空中散歩

32.この場所へ



 翌日の土曜日、成海がアパートの部屋を出る前に、一本の電話があった。

「……はい、わかりました。わざわざご丁寧に、どうもありがとうございました」
 そう言ってから、静かに受話器を置いた。
 しばらく黙って電話を見つめ、やがて小さな息を唇から零す。
 後ろを振り返り、誠人形に視線をやった。ニコニコした笑顔は、いつもとなんら変わりない。それを見て、ちょっとだけ微笑した。
 足を動かし近づいて行って、その場でゆっくりと膝を折る。手を伸ばして誠人形を引き寄せると、ふわりと抱きしめた。
 押しつける頬に伝わるのは、さらりとした枕の感触であって、人肌ではない。ストーブも点けない部屋の冷たい空気と同じ、それ自体の体温を持たない無機物でしかない。大きさだって、成海の小さな両腕の中にすっぽりと納まって、なんの抵抗もなくふにゃりと潰れてしまう。大柄なほうだった誠のがっちりとした身体とは、まったく違う。
「誠ちゃん」
 けれど、成海にとっては、ずっとこれが兄の形代だったのだ。
「誠ちゃん、ごめんね」
 枕は枕、いくら誠のスーツを着せたって、いくら誠にそっくりな顔を描いたって、本人の代わりにはなれない、なれるわけがない。そんなことははじめから成海にだって判っていた。自分の幼さも、愚かさも、理解していた。
 兄と一緒に暮らしたこのアパートで、兄の顔を描いた人形を置くことによって、少しでも以前の状態と同じにしておきたかったのだ。動かなくても、何も話してはくれなくても、たとえそれがただの枕だと自分で認識していても、それでも成海には、お喋りして、相談して、笑いかけて、泣き言を呟く対象が必要だった。
 この部屋の、この人形のいるところが、成海にとっては唯一の、精神的な拠り所だった。
「……ごめんね」
 もう一度小さな声でそう言って、人形を元の場所に戻し、立ち上がる。
「いってきます」
 にこ、と笑って手を振り、部屋を出た。


