空中散歩

36.非存在



 翌朝、晃星を見送ってから、いつも通りバイトに向かった。
「おはようございます」
 ラーメン屋の戸を開けて、そう挨拶すると、カウンター内で準備をしていた店主とマツの二人が、こちらもいつも通りの挨拶を返してくれる。
「ああ、おはよう」
「おはよー、なるちゃん! 今日も一日頑張ろうねー!」
 夜通しバイクを走らせて日の出を見ると言っていたのだから、今までほとんど眠っていないだろうと思われるのに、マツは普段と変わらず元気いっぱいだ。すごい体力だなあ、と感心しながら上着を脱ぎ、支度をするため奥の部屋に向かおうとした成海は、「ちょっとちょっと」 とニコニコ顔のマツに呼び止められた。
「はい」
「ちょっと、ここ座って」
「はい?」
 人差し指でカウンターの席を示され、間の抜けた反問を繰り返す。立ち止まってマツの顔を見返してみるが、彼の相変わらず人の好さそうな表情からは特に何も読み取れない。なんだろうと思いつつも、椅子を引いて大人しく腰かけた。
「あの……」
「うん、まあまずは水を一杯どうぞ」
「は……?」
 テーブルの上にお冷やの入ったグラスをことんと置かれて、目を丸くしてしまう。バイトを始めてからいくらか経つが、こんなことをされたことは一度もない。大体、店を開けるまでの時間は、いつも準備に追われてバタバタするのが通常で、のんびり座って水を一杯、などという悠長なことをしていられるほどの余裕はないはずなのだが。
 もしかして、何か失敗をして、お説教でもされるのかな、と緊張する。失敗自体は数えたらキリがないほどあるが、いつもその場で注意されるだけで、こんな風に改まって叱責されたことはなかった。そんなに重大なミスをしてしまったのだろうか。クビを通告されたらどうしよう。
 ドキドキしながら店主のほうを窺ったが、そちらは黙々と作業を続けているだけである。しかしこちらのやりとりに耳を傾けていることは感じられる。なんだろう、私、何した? と成海は冷や汗をかきながら昨日の自分を思い返して頭の中をぐるぐるさせた。
「昨日のクリスマスはどうだった? 楽しかった?」
 こちらの心中を知ってか知らずか、マツはどこまでも能天気な顔と声で問いかけてくる。世間話からはじめて油断させ、そこから一気に怒られるのかな、と身を固くしている成海は、もうクリスマスどころではない。
「え、はい、そうですね」
「そりゃよかった。まさか俺みたいに朝帰りってわけじゃないよね?」
「……え」
 あっはっはと笑って言われ、もしかしてこれは晃星とのデート (とマツは思い込んでいる) についての尋問なのでは、と思い至った。店主も何かと心配していたようだし、大人として、高校生の成海がちゃんと健全な男女交際をしているのかどうか確認しておかなければ、と思われているのかもしれない。
 なんだ、とちょっとホッとする。
 言葉にすれば、朝帰りではなく、「晃星を自分の家に泊めた」 ということになるわけだが、別々の部屋で二人とも朝まで熟睡、というそれはそれは清らかな夜だったし、具体的な行為としては、今朝別れる時に、いってきますのキスを交わしたくらいだ。少々それが濃厚だったのはさておき、成海自身はなんら後ろ暗いことはしていない、と自信を持って言える。
「はい、ちゃんと帰りました」
「うんうん、俺の若い頃とは違って、なるちゃんは真面目だもんね」
 ニコニコして言うマツの台詞に、少し笑ってしまう。
「マツさんは今でも若いですよ」
「あはは、そりゃそうだけどさ。でもやっぱ、十代の頃に比べると無理はきかなくなってきたっていうかさ。昔は二日か三日徹夜してもピンピンしてたけど」
「私なんて、一日徹夜しただけでもフラフラです」
 晃星くんもまた寝不足にならないといいんだけどなあ、と思いながら返事をして、なにげなくグラスを手に取り口元に持っていく。これを飲んだら、そろそろエプロンに着替えて仕事をはじめていいかな。
「いやあー、やっぱ楽しいことだとけっこう平気なもんなんだよ。俺の場合はダチと遊んだり、悪さしたり、女の子を引っかけたりしてさ。いや、昔の話だけどね。今は女の子をナンパするよりバイク転がしてるほうが楽しいし」
「そうなんですか」
「そうだよー。で、なるちゃんに声をかけてきた野郎ってのはどいつかな?」

