空中散歩

30.自分のこと



 数日後、ようやく足の捻挫が完治したところで、思いきって、「ラーメンにし」 を訪ねてみた。
「こんにちは……」
 ガラガラと戸を開け、遠慮がちに顔だけを覗かせる。夕方の五時前という早い時間だからか、店内に客の姿はなかった。
 カウンターの席に腰かけて、新聞を読んでいた店主が、成海を見て、相変わらず厳つい表情ながら、「お」 というようにちょっとだけ口を開けた。
「あれ、なるちゃんじゃない?! そんなとこにいないで、入って入って」
 陽気な声をかけてくれたのは、カウンター内で葱の小口切りを大量に作成していたマツだ。二人が自分を覚えていてくれたことに嬉しくなって、えへへと目許を崩してから店の中に足を踏み入れた。
「あっ、制服だ! そういう格好すっと、やっぱ女子高生って感じだねえ〜。俺は制服萌えはあんまりしないけど、オッサンばっか見慣れてっからやっぱ新鮮!」
 一人でウケて騒ぐマツに、店主が 「やめんか」 と言いながら、手にしていた新聞紙をくるくると丸めて棒状にし、彼の頭をばしんと叩いた。
「ええー、なんでなんで! 素直に見たままを口にしただけでしょ!」
「てめえが言うと下品だ」
「ひでえな親父さん! 俺、けっこー若い子相手に気を遣ってんのに!」
「てめえの顔が下品だ」
「ひっでえ!」
 かなりの言われようだが、いつものことなのか、マツは文句を言うほど気にしてはいないらしい。楽しげなやり取りに、成海も笑ってしまった。店主と店員の二人だけとはいえ、店内は、天井近くに据えつけてあるテレビの音さえも聞こえなくなるほど賑やかだ。
「ラーメン食いに来たんだろう。座んな」
 愛想のない声でそう言って、店主がカウンターの中へと入っていく。誠のことを持ち出さないのは、彼の気遣い、あるいは優しさなのだろう。朴訥としていて、素っ気ないけれど、成海はこの人のそういうところに、非常に安心する。
「休憩中だったみたいなのに、ごめんなさい」
 カウンターの椅子に座り、鞄を足許に置きながらそう言うと、マツがあははーと陽気に笑った。
「ぜーんぜんお客さんがいないより、来てくれた方がそりゃ嬉しいに決まってるっしょー。あと三十分もしたら、そろそろお客さんが入りはじめっから、なるちゃんはいい時に来たよ。ご注文は?」
「あ、じゃあ、今日は味噌ラーメン」
「あいよ、味噌一丁!」
 元気な返事とともに、店主とマツがキビキビと動きはじめる。その無駄のない動きに感心しつつ、手際の良さに惚れ惚れとして、成海はカウンター内をじいっと眺めた。
 昔から、ラーメン屋のカウンター席は大好きだ。こうやって料理を作っていく工程を見るのは、本当に飽きないし、わくわくする。麺を茹でて湯を切って、湯気の立ち昇るスープの中にするりと落とし、チャーシューとメンマと煮卵ともやしと葱を入れて海苔を飾って完成。シンプルだけれど見ていて楽しい。
「はい、味噌お待ちー!」
 あっという間に目の前に置かれた丼の中では、それぞれの具や麺がスープの中で存在感を主張しながらぴったりと配置よく決まっている。晃星が料理を作った時にも思ったが、やっぱり 「絵になる」 というのは、人の食欲を刺激する重要な要素のひとつなのだろう。
 美味しそうな匂いにそわそわしながらぱちんと箸を割る。ふうふうと息を吹きかけて、熱々の麺を啜った。
 味噌は醤油よりもこってりしていて濃厚だ。スープがねっとりと絡んだ麺がモチモチしていて、つるっと喉を通っていく。
「美味しい」
 にっこりしてそう言うと、店主がちらっと微笑を洩らし、マツがでへへとやにさがった。
「いやあー、いいよね、そういうの! 俺、お客さんにそう言ってもらえる時がいっちばん幸せだもん。たまに、スポーツ新聞読みながら無表情で食べて無言のまま出て行く人いるけど、なんかさー、やっぱり寂しいんだよねー」
 成海も作る側の人間として、その気持ちはよく判る。けれどマツはそれ以上に、この仕事とこの店のラーメンが好きで、誇りを持っているのだろう。作り手のそういう気持ちが伝わると、なおさら出されたものが美味しく感じられる。
