空中散歩

26.再出発点



 目を開けると、見慣れた自室の天井が見えた。
「…………」
 それを見ながら、しばらくぼうっとした。
 成海の場合、朝はいつも、目覚ましの音で目を覚ますと、今日は何曜日だっけ、という思考が真っ先に頭に浮かぶ。
 それまで見ていた夢がまだ残っていて、お母さんの作った今日の朝ご飯は何かな、と考えたり、早く起きて誠ちゃんのお弁当を作らないと、と考えたりすることもあるが、大体はゆるゆる覚醒していくと共に、現実世界のことを思い出していくのが普通だ。
 父と母はもういないということ、誠もいないということ。
 成海は今一人で、今日は何曜日で学校の予定はこれとこれで、バイトがあって……
 それが今朝に限っては、まったく何も思い出せない。自分がいつベッドに入って、どんな風に眠ったのかということも浮かばない。最初のうちは、えーと……とひたすらボンヤリ記憶を辿っていたのだが、あまりにも何も思い出せないことにさすがに焦れてきて、布団の中から腕を出し、手を額に置いた。
 あれ?
 目に入った腕は、いつも成海が寝る時に身につけている、ゆったりとしたTシャツの長袖ではなかった。白いブラウスの袖──これ、制服じゃない?
 ますます混乱してきて、むっくりと身を起こす。自分が寝ているのは、間違いなく自分のベッドだった。しかし着ているのは制服だ。ブラウスとスカートのまま、布団の中で眠っていた事実についていけなくて困惑する。どうして私、こんな格好で寝てるんだろ?
 室内はまだ暗かった。成海は普段六時半に起きることにしているが、その時刻ならここまで暗くはない。冬に入りはじめたとはいえ、カーテンの隙間からは、薄い灰色の空が見えるくらいだ。しかし今はそれよりもまだ暗い。真夜中というほどの闇ではないが、それでも外はしんとした静寂に包まれ、朝を告げる鳥の囀りも聞こえない。
 ベッドについている小さなライトを点け、枕元の時計を手に取り確認すると、デジタルの表示は午前五時を少し廻ったところだった。なるほど、この時間なら、まだアパートの住人はみんな寝静まっているわけである。彼らが起きだして、洗濯機を回す音や食事の支度をするカチャカチャとした音が聞こえてくるのは、あと一時間ほど先だ。
 えーと、昨日……と未だはっきりとしない頭を支えつつ、ほのかな明かりを頼りにベッドから出ようと足を床に着けた瞬間、びくっと硬直した。

 誰かいる。

 咄嗟に、誠ちゃん? と声が出そうになってしまったのは、その人物が、成海の部屋の隅っこで壁にもたれて座り込み、明らかに寝息を立てていたからだ。学生の頃から、酔っ払って帰ってきた兄が、リビングや玄関で眠り込んでしまうことはたまにあった。その姿が目の前の誰かとダブって心臓が飛び出そうになる。
 が、すぐに気がついた。
「こ……晃星くん?」
 この状況で音量を抑えた自分を褒めてあげたい。鼓動は大きな音を立てて跳ね回っているが、口から出たのは囁くような声だったので、晃星を起こさずに済んだようだ。そうっと足音を立てずに移動して覗き込んでみると、目を閉じた彼の唇からは、すうすうと穏やかな寝息が洩れている。
 ええーと……
 どうして自分は制服のままベッドに入って寝ていて、どうして晃星が自分の部屋の床に座って寝ているのか。
 膝を折り曲げて、お尻だけを宙に浮かせた不安定な姿勢で、ううーんと眉を寄せる。さっきよりも必死なのは、この場合、当然というものだろう。
 記憶はあっけないほど一瞬で、そしていっぺんに戻ってきた。というより、むしろ、どうして今まで思い出せなかったんだと呆れそうになるほど鮮明に思い出した。バイトから帰ってきて、笙子と顔を合わせた時からのことが、怒涛のように脳裏に甦る。
 ──晃星に抱きしめられて、そのまま寝ちゃったのか、と赤くなる。
 なんだか温かくて気持ちよくて安心して、あっという間に眠りに引き込まれたところまでは薄っすらと覚えているのだが、それ以降はまったく記憶がない。多分、晃星がベッドまで運んでくれたのだろう。
 どうやって運ばれたんだろう、ということは考えないことにした。恥ずかしくて死にそうだ。
 いや恥ずかしく思うことはもっと他にもあるのだが。なにしろさんざん泣いて叫んで暴れたわけなのだし。うう……地面に穴があったら入りたい。なくても掘って潜りたい。
 自分でも少し不思議に思えるくらい、現在の成海は落ち着いた精神状態にあった。昨日の自分を思い返して赤くなってしまうというのは、多分それだけ客観的に見ることが出来ているということだ。あの時支配していた暗い感情は根こそぎどこかに抜け落ちて、代わりに、静かで透明な何かがそこにしっかりと居場所を確保している、そんな感じがするほどに。
 どうしてだろう。やっぱり、胸の中に溜め込んだあれこれを、すべて外に出してしまったからだろうか。
「…………」
 膝の上に置いた腕に頭を乗せ、首を傾けて、眠っている晃星の顔をじっと眺めた。
 こんな場所、こんな姿勢で寝ているにも関わらず、晃星は苦しそうに身動きすることもなく、ちっとも目を覚ます気配もない。身体には誠の部屋から拝借してきたと思われる毛布しかかかっていないが、寒くはないのだろうか。とても枕代わりにはならないような固い壁に寄りかかり、少し斜めになった顔にはわずかな照明の光が当たっている。