 飲みかけていた水を噴いた。

「なっ……なんで」
 ゴホゴホと咽ながら赤くなってマツを見返すと、ちっとも変わらないニコニコ顔がこちらを向いている。そしていつの間にか、店主の仏頂面もこちらを向いている。
「二、三日おきに食いに来る学生?」
 ええー!
「ど、どうして知って」
「あ、やっぱりそうなんだ。だよねー、ちょっと前から、あいつなるちゃんのことジロジロ見てたもんなー。なんか根暗に思い詰めそうなタイプだよなーと思ったから、一応、俺もさりげなく釘を刺しといたつもりなんだけど、逆効果だったかー」
 うろたえる成海に、マツはあっさりと言って、やれやれという調子で肩を竦めた。
 目の前の仕事で手一杯な自分と違い、マツは一人一人の客の動向にまで気が廻るのか、とか、さりげなく釘を刺してもらっていたんだ全然気づかなかった、とか、いろいろと思うところはあるが、頭が混乱して、どこから問いただせばいいのか判らない。
「あ、あの、その話、どこから」
「うん、キツネ君が店に来てね」
「晃星くんが?!」
 つい大声を上げてしまう。
 いつの間にそんなことを。朝別れた時にはそんなこと一言も言っていなかったのに。どこかへ旅立つ前に、ここに寄ったということなのか。そりゃあ、店主とマツは、成海よりも早い時間から店に来て、仕込み作業をしているけれど。
「まー、そいつのことは、今後ストーカーになったりしないように、俺がボコってやるから問題ないとして」
 さらっと言われてぎょっとする。いや今のはものすごい問題発言ですよ?!
「やめましょう、というか、やめてください。ちゃんとお断りしましたし、真面目そうな人だったから、大丈夫です。たぶん」
「なるちゃんはわかってないなー、真面目そうな男っていうのがいちばん諦めが悪くて面倒なんだよ。……ま、それはいいとしてさ」
 ちっともよくはないのだが、さっさとその話題を放り出したマツは、表情を改めてカウンター越しに身を乗り出してきた。
「……あいつ、なにやってんの?」
「は……?」
 マツにしては珍しいくらいの真顔に戸惑う。あいつ?
「えっと、その学生さんのことは、私もよく」
「違う違う、そっちじゃないよ、キツネ君」
「晃星くん……ですか?」
 なにやってる、と言われても……と困惑する成海に、マツが短い溜め息を吐き出した。
「その野郎のことばかりじゃなく、なるちゃんにとって、今はいちばん大変な時じゃない? 兄さんは会社から籍を抜かれ、なるちゃんは今まで住んでいたアパートを出て、新しいところを見つけて一人暮らしを始めなきゃならない。高校はもうすぐ卒業で、就職先も決まってなくて、アホ教師はまったく頼りにならず、とりあえずはラーメン屋のバイトだけで生計を立てなきゃいけない。そんな状態が、どんなに不安で、心細いかなんて、いくら想像力の足りない俺でもわかる。だから相談に乗ってやったり、近くにいて励ましてやったり、そういう存在が必要だってこともね。そりゃ俺や親父さんはいるけどさ、それとはまた別の話じゃない?……なのになんだってこんな時に、あいつはなるちゃんのそばにいないんだ? ここに来て、変な男がつきまとうかもしれないから気をつけてやって欲しい、なんて頼むくらいなら、真っ先にその役目をあいつがすべきなんじゃないの?」
 いつも軽い口調で話すマツの声に、刺々しいものが含まれている。ニコニコ笑っているように見える細い目は、口が笑みの形になっていないと、妙に凄味があるのだとはじめて気づいた。
「…………」
 成海は眉を下げた。マツが怒っているのは、自分を気遣ってくれているからだということが判るから、余計になんと言っていいのか困ってしまう。
「……あの、晃星くんは今、大事な用事が」
「大事な用? なるちゃんより? そりゃなんでもかんでも彼女のほうを優先しろとは言わないけど、それも時と状況によるんじゃないの。結局、自分のことしか考えてないってことかね。もっとマシな男だと思ってたのに、見損なったよ」
 吐き捨てるように言う。
「なるちゃん、そんな男はさ──」
「いい加減にしねえか」
 そこで、ずっと黙っていた店主が、ぽこんとマツの頭を叩いた。
 マツが唇を尖らせて、そちらを振り返る。
「だってさ、親父さん」
「人のことに口を出しすぎだ。お前、いつからそんなお節介になった」
「なるちゃんのことが心配なんスよ」
「だとしても、余計なこった。こんなもんは、本人たちにしか判らないことなんだから、他人がいらぬ世話を焼くもんじゃねえよ」
 ぶつくさと不満を漏らすマツを放って、店主は今度は成海のほうを向いて口を開いた。
「あのな、嬢ちゃん」
「──はい」
「あのキツ……じゃねえ、八神といったかね、ここに来た時にね、今とおんなじようなことをマツに言われて責められとったよ。どうしてそばにいないんだ、心配じゃないのか、口ではべらべらと上手いこと言っておいて、いざって時には他人にすべてを押しつけて逃げるのか、ってね。まあずいぶんと自分のことを棚に上げて、マツも言いたい放題言っとったが、八神君はそれに対して、何も言い返さなかったんだ」
 あれだけ口の廻る晃星が、一言も反論せず、黙って受け止めて。
 そして最後に、店主とマツに深く頭を下げ、「……よろしくお願いします」 と言うと、店を出て行ったのだそうだ。
「そりゃあ、心配なんだろうさ。心配じゃなきゃ、わざわざソリの合わないマツがいるここに、そんなことを頼みに来るもんかね。自分のことしか考えない、自尊心ばかりが膨れ上がったやつなら、なおさらだ」
 わからないんだけども、と前置きをして、店主は穏やかに続けた。
「……きっと、何か事情があるんだろう」
 それがどんな事情なのかは、本人しか知らなくとも。
「嬢ちゃんは、他人の言うことなんて気にしないで、自分の心の声に素直に耳を傾けていればいいんだよ。決めるのは、あんただからね。忘れちゃいけないのは、どうするにしろ、その責任は、すべて自分に降りかかってくるということだ。それだけは、ちゃんと覚えておきなさい」
「はい」
 成海はほっとして、笑顔になって頷いた。


