空中散歩

19.謝罪



 小さな食卓には乗り切らないほどの皿数と豪華な献立に、成海はわあーと弾んだ声を上げた。
「すごい。すごいですね。推定価格五千円のコースみたいです」
 興奮して言ったら、晃星に呆れた顔をされた。
「なるちゃんは時々意味がわかんないこと言うよね。大体、半分くらいは自分が作ったものでしょ」
「うーん、でもやっぱり、違いますよ」
 下ごしらえは晃星と分担してやった。調理作業もいくらか受け持った。しかし違う。
 たとえば現在目の前にある、きのことアスパラのクリームパスタだが、工程としては、確かに成海一人でも作れるものではある。だが、最終的な見た目と仕上がりがずっと良くなっているのは、間違いなく晃星の手が入っていることによるものだ。
 彩りよく配置された料理の数々は、ひとつひとつが特別凝っているわけではないのに、美しく盛りつけられていたりハーブ類が添えられていたりして、普通にお店で出てきそうなぴしりと決まった出来栄えになっている。少しのことだが、それだけで印象がまったく異なり、いかにも美味しそうで、大いに食欲をそそられた。
 これがセンスの違いというものなのかなあ、と唸る。
 海外暮らしだったから身についたのか、晃星のもともとの資質なのか、あるいは成海の作る料理が地味すぎるのか。
 料理は味と栄養バランスと量を重視しがちだったけれど、見るだけでこんなにも感動するということは、その考えは改めたほうがいいのかもしれない。目から鱗が落ちるとはこのことだ。
「なるちゃん、なにぽうっとしてんの。ほら、冷めないうちに食べるよ」
「ちょっと一人反省会を……」
「よくわかんないけど、絶対しょうもない内容っぽいからあとにしなさい。はい座って」
「参考資料用に写メ撮ってもいいですか?」
「いいから座る。あ、そうだ、せっかくだから」
 成海の肩を押して椅子に座らせてから、晃星がすたすたと部屋の端まで歩いていく。何をするのかと思ったら、誠人形を抱えて戻ってきた。
「誠も入れよう。俺となるちゃんの二人で仲良く食事してるところを、目の前で見せつけてやるんだ」
 そう言いながら、余ったもうひとつの椅子に、スーツ姿の枕を座るような形にして丁寧な手つきで置いた。
「…………」
 成海は口を噤んだ。
 椅子の上の誠人形を見て、その傍らに立つ晃星を見る。
「どうだ悔しがれ」
 晃星が枕に話しかけて、ニヤニヤと面白そうに笑っている。
 ……でも彼は、枕に顔を描いて兄の代わりにしている成海の幼さや愚かさを、決して笑ったりしない。


