空中散歩

23.沈黙



 無言電話は、翌日も、翌々日もかかってきた。
 毎回、電話が鳴るのは、成海がアパートの部屋に帰って、少し時間を置いてからだ。受話器を取って、「もしもし?」 と応じても何も返ってくるものがない。五秒か十秒くらいのごく短い無言が続き、唐突にプツンと切れる。
 何度もかかってくるわけではなくて、ただの一回きり、まるで成海の在宅を確認しているかのようだ。
 最初にかかってきた木曜日は学校帰りに寄り道をし、金曜日はバイトを休んで、土曜日は昼から夕方までのバイトだった。つまり、帰宅時間はバラバラだ。それなのに、部屋に帰って、しばらくしたら電話が鳴る。
 この部屋を見張っている──ということなのだろうか。
 どうしても怖い方向に向かっていきそうな思考を、そんなわけない、と打ち消すのに必死だった。嫌がらせやストーカーの類だったら、一日一度しか電話をしてこないというのもどこか不自然だ。だから違う。違う、違う、きっと大したことじゃない。
 あれ以来、家に帰ってからすぐにカーテンを閉めるようにしている。もしかして、窓の明かりが点くことで帰宅が知られているのかもと思うと、とてもではないがもうレースのカーテンだけでは落ち着いて座ってもいられない。閉める時は、決して下の歩道に目をやることはしなかった。
 偶然だ、大したことじゃないと思い込もうとしたり、部屋の明かりを見ている誰かを意識して全身に針を立てるようにして警戒したり、考えていることとしていることがちぐはぐだ。
 ぐらぐらと揺れ動く心に翻弄されて、日に日に神経が擦り減っていくのが自分でも判った。
 成海はこの頃夜になると、明かりを最小限にした部屋の隅っこで、手に携帯を握りながら、膝を抱えて小さく座り込む。
 晃星からの電話は、このところずっと絶えている。メールもだ。


          ***


 日曜日のカフェは客が多い。
 足はまだ完治はしていないものの、それでも歩くのにさほどの困難は感じなくなった。腫れも大分引いたし、熱も持っていない。普通にスタスタと歩くのは無理だが、接客をする上でそんなに見苦しくはならない程度の動作は出来る。
 実際足のことなんて忘れてしまうくらいにバタバタと忙しかったが、そうやって仕事のことばかり考えている状態のほうが、成海にとってはかえって楽だった。やることに追われていると、余計な事柄に気をとられなくていい。
 水を運び、注文を取って、食べ物や飲み物を運び、どうぞごゆっくりと笑う。ほとんど機械的にこれらのことをこなして、成海はコマネズミのようにくるくると店内を動き回った。


「成海ちゃん、疲れてるだろう」
 ランチの時間が終了し、ティータイムを楽しむ時間帯も滞りなく過ぎて、そろそろバイトの交代となる夕方にさしかかった頃、カウンター内にいる征司にそう問われた。
「いいえ、そんなことはないです。元気いっぱいですよ」
 にこ、と笑って答えたが、征司の眉は顰められたままだ。
「顔色が悪いよ」
 指摘されて、成海は微笑んだまま自分の頬に手を当てる。
「そうでしょうか。最近、体育も見学してて、運動不足だからかもしれません」
「足が痛むんじゃないのかい。無理をしてるなら──」
「ぜんぜん、無理なんてしてないです。痛みもないです。この間お休みをいただいたし、その分、今日は夜までシフト延長して働くことだって出来ます」
「いや、いいから」
 少し慌て気味に遮って、征司は一旦口を噤んだ。
 今、店内には、二組の客しかいない。どちらの客たちも、目の前のテーブルに置かれたカップに手を伸ばし、またはケーキをフォークでつつき、楽しそうに笑いながらお喋りしている。この時間のバイトは成海の他にもう一人女の子がいるが、その子はこの後で用事でもあるのか、さっきからしきりと時計を気にして上の空だった。
 征司が、カウンターの上に肘から先を置いて、若干上体を前方に傾け、声音を抑えた。
「……成海ちゃん」
「はい」
「もしかして、何か悩み事でもあるんじゃないのかい」
「…………」
 成海は口を閉じて征司の顔を見返した。
 営業時間内、まだ店に客がいるような状態で、彼がそんなプライベートな内容を訊ねてくるなんて、今までになかったことだ。
「どうしてですか?」
 そんなに、目に見えて成海の様子は浮いているだろうか。
「もし……いや」
 征司は何かを言いかけたようだったが、途中で躊躇したのか曖昧に語尾を濁してしまう。視線が宙をふわりと泳いだ。無意識のように手を動かし、長い指先が自分の尖った顎の線をなぞる。
「……学校のこととか、例のこととか、いろいろと考えることが多いだろう。あれっきりちゃんと話を聞くことも出来なくて、僕も申し訳ないと思ってるんだ。近いうちに、必ず時間を取るから、ゆっくり話そう」
「はい」
 返事はしたものの、少し首を傾げる。征司が言いたいのは、本当はそれではないような気がした。頭で考えていることと、口から出る言葉に、ズレがあるような違和感を覚える。穏やかな微笑は普段と同じだが、どこか心ここにあらずというか、それとは別の感情がちらりちらりと見え隠れしているというか──
 敢えて言うなら、心配、のような。懸念、のような。
 それは、成海の捻挫のことを心配していたり、学校のことを気にかけていたりという、言葉にしているそれらのこととは違う何かのように思える。もっと深くて暗いものが征司の瞳の奥に宿っているように見えるのは、成海の考えすぎなのだろうか。
「私のほうは、いつでも構いません。気にしないでください」
「そういうわけにはいかないよ。けど……」
 成海がよく口にするようなことを言って、征司は少し困った顔になった。それを見て、ふとした考えが頭を過ぎる。