          ***


「──結局、来なかったねえ。あの学生」
 夜の八時近くになって、マツが残念そうに言った。
 来なくてよかった、と成海は心の底から安心したが、マツは手持無沙汰そうに指を鳴らし、ボキボキと不穏な音を立てている。ただの屈伸運動だと思いたい。
「ホントにやめてくださいね?」
 まだ店内には二人の客がラーメンを食べているので、ひそひそと声を潜めて言ったが、マツははははーと笑っているだけである。ここはそんな朗らかに笑っていい場面ではないと思う。
「俺さー、昔は 『赤い狂犬』 って呼ばれてたんだよねー」
 ニコニコしながら唐突に出された言葉に、二人の客のうちの一人が、啜っていた麺を噴き出した。驚いたのか笑ったのかは定かではないが……いや、肩がプルプル震えているから、たぶん後者だろう。
「狂犬……」
「マッドドッグだよー、カッコよくね?」
「ホットドッグみたいなナリしてるくせによ」
 ぼそりと店主のツッコミが入る。あ、今度は二人とも噴き出した。
 成海も悪いと思いつつ笑ってしまった。マツは不満げだ。
「やだなもうー、親父さんはねえ、男のロマンってもんがわかってな……へい、らっしゃい!」
 ガラガラと戸が開いて、店に入ってきた新たな客に、マツが元気な声を上げる。成海も、いらっしゃいませ、と続けようとしたが、そちらに顔を向けて、その言葉を喉の奥に引っ込めた。
 ぱちぱちと目を瞬く。

