空中散歩

14.真実の行方



 やってきた土曜日、成海は 「ル・クール」 の近くの歩道で、脇の植え込みを囲むブロックに腰かけて、携帯を手に取った。
 歩道の先に視線をやれば、まだクローズの札がかけられたままの店が視界に入る。これから電話をする予定のラーメン屋と同じく十一時から開店のあの中では、やっぱり今頃準備に追われているのだろう。
 ランチで忙しい時間帯は、征司の他にもう一人、男性スタッフが厨房に入る。接客も、成海だけでなくあと二人女の子のバイトがやってくる。カフェにとって土日の昼間はほとんど戦場だ。電話を終えたら、早めに行ってお手伝いしようかなあ、と考えた。それとも、準備中はかえって邪魔になってしまうだろうか。
 あれ以来、征司は特に晃星のことで、成海に何も言ってはこない。いつも通りの柔らかい態度で接してくれるし、首にかけているネックレスについても見て見ぬフリだ。今は何を言っても無駄だろう、と思っているのか、静観の構えを取ることにしたらしい。さすが大人である。だから成海もなるべく、与えられた仕事のことだけを考えてバイトに励むようにしていた。
「えーと……」
 しかしそれはともかく、今はこちらの用件をこなすことが先だ。箸袋に書かれた番号を目で追いながら携帯に打ち込んでいく。プルルル、という呼び出し音の鳴る携帯を耳に当て、ドキドキしながら相手が出るのを待った。
 三度ほどコールしてから、呼び出し音が途切れた。心臓が一段階大きく跳ね上がる。
「あ、あ、あの、ラーメンにしさんですか?」
 どもってる。ダメだ、落ち着こう。あのおじさん、顔は怖そうだけど、中身はそんなに怖くなさそうだったはず。いきなり怒られたりはしない──と思う。そうであって欲しい。
「そっすけどー」
 携帯の向こうから聞こえてきた声は、愛想のない短いものだった。ずいぶん軽い言い方だな、などという思考は、すでにテンパりかけている成海の頭には浮かばない。
「あの、私、天野成海と言い……申します。先日お邪魔した、天野誠の妹なんですけど」
「…………」
 ぷつりと黙られてしまった。電波を通じて、向こうの当惑が伝わってきて、焦る。
 あれ、通じないのかな? いきなりの電話に困惑しているという感じではなく、こちらが誰かも判らないような沈黙だ。あの時の店主の様子からして、これだけ言えばすぐに 「ああ、あの」 と返ってくるだろうと予想していただけに、想定外の反応に成海はオロオロした。
「あの、そちらの常連だった天野誠なんですけど……高校生の頃からずっと通っていて、ご飯も食べてたのにそちらのラーメンもよく食べていて、眉が太くて背が高くてちょっとがっちりもしていて、えっと……一緒に連れて行った妹に、『店は古くて汚くて親父の愛想も悪いけど味はいい』、なんてデリカシーのない発言をして恥ずかしい思いをさせたりする天野誠なんですけど」
 もう何を言っているのか自分でもよく判らない。必死になって兄の説明をしようと言葉を探す成海の耳に、「ああ!」 という声が届いた。
 ぽんと拳を手の平に打ちつけて、ああ、アレか! というような調子にほっとする。判ってくれただろうか。
「アンタ、あれでしょ、この間、若い兄ちゃんと一緒に来て、『店は古くて汚くて親父の愛想も悪い』 って暴言吐いてた女の子でしょ!」
「…………」
 いえ、それを言ったのは、兄と晃星なんですけど。
「そんで、うちの親父さんと何か話をしてた子だよね!」
「えっ」
 決して暴言を吐いたわけではないです、と慌てて反論しようとしたところで、続けて言われた言葉に目を見開く。
 うちの親父さんって……じゃあ、この人は、店主本人ではないわけか。
 かあーっと顔が赤くなった。そういえば、あの店には店主のおじさん以外に従業員の男性が二人いたっけ。そりゃ通じるわけがない。最初に、「店主さんですか」 という確認をしなかった成海が間抜けだったのだ。
「親父さーん、なんかねえ、こないだ来た女の子から電話が……って!」