 ……可愛い、とほんのり微笑が零れた。

 こうしてみると、晃星はけっこう睫毛が長かった。暗闇の中でも明るい栗色の髪がさらりと額にかかっている。肌も綺麗だ。少し繊細な、でも間違いなく男の人の骨格。垂れ気味な瞳が閉じられていると、彼独特の親しみやすさが消えて、なんだか別人の顔のようだった。寝息を零す薄く開いた唇に邪気がない。笑顔がないとちょっととっつきにくいような印象を与えるのに、寝顔になるとかえって幼く見える。なんでかな?
 少し考えて、すぐに判った。
 ああそうか、きっとそれだけ、無防備だからだ。起きている時の晃星は、いいや晃星だけでなく人は誰でも、多かれ少なかれ自分の周囲に膜や壁を作って他人と接するもの。眠っている時ばかりはそれがなくなって、子供のように素のままの顔を曝け出してしまうのだ。
 すると、それをこんな風にまじまじと観察していてはいけないのでは、とはたと思い当たった。まるで盗み見しているみたいではないか。以前、電車で眠り込んだ晃星に肩を貸した時も、視線は窓に向けて、寝ている顔まではぜんぜん見なかった。成海だって自分の寝顔を誰かにじろじろと見られたら困る。自分の眠っている顔はこんなに整ってもなければ可愛くもないに決まっているから、なお困る。神様、昨夜、寝ている顔を晃星にあまり見られていませんように。
 そこまでの結論に至って、そろりと立ち上がろうとした時。