「……常陸さん?」

 店内に足を踏み入れた征司は、カウンターの中にいる成海に向かって、にこりと微笑んだ。
 もの問いたげな視線を向けてくる店主とマツに、素早く 「前のバイト先の店長さんです」 と説明する。
「ああ、天野君の……」
 と小さな声で呟いた店主に軽く頭を下げて、征司は無礼にならない程度に店の中を見回した。席にかける気はないのか、コートのポケットに片手を入れて入口の所に立ったままだ。
 たまたまラーメンを食べにこの店に入ったわけではなさそうだと察して、成海はカウンターから出て、征司の許に駆け寄った。
「どうされたんですか? あの、もしかして、私に何か……」
「うん。いきなり押しかけてきてごめんね。ちょっと成海ちゃんに話があって」
 こうして顔を合わせるのは久しぶりだが、静かで柔らかい話し方をするところは、以前とまったく変わりなかった。整った容貌、さらりとした黒髪。すらっとした長身に、ダークグレーでまとめられた大人びたコーディネートがよく似合う。無造作に羽織っているコートは高級そうだ。外を歩いていた時には、周りの女の子たちの視線を一身に浴び続けたことだろうが、この店の中で見ると、正直なところかなり浮いている。
「お話、ですか」
 笙子のことかな、という考えが頭を過ぎった。それなら、ちゃんと聞いておくべきだろうか。
「以前、君のお友達が店に来た時に、連絡先を交換しておいたんだよ。園加ちゃん、だったよね。それで彼女に聞いて、君が今このお店でバイトしてることを聞いたんだ。八時に終わると聞いたから、こうして不躾にも訪ねてきたわけなんだけど」
「…………」
 征司は、成海の携帯番号も、自宅の番号も、知っているはずなのだが。
 いろいろとよく判らないことはあるが、いつまでも店内でお喋りをしているわけにもいかない。店主を振り返ると、「どっちにしろ、もうあがりの時間だろう」 と言われたので、大急ぎで奥の部屋に入ってエプロンを脱ぎ、上着とバッグを持って戻った。
「すみません、じゃあ、お先に失礼します。お疲れさまでした」
 と店主とマツに向かって頭を下げる。マツは口を曲げて、なんだか面白くなさそうな顔をしていた。
「……なるちゃーん、イケメンだからって、『送ってあげるよ』 なんて言われても、迂闊に車の助手席に乗ったりしちゃダメだよー」
「そうそう、送り狼になられないようにねー」
「男はみんな油断ならないよー」
 マツの言葉に、二人の客までが同調して一緒になって囃し立てる。成海は慌てて 「そんなんじゃないですよ」 と否定したが、心なしか、こちらに向けられる店主の視線が厳しくなった。
「ご、ごめんなさい、常陸さん」
「いや」
 詫びる成海に、征司はちらりと苦笑して、
「……もう、こんなにも味方がついたんだね」
 ぽつりとそう呟きながら、店を出た。


 店の近くのコインパーキングに車を停めてあるんだけど、あんなに念を押されてしまった手前、送っていくよとは言えないね、と足を動かしながら征司は笑って言った。
「喫茶店にでも入ろうか」
「……あの、お話ってなんでしょう」
 征司の申し出に、首を横に振って問いかける。こうして征司と並んで歩いているだけでも、すでに笙子との約束違反だ。どこかの店に入り、向かい合ってゆっくり話をする、というつもりはなかった。
「そう言うと思ったよ」
 少し可笑しそうに笑われた。
「成海ちゃんはちょっと融通の利かないところがあるからね。二度と姿を見せることはしない、と宣言した以上、電話をしても、会うのは拒絶されそうな気がしたんだ。実際、そうしただろう? だからこうして、強引な手段を取らせてもらった。ごめんね」
 謝罪をされて戸惑う。そうまでして征司が成海と直接会いたがった理由が、まったく判らない。
「電話では話せないようなことなんでしょうか」
「そうだね。顔を見て言わないと、信用してもらえないような気がして」
「?」
 ますますもって判らない。征司の言葉を疑ったことなど、今までだってなかったはずだが。
「君はこの件についてはひどく強情だから。……いや、言い方が悪いかな。でも、これまでも、僕が何度忠告しても、聞く耳を持たなかっただろう?」
 征司はそこで足を止め、成海のほうを振り向いた。店が立ち並ぶ通りを抜けて、小さな公園の前に出たところだった。
 ぐるりと緑の金網で囲まれた暗い公園にはもう誰の姿もなく、ぽつんと立った街灯が、頼りなく成海と征司の足許に影を作り出している。人通りもあまりないその場所では、喧騒もどこか遠く、冷たい風が茂みの葉を揺らす、ざざっという音が響くだけだった。
 征司の声も、その風に乗って聞こえた。

