空中散歩

24.崩壊の時



 人影がゆっくりと足を動かして、街灯の光が届く場所まで移動した。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる姿を認識して、成海は目を見開く。
 そこにいたのは、成海の知る人物だった。
「──笙子さん?」
 驚いて声を出すと、笙子が微笑んで軽く手を挙げた。彼女には珍しいシックな黒のロングコートを羽織り、いつもは背中まで下ろしている長い髪も後ろでまとめられているが、そこにいるのは間違いなく征司の恋人である女性だ。
 あまり右足には重心をかけないようにして、なんとか急ぎ足で駆け寄っていく。いつものように綺麗な笑みを浮かべた笙子は、成海がすぐ近くまで来ると、「こんばんは、成海ちゃん」 とおっとりした口調で言った。
「ど、どうしたんですか。あの、具合が良くないって聞いたんですけど、大丈夫なんですか? こんな風に出歩いたら身体に障るんじゃ──ていうか、どうしてこんな夜遅くにこんな所に」
 目を真ん丸にして次から次へと疑問を口に出す成海が可笑しかったのか、笙子が口元に手を当てくすくす笑った。普段と同じ優雅な仕草だが、どうにも場違い感が否めない。なにしろ現在の時刻はすでに十時を廻り、特に大通りでもないこのあたりは、すっかり人の通りも絶えて、しんとした静けさが広がっているだけなのだ。
「笑ってる場合じゃないですよ、笙子さん。女の人がこんな遅い時間に一人で立っていたら危ないでしょう」
 先日見た人影や、無言電話、階段を上ってきた足音のことを思い浮かべてひやりとする。咄嗟にきょろきょろとあたりを見回したが、特に怪しい姿は見えなくてほっとした。
 笙子はまたふふっと笑い、口元に当てていた手を、今度は頬に添えた。
「いやね、成海ちゃん、そんなに叱らないで。ちょっと用事でこの近くまで来たものだから。そろそろ成海ちゃんが帰って来る頃かなあって思って、おかえりなさいって言おうとしたのよ」
 焦る成海とは正反対に、笙子はどこまでものんびりとしている。まるで子供のような無邪気さ無防備さに、成海は当惑した。今まで、笙子のことは、もっとしっかりした大人の女性というイメージを抱いていたのだが。
 ひょっとして、体調が悪いのが続いて、いろいろとストレスが溜まっているのでは、と思い当たった。そういえば、精神的な負担が身体に来る、ということを征司も言っていた。それで普段はしないような行動を、ふらふらと取っているのかもしれない。
「あの、笙子さん、よかったら私の家にいらっしゃいませんか。寒いですし、何か温かい飲み物でもお出ししますから」
 そうとなったら、このまま一人で放っておけるはずもない。危なくて目が離せない。部屋に入らせて、冷えた体を温めて、征司に電話をして迎えに来てもらおう。
 そう考えて、出来るだけ笑顔になって誘うと、一拍の間の後、笙子はゆっくりと微笑んだ。
「……そう? いいのかしら」
「はい、もちろん。店長のように美味しいロイヤルミルクティーは作れませんけど」
 わざと冗談めかして言うと、笙子が笑みを深めた。
「それはそうよ。あの味は征司さんにしか出せないんですもの。征司さんが、私のためだけに淹れてくれるから、あのロイヤルミルクティーは特別で、最高なのよ」
 なにげに強烈な惚気を聞かされている気がする。恋人のことを考えているのか、笙子はどこか夢見る少女のような表情になった。
 そんな顔を見たら、成海のほうまで照れてきて、「あの、じゃあ、どうぞ」 と慌ててアパートの部屋まで案内した。


