空中散歩

20.過去の発掘調査



 営業時間終了の十五分ほど前、最後の客が店を出ていくと、征司が 「今日はちょっと早いけど店じまいにしよう、成海ちゃん」 と声をかけてきた。
「はい」
 と返事をして、成海はクローズの札を出し、入口を施錠する。いつもだと、オーダーストップの時刻は過ぎていても、とりあえず店は開けておくのに、と若干怪訝に思いながら振り返ると、征司はすでに手早く片づけ作業に入っていた。
「何かありましたか?」
 征司はいつも、成海を帰らせてからゆっくりと店の片づけを始める。普段と違う彼のその行動に少し心配になって訊ねてみると、征司がこちらに目をやってちらりと苦笑した。
「ごめん。笙子が、ちょっと体調を崩していると言うものだから」
「あ……そうなんですか」
 なるほど、それで早めに切り上げて様子を見に行くのか、と納得した。笙子は一人暮らしをしているらしいし、そりゃあ心配にもなるだろう。一刻も早く恋人の許へ駆けつけたいと思う気持ちも判る。
 そこまで考えて、はっとした。
「じゃ、私もすぐに着替えます」
 自分が出ていかなければ、征司は店から出られない。
 それに気づいて浮き足立ち、成海はバタバタと従業員控室へ飛び込んだ。「いや、慌てなくてもいいよ、成海ちゃん」 と後ろから征司の声が追いかけてきたが、大急ぎでエプロンと黒いワンピースを脱いで学校の制服に着替える。
 髪を適当に手櫛で整えながら控室から出ると、征司が少し申し訳なさそうな顔を向けてきた。
「悪いね」
「いいえ。笙子さん、待ってるでしょうから早く行ってあげないと。具合、ずいぶん悪いんでしょうか」
 笙子は美人で上品だが、同時に、少々線が細くて、頼りなさげな雰囲気もある。あの女性が、誰もいない部屋の中、一人で臥せって苦しんでいるのかと思うと気の毒で、自然と成海の眉も下がった。
「いや、多分、そんなに大したことではないと思う。昔からちょっと……精神的な負担が身体に出る、っていうのかな。病弱というのとは違うんだけど」
「はあ……」
 濁すような征司の言い方に、成海も曖昧に返すしかない。つまり、病気ではなくとも、疲労やストレスが溜まったりすると、実際に熱を出してしまう、というようなことなのだろうか。成海はそういう経験はないので想像するしかないのだが、繊細な笙子ならありそうなことだとも思えた。
 しかし、恋人のそういうところをきちんと把握して、理解している征司は、やっぱり配慮の行き届いた性格であるらしい。こういう人がそばにいてくれるのなら、きっと安心して笙子の体調も良くなるのではないか。
「昔……っていうと、学生の頃からなんですか?」
「うん?」
 つい疑問を外に出してしまってから、征司に問い返されて、慌てて手で口を覆った。こんな時に野次馬根性を出すなんて、恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい、なんでもないです」
「いや、いいよ。そういえば、成海ちゃんにはほとんど何も説明してなかったね。君はそういうこと、他の若い女の子のようにあれこれと突っ込んで聞いてこないから」
 自分だって若いのに、征司はそう言って、軽く声を立てて笑った。成海は恥じ入ってもじもじする。
「すみません。あの……笙子さんはあんまり、ワンダーフォーゲル部って感じじゃないなあって思って」
 昔というと大学の時からの付き合いなのかな、とちらりと掠めた思考が、つまりサークル活動で知り合ったのかな、というところにそのまま直結してしまったのは、もちろん、晃星との会話が頭に残っていたからだ。そういう理由で赤くなった成海を、征司は違うように解釈してくれたようで、「ああ、ワンゲルね……」 と視線を流して呟いた。
「懐かしいね。いや、でも、笙子とはそこで知り合ったわけじゃないんだ。そもそも大学も別だったし。高校は同じだったんだけど」
「え、じゃあ、高校生の時からのお付き合いなんですか」
 びっくりして目を白黒させた。
 現在、目の前で黒いエプロンを身につけ、店長としてカフェを切り盛りしている征司は、成海から見て、どこもかしこも隙のない余裕のある大人の男性である。この人が数年前まで誠や仲間と一緒に、わいわいキャンプをしたりお酒を酌み交わしてはしゃいだりしている姿もなかなか想像するのが難しいくらいなのに、高校の制服を着て同じく高校生の笙子とデートしていたりするところはもっと想像できない。思わず難しい顔になって、うーんと唸ると、征司が軽く笑った。
「いや、そういうわけじゃない。高校が同じだったというだけで、クラスも違った。再会したのは大学を卒業してからだね。僕は正直、高校の時は笙子のことをあまりよく知らなかったんだけど、あっちは覚えていたらしくて、街中で声をかけられたんだ」
「わあー……映画みたいですね」
 高校時代の同級生が、数年後にばったり再会して付き合い始めるなんて。現実にそういうこともあるんだなあ、と感嘆するばかりだ。
 ひとつの他愛ない偶然が、征司と笙子にとっては、運命に変わったということか。
 どうしても、それをロマンチックな 「お話」 のようにしか頭に浮かべられない成海は、やっぱりまだまだ経験値が不足しているということなのだろう。
 そういう可能性があることさえ、まるで思いもつかなかった。