「……あの男は信用しないほうがいいと」

「…………」
 成海は口を噤む。顔を上げ、征司を正面から見返した。
 こちらを見下ろす双眸は、どこまでも落ち着いている。
 ……そうか、笙子の話ではなかったのか。
「まだ、彼と付き合ってるんだろう? 園加ちゃんが、あの彼氏がいるから君は大丈夫だと思う、と言っていたよ」
 園加はきっと、だからもう常陸さんは心配をしなくてもいい、というつもりでその言葉を出してくれたのだろう。
「常陸さんは、八神さんについて、少し偏見を持っているように思います」
 そういう偏見を持たせてしまったのは、半分以上、成海の責任でもある。もっとちゃんと説明をしていたら、こうまで征司が頑なになることもなかったかもしれない。
「偏見? そうかな?」
 征司は怒り出すわけでもなく、優しく微笑して首を傾けた。
「最初から、八神さんのことを疑ってかかっているんじゃないでしょうか。私が上手に言えないのがいけなかったんですけど、八神さんは──」
「信用できる? それこそ、偏見じゃないかな。君のほうは、はじめから、その彼の言うことなすことを、疑問も感じずに受け入れてしまってる」
「どうして、疑う必要があるのかわかりません」
「唐突な現れ方、話の持っていき方、君の籠絡方法、誘導の手口、どれをとっても疑わしいものばかりだよ。君は子供だから、頭からすっぽりとそれを邪気なく受け止めていたけれど、僕の目から見れば、どうしたって信頼なんてできるものはひとつもなかった」
「常陸さんは、見ていないじゃないですか。実際に、会って、話をしたこともないのに、どうしてそんなことが言い切れるんですか」
「だったら」
 つい声が大きくなってしまった成海に、征司も微笑を引っ込めて口許を引き締めた。強い調子で成海の言葉をひったくる。
「君が、彼を信じるという、その根拠はなんだい?」
「根拠……」
 その問いに、成海は口ごもる。

 晃星を信じる根拠──

「……それは」
「僕はあるよ」
 さらりと言われて、え、と聞き返す。
 あるって、何が?
「八神という青年が、信頼に足る人間ではないという根拠が」
「……どういう」
 意味が判らず、眉を下げる。征司が続けて、「調べたんだ」 と言ったので、ますますその角度が深くなった。
 調べた?
「君のことが心配でね。このまま、得体のしれない人物に、後輩の妹を託して知らんぷりをしていられるほど、僕は図太くない。だから僕の手が廻る範囲で、可能な限り、八神という青年のことを調べたんだよ。その結果、問題がなければそれでいい。僕も安心して、放っておいたさ。……でもね」
 成海の両肩を、征司がぐっと手で押さえるように掴んだ。
「やっぱり彼は信用できない。そのはっきりした事実を掴んだから、こうして君に話をしに来たんだ。時間を置くと取り返しのつかないことになりかねないから、一刻も早くと思って」
「何を……言ってるのか」
 肩に置かれた手に、痛いほどの力が込められる。征司の真剣な目が、成海を覗き込んだ。
「成海ちゃん、天野が通っていた小学校、中学校の名前は?」
「──え」
 いきなりの問いに目を白黒させる。なぜそんなことを聞かれるのか判らなかったが、あまりにも征司の表情が真面目なので、成海はどもりながら小・中学校の名前を口にした。そこは兄の出身校であると同時に、自分の出身校でもある。
 それを聞いて、征司が頷く。
「うん、そこに天野誠は間違いなく在籍していた。一年生から六年生まで、そして中学は一年生から三年生まで。ちゃんと確認したよ」
「…………」
 確認されるまでもない。そんなことは、誰より成海がよく知っている。
「そして八神という青年は、天野の幼馴染だ、と言った。小四の時に転校して来て、また中学二年の時に転校していくまで、よくつるんでいた、と。そうだね?」
「……はい」
「いなかったよ」
「え?」
 目を見開く。
 征司はきっぱりとした口調で言った。

「その小学校、中学校、天野と同学年の生徒の中に、『八神晃星』 なんて人間は、存在していない」

「──……」
 一瞬、目の前が真っ白になった。
 存在して、いない?
「そんな……はず」
 口から出る声が掠れた。ああ駄目だ、落ち着かないと。息を吸おうとしたが、途中で喉が塞がって余計に苦しくなった。心臓がどくどくと脈打っている。
「学校に問い合わせて、確認をとった。間違いない。なんなら、成海ちゃんも聞いてみるといい。四年生、五年生、六年生、そして中学の一年生、二年生、天野と同じ学校、学年で、そんな生徒はいなかった、と明確に回答をもらったんだ。姓は変わることがあるからね、名前でも探してもらった。同名の別人とかぶることがあるといけないと思って、『晃星』 って漢字をはっきり指定した上で、調べてもらったよ。でも、やっぱり答えは同じだった。──そういう名前の生徒は一人もいない、と。成海ちゃん、よく聞いて」
 征司の声音が強くなった。
「『天野の幼馴染の八神晃星』 なんて人間は、最初から存在しない(・・・・・・・・・)んだ」
「…………」
 頭ががんがんと鳴っている。ふらりと足元が揺れた。
 そんな名前のやつ、聞いたことないけどな──
 以前に電話で聞いた、誠の友人の声が耳に甦った。



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