 ──ひょっとして、笙子の体調は、成海が想像していたのよりもずっと思わしくないのではないか。

 考えてみれば、最初に調子が悪いと聞いてから、もう十日以上が経過している。征司は 「大したことはないと思う」 と言っていたが、その間一度も姿を見ていない。以前は平日の夜でもよくふらりと店を訪れていたし、土日はランチの手伝いにも来ていたということだったのに。
 そこに思い至り、成海は両方の手の平を見せてバタバタと振って、急いで付け足した。
「あの、本当に、無理はされなくていいです。店長は今、いろいろと忙しいんでしょうから。私、自分のことは自分でなんとかします」
「…………」
 征司は黙って成海の顔をじっと見つめていたが、やがて、短い息を吐いた。
 それから何かを呟いたようだったが、声が小さすぎて、何を言っているのかは聞き取れなかった。


          ***


 アパートの部屋に帰って、両親の写真と誠人形にただいまと言ってから、カーテンを閉め、LDKの片隅の床に座る。
 したことといえばそれだけだったのに、そのままボンヤリとしていたらしく、気がついたら一時間も経っていた。
 最近、よくこういうことがある。飲みもせず、食べもせず、眠りもせず、何かを考えているわけでもないのに、いつの間にか時間が経過しているのだ。
 こんな時の自分は、一体どういう顔をしているのかと思う。さぞかしマヌケな顔をしているのだろうなと思って鏡を覗いてみても、映るのはいつも、無表情に近い女の子の青白い顔だけだった。
 そこには何もない。空っぽだ。
 学校やバイト先では浮かべられている笑みが、この部屋に帰り着いた途端、ぱたりと消える。以前までは、カラ元気でも声を出したり、笑ったり、誠人形にお喋りしたり出来ていたのに、それさえも難しくなりつつある。油断すると、心をどこかに持って行かれそうだ。
 限界に向かって、じりじりと進んでいるような、そんな気がしてならなかった。
 道の先は袋小路、あるいは、断崖絶壁。不安になる気持ちすらもどこか麻痺して、現実感なくそういうイメージだけを頭に浮かべている自分がいる。
 それだけ、成海の精神が脆く弱く、不安定になっているのかもしれなかった。

 今までなんとか保たせていた土台の芯が、崩れかけている。

 一方で、こんなことではダメだと叱りつける自分も、かろうじて成海の中には存在していた。その 「成海」 が、日常生活を表面的には何事もなく続けさせている。外で笑みを浮かべている時、園加や征司に心配させないようにと、考えているのはそんなことばかりだった。
 目を伏せて、鞄から取り出した携帯を見る。
 ……自分から晃星にかけてみようかと考えたのは、一度や二度じゃない。
 メールを出してみよう、ということは不思議とまったく思いもしなかった。ただ、声が聞きたかった。名を呼んでもらいたかった。それだけでよかった。
 あれだけ自分を戒めたにも関わらず、成海はやっぱり、彼を待ってしまっているのだと実感した。声を、笑顔を、存在を確かめて安心を望んでいる。一度その感情を手の中に入れてしまったら、あとで数十倍の苦しみがやって来る、それが判っていてもなお。
 はじめて成海のほうから電話をしたら、晃星はどう思うのだろう。驚くだろうか。怪訝に思うだろうか。心配するだろうか。なんでもない声で、こんにちはと言えば大丈夫だろうか。
 ──晃星と、他愛ないことを話して笑い合えたら、どんなにいいだろう。
 数十分ためらって、結局、どうしてもその誘惑に抗えなかった。携帯をちゃんと持ち直し、晃星の番号を呼び出す。プップッという電子音が続くたび、心臓が喉元までせり上がっていくように感じるほど緊張が高まっていった。
 しかし、その音が途切れて、続けてあちら側から聞こえてきたのは、晃星の声ではなかった。