「……で、俺、いつまでこうして寝てるフリしてればいいの?」
「きゃっ!」

 いきなり眠っているはずの目の前の人が口を開いて、成海は驚いて尻餅をついてしまった。
 ぱちっと目を開けて、晃星がこちらを見た。
 ええー!
「おっ、起きてたんですか……?!」
 いつから?!
「いや目が覚めたのはわりとさっきなんだけど。なんかすぐ近くでなるちゃんがじーっとこっちを見てる気配がしたから、ここは寝たフリをしておくのがセオリーだよなと思って」
「なんのセオリーですか! び、びっくりした……!」
 成海は床にへたり込んだまま、胸に手を当てた。まだ心臓が早鐘を打っている。しかも顔も赤くなっている。暗くて本当によかった。
「だって普通、こういう場合はさ」
 晃星の声はいかにも不満そうだ。起き抜けにしては、顔にも声にもまるで寝惚けたところがない。目が覚めたのは、本当に 「わりとさっき」 なのか。怪しい。
「こっそり頬にキスしてくれるとか、そういう展開があるもんじゃない? 俺、けっこう緊張しながら期待して待ってたのに、なるちゃん何もしてくれないんだもんなー」
「しません!」
 実はちょっと頬に触れてみたくて手がムズムズしたことはもちろん黙っておく。
 赤い顔のまま、今度こそ勢いよく立ち上がろうとした──途端、腕を掴まれた。
 ぐいと引っ張られ、まだ右足に重心を乗せることを無意識に避けてしまう癖のついた成海は容易くバランスを崩してしまう。わ、わ、とつんのめって倒れかかったところを、晃星が素早くキャッチして、成海の身体は彼の腕の中に閉じ込められた。
 ええーー!
 体勢としては、胡坐をかいて座る父親の膝の間にすっぽり収まってあやされる幼い子供、というようなものだが、心情的にはまったくそれどころではない。顔から火の噴く思いですぐにジタバタともがいて脱出を試みたが、晃星の腕に押さえ込まれて不可能だった。
「ちょっ、待っ、えええ?!」
 その上晃星の顔がかぶさるように近づいてきて、成海は完全にパニックである。
 いや、確か昨日も、これくらい彼の顔が近寄ってきた覚えはある。というより、さらにもっと近くに来たような気もする。でもあの時の成海は、とてもではないがマトモとは言い難く、あのこともなんとなく夢の中の出来事のようにしか考えていなかったのだ。
 だってなにしろ突然だったし。前置きも何もなかったし。自分の気持ちだってまだ全然整理がついてもいないのに、そうそうすんなりアレを現実として受け入れられるわけがないではないか。
「ちょっと、ちょっと待って、落ち着きましょう、晃星くん」
「俺はさっきから落ち着いてるけど」
 頭に血を昇らせる成海とは対照的に、晃星は冷静そのものの顔と態度で言った。寄せた顔を掌で押し戻されて、心外、という表情をしている。
「なんでそんなに慌ててるのかわかんない。今さら」
「え、い、今さら?」
 成海はどうして晃星がそこまで当然のように顔を近づけてくるのか、そっちのほうが判らない。
「だって昨日もキスしたでしょ」
「そ、そうでしたっけ」
 と、つい言ってしまったのは失敗だったらしい。晃星がすうっと怖い笑顔を浮かべた。暗いのにそれがはっきり判るのは、それだけその顔が至近距離にあるからだ。
「……まさか、覚えてないとか?」
「い、いえその、そんなことはないです。ないんですけど、まだよく把握できていません」
「なんで? 俺、かなりはっきり意思表示したよね? なるちゃんも、嫌がらなかったし、拒否しなかったし、怒りもしなかったよね?」
 突然のことに驚いて、それどころではなかったからです。
「俺はあの時点で、双方の気持ちの疎通は成立したと思ってた」
 今現在、食い違いが生じているような気がしてなりません。
「あ、あの、ちょっと、確認したいんですけど」
「うん、なに?」
「あれはその、海外での挨拶の一環としての……では、ないですよねそうですよね」
 晃星の笑みがさらに怖くなったので、大急ぎで文末を変更して目を逸らす。腕の力が強まって、ますます逃げられない。
「そんなわけないよね? なに、なるちゃんは、俺が誰に対してもああいうことをすると思ってんの?」
「……いえ、その」
 だって、洋画ではよくそういうシーンを見るし。海外ではキスもハグも日常のものだとも聞くし。日本の街中でもなんら違和感なく存在することが出来る晃星だが、スキンシップに躊躇がなかったり、褒め言葉を惜しまなかったりと、言動のほとんどは外国男性のそれである。自分とは認識の違いがあってもおかしくはない。
 などということを思ってもごもごと言葉を濁した成海に、晃星ははあーっと深く溜め息をついた。
「──俺、もしかして段階をすっ飛ばした? ここからはじめるべきだったか」
 呟くようにそう言って、成海の顔に手を添えてくるっと自分のほうを向かせた。
「なるちゃん」
「は、はい」
 暗がりの中、ぐっと寄ってきた真面目な顔に、大いにうろたえる。近い、近いです。

「俺のこと、好き?」

 えええーーー!!
「い、いきなりすぎ……」
「こんなに密着した体勢で、いきなりもへったくれもないでしょ」
「それは晃星くんが離してくれないから……」
「距離を取ると、なるちゃんはロクなことを考えない。ていうか、余計なことを考えすぎて自爆する。でしょ?」
「う……」
 反論できない。言葉に詰まる。
「俺も今まで、踏み込むのを迷ってたのは認める。いろいろと考えてもいたしね。けど、君はちょっと目を離すと大変なことになる、ってイヤってほど身に沁みた。俺はもう、昨日みたいに肝が冷えるようなことは御免だよ」
 こちらに向けられる晃星の目に、真剣なものが混じった。
「言ったよね。目の前にあることを、ひとつだけ、考えるようにすればいいって。他のことは全部棚の上に置いて、今はこれだけを考えて素直に答えて。……俺のこと、好き?」
「…………」
 成海も口を噤んで、彼の顔を見返した。

 ──晃星のことが好き?