「でも、そういう人でも、絶対に心の中では 『美味しい、美味しい』 って思ってるはずですよ。美味しいラーメンを食べて、スポーツ新聞を読むのが、その人にとっては至福の時なんです、きっと」
 真面目に力説する成海を見て、マツが細い目をしばたき、ちょっと面白そうな顔をした。
「あー、なるほどねえ。俺はどうせ食うんなら集中して食って欲しいけど、人によってはエロ記事を見ながら口にする食べもんが、いちばん美味く感じられるのかもしれないよねえー」
 ニヤニヤして顎を撫でながら余計なことを言って、店主に頭を叩かれた。
 ちぇーとぶつぶつ言いながら頭をさするマツを放って、店主が今度はこちらを向く。
「お嬢ちゃん、学校帰りに来たんだろう。今日はバイトは休みかい」
 箸を動かしていた成海の手が止まった。
「……え、と、バイトは辞めたんです」
 少し間を置いてから、もごもごと返事をすると、驚いたように目を見開かれた。
「辞めた?」
「はい」
「…………」
 店主は難しい顔つきで腕を組み、成海をじっと見た。
「なんでまた?」
「あの……それは、その、いろいろと事情があって」
 こんな時、成海はすらすらと嘘をついたり、ぱっと浮かんだ適当な言い訳が口をついて出るような性格をしていない。軽い調子で、ちょっと合わなくて、とか、もっと時給のいいところを探そうと思って、とか答えられればいいのかもしれないのだが、どうしても目線は下に、口調は曖昧に言い淀むようなものになってしまう。
「しかしあんたの今の状況じゃ、そうバイトをころころ代えたりすることは簡単に出来やせんだろう。それに、そのバイトは困ってるあんたを見かねて、天野君の友達が声をかけてくれたもんだと言ってなかったかね」
「はい……そのとおりです」
 誠のことを説明した時に、現在の成海がどうやって生活をしているのかと訊ねられたので、一通りのことはざっと話してある。なんていい加減な、とさぞかし呆れられるのだろうなあと思うと、身を縮めて恥じ入るより他にない。
 店主からは何も聞かされていないのか、怪訝そうにきょときょとと二人を見比べる、マツの視線も痛かった。
 しばらくの沈黙の後で、店主がぽつりと言った。

「──その事情とやら、私に話してみる気にはならんかね」

「え」
 少しびっくりして顔を上げる。店主はやっぱりむっと口を曲げて、まるで怒っているかのような無愛想な表情をしていた。
「最近の若い奴は案外他愛ない理由で働き場所を代えるし、それをなんとも思わんようだが、あんたはそういう人間には見えんからね。ちゃんと今の自分がどういう場所に立っているかもよく知っているし、その友達の店長さんとやらのことも、いい人だとしか言ってなかったろう。そういう子が、大したわけもなくあっさりとバイトを辞めるとは思えない。どんなことがあったか、私に話してみないかね」
「…………」
 成海は目を瞬いて、店主の顔を見た。
 怒っているように下がった口許。でも瞳には、真正直にこちらを案じる色がある。心配している、ということを隠しもしないけれど、押しつけがましい感じもしないのは、この店主の人柄なのかもしれないし、年齢によるものかもしれない。
 訥々とした語り口は、知らず、こちらの心の中の壁も柵も包み込んでしまうような穏やかさがあった。
「私はただのラーメン屋の親父だけども、年を取ってる分、あんたよりは多く世間てものを見てる。助言をしようだの、力を貸してやるだのと、偉そうなことは言えんが、話を聞いて、一緒に考えることくらいは出来るかもしれんからね」
 実直そうな太い眉、無駄なことはほとんど喋らない口、まっすぐこちらに向けられる生真面目な言葉と眼差し。
 この人の姿には、どこにも嘘がない。
 少なくとも、成海にはそう見える。
「──はい。お話しします」
 店主の口許がわずかに綻んだのを見て、ふと思った。
 ……考えてみたら、誰かに向かって、「誠の話」 ではない、「成海の話」 を改まってするのは、これがはじめてではないだろうか。
「でも、ちょっと長くなってしまうかもしれないので」
