空中散歩

3.帰り道



 しばらく、パフェの山を崩すのに熱中した。
 三分の二以上食べたところで、ようやく今の自分が、スイーツを楽しむためにここに来たのではない、ということを思い出した。食い意地の張った胃袋にちょっと恥じ入り、スプーンを動かす手を止めて、顔を上げる。
 向かいの席の晃星は、ひたすらもぐもぐと食べてばかりの成海を呆れるでもなく笑うでもなく、コーヒーカップを手にしたまま、じっと窓の外へと視線を向けていた。
 この人、昼間のカフェでもこうしていたなあ、と成海はちらっと思う。すでに闇に包まれた外の世界は、ぽつんぽつんと立った街灯が、人通りの少なくなった歩道を頼りなく照らしているだけだ。でも、口を一文字に引き結んだ彼の横顔は、何かを考えているようにぴくりとも動かない。
「あの……」
 遠慮がちに声をかけると、晃星はすぐに気がついて、「うん?」 とニコッとしながらこちらに向き直った。それだけで、今までのなんとなく近寄りがたい雰囲気がぱたりと消えて、安心する。彼は、笑みを浮かべている時とそうでない時とで、表情の落差が大きくて、少々戸惑う。
「あの、私からも、お聞きしたいことがあるんですけど、いいでしょうか」
「うん、いいよ。何が知りたい? 身長? 体重? 彼女の有無?」
「はい、それは別にどうでもいいです」
 スプーンでグラスの中身をかき混ぜながら返事をする。大分残りが少なくなってきて、非常に寂しい。
「八神さんは、誠ちゃんの昔からのお友達、っていうことでしたけど」
「そうだね、小学生の時からの」
「小学生から……」
 それは幼馴染というものなのだろうか。兄が小学生の時、成海はまだ赤ん坊か、幼稚園くらいだ。七歳離れていると、兄妹で同じ学校に通うということがない。兄の小学校時代、というものを思い出そうとしたけれど、もちろんそれは徒労に終わった。
「同級生だったんですか」
「そう。四年生の時に俺が転校してきてね、それ以来、なんだかんだで中学までつるんでたよ」
 中学生になった兄なら、成海にも薄っすらと記憶はあるのだが、その当時、彼がどんな友人たちと一緒にいたかまでは思い出せない。年齢が離れているのに──いや、だからこそなのか、兄は小さな妹を昔から猫可愛がりに可愛がって、ちょっとでも成海が男の子に苛められでもしようものなら、本気で怒ってやり返しに行くようなところもあった。そのためか、自分と同学年のイタズラ盛りの少年たちを、成海のいる家に連れてくる、ということはほとんどしなかったのだ。
「中学二年の時に、親の都合で、海外に引っ越さなきゃならなくなってさ。それからは、もっぱら連絡は電話とかメールとかばかりだったな。たまにこっちに帰ってくる時には、一緒に飯を食ったりもしたけど」
「そうなんですか」
 成海にとっては初耳の話ばかりで、まるで他人事のような相槌を打つしかないのが、なんともやるせない。今までにも何度も何度も繰り返し痛感させられたが、本当に成海は、兄のことをなにも知らないままだった。
「仲が良かったんですね」
 そう言うと、晃星はどこか面白そうに口の端を上げた。
「まあ、男同士だからね、そんなにベタベタした付き合いではなかったけど、仲は悪くはないと思うよ。あいつ生真面目だからさ、からかうと面白いし。怒るとすぐ手が出るんだよねえー」
 何を思い出しているのか、くくっと喉の奥で笑って、後頭部のあたりを手でさする。どうやら怒った誠は、遠慮なくこの友人に対して鉄拳制裁に出ていたらしい。成海自身は、兄に殴られたことなんてただの一度もないので、そんな一面もあることに新鮮な驚きを感じた。
 晃星の口ぶりから伝わる、友人同士の距離感のなさが、素直に羨ましい。もう少し年齢が近ければ、自分たちも取っ組み合いの兄妹喧嘩でもしていただろうか。そういう関係であったなら、兄も成海に悩みごとを口にして打ち明けてくれていただろうか。
「とにかく、そうやって二人はお付き合いして、遠距離で友情を育んでいたわけですね」
 成海がしみじみしながら頷くと、晃星は複雑な表情をした。
「うん……いや、まあそうなんだけどさ……なんかその言い方、ちょっと微妙なんだけど成海ちゃん……」
 と、もごもご呟くように言う。
 それから彼は、一拍黙ってから、おもむろに、目元に真面目な色を乗せた。
 テーブルの上で、ゆっくりと両手の指を組み合わせる。
「ただ、ここ最近、俺のほうがちょっとバタバタしてたこともあってね、しばらく連絡がとれない状態が続いたんだ。たまにメールも出してみたけど、返事が来ないのは、誠も忙しいからだとばかり思ってた」
 携帯にかけてもつながらないし……という言葉に、成海は目を伏せる。兄が行方不明になってからというもの、何度縋るようにして見慣れたその番号にかけてみたことだろう。最初のうちはそれでも呼び出し音くらいは聞こえていたのに、それも少しすると、電源が切られたのか、完全に繋がらなくなった。
「こんなことになってたとは、まさか思いもしなかったんだ。……ごめんな」
 情のこもった穏やかな瞳と声で謝られ、成海はぶるぶると首を横に振る。誠の友人も、会社の人たちも、必死に事情を聞いて廻る成海に向かって、大体みんなそう言った。
 役に立てなくてごめんね、と。
 そこには、自分に対してばかりではなく、誠に対しての心配と気遣いが滲んでいて、その言葉を聞くと、成海はいつも泣きたくなる。
 誠ちゃん、みんなこうして心配してるよ。いい人たちばかりだよ。そういう人たちが、こんなに悲しい顔をして、誠ちゃんのこと待ってるよ。
「じゃあ、誠ちゃんの行き先にも、心当たりは」
「考えたけど、さっぱりだね」
 晃星の返事に、ああやっぱりと肩を落として、悄然とうな垂れる。毎回返ってくるのは同じ答えなのに、その言葉を聞くたび、心臓が少しずつ縮んでいくような気分になるのはどうしてなのだろう。
「誠ちゃん、八神さんにも、自分の悩みを言っていなかったですか。愚痴みたいなことでもいいんです。心配ごととか、不安なこととか、なんでも」
「うーん……」
 晃星が首を傾げる。その唇が歪むように曲げられているのを見て、成海の鼓動が速まった。今までのこの問いに対しても、いつも申し訳なさと共に返ってくるのは、「聞いたことがない」 という同じ答えだったのに。
「悩み、愚痴、心配、不安。──あのさあ、あいつのそういうことって、大体いつも同じ内容だったんだよね」
「なんですか」
 意気込んでぐぐっと身を乗り出す成海に、晃星はほんのわずか苦笑した。
「同じ内容っつーか、同じ人間に関することばかりだったんだよ」
「え、お、同じ人?」
 困惑する。そうすると、兄はずっと誰か一人のことを気にかけていたということか。そういう流れで言うと、それは普通、恋人ということになりそうなものだが。兄にそういう存在があったということも、成海は今まで知らなかった。
「誠ちゃん、彼女がいたんですか」
「彼女っていうか……まあ、どう聞いても、そう思っているようにしか受け取れないこともあって、確かに怖かった」
「は?」
「何かっていうと、心配ばっかりしてるんだよ、あいつ。高校で友達は出来るだろうかだの、イジメに遭ったらどうしようだの、問題教師にセクハラでもされたらどうしようだの、男女共学に行かせるんじゃなかったかな、でも女子高でも危険がないとは言えないし、だの」
「…………」
「成海に彼氏が出来たって報告されたらどういう対応をしたらいいと思う? って、延々と国際電話でじめじめした暗い声を聞かされた時は、俺はもうこいつと友達でいるのはやめようかと思った」
「…………」
 さすがに赤面してしまった。誠ちゃん……。