 真っ暗だった部屋に入り、電気を点けてから笙子を室内に招き入れて、衝撃を受けた。
 外では判らなかったが、笙子の顔色は相当酷かった。いつもはきっちり手入れされている肌は、ノーメイクなのか、蝋のように白い。目の下はうっすらと灰色がかっていて、少し落ち窪んで見えるほどだ。美しさは損なわれてはいないものの、一目見て、彼女の今の状態がかなり悪いであろうことが窺える。
「どうぞ、座ってください、笙子さん。寒くないですか、暖房入れましょうか」
 急いで食卓の椅子を引き出して示し、成海はそう言ったが、笙子はほとんど聞いていないようだった。いや、そもそもその声が耳に届いているのかも疑問だ。そのくらい、笙子は虚脱したような顔つきで、ただぼんやりと部屋の中を見回している。
 彷徨うように動いていた視線は、リビングの片隅の仏壇と誠人形を素通りして、自分が立っているところのすぐ近くにある電話台で止まった。
 成海もそこに置いてある白い電話を見て、早く征司に電話をしないと、と急き立てられるように思った。足の先から、じりじりとした焦燥感が駆け上ってくるようだった。
 早くこのことを伝えないと。今の笙子の様子は、どこか明らかに変だ。電話して、迎えに来てもらうように言って、その間に温かいものを飲ませて休ませて──
 あれこれと気を揉みながらそんなことを考えている成海とは裏腹に、笙子はその場所で足を止めたまま、ぴくりとも動かない。疲労が全身に圧し掛かっているように気だるそうにしているのに、視線だけは強く、電話に据えられ続けていた。
「あの、笙子さん」
 慎重に呼びかけてみたが、返事がない。こちらを振り向きもしなかった。
「まだ少し、具合が悪いんじゃないですか? おうちで休まれたほうがいいですよ。常陸さんに電話して……」
「名前で呼ばないで」
 いきなり遮られた。ようやく顔を動かし、笙子がこちらを向いたが、その口元にはさきほどまで浮かんでいたはずの笑みが、跡形もなく消え失せている。
 急激な変化に戸惑って、言葉に詰まる。
「……あの」
「馴れ馴れしくあの人の名前を呼ばないで」
「あ──はい、ごめんなさい」
 成海は慌てて謝った。
 いつも征司のことは、店では 「店長」、それ以外では 「常陸さん」 と呼んでいる。だから今まで、店でしか会う機会のなかった笙子は、成海が征司のことを 「店長」 と呼んでいるところしか見ていない。それがいきなり個人名を出したりしたのでは、恋人としては不愉快にもなるだろう。
 こちらに向けられる冷え冷えとした声音に、身が竦みそうになる。笙子がこんな冷淡な声を出すのも、こんな鋭く尖った言い方をするのも、はじめてだ。
「すみません。ええと、店長に、電話を──」
「電話?」
 一瞬激しく向けられた敵意はぱっと蒸発するように消えて、笙子はまたすぐにぼんやりとした調子に戻った。成海の言葉を機械のように繰り返し、再び電話機のほうに目を戻す。
「この電話で?」
「え……いえ、あの、携帯で。それとも、笙子さんが自分で電話されますか」
「携帯?」
 もう一度、同じように繰り返した。
「成海ちゃん、あの人の番号、知ってるの?」
 静かな問いかけに、緊張する。笙子の顔は電話のほうに向けられたままで、成海の立っているところからはどういう表情をしているのかよく見えないが、低く抑えられたような響きは、こちらの身を固くさせるくらいのものを含んでいた。
「……あの、私が知っているというか、店長は兄の先輩なので、番号の控えが取ってあるんです」
 その番号を頼りに連絡を取って、誠の件で話をしに行ったのだから、知っていて当然なのだ。本当は、もしも何かがあった場合にということで、自宅マンションの番号まで教えてもらっているのだが、それは言わないでおくことにした。余計なことを口にすると、笙子の何かをひどく刺激してしまう気がする。
「ああ……そうだったわね。もともと、お兄さんのことで、あなたはあの人を頼ったんだったわね」
 笙子の顔が動いて、今度は部屋の隅の仏壇へと向けられた。横顔が見えたが、そこには、感情らしきものがまるで浮かんでいない。
「それで、可哀想な身の上話をして、征司さんの同情を買ったのよね。あの人、優しいから。独りぼっちの女の子を放っておけなくて、自分の店でバイトまでさせて、あれこれと面倒を見て……」
「…………」
 笙子の言葉に、口を噤んで黙るしかない。征司に甘えているのは本当なので、否定も反論も出来なかった。
「どうして黙っているの?」
 笙子がそう言って、顔だけでなく身体を動かし、正面から成海のほうを向いた。その口調は柔らかいのに、間違いなく成海を責める棘がある。ゆるりとした動作で、ロングコートのポケットの中に両手を差し込んだ。
 それを見た瞬間、脳裏に閃くものがあって、息が止まりそうになった。