 この店は今営業中で、あと三十分もしたら客が入りはじめる、とさっきマツも言っていた。一旦客が入ってくるようになれば、夜の遅い時間になるまでその数は増えていく一方だろう。そうなればもう、落ち着いて話をするどころではない。
 もう一度出直したほうがいいですか、と聞く前に、店主がくるりとマツのほうを向いた。
「おうマツ、今すぐ店の入口を閉めてこい」
 あっさりしたその言葉に、成海とマツが同時に 「えっ」 と声を上げる。
「しばらく臨時休業だ。都合により閉めますって貼り紙に書いとけ」
 えええ、と目を丸くした。
「あの、私ならまた来ますから。何もお店を閉めなくても」
「いいんだよ。いくらなんでも五時間も六時間も続く話じゃあるまい? 今すぐラーメン食わなきゃ死ぬ、なんてやつがいるわけでもねえし、どうしても食いたきゃまた夜にでも出直してくりゃ済むこった」
「え、いえ、でも」
 成海はおろおろしたが、マツは頭を切り替えるのが早かった。あははと笑って、そりゃそうだと陽気に同意し、さっさと裏が白くなっているチラシを持ってきて、大きく 「臨時休業」 の文字を太いマジックで書き上げてしまう。
 その紙をぴらぴら振りながら、成海を見やり、ニヤッとした。
「ところでなるちゃん、俺もその話は聞いていいんかな」
「は、はい。でも……」
「そーかそーか、そうすっとまた睨まれちゃうかなー。あー楽しい楽しい」
 独り言のようにそう言うと、くくくと本当に楽しげに笑って、マツはその紙を貼りに、店の外に出て行った。
 店主がカウンターの中から出てきて、成海の隣の椅子に腰を下ろす。
「じゃあ、まずはそのラーメンを食べなさい」
 慌てなくてもいいから、と言って、やんわりと目を細めた。


 自分のことを話すのは、誠のことを説明するのとは、少々勝手が違う。
 話している間、成海はそれを痛感した。誠のことは、起こったことをなるべく順を追って口にするだけでいいのだが、自分のことは、どうしても主観で語ってしまう部分が多くなるからだ。
 バイトを辞めた経緯をすべて話すとなると、征司のことはもちろん、上田のことも笙子のことも話してしまわなければ伝わらない。それらを完全に客観的に捉えて言葉に変換するのは非常に困難で、成海は途中でしょっちゅうつかえたり、口を噤んで考えたりした。
 二人はじっと黙って話を聞いてくれていたが、ほとんど表情の変わらない店主はともかく、マツのほうは、あからさまに面白くなさそうに顔を顰めていた。白いコックコートに包まれたのっぽの身体を窮屈そうに椅子に置いて腕を組み、ぶらぶらと上半身を揺すって、時々苛ついたように大きく鼻から息を吐きだす。
 笙子のことを話している時に、とうとうボソッと 「アホ女」 という呟きがその唇から洩れたのを聞いて、成海は困ってしまい、口の動きを止め、眉を下げた。
「ごめんなさい」
「なるちゃんのことを言ってんじゃないよ、その思い込みの激しい彼女さんのことだよ」
「私がそういう風に聞こえるように喋ってるんだと思います」
 マツがそう感じてしまうということは、成海のほうに、無意識のうち、あるいは心の奥底で、自分を正当化したいという気持ちがあるためだろう。やっぱりこれって悪口を言ってることになるのかな、と思ってしゅんとする。
 あったことだけを率直に、自分の感情を一切差し挟まずに話せばいいと思うのに、それはやってみると思った以上に大変で、どう言おうと迷うたび、口は重くなっていく一方だった。
「あんたはあんたの、感じたこと思ったことをそのまま言えばいいんだよ」
 店主が、マツの足を思いきり蹴っ飛ばしながら静かに言った。
「……でも」
「そりゃあ、あんたの目から見る物事と、他の誰かの目から見る物事は違うんだろうさ。違ってて当たり前だ。あんたが事実だと思っていることが、他人には事実じゃないということだって、たくさんある。どっちがいい悪いなんてことじゃない、何をどう思おうが、それぞれの自由ってことだ。そしてそれと同じに、あんたが話すことを、私らがどう受け取るのかということも、私らの自由だ。あんたは言いつけ口をするようで気が進まない、と思ってるのかも知らんが、私がそれを聞いてどう感じるかはまた別の話、ということだよ。その笙子さんという人にも、担任の先生にも、もちろん自分の事情てもんがあるんだろう。一方的に、そりゃあそいつらが悪い、あんたには気の毒だったね、なんて考えるほど私は子供じゃないから、気にせず話しなさい」