          ***


 午後二時過ぎになって、ようやく客が途切れた。
「どうだった、なるちゃん。昼の仕事は」
 マツに面白そうに問いかけられ、成海はふーと大きく息を吐きだす。
「ま……まだちょっと、目が廻ってる感じです」
「そうだろー、なるちゃん相当テンパってたもんな」
 陽気に笑われたが、はいそうですねと素直に認めるしかない。平日の夜だってかなり忙しいと思っていたが、土曜の昼はその比ではなかった。そもそもラーメンというものは、夕飯として食べる人よりも、昼食として食べる人が多いものなのだろう。中には、誠のように、夕飯までの腹ごしらえという変な目的で食べる人もいるのかもしれないが。
 しかしとにかく、はじめてのこの時間帯は、無我夢中でテーブルを拭いたりお冷やを用意したり洗い物をしたり釣銭を数えたりしているうちに、あっという間に過ぎ去った。もはや今になると、自分がどういう受け答えをして、どういう順番で仕事をしたかもよく覚えていない。あんなに多くの客が入ったにも関わらず、表情ひとつ変えずに次から次へぱっぱと注文をさばいていける店主とマツは本当にすごい。マツに至っては、しっかり手を動かしつつ、合間合間に客と軽口も叩いて、そしてちゃんと笑顔ではいお待ちーとラーメンを差し出せるのだから。
「マツさんはすごいですね」
 積まれた丼を洗いながら、つい感嘆の言葉を漏らすと、耳ざとく聞き取ったマツが、チャーシューの糸を巻きつけていた手を止めて大喜びした。
「え、そう? そう? 俺ってすごい?」
「すごいです」
 手にしている糸のように細い目をさらに細めて、うひひひと笑う。
「いやー、いいね、誰かに褒められるって! やる気が出るなあ! 親父さんからはそんな言葉、一度ももらったことないもんね!」
「そりゃそうだ、お前をすごいなんて思ったこと、一度もねえから」
 カウンターの椅子に腰かけて、新聞をめくっていた店主が素っ気なく言ったが、マツはまったく気にしない。
「あーあ毎日そんなこと言ってもらえたら、張り切って仕事が出来るんだろうなー。俺、結婚願望ってほとんどないほうだけど、結婚したいなって思う男の気持ちも今ちょっとわかるかも! 嫁さんが 『働くアナタって素敵、尊敬しちゃうわ、うふっ』 なんて言ってくれたらいいよねえ!」
「なんの幻想だよ。今どき、そんなことを言う嫁なんかいねえよ。もっと給料持ってこいって尻叩かれるのが関の山だ」
「結婚すんなら十歳以上年の離れた姉さん女房がいいなと思ってたけど、十歳以上年下の可愛い奥さんもいいかもなあー、揺れちゃうなあー。ねえねえなるちゃん、ちょっとさっきのセリフ、俺に向かって言ってみてくんない?」
「無理です」
「優しげな笑顔でスッパリ即答ってひどくね?!」
「嬢ちゃん、今のうちに昼メシ食っておきな。その間にこいつはちゃんと、ここにある糸で絞め殺しておくからよ」
 店主がまた丸めた新聞紙でマツの頭をばんばんと叩きはじめたところで、成海はたまらなくなって噴き出してしまった。まるで漫才を見ているみたいだが、マツはともかく、店主はどこまでも大真面目な顔をしているのでなおさら可笑しい。
「これを片付けたら頂きます。おじさんこそ、お昼を食べてきてください」
 このラーメン屋には、奥に四畳半くらいのちょっとした部屋があって、そこで着替えたり食事をしたりすることが出来るようになっている。
 部屋のテーブルの上には炊飯器がどんと据えてあり、その中にはたっぷりと炊いたご飯が入っている。おかずは店主が自分の家で作ったものを持ってきたり (奥さんが生きていた頃は彼女が用意して持ってきてくれたらしいが)、近くのスーパーで買った惣菜などが置いてあったりする。一応、昼の休憩は一時間ということになっているが、食事は各自、手が空いている時に自由に食べてよし、という気ままなシステムなのだ。
「そっスよー、そんなところで新聞読んでるんだったら、とっとと食ってこりゃいいじゃないっスかー」
「てめえが嬢ちゃんに悪さをするんじゃないかと思うと、おちおちメシを食う気にならねえ」
「もう、信用ないな! 冗談スよ、冗談! いくらなんでも、いいトシした大人が、女子高生に手を出すわけないでしょうに。まあ、中には手を出すやつもいるみたいだけどさ。ねえ?」
 意味ありげにニヤッとした笑いを向けられて、洗っていた丼を床に落としそうになった。危ない危ない。ただでさえまだぜんぜん役に立っていないのに、損害まで出したらシャレにならない。
「あの男とはその後、うまくいってんの? あれから喧嘩にならなかった?」
「……やっぱり、お昼食べてきてもいいでしょうか」
「二十半ばっつったっけ、あの男? なかなか見た目が良かったよねえ。なるちゃんて意外と面喰いなんだ?」
 遠慮なくぐいぐい押してくるマツは、どうやら逃がしてくれるつもりはまったくないらしい。成海は助けを求めるつもりで店主をちらっと見たが、そちらはそちらで難しい顔つきで腕を組み、じっとこっちに目を向けている。
「以前、一緒に来た男かい。付き合ってるんかね」
「いえ、その、付き合ってるというか……」
 付き合っている、というのも、彼氏、というのも、なんとなくしっくりこないのだが、客観的に見た場合はやっぱりそう言うしかないのだろうなと思うから、成海の答えはどうやってももじもじとした曖昧なものになる。そして改めてそう思ってしまうと、今さらながら非常に照れる。
「なんというか、私にとって、大事な人、です」
 思わずそう口にしてしまったが、よくよく考えてみたら、こっちの言い方のほうが恥ずかしかった。ぱっと赤くなる。
「ありゃあね、あっちのほうが大分参っちゃってんね! でも絶対あれ独占欲が強いタイプだと思うけど。そーゆーのって、けっこー面倒くさいと思うなー。仲がいいうちはいいんだろうけどさ、こじれはじめると包丁とか持ち出しちゃったりしてさ。そういうの最近はよくあるもんねえ!」
 あっはっはーとマツは大口を開けて楽しそうだが、店主の眉が真ん中に寄ってきているのを見て、成海はヒヤヒヤした。
「マツさん、おじさんが本気にとって……」
「そういやこの間会った時も、なるちゃんのアパートのすぐ前にひっそり立って、ずーっと待ち伏せしてたんだもんね! 真っ暗な夜だったのに、怖いよね! ありゃストーカー気質充分だよねえ!」
 マツの台詞は嘘ではない。嘘ではないが、事実とも異なる。言い方ひとつでこんなにも印象を捻じ曲げられるのか、と成海もびっくりだ。
「……ストーカー……」
 店主は低い声で呟いて、黙り込んでしまった。
 固く組んである両腕は、銅像並みにピクリとも動かない。成海は慌てて、違います違いますと否定した。なぜ晃星は、あちらでもこちらでも胡散臭く思われてしまうのだろう。
 もう、と頬を膨らませて、お腹を押さえてひいこらと笑い転げているマツを振り返る。
「マツさん、面白がってますよね?」
「もちろん! もう楽しくて楽しくてしょうがない! なるちゃん、いつかあいつここに呼びなよ! からかい甲斐があって、すごく楽しそう!」
「──からかい甲斐があって、悪かったね」
 ガラリと店の戸が開いて、ひどく仏頂面をした晃星が入ってきた。
 成海は下を向いて、はあー、と深い溜め息を吐く。
 ……マツと晃星の間の溝は、どんどん広がる一方だ。


