空中散歩

25.起爆



 抱きしめられたまま、しばらくぼんやりしていた。
 思考が上手に働かない。笙子がこの部屋を出たのがいつで、それからどれくらい時間が経過したのかもまるで判らない。晃星の電話を受けてから今こうして彼が現れるまで、ぽんと時間が飛んでいるような気がする。これまでの自分が何を考えて、何を思っていたのかすら思い出せない。
 とりあえず、自分が固い床の上に座っていることだけは認識したので、あれからずっと動きもせずにじっとしていたのだろう、という結論は導き出すことができた。
 押し付けられた晃星の胸からは、少しひんやりと外気の匂いがした。デニムジャケットのざらりとした感触が頬を撫でる。成海の身体に廻された二本の腕の力が、痛いほどに強かった。
 長いこと、晃星はそうやって成海を離さなかった。荒かった呼吸がようやく落ち着いてきても、成海の頭に自分の顔をぴったりとくっつけたまま身じろぎもしない。彼の呼気が静かになると、部屋の中のものまでがすべてひっそりと息を潜め、ただただその場を沈黙が支配して、時が止まってしまったかのようになった。
 再びそれが動き始めたのは、やっと晃星が身を離し、そろそろと成海の顔を覗き込んできた時だ。
 彼は真面目な瞳をじっと据えつけると、両手でゆっくりと成海の顔を挟んだ。親指が頬を滑るように撫でているのは、そこが涙で濡れているのを丁寧に拭い取っているらしかった。
「……なるちゃん?」
 抑えられた声で、問うように呼ばれる。それが自分の名前だと脳が理解するのに、少しだけ時間がかかった。
「──はい」
 呼ばれたから返事をしたのに、晃星の眉がぐっと中央に寄った。
 どうしてそんな顔をしているのだろう。今の成海はもう泣いてもいない。声が無様に揺れてもいない。晃星の顔だってちゃんと見られている。
 取り乱していない。さっきよりもずっと冷静になれている。こんなにも落ち着いている。
 大丈夫。
「なるちゃん、どこか怪我は? 痛いところはある?」
「……痛いところ?」
 質問の意図が掴めずに、ぼうっとした調子で反問した。落ち着いているはずなのに、思考がまだまったく機能しないのはどうしてなのだろう。晃星が視線を動かし、成海を上から下まで観察するように見ているのも判らない。頬にあった両手が、慎重に頭に触れたり耳の後ろをなぞったりする仕草は、医師が患者の悪いところを見つけるために丹念に確認するのに似ていた。
「別に、痛くなんて」
「ないんだね? どこも?」
「はい」
 少しだけ晃星の目に、ほっとしたような安堵の色が浮かんだ。指の先で成海の顔の線を辿り、おでこや頬にかかった髪の毛を梳いてくれる。さらりとした動きが心地よかった。
 もう一度成海の全身を一瞥してから、片膝を立て、改めて周囲に注意深く顔を巡らせる。
 それが、ぴたりとある一点で動きを止めた。はっきりと息を呑むのが伝わる。
 その方向に目をやって、彼が何に驚いたのか、成海も気がついた。
 ぶつりと切断された電話コードだ。ぶらんと所在無く垂れさがる灰色の線は、激しく日常から逸脱した不気味な眺めだった。すぐその下の床に転がる、場違いに黒光りする大きなハサミも。
 強張った表情が再びこちらを向く。
「……何があった?」
「…………」
 何が? と成海は胸の中で問いを繰り返した。なんだろう、質問をされても、それが心に届くまで、ひどく時間がかかる。頭に靄がかかっているみたいで、普通に判断力を働かせることが、やたらと困難だ。
 何があったんだっけ?
