舗と住宅が一緒にはなっていないようだったので、仕事以外の時間は、店主はどこか別の場所にある自宅へと戻るということだ。多分、仕込みや準備で営業時間よりも大分前から店に来ていると思うから、電話をかけるとしたらそのあたり。かといって、お店を開ける直前にかけても迷惑だろうし……
「十時くらいなら、大丈夫かなあ」
 すると、成海は学校にいる時間帯ということになる。こんな用件なのに、学校内であたふたと電話をするというわけにもいかない。大体、それではあちらに失礼だ。土曜か日曜がいいだろうか。
「じゃ、今度の土曜日にかけてみよう」
 「ル・クール」 でのバイトは、平日は午後五時から閉店までだが、土日は午前十一時から午後五時までである。早めに家を出て、店の近くまで行ってからどこかで電話をすればいいだろう。向こうも忙しいだろうし、そう長々と話すことはないはず。会う約束を取り付けられれば、あとはあちらの都合に合わせればいいことだ。
「誠ちゃんのことで、何か聞けるといいね」
 目の前の誠人形に向かって話しかけると、枕に描いたニコニコ顔が、「そうだな」 と微笑んでいるように見えた。
「──何か、わかりますように」
 ネックレスに手を当てて呟くと、その笑顔が引き攣ったように見えたが、それは多分、気のせいだと思う。


          ***


 制服の下にネックレスをしていても、やっぱり誰にもバレなかった。体育の時も、さっさと体操服に着替えて、その上からジャージを着込んでしまえば判らない。他の女の子たちは彼氏からもらったアクセサリーを自慢げに他の子に見せびらかしているが、それはけっこう度胸のある行為だったのだなと今になって思い知った。成海はドキドキして恥ずかしく、園加にさえも隠さずにはいられないくらいだったのに。
 ……でも、これがあるとないとでは、ちょっとだけ、心のありかたが違う。
 制服の下で細い鎖がしゃらりとひそやかに動くのを自覚するたび、なんとなく浮き立って嬉しくなる。誰かの気持ちの入った何かが傍にあるというのは、少々くすぐったいが、ひどく安心する。ネックレス自体には特別の力はないのだろうけれど、こんな風に幸せな気分や精神の安定をもたらすのなら、それはやっぱり成海を守ってくれているというのと同じことだ。
 そうしてニコニコしながらその日の授業を終えて、ニコニコしながらカフェでの仕事に勤しんでいたわけだが、店を閉めてから、真顔の征司に訊ねられた。

「成海ちゃん、そのネックレスどうしたんだい」
「…………」

 かちんと笑顔が固まる。
 見下ろしてみれば、制服と違って黒いワンピースの襟ぐりは広い。鎖骨の上にあるネックレスは、誰からどう見ても丸見えの状態だった。学校でのことばかり考えていたので油断した。私のバカーー! と頭を抱えたところで、後の祭りである。
「えーっと、これは……」
「買ったの?」
「いえその、買った、というか……」
「もらったの?」
「はあ、まあ、そうですね、そんなようなこんなような」
 しどろもどろに答える成海に、征司の目が眇められる。視線がまっすぐネックレスに向かっているのをひしひしと感じて、成海はそっと身体の位置をずらした。非常に今さらだが。
「万はするよね、それ」
 あっという間に値段を見破られてしまった。貧乏女子高校生の成海がつけているのだから、せいぜい千円か二千円くらいの品物だろう、などという先入観は、征司の鑑定眼の妨げにはならないらしい。
「えーと、その」
 おろおろしている成海を見て、征司はひとつ深い溜め息をつくと、「……ちょっとそこに座って」 と店内のテーブル席を指差した。
 わあ、これ、絶対にお説教のパターンだ、とちょっと泣きたくなってしまう。成海は、父に叱られた記憶が遠い分、こういうものに対する苦手意識が人より強い。誠は叱る時は、短く一喝してそれでお終い、というタイプなので、なおさらだ。
 しおしおと椅子に腰を下ろすと、征司がその向かいに座った。
 もう一度、今度は短く息を吐き、一拍置いてから声を出す。
「……成海ちゃん」
 いつも成海がバイトでヘマをしても、微笑んで許してくれる征司の口調が厳しい。それだけでも堪える。
「はい」
「それは、誰にもらったものなのか、僕に教えてくれるかな」
「…………」
「あの、八神という青年かい?」
「……はい」
 征司からすると、今の成海はさぞかし浅はかな女の子に見えるのだろう、と思うと身が縮む。いや、それはある意味事実であるかもしれないのでいいのだが、征司の、晃星に対するイメージがどんどん悪くなっていくようで、気が気ではない。晃星の人となりを成海がちゃんと伝えられないから、そうなってしまうのだ。
「成海ちゃん」
「はい」
「成海ちゃんにとっては、僕は、君のプライバシーに嘴を挟む、口うるさい人間にしか思えないだろうけど、これでも大人としての責任というものがあるからね。天野は大事な後輩でもあるし、その後輩の妹が、みすみす厄介ごとに首を突っ込んでいくのを黙って見逃すわけにはいかないんだ。わかるかい?」
「……はい」
「会ったばかりの高校生の女の子にこんな高額のプレゼントをするなんて、あまりにも手口があざとすぎる。見た目のいい男の子に優しくされて、浮かれてしまうのは判らないでもないけど、もうちょっと冷静に考えなければいけないよ。その青年の狙いがどこにあるのかもハッキリしないんだし、君はもっと警戒心を持つべきだと、この間も注意したはずだけど」
「…………」
 ぐっと口を結び、小さく深呼吸した。俯きがちな成海の視界には、きらりと光るネックレスがある。
 顔を上げて、征司と目を合わせた。