「お客様のおかけになった番号は、現在、電源が切られているか、電波の届かないところに──」

 滑らかな女性の声は、成海にとって聞き慣れたものだ。誠がいなくなって、何度も何度も携帯にかけて、その都度返ってきたのはこれだけだったから。
「…………」
 最後まで聞かずに、通話を切った。
 やっぱりかけなければよかったと、後悔に満たされる。兄がいなくなった時の記憶が甦ってきて、息が苦しい。大きく呼吸を繰り返して、胸に手を当てた。
 成海の携帯が繋がらなかった時、晃星は心配して家にまで来てくれた。でも、成海は、どんなに心配でも、どんなに不安でも、どこに行けばいいのか判らない。
 何も知らない。何も聞かなかった。どこにいて、どうしているのかも判らない。晃星も、兄も。
 一体、どうすればよかったの。
 胸に当てていた手を、今度は口まで持っていく。
 吐きそうだ。


          ***


 ──しばらくして、カン、カン、と階段を上る足音に気がついた。
 このアパートは二階建てで、小さな一棟が四つの部屋に分けられている。上下それぞれ二部屋ずつだ。それと同じ構造の建物が敷地内にもう一棟あり、合わせてひとつのアパートとして成り立っている。
 隣り合わせたドアとドアの間には階段があって、二つのドアのどちらからでも、一歩外に出てみればすぐそこには階段がある、という形だ。だからそれを上り下りする音は、別にみんなが寝静まった深夜でなくとも、その棟の住人にはよく聞こえる。隣の住人である美沙が、成海の帰りが最近遅い、などということを把握していたのも、その音を耳にしていたからなのだろう。
 それが判っているから、成海もその音について最初なんとも思わなかった。隣の美沙か、あるいはその夫が帰ってきたか、または宅配便や郵便か。それくらいのものだろうと考えたからだ。
 カン、カン、と階段を上ってくる足音は、少し続いて、ピタッと止まった。階段を上りきったのだろう。
 これが美沙なら、騒々しく鍵を探し回る音が響き、ガチャガチャと廻して勢いよくドアを開ける音が続くのが普通だ。宅配便なら、インターフォンが鳴る。郵便なら、ポストにダイレクトメールや手紙が落とされる音。
 ……が。
 その後に続く音が、何も聞こえてこない。特に耳を澄ましていなくとも勝手に聞こえてくる音は、いつもなら無意識に聞き流しているのに、それがないとかえって気になるものらしい。成海はぺたんと床に座り込んだままの恰好で、じっとドアの外を窺った。
 部屋の中も外も、しんとしている。階段を上る音がしたということは、少なくともドアの外には誰かがいるはずなのだが、そんな気配はまったく伝わってこない。

 ……誰か(・・)

 さあっと水をかけられたように背中が冷えた。
 反射的に、ぱっと家の固定電話に目をやる。
 そういえば、もう夜になっているというのに、今日はまだ電話がかかってきていない。昨日までの三日間、毎回、成海が帰ってきたのを見計らったように鳴っていたのに。
 血の気の失せた思いでその場で固まっていたが、ドアの外は静かなままだった。隣のドアが開くような音も、インターフォンが高い音で来客を告げることもない。
 まだ不自由さの残る足をなんとか動かし、猫のように音も立てず四つん這いになって、そうっと玄関のほうまで移動した。立とうと思っても、力が入らない。
 狭い玄関スペースへと通じる戸を少しだけ開けて、そろそろと顔だけで覗く。

 玄関のドアノブが、ゆっくりと動いていた。

「……っ」
 息を呑む。
 ガチャガチャと乱暴に動いているわけではない。まるであちら側も何かに怯えているかのように、ゆっくり、ゆっくりと、レバータイプのノブが、下へと動いている。少しずつ、けれど、間違いなく何者かの明確な意志によって。その何者かは、インターフォンを鳴らすという通常の手順を経ず、声をかけることもしないで、いきなり扉を開けようとしているのか。
 心臓が大きな手に掴まれたようにぎゅっと縮んだ。
 全身が止めようもなく震えだす。鍵がかかっているのだから、開けられるわけがない、と理性では判っていても、恐怖心はそれを上回った。
 誰か──と助けを求めたくても、この部屋にいるのは自分だけだという現実に、絶望しそうになった。両親の写真や誠人形は、所詮、写真と枕でしかない。