「──あいつはいつも、成海ちゃんのことばかり気にしてたよ」

 晃星は微笑みながら言って、真っ直ぐに成海の顔を見た。
「だから、そんな誠が、君を置いて自分の意志で蒸発なんてするわけがない。たとえば、ヤクザに目をつけられたとか、何かの犯罪に手を染めたとか、のっぴきならない事情で逃げなきゃいけないことになったとしても、あいつはその場合、必ず君を連れて行く。それだけは、間違いない」
 きっぱりとした口調で言われて、胸が詰まった。
「……はい」
 小さく返事をして、下を向く。鼻の奥がつんと痺れて、瞼の裏が熱くなった。精一杯涙の粒を外に出さないようにこらえて、ずずっと鼻を啜る。
 見通しが暗いということは、何も変わらない。自分の意志でなければ、誠は何かに巻き込まれたか、事故にでも遭ったという可能性が高くなる、というだけの話だ。それはそれでもちろん、目の前が真っ暗になりそうなほどに、不安で心配だ。
 でも。
 悩んでいた兄を気づくことも出来なかった、救うことも出来なかった、そこまで追い詰められていたかもしれない状況をただ見過ごしていた、という罪の意識は、ほんの少し軽くなる。
 兄は、自分からも逃げたのではないか──という疑問は、いつだって、成海の上に重く圧し掛かっていた。
「ありがとうございます、八神さん」
 ぺこんと頭を下げて、礼を言った。晃星はきっと、それが言いたくて、こうして成海を訪ねて来てくれたのだろう、と思ったからだ。