          ***


 昨夜別れた時、これから眠って一気に睡眠不足を解消する、と言っていた晃星は、確かにちょっとスッキリしたような顔をしていた。
 醤油ラーメンを注文し、相変わらず綺麗な姿勢で食べながら、エプロンにバンダナの三角巾という格好の成海を見てニコニコする。人目 (二人だが) も憚らず堂々と 「可愛い」 と 「似合う」 を連発する彼に、成海は恥ずかしくてひたすら小さくなったが、マツはうわーとドン引きの顔つきをした。
「臆面もなくそんな言葉を口から出すやつは、女の敵、っていうのが相場だよ。なるちゃん、こんな男は信用しないほうがいいよ絶対」
「いいものをいいって率直に言って何が悪いの? それともあんたは自分の彼女や奥さんは人前でけなすのがマナー、って考えるタイプ? あーそーか、そもそもそんな相手がいないのか、ゴメンゴメン」
「俺は後腐れのない関係が好きなの。大人の恋愛ってやつなの。女子高生にベッタリまとわりつくようなどっかの変態とは違うの」
「あっなるほど、それって恋愛関係を続けられない欠陥男がよく建前として使うたわ言だよね。ドコに欠陥があるのか知らないけど」
 あはははは、と笑い合う二人の間で、人間関係が軋むギスギスギスという擬音が聞こえる。仲良くしましょうよ……
「大体、そんな風に頭をキツネみたいな色に染めてるやつは軽薄に決まってるよ。ねえ、そう思いますよね、親父さん!」
「昔、茹でたカニみたいに髪を真っ赤っ赤に染めてたやつが言う台詞とは思えねえな」
「うわ、若気の至りをアッサリ暴露すんのやめてって! 昔は昔でしょ! 今の俺はこんなにも真面目なのに!」
「てめえの 『真面目』 の定義は、よくわからん」
 マツも昔はいろいろとヤンチャだったらしい。黒髪で角刈りの今からは想像できないのっぽの青年の昔の姿に思いを馳せて、ちょっと笑いながらカウンター席に目を向けると、晃星が指でつまんだ自分の前髪を見て、眉根を寄せていた。
「軽薄……」
 ぶつぶつ呟いている。
「──ひょっとして、なるちゃんが俺のことを軽い軽いって思ってんのって、この髪のせい?」
 はい? と問い返す。晃星はむっつりした顔のまま、指で髪の毛をぴんと弾いた。
「なんですか、いきなり」
「だって、なるちゃんの俺に対するイメージって、根本的にそうじゃん。茶髪だからイコール軽薄、っていう先入観があるんじゃないの? 誠が真っ黒だったからって」
「そんなことないですよ。髪の色じゃなくて、普段の言動からです」
「さらっとひどいこと言った! 軽いって思ってることは否定しないんだ!」
 ちぇーと言いながら、今度は手を髪の中に突っ込んで、くしゃりとかき回す。柔らかそうな栗色の髪がさらりと流れ、窓から入る陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
「黒く染めようかなー」
「どうしてですか? その髪の色、よく似合ってるし、すごく綺麗なのに」
 成海が首を傾げてそう言うと、ぴた、と晃星の手の動きが止まった。
 髪の間から覗く瞳が、上目遣いになってこちらを見る。
「なるちゃん、この髪の色、好き?」
「大好きです。見るたび、いいなあって思います」
 少しの無言の後、晃星の目がふわりと細められた。
「……そう」
 いつものからかうような笑い方ではなく、優しいばかりの笑い方でもない。
 嬉しそうな、わずかに照れたような、どこか懐かしそうな……そんな笑みだった。