 バイトから帰ったら、笙子がアパートの前で待っていた。彼女を部屋の中に入れて、征司に電話をしようとして、そして、そして──
「……何も」
 そう答えた途端、いきなり手首を掴まれた。
「そんなわけないだろ。この期に及んで誤魔化す気?」
 眉が上がって、声に鋭利さが加わった。ぴたりと成海に照準を当てた眼に険が宿る。晃星がここまで露骨に怒気を表したところをはじめて見た。
 掴まれた手首が痛い。
「誰が来た? 何があった? 何を言われた? 何かされたのか?」
 質問攻めにあっても、成海は表情も変えずに、彼の動く口元を見ているだけだった。彼の怒りの波動が、薄い膜を通したようにしか伝わらない。怖いとも申し訳ないとも思わない。悲しみも反発心も湧いてこない。
 感情が、ぴくりとも波立たない。
 どうしたんだろう。
「この数日の間に、何があったんだ? もしかして、階段から落ちたのもただの事故じゃなかったのか? いつから? 俺の知らないところで何があったんだよ、なるちゃん──なあ、なる! 成海!」
 手首から離れた晃星の手が、成海の両肩に移動した。ぐっと掴まれ、ぐらぐらと揺さぶられる。
「しっかりしろ! 返事しろ! 成海、俺の声が聞こえてるか?!」
 切羽詰まったような口調は、どこか懇願めいたものが混じりはじめていた。
 それを耳に入れて、ようやく成海の心の一部が反応した。もどかしいほどにゆっくりとした速度で、目の前の晃星の真剣な顔つきに焦点が合いはじめていく。
 ああ、そうか、そうだ。
 今、自分がすべきことを思い出した。
 のろりと腕を上げた。今までずっと同じ姿勢でいたせいか、奇妙に重たく感じられるそれを動かし、首の後ろへと持っていく。
 指先が震えて、何度も失敗した。細い鎖は、すぐにするすると成海の手の中をすり抜けて逃げて行ってしまう。奥歯を喰いしばり、指に力を入れて、やっと留め具を外すことが出来た。
 動きを止めて成海の一挙手一投足を凝視するようにして見守っていた晃星は、それが自分のほうに差し出されたのを見て、目を見開いた。
 成海の両手の中に包まれた、ネックレス。
「……これ、返します」
 その言葉を喉から押し出すのに、さほど苦労は必要なかった。


 ──長い、無言の後で。
「……なんで」
 ようやく、晃星が口を開いた。押し殺すように出された低い声は、少し掠れてもいた。
 突き刺すような尖った視線はじっと成海の手の中にあるものに向けられているが、彼の手は肩から動かない。受け取る手の平がないために、成海の腕は不安定にゆらゆらと宙に浮いたままだ。
「なんで、今になって」
 その言葉は成海に向けられているのかどうかも判らない。質問であるようにも、独り言のような呟きであるようにも聞こえた。
 成海は静かに首を横に振った。
「もう、必要ありません」
「……これが? 俺が?」
 今度ははっきりと問いかけになっていたが、成海はそれに答えられない。よく判らない。どちらでもないような、どちらでもあるような。
 どちらでもいい、ような。
 もう必要ない、と思うのはなんだろう。
 お守りという存在か。
 自分の支えになる何かか。
 この胸の中にしつこく居座る感情か。
「言いなよ。何が必要ない?」
 ネックレスに固定されていた視線が上を向いた。琥珀色をした瞳が、まっすぐに成海を睨みつける。逸らすことも、逃げることも許さない強い力を伴っていた。
 行き場を見つけられない腕がぶるぶると震えている。今にも視線に押し戻されそうなのを堪え、その場所で踏ん張っているのが精一杯だった。
 早く──早く終わらせてしまいたい。
「……八神さん、が」
 晃星の目がさらに険しくなった。両肩を掴む手に、ぐっと力が入る。強引に引き上げられ、背中が伸びる。すぐ間近まで顔が寄せられた。
「なんだって? 聞こえない」
「……や、が」
「もっと大きな声でちゃんと言え」
「…………」
 晃星が誰かを追及する時、そのやり方に容赦がないのは知っている。しかしそれをただ見ているだけなのと、自分に向けられるのは、まったく別だ。
 彼の全身から迸るエネルギーと、吐息までがはっきりと感じ取れるくらいの近い距離が、茫漠としていた成海の意識を覚醒に導いていく。冷たく固くなっていた心が、次第に熱を帯び始めた。
「成海」
 厳しい声音で名を呼ばれて、びくりとした。
 胸がざわつく。下のほうからどんどん湧き上がる何かがある。こぽりこぽりと音を立てて、感情という名のあぶくが生まれていく。
 唇がわなないた。
「こっちを見て」