 マツは、じゃ俺が子供ってこと? と不満そうだったが、成海はそれを聞いてほっとした。
 そうか、ここにいるのは、成海なんて比べ物にならないほどの人生経験を積んだ年齢の人なのだ。成海の話が自分寄りに偏っていたとしても、それをまるまる信じるようなことはしないに決まっている。
 そう思ったら多少は落ち着いて話を進めることが出来た。担任のこと、征司のこと、笙子のこと。彼らとの食い違いや行き違いや噛み合わなさ、それによって起こったこと。成海がそれらについてどう思ったのか、どう感じたのかを、正直に、ありのまま話した。
 そうやって言葉にしていくと、不思議と、自分の中の何かが、すうっと軽くなっていくようだった。
 園加と一緒に上田を脅したくだりでは、マツは大笑いし、店主は大人として窘めようという顔をしかけたが、結局、横を向いて噴き出していた。


「──それで、今は新しいバイトを探しているところなんです」
 というところまで話し終わり、成海はひとつ息を吐いた。
 店主は最初からずっと変わらない顔で頷き、マツは奥歯に何かが挟まったかのようにもぐもぐと口を動かしていたが、特に何も言いはしなかった。二人とも、いろいろと思うところはあるだろうに、口には出さずに呑み込んでくれているのだろうなと思うと、ふわりと胸が温かくなる。
「で、見つかったんかね」
「いえ、まだ」
 時給についてはそんなに贅沢を言う気はないので、仕事内容と勤務時間と場所に絞って条件の合うところを少しずつ探している最中だ。晃星からは、手っ取り早く高収入が得られるバイトがあるんだけどーという甘い話には絶対に乗らないように、と釘を刺されている。
 店主が少し考えるような顔をして黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……もしよかったら、うちで働いてみるかい」
「えっ」
 成海が驚いて声を上げるのと同時に、マツが大きく両手を打ち合わせて喜んだ。
「あー、よかった親父さんがそれ言って! 俺もさあ、さっきから何度も 『じゃあここで働けばいいじゃん』 って言いかけたんだけど、また余計な口出しすると親父さんに殴られると思って我慢してたんだよねー。なんだよもうー、親父さんも最初からそう思ってたに決まってるんだから、さっさとそう言えばいいのに」
「うるせえ」
 結局、マツは店主に頭を叩かれた。
「でも、このお店はバイトの募集をかけていないんじゃ」
 成海がそう言うと、叩かれてもまったく気にしないマツはニコニコした。
「それがちょうど人手が足りないんだよ。あのさ、うちにもバイトが一人いたんだけど、そいつが辞めちゃって。昼も夜も、客が混み合う時間帯は、親父さんと二人でてんてこまい! ま、二人でもなんとかやれないことはないけど、もう一人いたら助かるのも本当なんだよねー」
 そういえば、以前にこのお店に食べに来た時、カウンターの中には三人いたっけ、と成海は思い出した。カウンター席だけとはいえ、昼は行列ができるほどの人気店なのだし、一人抜けたらそれは大変だろう。
「まあ、こいつの言うとおりだ。二人でもなんとか廻せてはいけるが、手があったら助かる。あんたは学校があるから、夜だけということになるが、それでもこっちは楽になるからね」
「あ、ここ、時給もまあまあだよ。客は男ばっかだから、むさいし地味だけど」
「……いいんですか?」
 改めて店主に向き直って確認する。彼は、いかめしい表情になって首を縦に振り、言い聞かせるように成海の目を正面から見返した。
「言っておくが、これは別に、あんたが気の毒だから、という理由じゃないよ。私の目から見て、あんたという人間が、ちゃんと真っ当に仕事が出来そうだなと思ったから、どうだねと訊ねているだけだ。私は自分の、人を見る目を信用することにしてるんでね」