「──俺、また行ってくるね」
 ラーメンを食べ終えて箸を置くと、晃星がポツリと言った。
 ああそうか、と成海は思う。バイトしている姿を見に、というのは口実で、本当はそのことを言いに来たのか。
「いってらっしゃい」
 微笑んでそう言うと、晃星は小さく頷いた。店主もマツもこの会話は聞こえているのだろうが、少し怪訝そうな表情を浮かべるだけで、言葉を挟むことはしなかった。
「あの」
 言いかけて、ちょっと迷い、また口を噤む。
 晃星とこうして顔を合わせる時は限られる。このまま行ってしまうのならなおのこと、早いうちに話をしておきたいと思うのだが、今は仕事中だ。店主を振り返ると、「どっちにしろ昼休憩を入れるつもりだったんだろう、外に行ってきたらどうだい」 と言ってくれたが、成海は首を横に振った。
「よかったら、おじさんにも、マツさんにも聞いて欲しいことなんですけど……いいでしょうか」
 晃星の表情が引き締まる。「なんだい」 と店主に促され、軽くぺこっと頭を下げてから、口を開いた。
「今日、家に電話がありました」
「電話?」
「誰から?」
 店主とマツから同時に問いかけられた。晃星は黙ったままだ。
「兄が勤める会社の社長さんからです」
 そう言うと、三人がそれぞれはっとしたような顔をした。それを聞いただけで、大体内容が判るのだろう。みんな大人なのだ。
 成海はそっと物を置くように言った。