 二人には少々多すぎるその量の食事を、成海と晃星はゆっくりと味わいながら食べていった。
 肉料理を切り分けながら、カルパッチョを口に入れながら、スープをかき混ぜながら、晃星はずっと成海を笑わせてばかりいた。いつもは静かなばかりの部屋の中が、それだけで一気に賑やかに、そして明るくなる。晃星は成海にだけでなく、誠人形に向かってもさかんに話しかけていて、まるで本当に三人で食事をしているような錯覚を起こしそうになるほどだった。
「なるちゃん、あとでパフェも食べるんでしょ。ちょっと胃に余裕を持っておきなよ。アイスも、バニラとチョコの二種類買ってきたんだから」
 大きな箱なのに二つもあるので、この家の小さな冷蔵庫の冷凍室はもうぎゅうぎゅうである。
「ちゃんと生クリーム用の絞り袋も用意したんだぜ。チョコソースかけて、フルーツを飾ったら、けっこう本格的に見えると思わない?」
「家でパフェなんて、夢みたいですね。自分で作るのなら、チョコソースもかけ放題ということに」
「うっとりしてるところ悪いけど、あんまりかけ過ぎたら、胸焼けして気持ち悪くなるだけだよ。こういうのは、ほどほどがいいんだって」
「珍しく堅実な意見を……」
「なんか言った?」
「いえ何も。そういえば、晃星くんは、甘いもの大丈夫なんですか?」
「俺はあんまり。バニラアイスだけ、少し食べようかなと思ってる」
「そうですか。誠ちゃんは、けっこう甘いもの好きなんですよ。コンビニでプリンを買ってくれる時は、自分の分のシュークリームや大福も一緒に買って、『成海がいると、こういうの買っても恥ずかしくなくていいな』 って嬉しそうにしてました」
「あの顔で甘いもの好きなのか」
「顔は関係ありません。大学生の頃はよく飲んでいたお酒を、社会人になってから大分減らしたので、糖分が足りなくなったらしいです」
「なるちゃん、酒飲みの理屈をそのまま鵜呑みにしたらダメだよ。成人の男の場合、糖質は甘いものじゃなくて、炭水化物で摂取したほうがいいんだから」
「誠ちゃん、昔からご飯は大盛りで二杯は軽く」
「食べ過ぎ」
「うーん……」
 そういうものなのか、と考え込んでしまう。普通の食事以外に、ラーメンもよく食べに行っていたようだし、どうやら誠はメタボ一直線のコースを突き進んでいたようだ。
「でも、大学の時は、ワンダーフォーゲル部にいたので、そこですごく体力を使っていたみたいなんです。だからお腹が空いたのもあると思うんですよ」
「それと同じ量を変わらず今も食べるってところに問題が……ワンダーフォーゲル部?」
 晃星がフォークを動かしていた手を止めた。
 あれ、と成海も首を傾げる。
「知りませんでしたか?」
「うん、知らなかった。なに、あいつ、登山が趣味だったの?」
「あの、大学には、他に山岳部っていうのがあって、そこほどハードだったり本格的だったりはしないんです。登山というよりは、キャンプなんかのアウトドア活動が主っていうか」
 だから行くのも、山だけでなく、海や川であることも多かった。「合宿」 という名目で、あちこちにキャンプをしに出かけては、成海にお土産だと言って、綺麗な石だとか、貝殻だとか、綺麗な紅葉の葉っぱだとかを持ち帰って来てくれたものだ。
「雪山登山とか、そういうのもなくて、わりと近場の低い山をのんびりと登って楽しむような感じの部で、だから女の人もけっこういたらしいです。でもみんな常陸さんに関心が集中しちゃうので、他の男の人たちはあんまり」
「え?」
 女の人はたくさんいても、征司以外の男性は見向きもされなかったという、我が兄の不憫な学生時代のことを続けようとしたら、晃星が目を見開いてこちらを向いていることに気づいて口を閉じた。
「? どうかしましたか?」
「常陸って、バイト先の店長でしょ。大学の時の先輩、ってのは、サークルでの先輩ってことだったの? 学部とかじゃなく?」
「はい、そうです。誠ちゃんが一年生の時に、常陸さんは三年生で、ワンダーフォーゲル部ですごくお世話になったらしいです」
「ふうん……」
 晃星は呟くように言って、すぐそばにある誠人形に視線を移した。マジックで描かれた顔をじっと見つめ、無意識なのか、手に持っているフォークで、コンコンと皿の端を軽く叩いている。
 それから、ニコッと笑って成海のほうを振り向いた。
「なるほど。そういう部ってのは、いかにも上下関係の結びつきが強そうだもんな。それであのイケメン店長は、なにかと誠の妹であるなるちゃんを気にかけてくれるわけだ。やっと合点がいった」
「…………。そう、ですね」
 成海は言葉少なに返して頷いた。
 大学のサークルでの先輩と後輩。
 そこには、一緒に自然と触れ合い、共に苦労をしたり笑い合ったりしているうちに培われた、上下関係の強固な結びつきがあり、連帯感があり、晃星のとはまた違う友情があるのだろう。
 ──けれどそれだけで、保護者の代わりになるというのは、あまりにも征司にとって、荷の重いことではないだろうか、と成海は思う。
 彼にはすでに、お店と笙子という、大事な存在が二つもあるのに。
「俺はてっきり、なるちゃんが可愛いから、絶対下心があるだろと思ってた」
「そんなわけないじゃないですか。常陸さんの彼女さんが、どんなに綺麗な女性なのかを知らないから、そんなことが言えるんですよ。私と比べたら、月とスッポンなんですから。いえ、スッポンは高級なので、ミドリガメでいいです」
 真面目に言ったら、晃星に大笑いされた。