「まったまた照れちゃってー。要するに親父さん、なるちゃんのことが気に入ったんだって。素直にそう言えばいいのにねえ」
 あははと笑ったマツがまた叩かれた。
「あの、じゃあ」
 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「頑張って働きますので、どうか私を雇ってください。お願いします」
 そう言ってから再び頭を上げると、店主は微笑してうんと頷き、マツは 「よろしくねー!」 と明るい声で言った。


          ***


 アパートに帰るまで待ちきれず、帰りの電車の中で、『新しいバイトが決まりました!』 と晃星にメールを打ったら、夜になって電話がかかってきた。
 「一日のほとんどが圏外の場所にいる」 という晃星からは、学校で授業を受けているような時間帯にメールがいくつか入っていることもあれば、メールも電話もまったくないこともある。成海はなるべく一日に一度、今日はこんなことがあった、とメールで報告するようにしていたが、それに対してその日のうちに返事が来るかどうかは半々だ。今日は運が良かったらしい。
「バイトが決まったんだって?」
「そうなんです!」
 あちらから聞こえてくる晃星の声に、弾んだ調子で勢いよく答えたら、くすっと笑われた。
「それはよかったね」
「はい、とってもいいところなんです」
「どんなバイト?」
「それが、マンションの一室でお客さんと楽しくお話をすればいいというバイトで……」
「なるちゃん、そこで正座して。これから一時間くらい説教するから」
「ごめんなさい冗談です」
 晃星の声が本気で怖くなったので速攻で謝った。ちょっと笑いをとってみようと思ったのだが、失敗したようだ。ちなみに、マンションの一室云々という内容は、「晃星くんの言う、手っ取り早く高収入が得られるバイト、ってどういうのなんだろ?」 と疑問に思った成海に、園加が例として教えてくれたものである。詳細は不明だ。
「ラーメン屋さんです。ほら、以前に晃星くんと入った」
「ああ、あそこ……」
 晃星は思い出すように言って、五秒くらい黙ってから、「あそこか……」 と明らかにトーンの落ちた声で繰り返した。
 あれ? と首を傾げる。
「いけませんでしたか?」
「いや、いけなくはないよ、もちろん。なるちゃんが選んだんだし、あそこの親父さんは信用できる人だとも思う」
 けどさあ、と、ちょっとイヤそうに続けた。
「マツがいるのが難点だなと……」
「どうしてそこが難点になるのか判らないんですけど。あっ、そうだ晃星くん、私、今日やっとマツさんの本名を教えてもらったんですよ。松下さんっていうらしいです!」
「それはおよそこの世の中で最もどうでもいい情報のひとつだね」
「……晃星くんって、なにかとマツさんを目の敵にしてませんか?」
「気のせいさ、ははは」
「爽やかに言ってもダメです。どうしてですか、マツさんはとってもいい人ですよ?」
「知ってるよ? ただものすごく虫が好かないだけ。That's all.」
 もうー。
「何か誤解があるんじゃないでしょうか。本当に親切な人なんですってば。ラーメン屋さんのバイトも、『じゃあ帰りは俺が毎日バイクで送ってあげるよー』 って言ってくれて」
 ガコッ、というくぐもった音がした。
「……? どうしましたか?」
「……なんでもない。ちょっとスマホ落とした。で、なんて?」
「送ってあげるってマツさんは言ってくれたんですけど、さすがに申し訳ないからお断りしたんです。それで結局、バイトは八時まで、ということになりました」
 「ラーメンにし」 の閉店時間は九時である。成海はその時間まで働きたいと申し出たのだが、店主に、若い娘さんをそんな遅い時間に帰すわけにはいかないと突っぱねられ、せめて八時まで、もしも九時までやるならマツがバイクで送っていく、そのどちらかだと言われたのだ。そこまで他人の手を煩わせるわけにはいかないし、前者を取るしかなかった。残念だ。