 上着のポケットに手を入れて、じっと街灯の下に立っていた人物の姿が、目の前の笙子に重なる。

 笙子はすらりとした細身だ。そして、長身の征司と並んでもちょうど絵になるくらいに背が高い。パーカーにパンツという恰好をして、今のように髪をまとめてフードをかぶっていたら、遠目には男性のように見えるかもしれない。
「…………。あの、笙子、さん」
 わずかに震える声で名前を呼んだ。じりっと半歩、後ずさる。
「なあに?」
 笙子はゆったりと言って、子供のようにことんと首を傾げた。生気のない表情に、瞳だけが威圧的なほどの輝きを伴って、食いつくように成海に向かってくる。ぞくりと背中に冷気が走った。
 空気に亀裂が走る。日常の景色が反転し、非日常へと転換した。
「ど……どうして、私の家を知ってたんですか?」
 最初に疑念を抱くべきだった。成海が笙子の個人的なことを何も知らないように、笙子だって成海のことは知っているはずがない、ということに。自分たちは、ただ征司の店でたまに顔を合わせて、軽く会話を交わす、それだけの関係だったのだから。
 笙子は束の間、何を聞かれたか判らない、というようにぼうっとして、それから屈託なく笑った。
 その笑い方が、ぽっかりと虚ろなものであることに、早く気づくべきだった。
「履歴書を見たの。征司さんのお店でバイトをすることに決めた時、成海ちゃん、書いて出したでしょう?」
 確かに書いた。征司のほうから声をかけてもらってはじめたバイトなので、形だけだよと言われたが、そういうものをはじめて書く成海が、何度も下書きしてようやく書いた履歴書。
 自宅住所、電話番号、携帯の番号、あれを見れば、すべてが判る。
「征司さん、大事な書類はちゃんと鍵のかかった引き出しに保管するのよ。でもその鍵は、いつも同じ場所に置いておくの。不用心ねって何度も注意するのに、ちっとも直らないのよ、困った人ね」
 場にそぐわないほど嬉しげに、白っぽい頬を染めて、笙子は言った。困った人ねと言いながら、その声には愛情が溢れている。台詞だけなら、恋人のことを惚気ているようにしか聞こえない。
 が、すぐに、その幸福そうな微笑は引っ込められた。
「──私がその鍵をこっそり持ち出すなんて、きっと、考えてもいないんでしょうね」
 ぽつりと零すように付け足し、また電話を見る。
「成海ちゃん、電話って、うるさいわよね」
「……笙」
「ごめんなさいね、毎日鳴らして。だって本当にあなたがそこにいるのか、知りたかったんですもの。今頃、征司さんに電話して、泣きついたり甘えたりしているんじゃないかって思ったら、どうしてもかけずにはいられなかったの。あなたの声を聞いて、何を言おうって毎回悩むのよ。でも結局、どう言っていいのか判らずに、切ってしまうの。ごめんね、鬱陶しいわね」
「…………」
 言いながら笙子がポケットから取り出したものを見て、成海は息を呑んだ。
 ──ハサミ(・・・)
 しかも、黒光りした刃先が頑丈で長い、裁ち鋏だ。ずっしりと重量もありそうで、笙子の細い指には、いかにも不釣り合いだった。
「こんな電話、もう鳴らないように、切ってしまいましょうね」
 まるで幼児に言い聞かせるように優しく言うと、笙子は手にしていたそのハサミで、一瞬もためらうこともなく、ぶちんと電話のコードを切断してしまった。
「ほら、これでもう大丈夫」
 無邪気にそう言って、にっこり笑った。