 穴に潜ってしまいたい、という心境で小さくなっている成海には構わずに、電話の向こうでは、今度こそ店主に向けて受話器が差し出されたようだ。最後に叫び声のようなものが聞こえて、唐突に相手の声が代わった。
「もしもし?」
 低くて落ち着いた声。そうだ、この人だった、と成海も思い出した。電話に出るのは店主だろう、という思い込みがあったため、少々とりのぼせてしまったが、こうして耳に入れてみたら、すぐにぱっとラーメン屋の店主の顔や姿が頭に浮かんで、携帯から聞こえてくる声と重なった。
「あの、私、天野成海と申します。天野誠の妹で……」
「ああ、わかるよ。ついこの間、来てくれただろう。悪いね、うちのもんは、礼儀ってやつを知らなくて」
 だからって殴ることないのにー、という不満そうな声が、あちらから聞こえてくる。やり取りから、風通しの良さそうな店主と従業員の様子が伝わってきて、微笑ましかった。手は出ても、そこにはちゃんとした信頼関係が築かれているのだろう。
 それを聞いているうちに、成海もなんとか冷静さを取り戻すことが出来た。この店主のおじさんは大丈夫だ、と、なんの根拠もないのに、確信めいて思う。
 この人は、ちゃんと話をすれば、判ってくれる。担任や銀行員のように成海の言葉を素通りさせず、征司のように撥ねつけることもない。──きっと。
「お忙しいところ、突然お電話をして、申し訳ありません。あの、今、少しだけよろしいでしょうか」
「うん」
 短い返事だったが、店主は成海の言うことに、黙って耳を傾けてくれているようだった。突然の電話に、訝しさや疑問はあるのだろうが、少なくとも、それを表に出して問い詰めたり、邪険に扱うような素振りもない。
 成海はなるべく順序立てて、手早く説明をするように心がけた。誠がいなくなってから、友人知人の間を訊ねて廻っていた時に何度もやっていたことなので、一度話しはじめれば、今さらつまずいたりすることもない。聞いてくれる側の受け止め方によって、中断したり繰り返したり戻ったりすることはあるが、そういう点でも、この相手の場合はスムーズに進んだ。
「それで、出来れば、お会いしてお話を伺いたいんですけど」
「あんた、いつがいいんだね」
 店主の返事は、段階を一つか二つ、すっ飛ばすようなものだった。渋ったり、話すことなんて特にないと振り払われるわけではないのはよかったが、あまりの素早さに、成海のほうがちょっとまごついてしまう。
「え、と……それは、そちらのご都合に合わせます。お休みは月曜日ですよね?」
「合わせるっていっても、あんた、まだ学生さんじゃないのかい。確か、高校生だったか」
 そんなことまで知っているのか、と驚いた。
「あ、でも」
「学校は、ちゃんと行かなきゃいかん」
 ちょっと厳しい声で遮られた。これはどうやら、本来学校で授業を受けているべき平日の真っ昼間に、店に行ったことを咎められているらしい。ごめんなさいと首を竦めながら、でも兄と似たような融通の利かない真面目さに、ちょっと嬉しくもなる。
 あれこれ話して、結局、今日の夜、あちらの店の営業が終わってから、ということになった。自分のほうから店に行く、と言うと、そんな夜遅くに若い娘さんが、と店主は難色を示していたが、行きます、と強く言った。話が聞けるなら、成海は今すぐだって飛んでいきたいくらいなのだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
 と言ってから、気がついた。そういえば、自分はまだ、この相手の正式な名前も聞いていない。
「あの……すみません、お名前は、西さん、なんでしょうか」
 箸袋に描かれた店名を見ながらそう問いかけると、一瞬の間があった。それからちょっとした笑いが漏れ、そういや名乗ってもいなかったか、という呟き声が聞こえた。
「西崎、というんだよ。にし、ってのは、私の昔からのアダ名なんだ。まあ、いつも親父さんとしか呼ばれていないんで、時々自分の名前も忘れそうになるがね」
 天野君も、私のことをそう呼んどったよ、と小さな声で言って、通話は切れた。