 マツの場合は、客の状況に応じて仕事終わりの時間を変えるのだそうで、八時くらいで帰ることもあれば、九時過ぎまでいることもあるという。住んでいる場所もすぐ近くなので、帰ったあとで客がまとめて入ってきて、また店に戻るということもあるらしい。
「八時までね。電車で帰るんだね? 電車だね?」
 晃星はやけにしつこく念を押している。そこはそんなにこだわるところだろうか。
「はい。土日は十一時からお願いして、それは今までと同じですね。冬休みに入ったら、また考えようって言われました」
 その時その時で都合のいいようにやりゃあいい、という店主の考え方は、大雑把だが、気持ちの安らぐものだ。自然と肩の力が抜けていくようで、こちらも素直に頷ける。
 ──こうやって、目の前のことをひとつずつ考えながらやっていけばいいのかな、と思える。
「早速明日から行くんです。頑張ります」
 今やるべきことは、早く新しい仕事に慣れることである。張り切ってそう言うと、携帯の向こう側から、わずかに笑い声が漏れ聞こえた。
「うん、いろいろ複雑なところはあるけど、頑張って」
「はい」
 にこっと笑って返事をする。
 晃星がもう一度 「うん」 と言ってから、小さな溜め息をついた。
「なるちゃんの明るい声が聞けて、俺も少し回復した。実を言えば、こっちはちょっと膠着状態でさ」
「え……そうなんですか」
 応じながら、成海は眉を曇らせる。そういえば、つい興奮して、ずっと自分のことばかり喋ってしまったな、と反省した。晃星のほうでもいろいろあるのだろうに。
「大変なんですか」
「大変ていえば大変。好転しない、ってのはともかく、物事がまったく進捗しない状況ってのは、精神的にしんどいね。俺、こういうの苦手なんだよ」
「大丈夫ですか? ちゃんと眠れてますか」
「んー、あんまり」
 返ってきた言葉に、目の下にクマのできた顔が浮かんで胸が痛んだ。メールをしたのは悪かっただろうか。疲れている時に、わざわざ電波の届く場所まで移動して、余計に体力を使わせてしまうことになったのではないか。
「あの、じゃあ」
 なるべくゆっくり休んでください、と電話を切ろうとしたら、その前に晃星が言った。
「だから近いうちに一度、なるちゃんのところに帰る」
「え」
 一瞬ぽかんとした。
 それから、急に頬が熱くなった。こちらに戻る、という言い方ではなく、わざわざ、成海のところに帰る、という言い方をしているあたり、先日の自分の台詞を意識しているのだろうと思うから、なおさらだ。
「……えーと、前から思ってたんですけど、晃星くんは、『だから』 の使い方がちょっとおかしいです」
「なんで? 物事に行き詰まって疲れたし、なるちゃんの顔が見たいし、ここんとこ上手く寝られないから眠い。そんな俺に今なによりも必要なのは、癒しと愛情とぐっすり眠れる場所。『だから』、なるちゃんのところに帰る、って言ってんだけど。なにかおかしい?」
「う……なんか、もういいです」
 照れる。省略された部分は理解できたが照れる。もちろん言ってもらっている内容は嬉しいのだが照れる。晃星はどうしてこういうことをさらっと言ってしまえるのだろう。精神構造がよっぽど特殊なのか。
「えっと……はい、だったらあの、晃星くんが帰ってくるのを待ってますね」
 晃星と違って、成海はこんな時、相手を喜ばせる気の利いた言葉をぺらぺらと出すことは出来ない。ちょっと申し訳ないような気分になりながら、率直に思ったままを言ったら、携帯の向こうが無言になった。
 ん?
「……なるちゃん」
 少ししてから、晃星が、くすぐったいのを堪えるような笑い方をして名を呼んだ。
「はい」
「もっかい言って」
「は?」
 きょとんとする。
「今のやつ、もう一回言って。『待ってます』 ってやつ」
「…………。ま、待ってます?」
「疑問形は要らない。もう一回」
「……待ってます」
「もっと気持ちを込めて。もう一回」
「…………」
 それから同じ言葉を七回言わされ、晃星が八回目に 「もういっ」 と言いかけたところで、羞恥心に耐えられなくなった成海は通話を切った。



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