 それはずっと、今まで成海が正面から見ないようにしていた問いだ。
 頭の中にあるのは判っていたけれど無視をした。自覚して、名前がついてしまえば、失った時が苦しい。だから蓋をして、押し込めた。
 見ない、聞かない、知らない、判らない。ずっとずっと、そうやって自分を誤魔化し続けていた。
 でも、晃星は今、こうして成海に対して、まっすぐに問いかけてきている。だったら成海はもう、逃げてはいけないのだ。性根を据えて、この質問に向き合い、答えを出さなくてはいけない。他のことは棚に置いてでも。
 ……今になって、考えてみれば。
 見ないフリをし続けていたって、成海はちっとも楽になんてなれなかった。
 いつだって苦しかったし、胸が痛かった。どんどん自分自身を追い詰めて、つらくて苦しくて、救いを求めながら、でも必要ないと思う。その欺瞞と矛盾に、心が引き裂かれそうだった。
 本当は、ちゃんと判っていたのに。自分の中にあるものの存在も、それが何であるのかも。それが自分にとって、とても大事なものであるということも。
 だから、もう自分を保てない、と思った時、真っ先に切り捨てようとしたのではないか。
 いつか必ず失われると判っているものを、手の中に入れるのはつらい。けれど、もうすでに手の中にあるものを、失うのが怖いからと捨てようとすることだってつらい。どちらだって同じこと。
 ──同じなら、せめて、愚かではないほうを選びたい。

「はい、好きです」

 晃星の目を見てそう言うと、にこ、と優しく微笑まれた。
「よくできました」
 再び顔が近づいてくる。ええっ、と驚いて、急いでまた掌で押さえて止めたら、晃星が今度こそ笑いを引っ込めた仏頂面になった。
「……なんでこの流れで止められるのか、意味がわかんない」
「そ、それとこれとは別っていうか」
「何が別? なるちゃん、俺のこと好きなんでしょ? だったら問題ないよね? ていうか、俺、これまでだって、相当お行儀よくしてたと思うんだけど。なるちゃんをベッドに寝かせる時も、上着を脱がせるだけで我慢したし、あんまり何もしてない」
 「あんまり何もしてない」 ってなに?!
「あの、私、自分の気持ちをちゃんと素直に認めました」
 赤くなって両手の指を組み合わせ、もじもじと言う。しかしいい加減、この場所から解放してくれないだろうか。
「うん、偉かったね」
「やっと、スタート地点に立ったところなんです」
「じゃあこれからいろいろ俺が教えてあげる」
「心の準備期間が欲しいんですけど」
「わかった、待つよ。一分? 二分?」
 ちょっと泣きそうになった。
「せめて日とか週単位にしてください……」
「それは無理」
 速攻で却下された。有無を言わさず、唇を塞がれる。
 柔らかい感触は、強く押しつけられた後、わりとすぐに離れた。目を瞑り、身を固くしてただじっと受けていた成海はほっとしたが、おそるおそる目を開けると、間近にある晃星の顔がにやっと笑った。
「そうだよね。俺が悪かった。最初から、『挨拶の一環』 なんて誤解されないキスにしておくべきだったんだよね」
「えっ、ちょっ……」
 待って、と言おうとしたが、最後まで言わせてもらえなかった。