 後片付けを終え、夜の九時を過ぎた時間になると、そろそろ帰るよと晃星が玄関へと向かった。
 ドアの手前で、上着に腕を通しながら口を開く。
「なるちゃん、俺、これからまた、ここを離れることになる。ちょっと忙しくなるかもしれない」
「…………」
 土間とも呼べないような小さな靴脱ぎスペースにいる晃星を見送るため、そこから少しだけ高くなった床部分に立っていた成海は、ほんの一瞬、その言葉をぼんやりと胸の中で反芻した。
 ……忙しくなる 「かもしれない」 というのは、どういうことなのだろう。今までの感じからするに、彼はどうもあちこちを移動しているようなのだが、どこをどうやって動いているのか、なぜその必要があるのか、まるで判らないことばかりだ。
「はい」
 微笑して返事をすると、晃星がこちらを向いた。
 彼の口元に笑みはない。まっすぐに成海の瞳を覗き込む。
「戻るのは、少し先になるかも」
「……はい」
 表情は動かさず、ちょっと、下を向く。
 靴下越しに伝わる、固い床の感触が冷たい。今はまだ秋と言ってもいいけれど、じきに冬の本格的な寒さがやって来る。晃星の言う 「少し先」 というのは、いつのことなのだろう。一週間後? 一カ月後? もっともっと寒くなってから? それとも……
 ああ、駄目だ、こんなことを考えたら。
 晃星が 「戻る」 と言っているのは、成海のいるところ、という意味ではない。
「今日は、ごちそうさまでした」
 ぺこんと頭を下げて、それだけを言った。
 ──何も聞いたりはしない。知りたいとも思わない。
 そうだ、成海は臆病だ。どうしようもないくらいに。
 自分の手の中に、何も入れたくはない。零れ落ちて失うのは、もう耐えられない。胸の痛みは気づかないフリでやり過ごし、感情は下のほうに押し込んで見ないフリをするしかない。
 誠のことを考えるだけで成海の限界、なんとか持ちこたえられるギリギリ一歩手前の状態なのに。
 これ以上、誰かを 「待つ」 ことは出来ない。
「おかげさまで冷蔵庫もいっぱいになったし、しばらくは豪華な食事が出来そうです。アイスなんて、これから一カ月毎日食べ続けてもまだ──」
 不意に、晃星が前かがみになって、両腕を成海の身体に廻した。
 声が止まり、硬直する。その場に棒立ちになって、息を呑んだ。
 晃星は、成海を抱きしめることも、抱き寄せることもしなかった。ただふわりと囲むように廻った手は、立っている成海を閉じ込めただけで、力が込められることもなく、背中のあたりの空中で組まれて動きを止めている。

「ごめん」

 ぽつりと言葉が落とされた。
 視界に入るのは晃星の胸のあたりだけだ。凝固したように身じろぎもしないでいる成海には、彼がどんな表情でそう言っているのか判らない。息遣いさえ感じられるほど背の高い身体がすぐ間近にあるにも関わらず、二人の間にははっきりとした距離がある。
 しばらく、時間が止まったように、そうやって立っていた。
 やっと喉から出てきた声は、情けないほどに、弱々しかった。
「ど、うして、謝るんですか」
「……君に、説明ができなくて」
 晃星も小さな声でそう言って、わずかに身動きした。自分の頭のてっぺんに、軽く何かが触れて、思考が真っ白になりそうだ。
「俺は、君にとっていちばん残酷なことをするかもしれない。俺がすることは、きっと君をひどく傷つける。それが判ってるのに、自分が決めたことを曲げる気もない。……君に、何も言わないし、言えない」
 勝手だね、と独り言のように呟いて、また黙り込んだ。
 しんとした静寂が満ちる。心臓の音だけが激しく頭に響いた。
「──なるちゃん」
「……はい」
「あんまり、一人で抱え込まないで。でも、人を信用しすぎないで。……ごめん、今の俺には、それしか言ってやれない」
 成海を包み込んでいた腕がするりと離れた。
 晃星はそのまま顔を見せずに背を向け、ドアを開けて外に出ていった。