 今この時、成海を助けてくれるものは、この部屋にも、この世界にも、どこにもいない。

 そのことを心底から思い知り、さらに打ちのめされる。力が抜けてへたりとしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
 もう無理だ、と思った。
 ずっと、この部屋のドアを開けて帰ってくる誠を待っていた。だから、鍵はかけてもアーム状のドアロックまではしたことがない。インターフォンを鳴らさなくても、成海が眠っていても、いつでもどんな時でも、誠が鍵を開けてそっとこの場所に戻ってこられるように。
 そうやって、兄が帰るのを待ち続けていたけれど。

 もう──無理だ。


          ***


 ドアノブは、ただ一度、下ろされただけだった。
 下りきって、ドアが力ずくで押されたとか、そういうこともなかった。そこからノブはまたするすると上にまで戻され、しばらくしてから、カン、カンという、今度は階段を下りていく音が聞こえた。
 その音が聞こえなくなってから、飛びつくようにドアに駆け寄り、ロックをした。それでもその夜はまるで眠れず、ベッドの中で布団をかぶり、まんじりともせずに月曜の朝を迎えた。
 結果として、一睡もしていない。
 フラフラになって学校には行ったが、成海の顔を見た途端、鬼のような形相になった園加に無理やり保健室に連行され、半日以上をそこで寝て過ごす羽目になった。保健室の中にいると、校内のザワザワした声や雰囲気が伝わってきて、ホッとして熟睡してしまったらしい。保健医には、「夜ふかしはほどほどに」 と厳しい声で注意された。
 しかしとにかく眠ったおかげで頭はスッキリしたので、「ル・クール」 では寝不足のあまりミスを連発、なんてことにはならずに済んだ。
 逆に、ミスが多かったのは征司のほうだ。注文とは違うものを出したり、カップを落として割ったり。普段の彼らしからぬ失敗に、成海だけでなく、常連客も首を捻っていた。
 少々ぎこちなさのある空気が流れる中、それでも刻々と時間は過ぎる。客がいなくなり、店を閉めてから、帰ろうとする成海を引き留め、征司が真面目な表情で顔を覗き込んできた。
 整ったその容貌には、少しばかり憔悴の色が見える。疲れているのだろうか。
「……成海ちゃん」
「はい」
「最近、困っていることはないかな。その……何か、君を悩ませているようなことがあるんじゃないのかい」
「…………」
 相変わらず、征司の言い方は、奥歯に物が挟まったようなものだ。征司がどんなことを想像して 「困っていること」 と言っているのか判らないが、成海はあやふやに微笑んで誤魔化した。
 保護者の代わりを申し出てくれた征司に、それを断ろうとしている成海が、今の自分の身に起きていることを相談できるはずもない。
「いいえ。特には、何も」
「──そう」
 征司は多少納得いかないような目をしていたが、それでもどこかほっとしたようだった。
「それならいいんだ。……気をつけて、帰るんだよ」
「はい」
 成海はぺこりと頭を下げた。


 誰もいない夜道を歩くのは久しぶりだ。
 冬に近づいた現在、夕方であってももう外は暗い。しかし時間が早ければ、駅から家への道のりにはそれなりの人通りがある。だからまだ全速力では走れない足でも、バイトの上がりが早い土曜日曜は、成海も安心してアパートまでの道をのんびりと歩けていた。
 が、夜の十時をとうに過ぎた今の時刻では、通行人はもはや皆無だ。立ち並ぶ家々には明かりが煌々と灯っているが、静かな闇の中、響く足音は成海のものしかない。いやこの場合、自分以外の足音が聞こえてきたら、そのほうが怖いのだが。
 何度も何度も後ろを振り返りつつ、なるべく急ぎ足で帰路を辿った。あとからついてくる人影がないことを確認するたび、安心と不安が同時に押し寄せる。胸のドキドキはすでに、破裂しそうなほど大きくなっていた。
 そうやって早足で歩いて、アパートの建物が見えた時には心の底から安堵した。身体の奥から深くて大きな息を吐きだし、さらに足を速めようとし──
 ぎくりと止まった。
 アパートの前の歩道に、誰かが立っている。



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