 ……そうか、そんな 「出会い」 もあるのか。

「じゃああの、ちょっと早いですけど、私はこれで失礼します。笙子さんに、どうぞお大事にってお伝えください」
「ああ、ありがとう」
 ぺこりとお辞儀をして、裏口のドアを開ける。失礼しますと言って外に出て、ひとつ大きな息を吐きだした。
 征司と話し合うのは、もう少し時間を置いてからにしたほうがよさそうだ。今は彼も、それどころではないだろうし。せめて、笙子が回復して、またお店へ笑顔を見せに来る時まで。
 足を踏み出し、真っ暗になった空を見上げた。
 空には、いくつもの星が瞬いている。
 地上にも、星の数ほど人がいる、なんて言い回しをよくするけれど、実際の数はともかく、数えきれないほどのたくさんの人間がひしめいていることは間違いないのだろう。
 そのたくさんの人々が、たくさんの偶然を媒介に、たくさんの出会いをするわけだ。
 いつ、どんな時に、どんな形で、運命の人と巡り会うかなんて、神様でもないと判らない。
 ──誠にも、大学や会社とはまるで違う場所で、そんな出会いがあったのだろうか。


          ***


 翌日から、成海は可能な限り、誠の友人知人に片っ端から電話をかけることに時間を費やした。
 大抵の人には一度連絡をしたことがあるから、おおむねの場合は、ああ、という感じで受けてもらえる。まだ見つからないの、と心配してくれる相手もいれば、もう知ってることは全部話したよ、とあからさまに迷惑そうな態度を取る相手まで様々だったが、申し訳ありませんと何度も謝って話を聞いた。
 なにしろ、成海の手元にあるのは、誠宛てに届いた年賀状の束、誠が残していった手帳や電話帳くらいしかない。名前と電話番号だけでは、その人と誠がどういう関係の間柄であったのかということも、成海にはさっぱりだ。なんとか伝手を辿って今回はじめて連絡のついた相手の中には、警戒心を露わにする人や、よく知らないからとすぐに切ってしまう人、成海が女子高校生だと判るやいきなり 「じゃあ明日会ってゆっくり話をしない?」 などと言いだす人もいたりして、自分の都合でしていることとはいえ、正直、かなり疲労困憊することもある。
 電話をかけるのは、学校にいる間だったり、バイトに向かう途中であったり、終わってからであったり、とにかく空白の時間をフル活用して当てるのだが、そんな細切れのやり方だからか、ちゃんと話を聞けるのは一日にほんの一人か二人がいいところだった。つまり作業は遅々として進まないのに、電話はやたらと通話中が多くなる。
 そんなわけで、数日ぶりに晃星からの電話を取った時、彼の声は明らかに不機嫌さを含んでいた。