「……今年いっぱいで退職、ということに決まったそうです」

 行方不明という曖昧な状況が続く誠だが、会社での扱いは一応、休職中ということになっていた。本当だったら、もうとっくに退職扱いになっていてもおかしくはなかったところを、社長の厚意で、今まで休職期間を特例として引き延ばしてくれていたのだ。もちろん給料はないが、籍は残っている。もしも誠が帰ってきたら、すぐに復職できるようにしておくから、と言ってくれていた。
 しかし、それも──
「今年いっぱい……あと、半月ですね、それまでに兄が帰ってこなければ、正式に手続きを取ることになると言われました」
 会社はもう、誠を待つのをやめる、ということだ。
「……それって、退職金はどうなんの」
 と訊ねてきたのはマツだった。成海は少し笑って、また首を横に振る。
「計算上では退職金はあるらしいんですけど、こういう場合、本人の意思が確認できなければ本人以外の人間に支払うことは出来ないそうで……でも、それはいいんです。迷惑をかけたのはこちらなんですし。兄はあの会社も仕事も好きでしたから、退職となるのは残念ですけど、今まで籍を残しておいてもらえただけでも感謝しています」
 誠のことを心配してくれた、あの会社の人たちの顔を思い出す。早く帰ってくるといいね、と言ってくれた彼らと誠の縁も、ここで切れてしまうということだ。
 成海にはどうにも出来なかった。ごめんね、誠ちゃん。

「兄の退職が正式に決まった時点で、私もあのアパートを出る準備を始めます」

 成海の言葉に、晃星がぴくっと顔を上げて反応した。強い視線が刺さる。
「出るって……でも」
「諦めたんじゃありません。待ちます。兄が帰るのを、これからもずっと待ち続けます」
 他に待つ人が誰もいなくなっても、成海だけは待とうと決めた。
「だけど、それは、あのアパートでなくても出来ることだと思うんです」
 誠がいなくなってから、あのアパートの部屋は、何ひとつ変わっていない。兄の部屋はもちろん、成海の部屋も、二人でよく時間を過ごした狭いLDKも。家具の位置も、小物の置き場所も、誠が使っていた茶碗でさえ、まったく動かず伏せられたままの形である。
 そうやって、誠がいつ帰ってきても、すぐにまた元通りの生活がはじめられるようにと、半ば以上意地になって、「以前のまま」 を保持し続けていた。多くはない預金残高から、一人で住むには広いあのアパートの家賃を支払い続けても、ギリギリまであの場所にしがみついていたかった。
 そうやって、何も変えずにいれば、そのうち誠がなんでもない顔をしてひょっこり帰ってくると信じていた──信じたかったからだ。
 ……でも。
 でも、そんな風に上辺だけ取り繕っていたって、中身がなければ、どうしようもないではないか。
 枕は枕。一方的に話しかけたところで、決して返事は返ってこない。必死になって家という容れ物の体裁を整えていても、そこにいる成海が空っぽでは意味がない。
 現実世界を生きること。成海はまず、それを優先しなければいけないのだ。
「私がしっかりしていれば、どこにいても兄を待つことは出来ます。希望は捨てませんけど、夢に縋りついているだけじゃ、立ってはいられない。残っているお金もそんなに多くはないし、もっと早く、そう決断するべきだったんです」
 住むところは、どこだっていい。もしも誠が帰ってきて……もしも成海と会いたいと望んでくれたなら、いくらだって探す手段はある。どこにいても、成海がちゃんと生活してさえいれば、今度は誠のほうからやって来てくれるはず。
 それが、やっと判った。判ったから、あの場所を手離すことも決意できた。
 帰って来て欲しいのは、あのアパートの 「部屋」 じゃない。