          ***


 外がだんだんと白みはじめてきた頃、食卓を挟んで向かい合って座り、二人でコーヒーを飲んだ。
 窓の向こうからは、車やバイクのエンジン音、どこかの窓が開く音などが聞こえだして、世界全体がようやく朝を迎えたのだなという気がしてくる。家族以外の男の人と同じ部屋で一晩を過ごし、こうして夜明けのコーヒーを一緒に飲むなんて、なんだか言葉にするとすごいことになっているな、と成海はぽーっとしながら思う。
「心ここにあらずって感じだね、なるちゃん」
 カップを口に当てた晃星に、湯気越しにそう言われて赤くなった。誰のせいだと思っているのだ。
「免許取り立てで近所の道路にソロソロと出ようとしたら、いきなり時速百キロの高速道路に連れて行かれた気分です」
「よくわかるような、わかんないような例えだ」
 晃星が噴き出した。
「そんなこと言われると、次はサーキットに連れて行って二十四時間耐久レースに挑戦させてみたくな……いや、冗談、冗談だから」
 ガタガタと椅子ごと後ずさる成海に慌てて手を振る。
「怖がられても困るしね、しばらくは紳士でいるよ。キス以上のことはしない」
 そう言いながらコーヒーを飲み、ぼそりと 「多分」 と付け加えたのは、聞かなかったことにした。
 彼のすぐそばのテーブルの上には、成海が放り出したと思われる携帯が置いてある。それを見て、昨夜、晃星から電話がなかったら、今の自分はこうしてのんびりとコーヒーなんて飲んでいられなかったのだろうなあ……としみじみ思った。
 晃星が来てくれなければ、成海はあのまま立ち上がることが出来なかっただろう。
 そういえば、前にも思ったことがあったっけ。傷ついたり、落ち込んだりするのは一人でも、それを癒すことが出来るのは、自分以外の誰かの何かだ、ということを。
 晃星のおかげで、成海はもう一度立てた。
 でも、立った後でどうするかを考えるのは、やっぱり自分だ。立って歩き出す決心をするのも自分。
 だったら成海はちゃんと、前を向いて足を踏み出したいと思う。一人で膝を抱えて怯えるより、そちらのほうが難しいことだとしても。
 ──晃星は、成海にそれが出来ると信じて、手を差し伸べてくれたのだろうから。
 そこまで考えたところで、あ、と思い出した。
「そういえば、晃星くん」
「ん?」
「私に、話があるって言ってませんでしたか」
 晃星が電話をかけてきた時、確かそんなことを言っていた記憶がある。あんな状態でも、携帯から聞こえてくる声は、ちゃんと耳に入っていたらしい。
「あー…、うーん、そうだなあ」
 少し困ったような表情になって手にしていたカップを置き、晃星が唸るような声を発した。
 指の先で唇の横をこりこりと掻き、目線を宙に彷徨わせる。
 少し黙ってから、ぽつりと言った。
「──ちょっと、状況が激変してさ」
「激変、ですか」
 誰のどんな状況が変わったのだろう。
「百八十度くらい、変わった。正直、予想もしてないことだったんで、俺もかなり戸惑っちゃって。どうしようかなと悩んで、これは、なるちゃんに……君に、ちゃんと話しておくべきかなと思ったんだ」
「……? はい」
 まったく話の筋が掴めないながら、大人しく続きを待つ態勢になったが、晃星はしばらくそのまま動きを止めてしまう。考えるような視線はどこかここではないところへと向けられており、口元はぐっと結ばれていた。
「あのさ、なるちゃん」
 ややあって、晃星が再びこちらを向いた。
 朝陽を浴びて、いつもの琥珀よりも淡い黄金色をしているようにも見える瞳は、どこか思い詰めるような光を帯びている。
「もうちょっと、待ってもらえる?」
「待つ……?」
 首を傾げる。
「本当は、君に説明すべきだってことは判ってるんだ。結果がどうあれ──誰よりも君がいちばん真っ先に知っておくことだと思う。でも、もう少しだけ、待ってもらえないかな。出来れば……どこまでいくかは判らないけど、出来ればもうちょっと良い方向に向かうようにしたいんだ」
「…………」
 率直に言って、晃星が何を言っているのか、さっぱり判らなかった。しかし、これまで聞いたことがないくらいの固い口調で話す彼が、真面目に対等の相手として扱ってくれているのはよく判ったので、成海も背中をまっすぐに伸ばした。
「いつかは、話してくれるんでしょうか」
「うん。必ず」
「はい。それじゃ、その時を待ってます」
 こくんと頷くと、晃星がじっと見つめてきた。
「……待てる?」
「はい」
「誠のことも?」
「はい」
 もう待てない、と言った。待つのはいやだと叫んで泣いた。晃星に窺うように顔を覗き込まれ、恥ずかしくなった成海は少し視線を下に向ける。
 そのまま、どう言おうかと考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……あの、私、まだいろいろと判らないことばかりなんですけど」
 まだ、何ひとつとして問題は解決していなくて、成海の目の前に続く道は、どこへ向かって伸びているのかもまったく判らない。不安も、恐れも、迷いも、悩みも、どれをとってもなくなったりはしていない。
 何を信じて、何を信じないかということだって、やっぱりまったく判ってはいない。
 けれど。
「──とりあえず、自分を信じるところからはじめてみようと、思うんです」
 今度こそ、投げ出すことのないように。
 成海がそう言うと、晃星が眩しそうに目を細めて、うん、と小さく呟いた。



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