 晃星の真剣な目は一瞬も逸らされることがない。彼はいつだってそうだ。動じることがない。成海のようには揺らがない。しっかりと立って、なんでもないように闇から成海を引っ張り出してしまう。
 暗がりの中で、足元を照らす明るい光のような晃星。
 ……だからこそ、その姿を追い求めずにはいられなかった。
「俺を見て」
 あらゆる想いが入り混じる。不安も、恐れも、寂しさも、悲しさも、つらさも、怒りも、悔しさも、諦めも。それらが奔流になって一気に押し寄せてきて、その場に立っていられない。
 耐え難いほどに、熱くて大きく膨れ上がった塊が、喉元までせり上がった。
 晃星の手が肩から外れて、頬に触れた。目から、声から、顔つきから、怒りが消えた。真摯な視線だけが据えられる。
「俺の名前を呼んで、なるちゃん」
 渦巻くような混沌が、その言葉を聞いた瞬間、勢いよくはじけ飛んだ。


「──いや!」
 大きな声で叫んで、晃星の身体を突き飛ばす。
 堰が切れたように、目から涙がどっと溢れ出た。
「いや! いや! いや──もう、いや!」
 泣き叫び、子供のように首を振り、手の平ですぐ目の前にある晃星の胸板を押すように叩き続けた。それよりも強い力で引き寄せられ、しっかりと抱きしめられたが、成海は叫ぶのも泣くのも暴れるのも止めなかった。
「いや! もう待つのはいや! 誰も帰ってこないのに! みんな私を置いていって帰ってこないのに! 一人で待ち続けるのはもういや! もう無理なの、出来ないの! 置いていくのならはじめから放っておいて! 関わらないで、優しくしないで、好きにさせないで! 同情は要らない! もう要らない、なにも要らない、なんにも必要ない!」
「なる──」
「どうすればよかったの?! 何をしていればみんなはここにいてくれたの?! わからない、わからないの! 引き止めていればよかったの?! 声をかけていればよかったの?! なんでもするから、お願いだから、行かないでって言えばよかったの?! 私がどうしていればみんなを失わずに済んだの?! これ以上失うのはもういや!」
 渾身の力を込めて晃星の身体を引き剥がそうとした。あちらも成海の身体を抱く力を強めた。
 逃げようとする成海と、それを押さえ込む晃星。力と力のせめぎ合いになれば、彼我の力関係は比べるまでもなく晃星のほうが上だ。暴れて暴れて、拘束を解こうとした成海の動きは、ことごとく晃星の腕によって封じられた。
 自分の持っている限りの力を使って抗ったが、それを抑えようとする力にも一切の加減がなかった。口を引き結んだ晃星は、何も言わず、泣き叫んで激しくもがく成海の身体を、ただひたすら強く抱きしめ続けていた。
 最初から、最後まで、ずっと。
 結局、逃げることは叶わないまま、成海がすべてを使い果たしてしまうまで。
「……っ」
 息を切らせて叫ぶのをやめ、動きも止めた。
 荒い呼吸を繰り返し、人形のようにくたりと全身から力を抜く。
 もう、押し返す体力さえ残ってない。晃星に抱きしめられたまま、後頭部に添えられた大きな手の動きに任せて、すぐ前にある広い肩に自分のそれをことんと預けた。
 か細い嗚咽が漏れるのと同時に、ぽんぽんと背中を優しく叩かれる。ポロポロと目から零れ落ちる涙が、晃星の上着を濡らしていった。
 部屋の中に、再び沈黙が満ちる。床に座り込んで身を寄せ合う二人の、お互いの息遣いだけがよく聞こえた。
「……もう、誠は待てない?」
 さっきまでとは全然違う、穏やかな口調で静かに問われた。
「…………」
 唇を噛みしめ、黙り込む。涙だけを流しながら、すぐそばに見える晃星の喉が、言葉を出すたび上下するのを見ていた。こんなにも誰かの体温を直に感じたのは、幼児期以来のことではなかっただろうか。
「……誠ちゃん、きっともう、帰ってきません」
 しばらくして自分の口から出た声は、冷蔵庫の作動音にさえかき消されそうになるほどの小さなものだったが、晃星はちゃんと聞きとったらしい。あやすようにずっと背中を叩き続けていた手が止まった。
「どうして、そう思うの?」
「みんな、そう思ってます」
 判っていたのだ、そんなことは。誠の知人友人に連絡を取って話をするそのたびごとに、相手の声や言葉の端々に感じられた。
 今になるまで帰ってこないということは、誠はもうこの先も帰ってこないのだろうと──この世にはもういないのだろうと。
 成海に向けられる憐憫と同情は、大半がそういう理由によるものだなんてこと、とっくに知っていた。