「──あら、成海ちゃんじゃない?」
 携帯を手に、ふう、と息をついたところで、声をかけられた。
 顔を上げると、自分のすぐ前に立っているのは征司の恋人の笙子である。いつも会うのは夜なので、こうして昼の明るい中でこの女性を見るのははじめてだ。しかし夜だろうと昼だろうと、やっぱり美人は美人なのだった。
 慌てて腰を下ろしていたブロックから立ち上がり、こんにちはと頭を下げる。立っても顔を上げないと視線が合わないくらいにすらっと長身の笙子は、身につけている服装からアクセサリー、小さなバッグに至るまで、上品で少し愛らしい。通りがかる男性が、誰もかれも彼女のほうに一瞥を投げかけるが、本人は慣れているのか、それをまったく意にも留めていないようだった。美人ってすごいな、と成海のほうがもじもじして落ち着かない。
「どうしたの、バイトの時間にはまだ早いわよね?」
 笙子はそう言って、成海の手の携帯を見て、笑みを深めた。
「彼氏とお喋り?」
 とんでもない、と赤くなってぶんぶん手を振ると、可笑しそうに笑われた。征司は、「成海がほとんど素性も判らない男に絡め取られそうになっている」 というような話は、笙子にはしていないらしい。
「笙子さん、お店に行かれるんですか?」
 訊ねると、ええ、と朗らかな肯定が返ってきた。
「少しだけど、お手伝いに。デザートの盛り付けくらいは私だって出来るもの」
 ランチに付く小さなデザートのことだな、と思う。カフェというのは、味のよしあしはもちろんだが、提供する飲食物の見た目や盛り付けもかなり重要視されるので、センスの良さやバランス感覚が問われる。なるほど、女の子たちが喜ぶ食事の後のデザート担当は、笙子にピッタリだ。
「デザートを席に運ぶと、よく、きゃあ可愛いって歓声があがります」
「本当?」
 成海の言葉に、笙子が嬉しそうに口元を綻ばせた。自分の盛り付けが認められて嬉しいというよりは、征司の役に立てて嬉しい、という感じだ。こういうのを 「内助の功」 と呼ぶのかな。勉強になるが、当てつけられる。じき冬になるというのに暑い。
「成海ちゃん、今日は夕方までなんでしょう?」
「はい」
「土日はお客さんが多くて大変ね」
「そうですね。私がもっとテキパキ仕事をこなせればいいんですけど」
「ううん、成海ちゃんはいつも一生懸命で頑張ってるって、征司さんもよく言ってるわよ」
 にっこり笑われ、成海も曖昧に笑い返した。きっと、そうとしか言いようがないんだろうなあ。
「バイトの子って、やっと仕事を覚えはじめたと思ったらすぐに辞めちゃう、っていうことも多いの。新しい子を入れるたび、また最初から教えるのも大変でしょう? 成海ちゃんみたいな子が、長く続けてくれたらいいと思うわ」
 そうして、ちらっと歩道の先の店へと目をやってから、笙子はふと真面目な表情になった。
 上半身を傾け、成海の顔の近くまで自分のそれを寄せて、じっと目を合わせる。ふわりと甘い香りが鼻腔を刺激した。
「……征司さんね、昔からずっと、自分のお店を持つことが夢だったんですって。苦労して、努力して、ようやく持てたあのお店は、彼の大事な夢の結晶なの。だから磨いて磨いて、いつでも最上の状態にしておきたいのよ。成海ちゃんも、出来ればそれに協力してね」
「──はい」
 自分の夢を成功させるべく必死な征司に、今のところ心配をかけることしかしていない我が身には、笙子の言葉は少々後ろめたい。とにかく、その情熱の邪魔になるような真似だけはしないでおこう、というつもりで神妙に返事をした。
 笙子は唇を上げて綺麗な笑みを見せると、じゃあね、と踵を返し、今度こそ店に向かって歩き出した。成海はその後ろ姿を見送りながら、早めに行って手伝おうか、という案をボツにする。笙子までが厨房に入るのなら、ますます自分などがいたって場所塞ぎになるだけだ。
 どうやって時間を潰そうかなあ、と思いながら、ぶらぶらと店の反対側に向かって足を動かした。