「やっと繋がった」
 最初の第一声が、むすっとしたその言葉だ。
「なるちゃん、最近、ずっと話中ばっかりなんだけど」
「え、そうですか?」
 成海はとぼけたが、もちろん通じなかった。ぶっきらぼうなくらいの口調で質問される。
「何してんの?」
「今は、明日の朝ご飯のためのお米を研いでいるところです。この間晃星くんが買ってくれた材料がまだいろいろと残ってるので、最近は朝もお弁当もとっても豪華版なんですよ。緑黄色野菜も久しぶりに……晃星くん、知ってます? このところ野菜が高くて、スーパーに行くとこーんなちっちゃなブロッコリーが一個で」
「誤魔化さない」
 ぴしりと叱られた。
「いろいろ突っ込みたいけど、俺も我慢してるんだ」
「なんの話でしたっけ。お米の……」
「違うでしょ。なるちゃんが一人でコソコソと活動してるって話でしょ。どこに電話をかけまくってんの」
「私も高校生なので、いろいろと付き合いがあるんですよ」
「ウソだね。なるちゃんが友達と長話するのに通話料の高い携帯なんて使うわけないもん。せいぜいイエ電か、メールか、下手すりゃ手紙だよ」
「…………」
 なんだかまた失礼なことを言われている気がする。しかし当たっているので反論できない。成海のこういうところを知っている学校の友人たちは、よほど急用でなければ携帯にはかけてこないのだ。あの短気なところがある園加でさえメールを使ってくれる。さすがに手紙のやり取りなどはしないが。
 ああそうだ、園加といえば。
 ネックレスの件で晃星のことを白状させられたあと、連日のように会わせろ会わせろと催促されているのだった。どんな男かあたしが査定してやるわ! と異様に張り切っている友人のことなど、もちろん晃星には言えるはずもない。大体、成海だって、晃星にいつ会えるのかまったく判らないし、それを口にすることも出来ないというのに。
 別の話題を振りたくとも、あっちもこっちも地雷ばっかりで、頭が混乱しそうだ。
「えっと、なんの話でしたっけ。ガラケーとスマホの通話料の比較について……」
「ち・が・い・ま・す。なるちゃん、そろそろ怒るよ? なんでずっと通話中なのかってことだよ」
「メールにはお返事してますよ」
 わりとしょっちゅう入ってくる晃星のメールには、ちゃんと一件ずつ返すようにしている。文章を作るという手間が入る分、内容がかなり無難なことばかりに終始しがちになるのは致し方ない。
「なるちゃんの声が聞きたいんだよ。そうしないと落ち着かない」
「…………」
 いきなり真面目な声で言われて、言葉に詰まった。
 晃星はこういうことを躊躇せずにさらっと言うから油断できないのだ。深い意味はなくても、子供を心配するような気持ちで言っているのだとしても、どうしても動揺が抑えきれない。
「どこに電話してるの?」
「……誠ちゃんの知り合いとか、お友達とか」
 結局、本当のことを言わざるを得なくなる。晃星だって多分、そのあたりは薄々判っていただろう。それについての反応は取り立ててなかったが、質問を重ねる声には、どこか注意深く真意を聞きとろうとする姿勢が感じられた。
「今さら、なんでまた? 何かあった?」
「そういうわけじゃなく、定期的なものです。以前に話を聞いた時から、新たに思い出したことはありませんかって。時間が経ってから、ふいに記憶が甦ることもあるかもしれないし」
「……まあ、皆無ではないだろうけど」
 晃星の声は今ひとつあやふやだ。皆無ではないが、そんなケースはごく稀だ、と彼も考えているのだろう。時間が経つにつれ、記憶はどんどんおぼろげになっていくのが普通である。ましてや、音信不通の状態が長く続けば続くほど。
 電話をかけた人の中には、遠回しに、あるいはもう少し直接的に、「まだ諦めてないの?」 というようなことを言ってきた人も何人かいた。
「それで、あちこちに電話をかけて、何か思い出したことはないかって聞いてるってわけ?」
「はい、そうです」
「……誠の知り合いだからって、みんながみんな、いいやつばっかりじゃないだろ。イヤな目に遭ったりしてない?」
「大丈夫です。みなさん、親切に答えてくれます」
「…………」
 しばらく無言が続いてから、ふー、という溜め息が聞こえた。
「なるちゃん」
「はい」
「あのさ……」
 晃星にしては珍しく、迷うような間が空いた。言おうかどうしようかというためらいが電波を通じて伝わってくる。
 やがて、ぼそりと低い声で言った。
「……そういうのは、ほどほどにしたほうがいい」
「そういうの?」
 問い返したら、電話の向こうはまた黙った。と思ったら、次に晃星が出した声は、出し抜けなほどに明るいものになった。
「だってホラ、可愛い女の子が一人でいるところにつけ込むようなやつがいるかもしれないしね。女子高校生と仲良くなりたいって思う男はたくさんいるんだから、誠のことで情報を教えてあげるなんて言われても、気軽にホイホイついて行っちゃダメってこと。わかった? 話は話として聞いて、あんまり深入りはしたらダメだよ」
「あ……はい」
 返事はしたものの、なんとなく釈然としない。確かに、話の筋は通っているのだけれど。
 ……晃星が言いたかったのは、本当にそんなことだったのだろうか。
「頼むからさ、俺を心配させるようなことはしないでね」
「別に、そんな」
「気をつけて、なるちゃん」
 最後に短くそう言って、通話は切れた。
 成海も通話終了のボタンを押して、黒くなった画面をじっと見つめる。