 ──「成海のいるところ」、なのだ。

「だっ……大丈夫だって!」
 しばらくの沈黙の後、少しつっかえながら、マツがことさら陽気な声を上げた。
「俺もさ、中学の時からすっげえグレてさ、高校なんてド底辺もいいところだったんだけどそこも中退して、バカなこといっぱいやって、いろんなことがあったりしたけどさ、でも今はこうして真っ当に生きてんだから! 世の中なんて、案外簡単に生きていけるもんだよ、そんな深刻に考えなくたって大丈夫!」
 大丈夫、大丈夫、と笑いながら繰り返すマツを見て、胸の奥が熱くなった。
 ……両親が亡くなった時、誠もこうして言ってくれたっけ。
 無責任な言葉だなんて思わない。それは、心を軽くするための魔法の呪文だ。少しでも相手を安心させようという一生懸命な気持ちがあって、それがこちらにも伝わるから、その言葉はこんなにも温かく聞こえるのだ。
 成海が、自分自身に向かって、大丈夫、と言い聞かせるのとは、まったく違う。
「新しく住むとこ見つけんなら、このあたりにもアパートたくさんあるし! 俺のとこはもう部屋が埋まってっけど、大家さんが他にもアパート持ってるからさ、聞いてみるよ。いい人だから、頼めばいろいろ探してくれるって!」
「え……それはありがたいんですけど、あの、でも、私まだちょっと保証人とか、そういうことについてあまり決めてなくて」
 さすがに成海も、未成年の一存だけで部屋を借りられるなんて楽天的なことは思わない。年が明けたら、部屋探しをしながら後見人のことも考えよう、と思っていたので、マツの性急さにやや戸惑った顔をすると、あははと笑い飛ばされた。
「なーんとかなるって。その大家さん、親父さんの知り合いだからさ。親父さんに口添えしてもらえばいいっしょ」
「そ、そんな簡単なことじゃ……」
 困ったように店主のほうを向くと、驚くことにあっさりと頷かれた。
「まあ、住むところについちゃ、そう心配せんでもいいさ。アパートっていっても、どれも古くて狭いもんだが、その分家賃も安いし、貸すほうも気楽なもんだ。なにしろ大家が、老後の小遣い稼ぎ、くらいにしか思っとらんから。あんたは私らにそうしたように、今までのことと、現在の自分の状況と、天野君のことを隠すことなく素直に伝えりゃいい。負けず嫌いなくせに涙もろいから、タダで貸してやろうとでも言うだろう」
 成海は慌てて手を振った。
「い、いえ、そんなわけには……」
「その大家さん、親父さんの碁敵なんだよねー。しょっちゅう喧嘩してっけど、仲はいいんだ。似た者同士だし、きっとなるちゃんのことも気に入るって。あのさ、世間には頭の固いのはいっぱいいるけど、まだまだ、人情に篤い人たちだっているんだよ? してやるって言われたら、ありがとうって受けりゃいいって」
「……でも」
 少し目を伏せる。いくらなんでも、そんなに何から何まで他人の好意を受け取るだけでいいわけがない。征司の優しさにただ甘んじていた結果、笙子を傷つけ、成海は今ここにいるのだ。
「おじさんにも、ご迷惑をかけることに」
「何も迷惑なんてありゃせんよ」
 店主は成海をまっすぐ向いて、静かに、だがきっぱりとそう言った。
「私は今のあんたよりももっと齢の低い頃に故郷を出て、働きだしたんだ。不安もたくさんあったし、心細くてたまらない時も、数えきれないくらいあったよ。困ったこと、苦しかったこと、悩んだこと、迷ったことも、掃いて捨てるほどあった。それでもなんとかやってこれたのは、周りの人たちに助けてもらっていたからだ。裏切られたり、酷いことをされたり、騙されたり、そんなことだってあったけど、それと同じくらい、いや、それよりももっと多く、誰かに何かの手を貸してもらった。だから、私は今ここで、こうしてラーメン屋の親父として偉そうな顔をしていられるんだ。けども」
 少しだけ、苦いものを呑み込むような表情になった。
「けども私はね、そうやって助けてくれた人たち、手を貸してくれた人たちに、ほぼ何も返すことが出来なかった。女房だってそうだ。苦労ばかりさせたけれど、結局何ひとつ報いてやれないまま死なせてしまった。そりゃあ、悔いがあるさ。ああしていればよかった、こうしてやればよかったと、何度も思った」
 いや、今でも思ってる、と言い直して、店主は成海の目をじっと覗き込んだ。
「だけど、どうしようもないだろう、そんなもんは。過去には戻れないんだし、戻ったところで何も出来なかったろうさ。その時の自分には、どうしようもなかった。悔やんだって、腹を立てたって、どうしようもないもんは、どうしようもないんだ」
 だからね──と口調を和らげる。
「だから、今現在、目の前に困ってる誰かがいたのなら、少しでも助けてやれればいいかなと思うんだよ。今の自分に出来る範囲で、何かしら手を貸してやれたなら、その分、昔の誰かに恩を返せたような気がして、ちょっとばかり楽になれるんだよ。たくさん心配をさせて、困らせて、それでも私を助けてくれた誰かにね。あんたのためではなく、自分のためだ。それに見境なく温情を施してやってるわけでもない。あんたはあんたで頑張っているから、その姿を見て知っているから、じゃあ私らも、何か出来ることはあるだろうかなと考えるんだよ」
「…………」
 何を言えばいいのかよく判らず、成海はしばらくぼうっと店主の顔を見返していた。
 皺の刻まれた厳つい顔。その皺の分だけ、この人の人生がある。彼の口調は終始穏やかで、淡々としていて、けれど大きく包み込むような優しさがあった。
 成海を成海として認めた上で、この場所で立てるようにと、支えて手を貸してくれようとする、力強さがあった。
 言葉よりも先に、瞳からぽろりと涙の粒が転がり落ちた。
「──ありがとう」
 頭を下げてそう言うと、店主とマツがほんの少し笑った。
 カウンター席に座った晃星は、この中でただ一人、ずっと何も話さないままだった。じっと黙って視線を下に向け、拳を強く口元に押し当てながら、厳しい表情を浮かべていた。
「……半月……」
 唇が微かに動き、呟くような小声が漏れる。
 その声には、少し、焦りが滲んでいるようにも聞こえた。