          ***


 夜の九時になって、成海は 「ラーメンにし」 を訪れた。
 店内に中年の男性客が一人いたが、それももう食べ終わる頃らしい。カウンター内には、店主の姿しかない。彼は店の戸を遠慮がちにガラガラと開けて顔を覗かせた成海に気がつくと、目顔で頷いて、空いている席を指し示した。
 成海が座ると同時に、食事を終えた男性客が満足げな息を吐いて立ち上がる。ちらっと成海のほうにもの珍しげに視線をやってから、店主に向かって、「親父さんの孫かい」 と笑って訊ねた。
「まあ、そんなようなもんさ」
 適当な返事をする店主は愛想がなかったが、客は特に気にする様子もない。見ていたスポーツ新聞を手にして、ごちそうさん、と店を出ていった。
 しん、とした静寂に、店の隅の天井付近に置かれたテレビの声だけが響く。成海が、ここはまず挨拶かお礼かと迷っていると、後ろを向いて冷蔵庫から何かを取り出した店主が、テーブルの上にそれをことんと置いた。
「…………」
 プリンである。容器ごと置かれたそのフタの上には、プラスチックのスプーンが乗っている。
「?」
 きょとんとして店主を見ると、彼は皺の多い厳つい容貌を、少しだけ顰めた。
「あんたくらいの年頃の子は、そういうもんが好きだろう。マツのやつがそう言うから、適当に見繕ってきたんだが、種類が多すぎて何がなんだかわからんかった。でもまあプリンはプリンだから、味はそう変わらんだろう」
 どうやら、このプリンは成海のために、わざわざ店主がスーパーかコンビニに行って用意してくれたものらしい。思わず彼のほうをまじまじと見てしまったが、怒ったような顔つきで明後日の方向を向いている。もしかして、照れくさいのだろうか。
「ありがとうございます。プリン、大好きです。いただきます」
 手を合わせて、大喜びでプリンのフタを開ける。小さなスプーンですくって、ぱくっと口に入れた。
「美味しい」
 よく、兄と一緒にコンビニに行った時に、ねだって買ってもらっていた成海としては、プリンは甘えの象徴みたいなものだ。だから大好きだし、どんな高級スイーツよりも美味しく感じる。にこりと笑って素直に言うと、店主がわずかに目元を緩めた。
 成海がプリンを頬張るのを、店主は腕を組んで眺めていた。これではまた子供扱いされるかな、という心配が一瞬胸を過ぎったが、この相手にはそれでもいいかと考えを改めた。子供扱いをしたとしても、話も聞かずに放り出す、ということはしない人だ。
 プリンを綺麗に食べきって、空になった容器をテーブルの上に置く。ごちそうさまでした、と言ってから、成海は顔を上げて、店主を見た。まっすぐな視線がこちらに返ってくる。
「……あの、兄のことなんですけど」
「うん」
 店主は静かに頷いた。


 内容としては、晃星に話したものと変わりはない。店主は、ほぼ黙ってそれを聞いて、時々疑問を差し挟んだりしながら、納得すると続きを促した。
「それで、最後にこの店に来た時の兄に、どこか様子の違うところはあったでしょうか。小さなことでも、何かを言ってなかったでしょうか。誰かの名前を出したり、場所の名前を出したりしませんでしたか」
「…………」
 うん……と呟くような声で言ってから、店主は腕を組んだまま姿勢を正した。目線が成海を通り越した向こうに据えられているのは、その時のことを思い出そうとしているからなのだろう。
「あの時は、確か天野君はこんなような時間帯に来たんだよ。閉店間際に、こんばんはとぶらりと入ってきて、遅くてごめんと言いながらラーメンを注文していった。他に客はいなくて、私と天野君、二人だけだった」
 わざと、そういう時間を選んだのかもしれないな、と成海は思った。
「いつもはなんだかんだとお喋りしていくんだが、その時の天野君はずっと静かでね。黙ってラーメンを食べて、箸を置いてから、ぽつっとした調子で言った」