 呼吸を忘れそうになった。
 凍りついたようにその場に突っ立ったままの成海とは対照的に、笙子はまたどこか茫洋と別世界を漂うような表情になっている。
「……笙子さん、どうして」
 息詰まる沈黙を破り、喘ぐように問いを喉から引っ張り出す。何もかもが判らなくて、悪い夢でも見ているようだった。
 どうしてこんなにも、笙子から憎しみを向けられているのか、判らない。
「どうして? どうしてって、聞きたいのは私だわ。ねえ、どうして?」
 笙子は不思議そうに成海に対して問い返した。
「──どうして、征司さんは、そんなにあなたのことを気にかけてばかりいるの?」
「え……」
「征司さんね、成海ちゃんの保護者になるなんて言い出したの。後見人? って呼ぶんだったかしら。正式に手続きをとるために、あちこちに問い合わせたり、調べたりしてるのよ。そういうことだから笙子も含んでおいて欲しいって言われたの。ぜんぜん、意味が判らなかったわ。何を理解して、何を判れっていうのかしら。征司さん、いずれはあの子を引き取ることになるかもしれないから、なんて言うのよ。寝耳に水よ、そんなこと。今までまったく聞かされていなかったわ。あの人があなたに親切にするのは、ただあなたの境遇を気の毒だと思ったから……ただの同情心だとばかり、思っていたのに」
 笙子の言葉に、成海も動転した。正式な後見人? そんな話は、自分だって初耳だ。ましてや、引き取る──だなんて。
 そんなことは、口にした覚えも、願ったこともない。
「私、そんなこと」
「ああ、そうね、成海ちゃんはいい子だもの、そんなこと露骨におねだりしたりはしないわよね。少しずつ、少しずつ、そういう風に征司さんが自分で考えるように、自分で考えたと思わせるように、仕向けていっただけなのよね? 素直で、真面目で、純粋で、可哀想な成海ちゃん。そういう顔と態度で、征司さんの心を掴みとっていったのよね?」
「笙子さん、聞いてください」
 成海は必死に言ったが、笙子の目はまったく別の方向を向いている。
「私と征司さん、結婚の約束もしてたのよ。やっと、そこまでいったのよ。高校生の頃から、ずっとずっと好きで、あの人のことだけ見てた──でも、勇気がなかったばかりに、何も出来ずに終わってしまったの。大学を卒業してから偶然街中で会えた時は、これは運命だって思ったわ。死ぬほどの決心をして声をかけて、ようやく付き合えるようになって、私、本当に幸せだった。夢を見ているみたいだった。これからもっと幸せになっていくはずだったのに、今さら」
 今さら、邪魔が入るなんて──と呟いて、笙子は表情を変えないまま、涙だけをぽとりと落とした。
「結婚はする、でもそこに成海ちゃんという存在が割り込むことを許容して欲しい、なんていう内容を、そうそうすんなり受け入れられるわけがないじゃない。私たち、何度も話し合ったわ。理由も聞いたし、反対もしたし、考え直してってお願いもしたわ。でも……征司さん、まったく聞き入れてくれる気がないの。もう決めたって。あの子にはどうしても保護者が必要だからって。このまま一人で放っておくことは出来ないって。あの人、優しい人だから」
「…………」
 成海は唇を噛みしめ、拳をぎゅっと握った。
 征司のその固い決心は、確かに優しさと同情心から出ているものなのかもしれない。しかしそこには、笙子の心情というものが、まったく汲み取られていない。
「三人で新生活なんて、考えられないわ。そう思わない? だってあなた、征司さんの妹でもなんでもないのに。どうして赤の他人の女の子を、自分たちの未来図の中に組み込む必要があるの? そんなの許せないって思うのは、私の心が狭いからなの? いっそあなたなんていなくなってしまえばいいのにと思って、浅ましく愚かな行為を繰り返すのは、私の人間性が醜いから? 悪いのは私?」
 笙子は顔を手で覆って悲鳴を上げるように言った。
「…………」
 成海は黙って首を横に振った。笙子の言い分は筋が通っている。誰が聞いても、そんなことはおかしいと思うだろう。
 悪いのは笙子ではない。責任感の強すぎる征司でもない。