 晃星は、今、どこにいるのだろう。


          ***


 その日、電話が繋がった男性は、誠の高校時代の友人だったという人物だ。
 誠がいなくなった当時に成海が訊ね回ったのは、ほとんどが現在も親交がある大学時代の友人や、会社関係の知り合いばかりだった。さすがに、高校生の時まで遡ってはいない。だからこの時はじめて誠の行方不明を知ったというその男性は、ひどく驚いていた。
「あいつがそんなことになってたとはね……。うーん、でも、俺ももうずっと連絡はとっていなくて、役に立てるようなことはほとんどないと思うけど」
 そして彼は、驚く以上に困惑していた。無理もない、もう何年も会ってもいない同級生の妹から突然電話をもらうだけでも戸惑うだろうに、内容がこれでは、ただひたすら対応に困ってしまうしかないだろう。
「はい。あの、行き先に心当たりがないか、とか、そういうことをお聞きしたいわけじゃないんです。ただ、兄の人間関係というか、そういうのをよく知りたくて……覚えている範囲でいいので」
「人間関係……? 友達とか、そういうのかな。もう何年も前のことだし、俺も記憶が大分曖昧になってるんだけど、いい?」
 この電話の相手は、それでもかなり親切な性質の持ち主であるらしかった。唐突な申し出にも関わらず、出来るだけ思い出そうという意思が言葉の端々から窺えて、ほっとする。
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
 声を弾ませて礼を言う。
「えっと……兄とは、高校生の時のお友達、ということでよろしいんですよね?」
「うん、そう。っていっても、高校でクラスが同じになったことはなかったんだけどね。部活が一緒でさ」
「高校の頃の部活っていうと、確か……」
「柔道部」
 そうそう、そうだった。もともとがっちりした体格だった兄は、中学の時に顧問の先生に見初められ、ほとんど強引に入部させられたと聞いたことがある。最初は気乗りしなかったものの、やっているうちに楽しくなってきて、高校になってからも結局続けることにし、最後には副主将を務めたという話だ。なにしろその時、成海は小学生だったので、毎日家に帰ってくる兄の汗臭さに辟易し、早くシャワーで流して! と風呂場に押し込んだことくらいしか覚えていないのだが。
「同じ部の人で、特に仲が良かったという人は……」
「どうだったかな、あいつはわりと誰に対しても分け隔てなく接するやつだったからなあ。いや、決して立ち回りが上手いっていう意味じゃなく、細かいことにこだわらないっつーか、あんまり空気も読めないから人によって態度を変えるっていう器用なことが出来ないっつーか、そういうこと。わかる?」
「はあ、なるほど……」
 妹の目から見る兄と、友人の目から見る兄の姿に、まったく違和感がない。どうなんだろう、それ。普通、家の中と外とでは、もうちょっと違っていてもいいものだと思うよ、誠ちゃん。
「でも、不思議と人から憎まれなかった。多分、あいつに、悪意っていうものが全然なかったからだと思う。うん、デリカシーはないけど、悪意もまったくない。特に優しいわけじゃないし、すごい単純バカだけど、根っからの善人。そんな感じ」
 そう語る声の調子が、少ししみじみしたものになった。懐かしい高校時代に心が向かっているのか、束の間、電話の相手がその単純バカの妹であることも忘れているようだった。
「そうだな……でも、よくつるんでたのは、俺と、あと三人くらいかな」
 そう言って、彼はその三人の名前を口に出した。急いでメモを取ったが、現在の連絡先は知らないという。大学が遠かったり、社会人になって転勤になったりすると、いつの間にか判らなくなってしまうらしい。仕方のないことだ。
「あの……それで、つかぬことをお聞きしますけど」
 遠慮しながら切り出すと、向こうが、ん? と聞き返した。
「高校時代の兄に、彼女はいたでしょうか」
 その質問に、携帯から弾けるように聞こえてきたのは陽気な笑い声だった。
 笑ってから、そういう状況ではなかったと思いだしたのか、慌てて止めて、謝った。
「ごめん」
「いいえ」
 成海は微笑して返した。この気持ちの優しそうな人と、兄はどういう高校時代を過ごしたのか、考えるだけで胸が温かくなる。
「彼女はね、いなかったよ。三年間、一人もいなかった。うん、断言してもいい」
「…………」
 断言されてしまう兄を少々気の毒に思うべきなのか迷う。
「なにしろデリカシーがないから、男に対してだけでなく女の子にも思ったことをズケズケ言うようなところがあって、モテなくてさ。本人も、あんまりそういうの興味ないみたいだったし」
「じゃあ、片思いの相手、とかも」
「知らないな。少なくとも、俺は知らない。まあ、そういうのって、あんまり大っぴらに宣伝するようなものでもないから、俺が知らないってだけの話かもしれないけど。でもなあ、あいつが片思いなんてするようなタマかな……」
 ぶつぶつと言って考え込んでいる。成海は溜め息をつきそうになるのを、なんとかこらえて呑み込んだ。