          ***


 翌日の朝、教室に入って自分の席に座った成海のところに、園加がずかずかとした足取りで近寄ってきた。
 どすんと成海の前の席に腰を下ろし、上目遣いになってこちらを窺うように見る。
「……成海、怒ってる?」
 そう訊ねる園加のほうが、よっぽど怒ったような顔つきをしている。
「怒ってないよ。びっくりしたけど」
 正直に言うと、園加はますます口をひん曲げて、むう、という顔になった。子供がふてくされているみたいで、少し可笑しい。バツが悪かったり、気まずかったりすると、彼女はよくこういう顔をする。
「勝手なことして、ちょっとは悪かったかなとは思ってんのよ。けど、どうしてもガマンできなくてさ」
「うん」
 きっと、園加の目には、成海が 「幸福な王子」 に出てくるツバメのように見えていたのだろう。王子の善意に振り回され、冬になっても暖かい場所へ行くことが出来ず、死んでしまって捨てられるツバメ。その物語に腹が立ってたまらなかったという園加は、きっと上田に対してだけでなく、何も言わない成海にも腹を立てていたに違いない。
「心配させてごめんね、園ちゃん」
 と言ったら、頭をぺちんとはたかれた。
「謝るな、バカ成海」
「なんで殴られた上に罵倒されてるのか、よくわからない」
「うっさい」
 園加はふんとそっぽを向いた。理不尽な性格である。けれど成海は友人のこういうところが嫌いじゃない。多分、かなり好きなほうかもしれない。
 見ていると、ほっとする。
「……で、どうだったわけ」
「うん?」
「常陸さん、来てくれたんでしょ。上田の相手をしてくれた?」
「うん。これ以上ないくらい、完璧に」
 成海が昨日の三者面談の成り行きを話して聞かせると、園加は少し安堵したような表情になった。
「そう。やっぱり大人よね。あたしの話もちゃんと真面目に聞いてくれたしさ、常陸さんて、いい人だよね」
 うんうんと頷きながら考えるように目線を飛ばしているのは、店に行って征司と話をした時のことを思い出しているためらしい。機関銃のように上田への不満をぶち上げる園加と、それに穏やかに耳を傾ける征司の姿が目に浮かぶようだ。
「じゃ、これでとりあえず心配事はなくなったわけね。あとはせっせと就職活動に励めばいいんでしょ」
 園加はさばさばとそう言ったが、うーんと言葉を濁す成海を見た途端、眉を吊り上げ、ぎろりと睨んだ。
「あんたまさか、『でもやっぱり悪いからご辞退申し上げます』 なんて言おうとしてんじゃないでしょうね」
 なにも声音まで変えなくても。私、そんなにナヨナヨした変な言い方してる?
「でもね、私」
 言いかけるのを、園加は強い口調で遮った。
「いいじゃん、力を貸してくれるって言ってくれてんでしょ。素直に受けりゃいいじゃないよ。なんでそう遠慮ばっかりしてんのよ。あんたそんなんじゃ、世の中に出てやっていけないっての。もっと図々しいやつは、周りにいくらでも溢れてるっていうのにさ」
「…………」
 みんな同じことを言うなあ、と成海は内心で思う。
 担任も、征司も、園加も。
 図太くなれ、気を遣うな、遠慮ばかりしていたら世の中やっていけない──
「あのね、園ちゃん」
「なによ」
「私、好意に甘える、っていうのと、誰かに保護を求める、っていうのは、違うと思う」
「……は?」
 園加が訝しげに眉を寄せる。成海は机に両腕を置き、その顔を見ながら、ぽつぽつと考えて言葉を出した。
「私はまだ未成年で、高校生で、なんの力もなくて、自分一人では物事を処理することが上手に出来ないことも多いけど」
 誠がいなくなってから、痛感したそれらのこと。周囲からは子供として扱われ、同情を受けるか、あるいは相手にもされないばかりで、自分の無力さを心から思い知った。
「だけど、何も考えられないほど、幼くはない。自分のこれからのことは少しずつでも自分で決めていきたいと思っているし、その責任を誰かにかぶってもらいたいとは思ってない。一人で出来ないことはものすごくたくさんあって、それについて他の人の手を借りたり、助けてもらわなきゃいけないこともあるっていうのは、理解してる。そこを遠慮していたら確かにやっていけないだろうなっていうことも、わかってる」
「なら」
「……でもね、それは、庇護して欲しいってことじゃないんだよ」

 成海は、「誰かの庇護の下に入ること」 を、望んでいるわけではない。

 征司が言っているのはそちらだ。征司と晃星の二人の違いを見て、はっきりとそこに気がついた。
 成海が負うべき責任を自分が代わりに負ってあげる、という申し出に、素直に肯えなかったのはそのためだった。それは違う、という違和感が、どうしても拭えなかったからだ。
 成海は自分の手の中に何も入れたくはないし、誰かの手の中にも入りたくはない。
 ……もう、誰かにとっての重い荷物にはなりたくない。
 そういうことだ。だから、誰かに保護を求めろと言われるたび、成海はいつも途方に暮れるしかなかったのだ。
「常陸さんには、そのあたりをもう少しよく話してみる。就職についてお願いすることはあるかもしれないけど、保護者の代わりになってもらうっていうのは、やっぱり変だと思うから。園ちゃんにも、心配かけないように、これからはなるべくいろんなことを言うようにする」
「でも、全部じゃないんでしょ」
「そうだね」
「…………」
 園加は再び口を曲げてしまった。
 少ししてから、ボソッと呟く。
「……あんたってさ」
「うん?」
「お人好しだけど、冷たいよね」
「そうかな」
 冷たい、か。
 そうかもしれない。自分のために腹を立ててくれる友人にさえすべてを曝け出せない成海は、確かに冷たい人間なのかもしれない。勝手だと晃星は言っていたが、成海だって十分身勝手だ。判っているけれど。
「ごめんね」
 もう一度謝ったら、また園加にぺちんと頭を叩かれた。
「じゃあ、その制服の下にあるネックレスについて、洗いざらい吐いてもらおうじゃないの。とりあえず、それで許してやるわ」
「…………」
 成海は赤くなった。



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