 ──ちょっと、困ってるんだ。

「困ってる……」
 成海が繰り返すと、店主は頷いた。
「何を? と聞いたが、それには答えなかった。悩んでる、迷ってる、というよりは、本当に困ってる、という感じに見えたよ。どうしたらいいかわからない、いや、選ぶべき道はわかっているんだが、それを遮る何かがある、というかな。その何かについての対応を決めかねて、困っている、という様子だった」
 道は一本だったんだけどな。ずっとそこに向かって突っ走っていきゃいいもんだと思ってたから。今になって、そんなこと言いだされたって、俺だって戸惑うしかないよ。
 と、ボヤくような口調で誠は言っていたという。
「そんなことを言いだされたって戸惑う、って言ったんですか」
「うん」
 じゃあ、この件には、誰か第三者が絡んでいたということか。警察が調べてくれたところでは、そして成海が聞いて廻った結果でも、そんな存在は今まで出てこなかったのに。
 それは誰なのだろう。それに、道は一本、って何のことなのだろう。兄は一体、どこの何を目指して進んでいたというのか。
 そして誠は、小さな声でこう続けた。

 ──親父もお袋も、厄介な荷物を押しつけていったもんだよ。

「…………」
 すうっと顔から血の気が引くのが判った。
 両親から押しつけられた厄介な荷物。
 ……それはどう考えても、成海のことしかないではないか。
「何もわからん」
 カウンターテーブルの上の手をぎゅっと握り、俯いてしまった成海に、強めの声がかかる。
「いいかね、私はあったことを話しているだけで、天野君の心の中までは判らない。それを勝手に先回りして判断してはダメだ。あんたは天野君の行方を捜しているというのだったら、余計な先入観や思い込みを捨てて、事実だけを見るようにしなさい」
 厳しいけれど、どこか思いやりを感じさせる深みのある声だった。
「……は、い」
 対して成海は、我ながら、消え入るような声しか出せない。しっかりしなくちゃ。
「どうしても叶えたい夢がある、と天野君は言ってたよ。だからフラフラしてちゃダメなんだ、とね。私に話しているというよりは、自分に向かって言い聞かせるような言い方だった。きっとこの店に来たのは、私に何かを言おうとしたというより、自分の心の中で何かしらの決着をつけるためだったんだろう。だから私もあの夜のことはよく覚えていたし、気にしてもいたんだ。それだけ言うと、天野君は、妹が待ってるからと帰ってしまったが」
「叶えたい……夢」
 夢? 征司のように?

 誠ちゃんの夢って、なんだったの?