「違います」

 大人しく返事をしていただけの成海が、いきなり正面切って否定の言葉を出すとは思っていなかったのだろう。征司が少し面喰らったように目を瞬いた。
「違うって──」
「晃──八神さんは、『あざとい手口』 として、私にこれをくれたわけじゃないです。どういうつもりだったのか、それは私にも本当のところは判りませんけど、でも、常陸さんが考えているようなことではないです。八神さんは優しい人ですけど、常陸さんが言うような優しさとは種類が違います」
 ああ、上手に言えなくてもどかしい。どうしてこういう時、晃星のようにすらすらと言葉が出てこないのだろう。相手を納得させられるだけの説得力と、語彙の広さが、成海には圧倒的に足りていないと痛感させられる。
「常陸さんの言うように、警戒心を持つことは確かに大事なことなのかもしれません。けど、だからって、すべてを疑うことが良いことだとも思いません。ごめんなさい、私の説明が悪くて、常陸さんにいろいろと心配をかけていることは判っているんです。でもこれ以上、八神さんのことを悪くは言わないでください」
「……成海ちゃんはもう、その男に絡め取られてるんだね。信用しすぎると、痛い目を見るのは君のほうだ」
 口元に手を当て、難しい表情になった征司が低く呟く。
 成海は困って両の眉を下げた。一体どう言えばいいのだろう?
「あの……もしかしたら、八神さんには八神さんの、事情や思惑があるのかもしれないです。それは、私には判りません。でも、判らないから警戒する、というのは何か違うような気がするんです。八神さんは、たくさん私の力になってくれました。それが事実としてあるから、それでいいんです」
 晃星のほうにどういう事情や思惑があるにしろ、彼がいてくれたおかげで、成海はいろんな面で救われて、心が軽くなり、久しく忘れていた楽しさを取り戻すことが出来た。
 喜び、美しいもの、幸せな気分──そういうものを見つけることが出来た。
 その事実があるのだから、それでいい。
 そう思うのは、いけないことなのか?

 信用する、信用しないではない。
 それらの事実を覆って、自分の周りを一方的に柵で囲い、晃星を拒絶することはしたくない、ということなのだ。
 晃星が人に悪く言われるのは、「成海が」 悲しいから、やめて欲しいと思っているだけだ。

