空中散歩

15.幸福の後ろ姿



 晃星が足を動かし、暗がりの中からゆっくりこちらへと向かってきた。
 はっきりとは見えなかったその顔が、近づいてくるにつれ、歩道に立つ街灯の光によって照らしだされる。そこに、いつもと同じ、人懐っこい笑みが浮かべられていることに、成海はちょっとほっとした。
「や、成海ちゃん。ずいぶんと遅いお帰りだね。今日のバイトは夕方までじゃなかったっけ?」
 からかうように目が細められているけれど、口調にはわずかばかり、窘めるようなものが混じっている気もする。夜遊びをしていたわけではないが、成海は少し首を縮めた。
「あの、ちょっと用事があって。……晃星くん、こんなところでどうしたんですか?」
 いちばん不思議に思ったことを訊ねたら、晃星は口元の笑みを苦笑に代えて、「どうしたって」 とおどけるように言った。
「ご機嫌伺いの電話をかけたけど、成海ちゃんのケータイに何度かけても繋がらないからさ。うっかりお風呂で眠って溺れちゃってんじゃないかと」
「え、ケータ……あっ!」
 ぽかんとしてからはっとして、バッグの中から慌てて携帯を取り出した。開いてみて、画面が真っ黒になっているのを確認し、さらに慌てる。そういえば、大事な話をしている最中に電話が鳴ってはいけないからと、ラーメン屋に入る前に、携帯の電源を切ったのだった。そしてそれっきり、今の今まで忘れ果てていた。
「ご、ごめんなさい! 電源入れるの、忘れてました!」
 赤くなって謝る。すぐに電源を入れたら、メールと不在着信が入っていた。これが晃星からのものなのだろう。
 ……晃星は、何度かけても成海の電話が繋がらず、心配してここまで見に来たのだろうか。
 そう思うと、申し訳なさで消えたくなった。携帯電話は便利だけれど、通じて当たり前、という状態に慣れると、通じない時の不安が数倍にも増大する。そんなことは、自分だって、誠の件でイヤというほど思い知っているはずだというのに。
 ごめんなさいごめんなさい、とぺこぺこ何度も頭を下げて謝る成海に、晃星はますます苦笑いを深めた。
「いいよいいよ。そんなに謝られると、なんか俺、苛めてるみたいじゃない? 俺がちょっと大げさに考えすぎたのがいけなかった」
「だよねえ」
 笑み混じりの小さな同意の呟きは、成海の後ろから聞こえた。振り向くと、さっきからのニヤニヤ笑いを浮かべたまま、マツがひどく面白そうに成海と晃星の二人を眺めている。
「…………」
 晃星が一瞬口を噤み、今度はマツのほうを向いて、ニコッとした。
 ──あ、あれ?
 成海はそれを見て、少し当惑する。気のせいだろうか。暗いから、よく判らないのだけれど。