 ──いつ、どんな時に、どんな形で、運命の人と巡り会うかなんて、神様でもないと判らない。

 誠にもそういう出会いがあったのではないかと、あちこち電話をかけまくって聞いていたのはそのことだったのだが、今のところまったくその手の話が出てこない。
 誰に聞いても、どう探っても、出てくるのは、兄にはまったく女性の影も形もなかったという話ばかりだ。二十代男性として、それはどうなのかと逆に不安になるほどだ。兄には本当に、秘密の恋人というものがいたのだろうか。もしかして、その恋人は女性ではなくて男性だったらどうしよう。それだといろいろ辻褄が合ってしまいそうで怖い。
 マイノリティーについての偏見をなくす努力をすべきか成海が悩んでいる間も、電話の向こうはまだ考えてくれていたらしい。
「中学でもそんな話は聞いたことなかったよなあ……そもそもあいつ、バレンタインの時も……」
「えっ、中学?」
 成海が素っ頓狂な声を上げると、あちらも、あれっ、と驚いた声を上げた。
「知らなかった? 俺、中学も同じなんだよ。部活はサッカー部にいたけど、二年の時に同じクラスだったんだ。それで高校が一緒になってさ、サッカーはもういいかなって言ったら、じゃあ柔道やらないかって誘われて」
「そうなんですか」
 目を丸くして返事をした。
 ちゃんと聞いてみないと判らないことはたくさんあるものだ。あちらは当たり前のことだと思っているから、わざわざ説明しようとは考えないのだろう。これが、「自分の観点で話をする」 ということなのかもしれない。
 しかしどちらにしろ、ここらが切り上げ時だろうか。中学も一緒で、高校でも部活が同じだったのなら、それなりに深い付き合いだったということだ。その人が断言するのであれば、本当にその頃の兄には特別に親しい女性はいなかったと判断するしかない。これ以上のことを聞くのは、兄の過去を必要以上にほじくり返すようで気が引ける。
「わかりました、いろいろと参考になりました。突然のお電話でぶしつけに聞いて、すみません。兄の中学の頃のことなら、知っている人がいますので、そちらに聞いてみることにします」
 晃星の顔を思い浮かべながら言うと、相手は意外そうに、へえ、という声を出した。
「中学の時の友達? 誰だろ、俺の知ってるやつかな。名前は?」
「八神さん、っていう人です。兄とは幼馴染だったらしいです」
「ふーん、八神……」
 口の中で名前を復唱して、しばらく記憶を辿っていたらしいが、「ああ、あの」 という言葉は最後まで出てこなかった。晃星は中二の時に引越して行ったということなのだから、覚えていなくても無理はない。
「まあいいや。それじゃ、特に役に立つ話が出来なくて悪かったね」
「いいえ、助かりました。ありがとうございました」
 礼を言って、通話を切ろうと携帯を耳から離す直前、あちら側から独り言のように、
「……そんな名前のやつ、聞いたことないけどな……」
 と呟く声が、かすかに耳に届いた。



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