 たった一人の家族を失ってしまった妹。兄の死を受け入れられず、いつまでも諦め悪く粘る女の子。可哀想だね、という目で見られていたことくらい。
 だって、その通りなんだから。成海はずっと、それを認められなくて、考えたくもなくて、一人でジタバタと悪あがきをしていたに過ぎない。
 いちばん見たくない事実から目を背け続け、ただ必死に一筋の希望に縋りついていただけ。
 誠はいつか帰ってくると。
 いいや、たとえ帰ってこなくても、どこかで元気に暮らしていると。
 それだけが、支えだった。
「……誰かとどこかで幸せに暮らしているのなら、それでもいいって思ったんです」
 誠がもうこの世界にいないと思うよりは、そう思っていた方が格段に気持ちが楽だった。たとえ成海のことが重荷で、そこから逃げたのだとしても、どこか別の場所で幸せにしていてくれればそれでいいと思った。だからあんなにも一生懸命あちこちに電話して誠の過去のことを聞いて廻った。すべて、自分のためだった。
「でも──」
 晃星の肩に頭を置いて、目を閉じた。涙の粒がほろほろと頬を伝って滴り落ちる。
「笙子さんが」
「……笙子さん?」
 不審げに問い返されたが、成海は気にせずに続けた。
 彼に説明するという意識もなく、ただただ、胸の中のものを吐き出すように、ぽつぽつとあったことと言われたことを口にしていく。晃星はその間ずっと無言だった。
「私、そんなことまで考えてなくて、考えてなかった自分にびっくりして」
 笙子が成海を責める言葉はすべて、想像上の 「誠の大事な誰か」 からのものと重なって聞こえた。成海のせいで不幸になったかもしれない、誰か。そんなことを一切頭に浮かべもせずに、どこかで誰かと幸せになっていればいいなんて──なんという傲慢な考えだっただろう。それを知ってしまったら、もうそんな願いを持つことすら成海には許されない。
 足許にぽっかりと穴が開いて、深い底に沈んでいくような気分だった。
 もう、待つことも出来ない。違う希望を持つことも出来ない。感情をどこに向ければいいのか判らない。立ち位置が見つからない。身の置き所がどこにもない。自分の存在をこんなにも疎ましく思ったことはなかった。
 私はどうして、ここにいるんだろう?
 いなくなってしまえばいいのに、と笙子は言った。本当だ。私なんて、いくなってしまえばいい。
 いなければよかったのに。
「他の誰かのことはいいんだ。なるちゃんは、どう思ってるの?」
 晃星の手が成海の腕をそっと掴んだ。肩から離し、身体をまっすぐにして、正面から覗き込む。見返す成海の瞳から、また涙が落ちた。
「……私」
「誰がどう思うかなんてどうでもいいよ。なるちゃんは、誠のことをもう待てない? あいつのことは諦める?」
 慎重なその声には、わずかに緊張を孕んでいる。成海は目を伏せた。
「なるちゃん、俺は君に、言ってないことがたくさんあるけど」
 そう言って、膝の上に放り出されていた手を取り、ぎゅっと握った。
「でも、これだけは信じて。嘘は言わない。君には何ひとつ嘘はつかない。それだけは約束する」
 真面目な声で、そう言った。
「以前に言ったろ。誠はね、絶対に君のことを置いて行ったりしない。あいつはいつも、どんな時だって、君のことを第一に考えてた。それだけは間違いないんだ」
「…………」
 黙って涙を零す成海をまた抱き寄せて、晃星が耳元で囁くように言った。
「頼むから、あいつのことを信じて待っててやって。誰が何を言おうと、君だけは待っていて。つらかったり、不安になったりしたら、一人で抱え込まなくてもいいから。いつだってこうして俺が駆けつけるから。泣きたい時はそばにいるから」
 それから、握っていた成海の手の平を開き、その上に何かを乗せた。さらりとした鎖の感触がくすぐる。
 成海の手の上で、小さな石が眩い光を放っている。
 星の欠片だ。
「……晃」
 顔を上げると同時に、素早くキスされた。
「あのね、なるちゃんは何か勘違いしてるみたいだけど」
 びっくりして固まる成海に、晃星がニコッと笑う。
「同情のわけないじゃん」
 そう言って、改めて顔を寄せた。いつの間にか頭の後ろを大きな手でしっかりと固定されていて、逃げられなかった。
 唇が重なった。


「なるちゃん」
 泣くのも忘れて茫然としている成海と目を合わせ、晃星が微笑んだ。
「なるちゃんはね、たくさんの人に愛されてるよ。君に笑っていて欲しいと思う人はいっぱいいる。空の上のお父さんとお母さんだけじゃない、この地上でも。けど、それは君が 『可哀想』 だから、なんて理由じゃない。絶対に違う。君が、人に愛される資質を持った子だからだ」