 成海の言葉に、征司が形の良い眉を寄せる。
「この先、騙されて泣くことになってもいい、ということかな」
「騙すって……私を騙しても、何もメリットがないですよ」
「君には、多額のご両親の保険金が遺されてる。それで十分なメリットになると思うけどね」
「今のところ、そのお金は宙に浮いています。私にも引き出せないのに、他の人にどうこう出来るものじゃないです」
「いずれは……」
 言いかけた言葉を、征司は口を噤んで呑み込んだ。いずれはすべて君のものになる、とでも言いそうになったのだろうか。兄がこれからもずっと帰らなかった時、あるいは──
 その先を考えるのがイヤで、成海は軽く頭を振って強引に言葉を挟んだ。
「銀行でも話をしましたが、引き出す手続きは簡単じゃないです。まずは正式に後見人を立てなければいけないんですけど、それだって時間がかかるだろうし、私自身、まだそういうことをする気にはなれません。八神さんも、ちゃんとそれを知っています」
「…………」
 店内に、しばらく沈黙が落ちた。
 最後に、ふー、という深い息を吐きだして、征司が椅子から立ち上がる。
「……どうも、君とは根本的なところで、食い違いがあるみたいだ」
 結局、判ってはもらえなかったらしい。この言い方、理解したわけではなく、話し合いを諦めた、というだけだ。
 失望の表れた声に、成海もしょんぼりと肩を落とし、立ち上がった。
 征司の、ひどく真面目な眼差しがこちらに据えられる。
「成海ちゃん、これだけは覚えておいて。僕は心配してるんだ」
「はい、わかってます。心配かけて、ごめんなさい」
「……君は、僕にとっても妹みたいなものだから」
 静かな声とともに、征司の手が成海の頭に伸びた。触れるか触れないか、くらいの微妙さで近づき、すぐに離れていく。
「じゃあ、今日はもう帰りなさい。暗いから気をつけてね。また明日」
 いつものように微笑まれて、成海は、はい、と返事をして頭を下げた。


          ***


 店を閉める前までの明るい気持ちはすっかり失せて、どこか暗い気分でぼんやりと電車に乗り、帰路を辿った。
 駅に着いてもいつものように全速力で走る気にもなれず、とぼとぼと歩く。
 と、携帯の着信音が鳴った。
「きゃっ!」
 暗がりの中、場違いに陽気な音にびっくりして、思わず悲鳴を上げてから、鞄の中に手を入れる。
 耳に当てたら、着信音よりもさらに場違いなほどに明るい声が飛びだしてきた。
「Good evening! 成海ちゃん、元気ー?」
 一瞬言葉を失ったが、なんとか、返事をするために喉から声を引っ張り出した。
「は、はい、元気です」
「うん、知ってるよ! 昨日会ったばかりだからね!」
 楽しそうな声を出されて、思わず噴き出す。どうして晃星はこんなにも、あっという間に成海を笑わせて、気持ちをほぐすことが上手に出来るのだろう。
「今は家?」
「いえ、まだ駅からの途中です」
「じゃあ、マラソンの邪魔しちゃった? いつもよりちょっと遅いんじゃない?」
「えーと、少し後片付けがあって」
「ふうん」
 成海の曖昧な言葉に、晃星は短く答えただけで、それ以上の追及はしてこなかった。
「今日は何か面白いことあった?」
「面白いこと、ですか?」
 うーん、と考えて、学校であったことや、バイト先であったことを、歩きながらとりとめもなく話す。いつも通りの日常は、それほどスリルとサスペンスに満ちているわけでも、波乱万丈な出来事に遭遇するわけでもない。どうやってもありきたりの内容にしかなりようがないのだが、晃星がいちいちふざけたり、話を変な方向に持って行ったりするので、可笑しくてしょうがなかった。
 そうしているうちに、アパートに到着してしまった。「着きました」 と報告してから、建物の前で立ち止まる。
「晃星くんにかかると、平凡な一日が、ものすごく面白いものに思えてしまうから不思議ですね」
「成海ちゃん、平凡な一日、なんてものはこの世に存在しないんだよ? 一日のうちでも、何かしら変化があり、発見があり、感情の動きがあり、昨日とは違う何かがある。今日はなかったものが、明日にはあるかもしれない。生きるのが面白い、ってのは、そういうのを見つけられるからでしょ」
「わあ……いい言葉」
「でしょ? 忘れないうちにメモしときなさい」
 真面目くさった声で言われて笑う。そういえば、成海にもちゃんと、今日は新しい発見があり、新しい喜びがあったんだっけ。征司と話す前は、今日という一日を、成海は確かに楽しんでいたのだった。
 晃星は、そういうことを成海に思い出させてくれる。成海の中にある明るいものを、いつも引き出してくれる。
 ──それで、いいではないか。
「晃星くん」
「ん?」
「ありがとう」
「…………」
 携帯の向こうから、晃星が少しだけ苦笑するような気配が伝わってきた。
「あのね、成海ちゃん」
「はい」
「──俺のこと、あんまり信用しすぎちゃダメだよ」
 征司と同じようなことを言ってから、じゃあね、と言うと、電話は切れた。



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