「私、なんとしても、誠ちゃんを探します。時間がかかっても、諦めません」

「…………」
 成海の言葉に、晃星から返ってくるものはなかった。
 その時、顔を下に向けていたので、彼がどんな表情をしていたのかも判らない。前を向くと、晃星は今になって思い出したように、カップを持ち上げて、すっかり冷えてしまったであろうコーヒーを口に入れた。
 ……なんだか、そうすることによって、場を取り繕おうとしているようにも見えた。
「成海ちゃん、もう食べないの? アイス、もう完全に溶けちゃったみたいだけど」
 成海が少し怪訝な目つきをしていることに気づいたのか、晃星は誤魔化すようににっこりした。
「あ、本当だ」
 そこでパフェの存在を思い出し、成海はスプーンを改めて持ち直す。意識を切り替えると同時に、一瞬過ぎっていった違和感のようなものは、あっさりと頭の中から抜け落ちた。
「わあー、飲み物みたいになっちゃいました」
 ソフトクリームと生クリームと苺ソースが混然一体となって、液体化してしまっているパフェを、ぐるぐるとかき回す。これはこれで美味しそうだが、こうなってしまうともはや、柄の部分は長いが匙部分が浅いスプーンでは、掬うことが出来ない。
「残す?」
「もちろん残しません。すみませんけど八神さん、ちょっと余所を向いていてもらえますか。お行儀が悪いので」
 グラス型のガラスの器をがしっと掴み、そのまま口につけてごくごくと飲み干した。晃星は余所を向かずにそれを一部始終眺めていたが、鼻の下に白い跡をつけて、ぷはあっと成海が大きな息を吐きだすと同時に、ぶぶーっと噴き出した。
「ご馳走様でした八神さん。とっても美味しかったです」
「そ……そりゃよかった」
 テーブルに突っ伏して、肩を揺らして笑い転げながら、晃星は苦しそうになんとかそれだけを言った。


          ***


 ファミレスを出たら、十一時近くになっていた。
 家まで送るよ、と晃星は当然のように申し出て、成海と同じ電車に乗った。電車の窓から、暗闇の中を数少ない灯りが流れていくのを見ながら、こんな夜遅い時間に男の人と一緒にいるなんて、誠ちゃんに知られたら雷を落とされそう、とぼんやり思う。
 電車の中には、それなりの乗客がいた。大半は会社帰りの人々で、さすがに高校の制服を着ているのは成海くらいのものだが、年齢は似たり寄ったりなんじゃないかと思うようなのもちらほらいる。兄の言う 「不良」 というのはもしかしてこういう人たちを指すのだろうか。だったら今は成海も堂々と不良の仲間入りである。大事に育ててくれた兄に申し訳ない。
 電車のドア付近に立つ成海の傍らにいる晃星は、さっきから自分のスマホを操作していた。片手はジーンズのポケットに手を突っ込み、もう片手で素早く指を動かすその姿は、いかにも慣れている感じがする。話を聞くに海外暮らしが長いようなのに、晃星は、成海よりもよっぽど今どきの若者として、どこの風景にもすんなり馴染める才能があるらしかった。
 と、その晃星が、ふいに手を止め、目を上げてちらっと成海を見た。
「成海ちゃん、ケータイはある?」
「あ、はい。ありますけど」
 鞄をごそごそ探り、携帯を取り出す。それを見て、晃星が感嘆するように目を大きく開けた。
「うわー、現役女子高校生が、ガラケーだ。しかもすげえ古い型」
「なに言ってるんですか八神さん、携帯電話なんて所詮ただの連絡手段なんですから、これで十分ですよ。ガラケーのほうが丈夫だし。通話は問題なく出来るし。スマホなんてもう、すぐ壊れるしおまけに代金が高くて、年間の合計支出の差と利用頻度を考えたら断然」
「うんわかった、俺が悪かった。悪かったから、番号交換しておこう」
 晃星は、スマホとガラケーのコスト差について討論する気はさらさらないらしく、適当な受け答えをして自分のスマホを突きだした。
「番号交換ですか」
「何かあった時、連絡がつくようにね」
「あ、はい」
 晃星に言われて、なるほどと納得した。兄の交友関係については、妹の自分よりも、幼馴染という立場であった晃星のほうが知っているのかもしれない。もしも新しい事実が判った時に、連絡先が不明なままでは確かに困るだろう。
 赤外線で番号を交換しようとしたら、「携帯の使い方は知ってるんだ、賢い賢い」 と、晃星がまた余計なことを言った。現役女子高校生に向かって、なんだかいろいろと失礼だ。
 無事に自分のスマホで受信したらしい成海の番号を確認し、晃星はなんとなく満足げに、うん、と頷いて目を細めた。