 軽く音をさせて鼻の頭にキスをした。
「俺はもともと、人に同情なんてするほど甘いやつじゃない。俺が君にこれを身につけて欲しいと願ったのも、君の声を聞きたいと思ったのも、夜空を見て君の顔を思い出してたのも、もちろん、可哀想だからなんて理由じゃない。切り捨てられそうになったことに自分でも驚くくらい傷ついて、ものすごく意地悪してやりたくなったりするこの気持ちを、同情なんて言葉で片付けて欲しくない」
 言いながら、成海の手の中にあるものを取り、鎖を首に廻した。
 外すのにあれだけ手こずった小さな留め具は、晃星の手にかかると、あっという間にまた繋がった。
「──みんながみんな、幸せになろうなんてのは、そりゃ無理な話だ。愛と平和だけで世界は成り立ってるわけじゃないからね。すべてのものを守れるわけでもなきゃ、すべてが丸く収められるわけでもない。誤解もすれ違いもあれば、嫉妬や憎悪だって生まれることがある。けどさ、それはしょうがないことなんだよ。どうしようもない。なるちゃん一人がひっかぶろうなんて、前提がそもそも間違ってる。赤ん坊や子供でもない限り、自分のことは自分で責任を取るもんさ。それが上手に出来なくて、他人に当たるような人間はね、それだけ弱いってことだ。笙子さんて人は、君を責める前に、理不尽な怒りを向ける前に、もっと何かするべきことがあるはずだった」
「…………」
 成海は視線を下ろして、首にかかるネックレスにそっと指で触れた。
「他人の不幸まで背負い込んじゃダメだよ、なるちゃん。それが君の弱さだね。あんまり一人で抱え込まないで、って以前も言ったと思うけど、結局抱えきれずにすべてを放り出すようなことをするのはもっとダメだ」
 しばらく、そのままの格好でじっと黙って、晃星の言葉のひとつひとつが胸の中に入ってくるのを受け止めていた。
 沈黙の時を置いて、ぽつりと言った。
「……どうしたらいいか、判らないんです」
 考えることがありすぎて、どれを心の真ん中に持ってこればいいのか判らない。誠のこと、晃星のこと、笙子のこと、征司のこと、自分のこと。一人で抱え込みすぎてはいけないと晃星は言うけれど、じゃあ、どれを手放して、どれを取り込めばいいのか。その基準が判らない。
「ひとつひとつ、考えていけばいいんだよ、そういう時はね」
 そう言われ、顔を上げる。
「全部を同時に考えるから混乱する。とりあえず、今、目の前にあることをひとつだけ考えりゃいい。それ以外のものは、全部まとめてどこかの棚に上げておくんだよ」
「……なんだか、ものすごく楽天的な意見に聞こえます」
 成海が言うと、晃星が声を立てて笑った。
「それくらいがちょうどいいんだって。けどさ、なるちゃんはいちばん厄介なものを、ひとつクリアしたじゃん。だからこれからは、ゆっくりやっていけばいい。でしょ?」
「いちばん厄介なもの?」
 首を傾げて問い返したら、晃星は目を細めた。
「泣いて、叫んで、自分の中にあるものを洗いざらい吐き出したろ。いっぺん壊れたんだから、あとはもう、立て直していくだけじゃない?」
 今さらながら、自分の醜態を思い出して赤面する。まるで手のつけられない大暴れする駄々っ子のような姿だっただろう。
「ひとつ片づけたから、今はね」
 晃星の両腕が伸びて、ふわりと成海を包んだ。
 そのまま抱き寄せられる。
「今は、ちょっと休もう。いろんなことを考えるのは後回し。ぐっすり眠って、たくさん食べて、笑えるようになってから、また新しい問題に取り組もう。な?」
「…………」
 温かい胸に頬が当たる。髪をさらさらとなぶる指の優しさと、背中をしっかりと抱きすくめる腕の力強さを感じる。やわらかい声が耳の中へとすんなり入る。じんわりとした熱が伝わる。
 絶対的な安心感と疲労がどっと押し寄せて、成海はゆっくりと目を閉じた。
 いろんなことを考えるのは後回し。
 少しだけ、今は休もう──


 とろりと意識が埋没していく手前で、「……never careful enough in the final stage……」 と呟く声を聞いた気がした。
 薄っすらと目を開けたら、成海を腕に抱いた晃星が、虚空に視線を据えつけて、ひどく怖い顔をしていた。
 そこからすぐに眠りに引きずり込まれてしまったので、それが夢なのか現実なのかもよく覚えていない。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.