 ……なんだか、顔は笑っているのに、目がちっとも笑っていない、ような。

「そちらは成海ちゃんの友達? それにしちゃ、ちょっと老けてんね」
「あっ、やだなー。俺、こう見えて三十一よ。老けてるってのはないっしょー。見たところ、アンタもこの子より俺のほうが年齢が近いくらいだと思うけど」
 晃星がニコニコしながら言って、マツがあははと陽気に笑って言い返す。
「…………」
 なぜだ。和気藹々として微笑ましいくらいの光景のはずなのに、成海はぜんぜん笑えない。どうしてこうも、妙に空気がギスギスしているように感じてしまうのだろう。
 歩道に立つ晃星と、バイクに跨ったマツは、お互いに顔を見合わせてにっこりした。
「へーそーなんだ。三十越えてんだ。俺はまだ二十代半ばだよ」
「あっそーなんだ。若いねえ。いいよね若いって。いろいろとあからさまで」
「何があからさまなのか知らないけど、いちいち突っかかるあたり、あんまり大人にはなりきれてないみたいだよね」
「いやー、バイク好きはみーんな、心は少年のまんまよ? だから女子高生を後ろに乗せて、べったりしがみつかれたりすると、もー嬉しくってたまんない。最近の子はなかなか発育もよくて」
「成海ちゃん、こっちおいで、危険だから。そこにエロ親父がいるから」
 二人を交互に見比べておろおろしている成海の手を掴み、晃星が自分のほうへと引き寄せる。それを見てマツが楽しそうに、「冗談、冗談だってばー」 と大笑いした。
「あんまりふざけすぎると親父さんにどやされちゃう。俺、本当にただ単に、その子をここまで送ってきただけだからね、変に穿った見方してケンカしちゃダメだよー」
 そう言いながらハンドルに置いてあった手を動かして、エンジン音を唸らせる。急いでもう一度お礼の言葉を出そうとした成海に、最初に見た時と同じ、人のよさそうな笑みを向けた。
「じゃあなるちゃん、また店においでね。親父さん、あれ絶対なるちゃんのこと気に入ってるから。夜だったら、俺がいつでもこうして送ってあげるし。いやホント、下心なしで。なるちゃんを後ろに乗せるのは楽しいし気持ちいいけど、俺は女子高生に手を出そうとは思わないから。俺はね。ね、なるちゃん」
「は、はあ……」
 成海は曖昧に頷いたが、内心ではなんとなくヒヤヒヤだ。気のせいか、マツが 「なるちゃん」 と連呼するたびに、晃星から発せられる何かが、どんどん不穏なものになっていくように思えてならない。そのわりに、笑顔はぴくりとも動かずにキープされているのだが。
 さっき掴まれた手は、晃星によってぎゅっと握られたままだった。
「じゃあねー」
 最後まで明るい口調でそう言うと、マツはバイクを発進させて、再び夜の街へと戻っていった。結局、ずっと彼のペースに流され続けていたなあ……と成海はそれを見送りながら、あっけにとられて思う。店主が無口だから、店員はあれくらい賑やかでちょうどいいのだろうか。
「えーっと……」
 去っていくバイクの姿が視界から消えたところで、口ごもりながら晃星のほうを振り返る。なんだろう、ものすごくやりにくい。手は依然として離されないし。
 晃星はやっぱり薄っすらと笑っている。うん、大丈夫、笑ってる。いつもと同じだ。同じ……はずだ。笑いを引っ込めて無表情になった晃星は近寄りがたい雰囲気があるが、笑っていれば怖くない。怖くない。怖くないってば。
「……成海ちゃん、今のって」
「あ、はい、今の人はですね」
 晃星の問いに意気込んで答えようとして、今さらなことに気がついた。そういえば、晃星にもマツにも、お互いを紹介するのを忘れていた。とても口を挟めるようなムードではなかった、という事実はさておき、これは成海の失態だ。というか、大体、「マツ」 の本名はなんというのだろう?
「えっと、マツさんていうんです」
「へえ。マツさんね」
 晃星はにこやかに (だと思う) 相槌を打ってくれたが、あいにく、成海が説明できるのはそれくらいである。しかし目の前の相手も、それきり言葉を続けてはくれない。なんだか気まずい沈黙が闇の中に訪れて、成海は困ってしまった。
「年齢は三十一歳だそうです」
「さっき聞いたよ」
「バイクが好きみたいです」
「見れば判るね」
「ちょっと軽い感じがするけど、親切な人です」
「へーそう」
「…………」
 晃星は相変わらず笑みを浮かべたままなのだが、返ってくる言葉がいちいち素っ気なくて、成海は困惑して口を噤むしかなかった。こんな晃星ははじめてで、どう対応していいのか判らない。
 やっぱり、要らぬ心配をさせたことを怒っているのかな、としゅんとする。
 ──電話が繋がらない、というだけで、晃星はわざわざ、ここまで成海の様子を見に来る、という行動を起こしてくれたのだ。
「……ごめんなさい」
「…………」
 もう一度謝ると、晃星の口許から笑みが消えた。
 少しの空白の時間を置いて、小さな溜め息が落とされる。
「──俺のほうこそ、ごめん」
 顔を上げて目を合わせると、晃星が照れくさそうにちょっと笑った。いつもの親しみやすそうな笑い方ではなく、さっきまでのどこか無機質な薄っすらとした笑い方でもない。子供のような、けれどなぜか大人の色気めいた微笑に、ドキッとする。
 しかし本人はあまりそれを見せたくないのか、片手で前髪をかき上げる仕草をしてから、そのまま手の平で顔の下半分を隠してしまった。「あーなんか俺みっともねえ」 と呻くようにぶつぶつ言う。
 それから、もうひとつ、溜め息を落とした。