 最寄駅からアパートまでは、徒歩で十分以上かかる。駅前は一応コンビニなどがあってまだしも明るいが、それを過ぎるとほぼ民家ばかりのため、この時間はしんと静まり返っておまけに真っ暗だ。
 コツコツという二人分の足音だけが響く夜道で、晃星が歩きながら辺りを見回した。
「いつもこの道を一人で歩いてるわけ?」
「いえ、走ってます。やっぱり怖いし」
「は? 走る? 駅から、家まで? ずっと? 制服で?」
「はい。私、わりと足は丈夫なので。歩くと十分ですけど、全速力で走ると五分くらいです。ここ一週間くらい走り続けていたら、だんだん記録が縮んできました。この分だと、そのうちスプリンターになれるかもしれません」
「全速力……」
 暗がりの中、晃星がまじまじと成海を見つめてくる。どうしてそんな奇妙な顔をされるのか、理由が判らない。
「だからこんなにのんびり歩くの、久しぶりです。やっぱり誰かと一緒に歩くのって、心強いですね」
 そう言うと、「え」 と驚かれた。
「心強いって……この状況で安心してんの?」
「は?」
「怖くないの?」
「怖くないですよ、八神さんがいますもん。さすがに二人だったら、痴漢や変質者は襲ってこないでしょう?」
「……成海ちゃん、よく考えてごらん。周りは真っ暗で、人通りもない。口を塞がれてどこかに無理やり連れて行かれたとしても、誰にも気づかれないかもしれないよ?」
「はい。だから八神さんがいて安心だ、っていう話ですよね?」
「…………」
 会話がまったく噛み合わない。きょとんとする成海に、晃星はしばらく沈黙した。
「成海ちゃん、夜道を歩く時の注意事項は?」
「えーと、周囲に気を配る。後ろから足音が聞こえたら走る。どこかの家かお店に助けを求める。もしも捕まりそうになったら大声を上げる。肩や手を掴まれたら、遠慮なく相手の急所を狙う」
「よくできました。些細な問題点はこの際目をつぶろう」
 兄に教わった対策法を暗唱してみせたら、晃星に褒められた。嬉しくなって、えへへと笑う。
「つまり、まずは警戒心を持つことが大事だってことだよ。わかる?」
「はい、判ります」
「で?」
「で、って?」
「今は、怖くないの?」
「ですから今は八神さんがいるから怖くありませんってば」
「ぜんっぜん判ってねえ……!」
 晃星は、はあーっと深い溜め息を吐きだした。
「……誠の箱入り娘教育は、どっか致命的な欠陥があるんじゃないのかね……こんなの、余計に危なっかしいと思うんだけど……」
 ぶつぶつと独り言を言っているが、よく聞き取れない。そうしているうちに、前方に自分の住むアパートが見えてきて、成海は立ち止まり、くるっと晃星のほうを向いた。
「あの、送っていただいて、ありがとうございました」
「ああ」
 晃星は顔を巡らせ、ベージュの壁の建物に目をやった。
 そちらをじっと見ながら、「……あそこ、二人で暮らすには狭いけど、一人にはちょっと広いだろ」 と呟くように言う。
「そうですね」
 六畳二間と小さなLDK、という間取りのアパートに住んでいるのは、ほとんど子供のいない新婚夫婦ばかりだ。子供が生まれて、大きくなってくると、大体マンションや戸建てに引っ越していく。二人で住む分にはさほど不都合がないが、三人には少々窮屈、でも一人で暮らすのは、がらんとして寂しい──そういうところだった。
「でも、きっと誠ちゃん、またここに戻ってきますから」
「……うん」
 晃星はアパートのほうに視線を向けたまま、小さな声で言った。
 それから成海を振り返った時、彼の顔には、また人懐っこい笑みが浮かんでいた。子供に対してするように、ぽん、と頭に手を置く。
「じゃあね、成海ちゃん。今夜は俺の夢でも見てよね」
「多分、山盛りのパフェの夢を見ると思います」
「そっちか!」
 あはは、と笑って、それでも楽しけりゃいいよね、と言った。手を振ってまた駅に向かっていく晃星に、自分も手を振り返してから、身体の向きを変えてアパートへ帰るため足を動かす。ちょっと軽いけど、彼はいい人だ。
 数歩進んで、ふと、足を止めた。
 そういえば、このあたりには、同じようなアパートがいくつかまとまって建っている。成海が住んでいるのはそのうちのひとつだが、壁の色が違うくらいで、見た目としては他とあまり大差ない。それらのうちのどれが自分の住まいだと説明したわけではなかったし、指で示したわけでもない。立ち止まり、お礼を言ったあの場所からは、複数のアパートが同時に視界に入ったはず。
 ……なのに、どうして。

 どうしてずっと海外に住んでいたという晃星が、迷うことなく一直線に、成海が暮らすアパートだけを見ていたのだろう?



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