 じゃあ、誰が悪いの?

「……ご──ごめん、なさい」
 喉に何かが詰まって、上手に声が出ない。つっかえながら謝って、上半身を折り曲げ、深く頭を下げた。
「悪いのは私です。私が、店長の優しさに、つけ込むような真似をしたのがいけなかったんです。保護者になってもらおうなんて考えは、今後一切、持ちません。後見人になってもらおうとも、思いません。甘えたことばかり言って、笙子さんを傷つけることになって、すみませんでした」
「…………」
 笙子は口を閉ざしている。自分の頭にじっと視線が注がれているのを、痛いほど感じた。
「申し訳、ありませんでした」
 もう一度、謝罪の言葉を出した。目頭が熱くなったけれど、なんとか外へは出さないように、死に物狂いで自制する。笙子に涙を見せるわけにはいかない。
 笙子は被害者、加害者は成海だ。自分のことばかり考えて、笙子が苦しんでいることなんて思いもしなかった。彼女をここまで追い詰めてしまったのは、他の誰でもない、成海だ。
 その成海が泣いていいわけがない。
「バイトも辞めます。店長と笙子さんの前には、もう二度と姿を見せません。お二人の幸せの邪魔をするような真似はしません。私の何も背負わせたりしません。今まで、苦しませて、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
 頭を下げたまま、何度も謝った。途中から、誰に対して謝っているのかも判らなくなった。笙子か、征司か、誠か、誠が大事にしていたかもしれない誰かか。

 もうあなたたちの幸せの邪魔はしません。私を背負わせたりしません。苦しませてごめんなさい。
 ごめんなさい──

 止めようと頑張ったのに、どうしても駄目だった。ぼとぼとと涙が溢れるように零れ落ちて、床へと落下する。顔を見せないように、頭はずっと上げなかった。
「…………」
 笙子からは何も反応がない。室内に、しんとした静寂が満ちる。
 やがて、ごとん、という重い音がした。びくっとして少しだけ目を上げると、笙子の足許の床に、ハサミが落ちていた。
「……ごめんなさい、成海ちゃん」
 聞こえないほどの小さな呟きが漏れて、笙子はくるりと踵を返し、玄関のドアを開けて、外へ出ていった。