「……つまり、成海ちゃんは今日、バイトが終わってから、あのラーメン屋に話を聞きに行ったんでしょ?」

 核心部分をいきなり当てられて、びっくりする。「えっ」 と目を真ん丸にして声を上げると、晃星が小さく噴き出した。
「目玉が落っこちちゃうよ、成海ちゃん」
「え、ど、どうして」
「だってあれ、この間の昼、ラーメン屋のカウンターの中にいた店員じゃん」
「どうして知ってるんですか?!」
「俺、そこまで記憶力悪くないから」
 当然のようにしゃらっと言われて、ええー、と驚いた声を上げてしまう。そりゃ確かに成海は決して記憶力が特別優れているわけではないが、しかしだからって、普通そこまで覚えているほうがおかしくはないだろうか。晃星と一緒にあの店に行った時、マツは白いコックコートを着て白い帽子をかぶっていた。今は普通の私服、しかも頭にはヘルメットだ。店で会話を交わしたわけではないし、まじまじと顔を見ていたわけでもない。どうしてそれですぐに同一人物などという結論を出せるのか。晃星の頭の中は、一体どうなっているのだろう。
「晃星くん、すごい……」
「うん、もっと言って。で、とにかく、成海ちゃんは一人であのラーメン屋の親父さんと連絡を取って、今日一人であの店に行ったわけだ。誠についての話を聞くために、一人で」
「そ、そうです」
 なんだかやけに、「一人で」 を強調されていないだろうか。
「……何か、新しい内容は聞けた?」
 顔の下半分を覆った手の上にある晃星のふたつの目が、探るようにこちらを向く。
「えーと……そうですね」
 成海は少し考えてから、店主から聞いたことを簡単に繰り返した。

 誠は何か困っていたようだったこと。
 それには誰か第三者が関わっていたらしいこと。
 ラーメン屋には、悩み事を話しに行ったというよりは、何かの決心をつけるために行ったようだということ。