          ***


 結局、「昼の休憩をとってきな」 と強引に店を出されたので、成海は晃星を見送りがてら、二人で駅に向かって歩いていた。
 天気はいいが、びゅうと吹きつける風が冷たい。
 思わず身を竦めたら、晃星の手が伸びてきて、上着の襟元を押さえていた手を取られた。風で熱を奪われ、ひんやりとした手同士を繋いで歩く。そうしていると、ぴったりとくっついている手の平から、徐々にぽかぽかと温かくなっていった。
「あのさ」
 珍しいくらいに静かだった彼が、ようやく口を開いた。
「はい」
「……俺も、あの親父さんの言ったこと、よくわかる」
「え?」
 成海は隣を歩く晃星を振り仰いだが、彼の真面目な顔も、視線も、前方に向かったままだ。
 人通りもまばらな歩道を見ているというより、もっと遠いところを見ているようだった。
「人から受けた恩に、何も返すことが出来なくて、死ぬほど悔しい思いをしたって話。『だからそれをちょっとずつ他の誰かに向かって返したい』、っていう方向に進むほど俺は善人じゃなかったけどね。でも、気持ちはわかる」
 晃星はまるで、独り言のような話し方をしていた。
「……その時には、判らないんだ。時間が経ってから、気づくんだ。ああ俺は、あの時確かに救われたんだって。けど気づいた時にはもう手遅れで、だからこそ、悔やむんだ」
 ぴたりと立ち止まる。くるっと振り向いて、突然繋いでいた手をぐっと引っ張り、成海の身体を軽く抱き寄せた。
 顔が近づき、頬に柔らかい感触が掠める。
「いってくるね」
 今度は正面から成海の顔を見て、ニコッと笑った。


 歩いていく晃星が駅の改札を抜けてそのまま見えなくなるまで、成海はその場でずっと立って見送った。
 遠ざかる後ろ姿。離れていく人。
 小さくなっていく背中が、いってくるな、と笑いながら手を振って、部屋を出て行ったきり帰ってこなかった広い背中と重なる。
 首にかかったネックレスに触れる手が、寒さのせいではなく、小刻みに震えていた。
 ……そんなにすぐに、強くはなれない。



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