         ***


 ……どれだけ放心していたのか。
 気がついたら、鞄の中から、携帯の着信音が鳴っていた。こんなにも静かな中、いつもいきなり鳴り響くその音に、毎回飛び上がるほど驚いていたのに、今はしばらく鳴っているその音も耳に入らないくらいだった。
「…………」
 のろのろと鞄を引き寄せ、中から携帯を取り出す。
 画面に表示されているのは、晃星の名前だった。
 やっぱり、と頭の片隅で納得している自分がいた。あれだけ声が聞きたいと願った時にはかかってこなかったのに、今だけはかけて欲しくないという時に限ってかけてくる。タイミングがいいのか悪いのか。
 着信を知らせ続ける携帯を見つめ、じっと動きを止めていた。切れればいいのにと思うのと同時に、このままずっと鳴り続けていて欲しいとも思う。自分でもよく判らない。
 頭も心も、すっかり機能しなくなってしまった。成海という名前の魂はどこか宙を流離っているようで、ここにあるのは単なる抜け殻のような感じがした。
 あれだけ流した涙も、今はもう一滴も出てこない。
 しかしそれでも、一度は切れてもまたすぐに鳴りだす着信音に、これを放置しておくと晃星が心配するのではないか、と思うくらいの理性は戻ってきた。電源を切って、あの無機質な女性の音声を晃星に聞かせるのはイヤだ。あの声は、胸の中の不安を悪い方向にばかりかき立てる。
 通話ボタンを押し、耳に当てた。
「なるちゃん?」
 すぐに晃星の声が飛び込んでくる。思わず、目を閉じた。この数日、ずっと待ち続けていた声だ。
 こうして、名前を呼んでもらいたかった。
「ごめんな、しばらく連絡できなくて。ちょっと圏外の場所にいてさ──やっと電波が届く場所に行ったら、なるちゃんの着信があったことに気がついたんだ。なるちゃんから電話かけてくるのなんてはじめてだから、すぐにかけようと思ったんだけど、授業中は電話に出られないだろ? だからってバイトが終わるまで待つのももどかしいしね、こっちに帰ってきたんだよ。直接会って話をしよう。今日はもう遅いから、明日にでも」
 成海を心配して、わざわざ帰ってきてくれたのか。どこかも判らない場所から。どこかも判らない晃星の 「帰る場所」 へ。
 晃星は、今、どこにいるのだろう。
「あのさ、俺もなるちゃんに話さなきゃいけないことが──なるちゃん?」
 ずっと成海の返答がないことにも気づかず一方的に早口で喋っていた晃星は、ここでようやく異変に気がついたようだった。普段から敏い彼にしては、珍しいくらいだ。晃星は晃星で、何か考え事に気を取られていたらしい。
「なるちゃん、どうした?」
 問う声が強まった。
 何かを言わないと、もっと晃星を心配させてしまうと判っているのに、唇はぶるぶると震えるだけで、何も言葉を紡ぎだすことが出来ない。ダメだ、こんなの、早く何かを言わなくちゃ。
 なんでもないです、大丈夫ですって。
 そうしていつものように他愛ないお喋りをして、笑わなくちゃ。
「なるちゃん!」
 向こうから聞こえてくるのが、怒鳴り声に近くなる。声を出さないと。早く、早く。携帯を持つ手が震えている。足も、胴も。
 心臓も。気持ちも。何もかもがぐらぐらと揺れる。
 ぽろっと一粒、涙が零れた。
 その涙を契機に、何かがぽきんと折れた。
 崩れる。壊れる。成海という存在を形づくっていたいろんなものが、端からぼろぼろと瓦解していく。もう何も考えられない。

 成海はもう、「成海」 を保てない。

「なるちゃん! 成海! しっかりしろ! 今どこだ!」
 くずおれそうな身体をなんとか立たせているのは、ひとえに、携帯から飛び出してくる怒号のためだった。荒々しいその大声が、近いようにも、遠いようにも聞こえる。半分、意識を失いかけているのかもしれない。
「どこにいる?!」
「……い、え」
 脱脂綿でも詰め込んだように塞がっていた喉から、ようやく、その二文字が出た。家、と言おうとしているのか、いいえ、と言おうとしているのか、自分でも判断がつかない。
 なんて弱々しい声だろう。こんな声しか出せない自分が情けなくて、また涙が出た。
「家にいるのか?!」
「…………」
「返事しろ! 自分の家だな?!」
「……そう、です」
「三──二十分で行く! 絶対に動くな!」
 鋭く命じて、乱暴に通話が切られた。
 それと同時に力が抜けて、成海はその場にへたりと座り込んだ。


 実際、何分かかったのかは判らない。空白の時間を経て、階段を一気に駆けあがる足音が聞こえたと思ったら、鍵もかけていなかったドアをバタンと開けて、息を切らせた晃星が飛び込んできた。
 彼は、しゃがみ込んでいた成海を見ると、険しい顔になってすぐに近寄ってきた。こちらに腕が伸ばされる。
 思いきり、きつく抱きしめられた。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.