「…………」
 晃星はそれを聞いて、黙って何事かを考えるように視線を虚空に据えた。成海も同じように口を閉じ、「厄介な荷物」 発言については、言わなくてもいいだろうかと考える。
 ……否定されても肯定されても、どういう反応を返していいか判らない。なにより、心がずんと重くて、自分の口からはその言葉は出せそうにない。
 そうやって二人して無言のまま歩道で立ち尽くしていたら、暗闇の中、しゃあっと音を立てて走ってきた自転車が、脇を通り過ぎていった。乗っていたのは中年男性だったが、通過していく際、ちらっとこちらを一瞥して、チッと舌打ちしたのははっきり耳に届いた。
 邪魔だったかな、と思ったのだが、違ったらしい。
「道の真ん中でイチャイチャしやがって」
 という捨て台詞で気づく。成海の手はまだ晃星に捕われたままなのだった。
 これでは確かに、手を握り合ってイチャイチャしているカップル、のように見られても仕方ない。成海はびっくりしたが、否定の言葉を出す前に、あっという間に自転車の姿は見えなくなってしまった。
 誤解されちゃったじゃないですか、と頬を赤くして咎めるように晃星を見たら、同じ方向に目をやっていた彼は、こちらに顔を戻して口の端を上げた。
「イチャイチャだってさ」
「…………」
 なぜそんな嬉しそうに。
「あの、手……」
「やだ」
「だって」
「気持ちいいから離さない」
「……なんか、もういいです」
 ふーっと息を吐きだして諦める。さすがにいい加減、慣れてくるというものだ。晃星はきっと 「手フェチ」 というやつなのだろう。さすられたり揉まれたり撫で回されたりしない分、紳士的だと言えないこともない。
「また俺に対して失礼なこと考えてるよね」
 眉を寄せて言ってから、晃星は握った手にぐっと力を込めた。
「あのさ、成海ちゃん」
「はい」
「……俺も、なるちゃんって呼んでいい?」
「はい?」
 思わず問い返して晃星の顔を見たが、そこにはいつも冗談を言う時の表情はなかった。
 は? とまたも間の抜けた声を出してしまう。
「どうしたんですか、突然」
「だってあいつには、なるちゃんって呼ばせてたじゃん」
 はあ?
「別に、呼ばせていたとか、そういう……」
「ずるいでしょ、そんなの。俺だって、成海ちゃんよりなるちゃんのほうがいい。そっちのほうが可愛いし呼びやすいし距離的に近い。あの男より、俺のほうが会った回数多いよね。親密度でいえば、絶対あいつよりは俺のほうが勝ってるはずだよね。なのにこの差は釈然としない。ぜんぜん納得できない。あっちがなるちゃんて呼んでいいのなら俺にだってその権利がある」
「…………」
 晃星は真顔で主張しているが、成海はその台詞のどこからどこまでが冗談なのやら、さっぱり判らない。判らないが、その台詞のどこも取り立てて反論するほどの部分はないので、あやふやに頷いた。
「あの……はい。じゃあ、晃星くんの呼びたいようにどうぞ」
「なるちゃん、でいいんだ?」
「はい。最近はあんまりその呼び方をされることはないんですけど、小さい頃は、大体みんな私のことをそうやって呼んでましたし」
 だから特に違和感はない。別にそれではなくても、好きなように呼んでもらって構わない、と告げると、晃星が表情を緩めた。
「なるちゃん」
 確認するように呼ばれて、照れる。ちょっと赤くなりながら、はい、と返事をすると、晃星はますます嬉しそうに手をぎゅっと握りしめた。