「……はい。わかりました」
 うな垂れて、椅子から立ち上がる。ありがとうございました、と礼を言いかけるのを遮って、店主はまた強い口調で言った。
「こんな話、大してあんたの役には立たんだろう。なのにあんたにここに来てもらったのはね、入ってくる情報に、あんまり振り回されてはダメだと言いたかったんだよ。人は自分のそれぞれの立場からしか物を見ないし、言わないものだ。見方が変われば、言うことも変わる。ウソをつく、ということではなく、あくまで自分の観点で話をする、ということだ。それがあんたにとっての真実であるかどうかは判らない。あんたは自分の芯と物差しをしっかり持って、物事を見るようにしなきゃいかん。それを言っておきたかったんだよ」
「──はい」
 晃星、征司、笙子、美沙、担任、銀行員。
 それぞれの見方があり、それぞれの考え方がある。誰かにとっての真実が、自分にとっての真実であるとは限らない。
 ──成海は、自分の真実を、自分で見つけなければいけないのだ。
「ありがとうございました」
 今度こそ、きちんと頭を下げて礼を言った。時間を取ってもらった詫びを言い、じゃあ、と帰ろうとした時、店主が待ったをかけた。
「こんな夜遅い時間に娘さん一人で帰らせるわけにいかねえよ。ちょっと待ってな、マツがこのすぐ近くのアパートに住んでるから、やつに送らせる。もう話はつけてあるから」
「え」
 成海が目を丸くしている間に、店主はさっさとカウンターの端に設置されている電話の受話器を上げて、ボタンを押しはじめてしまった。電話で二言三言のやり取りをしただけで、ものの五分もせずに、店の外からバイクの排気音が聞こえてくる。
「どーもー」
 と言いながら戸を開けて現れたのは、二十代後半か三十代くらいの男性だった。ひょろりとしたのっぽで、いかにも人のよさそうなニコニコ顔だ。年齢は晃星よりも上のようなのだが、軽さもはるかに上回っていた。
「あっ、アンタが朝の電話の子ね。家、どこ? バイクでも大丈夫だよね、ジーンズだし。あ、平気平気、メットもちゃんと用意したから」
「あ、あの」
 目まぐるしいスピードでぺらぺらと喋られて、今ひとつついていけない。しかしどうやらこの男性が午前中、成海の電話を最初に取った従業員の人だということと、愛称なのか本名なのかは謎だが 「マツ」 と呼ばれて店主に信頼されているらしいことは判った。
「大丈夫です、一人で帰れます。そんな、わざわざ送っていただかなくても」
「いーのいーの、俺、別に一人でだって、特に用事がなくたって、バイクでぐるぐる廻ってたりすっから。可愛い女の子を乗せたら、俺のバイクも泣いて喜ぶってもんよ」
「安全運転で行けよ。事故ったらクビだ。お嬢ちゃんに手を出したら殺す」
 店主は本当に殺しかねない剣呑な眼つきをしていた。
「やだな怖いな。しませんて。俺、どっちかっつーと熟女好き。ホラ、乗って乗って」
「え、え、あの」
 そんなこんなで、何がなんだかわからないうちに、成海はマツと呼ばれる男性のバイクの後部座席に乗せられて、店主に別れを告げることになった。どこをどうやって遠慮すればいいのか、さっぱり判らなかった。
「あの、じゃあ、ありがとうございました、西崎さん」
「…………」
「やだなあ、西崎さんなんて言うから、親父さん照れちゃってるでしょー。怖い顔だけど、あれ、照れてんだから。えーと、成海ちゃん、だっけ? うん、なるちゃん、また店に遊びに来てやんなよ。親父さん、奥さんを亡くして、一人娘も遠くに嫁に行ってるからさ、なにかと寂しいんだよ」
「うるせえ、とっとと行け」
 店主に怒られて、マツが笑ってメットをかぶる。
「……まあ、気が向いたら、またいつでも来りゃいい」
 エンジン音の合間に、ぼそっとした声が聞こえた。かぶらされたヘルメットの中は少々窮屈で、慣れないからか喋りにくくもあったが、成海はそちらを向いてなるべくはっきりした声で返した。
「また来ます。もっとお話もしたいし、ラーメンも食べたいし」
「……うん」
 ちょっとだけ、店主が笑みを零すのが見えた気がしたが、それをちゃんと確認する前に、バイクが走り出した。


 はじめてのバイクの二人乗りは正直怖いかなと思っていたのだが、マツが言われたとおりに安全運転を心がけてくれたおかげでか、わあ、と流れる景色に感嘆しているうちに、アパート近くに到着してしまった。
「このあたりでいいー?」
 車道の脇にバイクを停めて、マツが振り返る。はい、と言いながら成海は座席から降りてメットを脱いだ。耳がじんじんして、ちょっと目が廻る。
「ありがとうございます」
「いいってー。ちゃーんと、この分、親父さんに何かを奢ってもらうからさあ。バイクを運転できて、女の子とぴったり密着して、その上メシ代まで浮くなんて、俺にしたら万々歳っしょ……あれ」
 陽気に返したマツが、そこでふと、視線を前方に向けて笑いを止めた。
 一拍置いて、今までのからっとしたものではなく、どこか意地の悪そうな、ニヤニヤ笑いを顔に貼り付ける。
「なるちゃん、俺、マズイことしちゃったかも」
「え、なんですか。忘れ物ですか、落とし物ですか」
「そうじゃなくてさあ、今のうちに言い訳を考えといたほうがいいかもよ」
「言い訳?」
 首を捻って、マツが向けている視線の先へと顔を巡らせ、そこで、あれ、と思った。
 暗がりの中、アパートの建物の近くに、誰かが立っている。
「──晃星くん?」
 驚いた声を出す成海の後ろで、睨んでる睨んでる、とマツが楽しげに呟いてくくくっと笑った。



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