 ──なるちゃん。

 ずっと幼い頃、その名で呼ばれて、頭を撫でられた記憶が、ふいに脳裏に甦った。
 なるちゃん、なるちゃんと周囲の人たちに呼ばれて可愛がられた、甘やかで幸福な時間の思い出が、その声と共に湧き上がる。強烈な懐かしさと郷愁のような切なさで、胸が締めつけられるようだった。
 両親がいて、兄がいて、いつでも笑いかけてくれる誰かがそばにいて。
 その時の成海には判らなかった。気づいていなかった。失ってからはじめて気づくのだ、幸福という存在は。
 あの頃、成海は本当に、幸せな子供だった。
「じゃあ、おやすみ、なるちゃん」
 ふと襲われかけた追憶に心を持って行かれそうになって、その言葉にはっと我に返った時には、晃星はするりと成海の手から自分のそれを離して、穏やかに微笑んでいた。
「早く家に入ったほうがいい。風邪ひくよ」
 彼が視線で促す先には、成海が住む部屋に通じるアパートの外階段がある。電気が消えて真っ暗なのはひとつだけで、他の部屋はすべて暖かそうな明かりがカーテン越しに洩れていた。
「え……でも」
 ここまで来てくれた晃星を、謝罪の言葉だけでこのまま帰してもいいのだろうか。さっきから外にいて、彼の身体だってずいぶんと冷えてしまっているだろう。うろうろと晃星とアパートとを交互に見て迷う。せめて──
「せめて、お茶……を、飲みに行きませんか、どこかに。ちょっと歩きますけど、ファミレスくらいならありますし」
 せめてお茶でも飲んで行ってください、という台詞を出しかけて止め、苦しまぎれの代案を出す成海に、晃星が笑い出した。
「はい正解。この時間に男を部屋にあげるような真似をしたら、誠の代わりに叱りつけてたところだよ。そこまで無防備じゃなくて、ホッとした」
「ごめんなさい」
 笑ってもらえて成海もホッとしたが、やっぱり後ろめたくて小さくなる。決して、晃星をおかしな目で見たり、疑っていたりするわけではないのだけれど。
「いや、ここでまったくためらわずに部屋に招待されてたりしたら、俺かえって落ち込むから。……お茶はいいからさ、今日はもう帰りなよ。疲れたろ」
 優しい声で言われて、ますます迷った。
「……じゃ、ここで晃星くんを見送ったら、帰ります」
「それだと俺が不安なんだけど。だったら、今からダッシュで家に入って、窓から見送ってよ。俺、それまでここにいるからさ」
「でも……」
「いいから、急ぐ! グズグズしてると、俺、帰るに帰れないよ」
「あ、は、はい!」
 急き立てられて、大急ぎで走って外階段を上り、部屋の鍵を開けて中に入った。電気を点け、両親と誠人形への挨拶も後回しにして、ベランダに面した窓に飛びつくようにして駆け寄る。
 ガラス窓を通して下の歩道を見ると、ぽわりと照らす街灯の明かりに浮かびあがるようにして、晃星が立っていた。
 こちらを見て、軽く手を挙げる。
 成海も慌てて手を振ろうとしたが、ここからではあまりよく見えないのではと思い、窓を開けて両手を挙げ、ぶんぶんと大きく振った。晃星の上体が少し前方に傾いだように見えるのは、どうやら笑い転げているためのようだ。
 笑いを収めると、彼は上着のポケットからスマホを取り出し、操作しはじめた。少しの間を置いて、テーブルの上に放り投げた成海のバッグの中から、携帯の着信音が鳴る。
 下をちらちら気にしながら手を伸ばし、開いてみると、晃星から新しいメールが届いていた。


 『手旗信号じゃないんだから』


 と書いてある。おまけに大笑いしている人の絵文字までくっついている。ウケたらしい。決してウケようと思ってやったわけではないのだが。
 返事を打つ前に、またメールが来た。


 『言い忘れたけど、ネックレス、よく似合ってる』


「…………」
 思わず、首元に手をやった。
 今着ているのは制服ではないから、暗い中とはいえ、成海の鎖骨の上に乗っているものはよく見えただろう。言い忘れたわけではなく、成海に気を遣わせないように、わざとその場では口に出さずにこういう手段を選んだに違いない。晃星の優しさは時々さりげなさすぎて、ぼんやりしていると気づかないまま素通りしてしまいそうだ。
 彼はいつも、軽い物言いと気安い笑みで他人を韜晦し、容易に内面を悟らせない。
 携帯を持ったまま再び下を覗くと、もうそこに晃星の姿はなかった。
 ベランダに出て、手すりに手を置く。ひんやりとした冷気が、手の平を通じて腕から身体全体へと沁みてくるようだった。晃星に手を取られている時は、あんなにもぽかぽかとした温かい熱ばかりが伝わってきたというのに。
 今はもうない。
 成海はしばらくの間、その場に佇んで、誰もいない街灯の下を眺め続けた。
 人には、その人それぞれの真実がある。
 成海はまだ、自分にとっての真実を見つけられてはいない。まだ判らない。誠のことも、晃星のことも、自分の中にあるこの感情のことさえも、判ってはいない。
 ……判っているのは、ただ。
 成海の手の中にあるものは、ひとつひとつ、失われていくということだ。
 どれだけ固く手の平を握りしめても、指の間から零れ落ちる。手を開いてみて、その中にあったものがなくなっているのを知った時、はじめて、それが自分にとってどれほど大切なものだったかを思い知る。
 幸福は、去っていってから、その後ろ姿を見て、ようやくその大きさに気づくのだ。
 失うのは、つらい。
 苦しい。悲しい。痛い。怖い。

 ──そんな思いをするくらいなら、もう最初から、この手の中には何もないほうがいい。



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