空中散歩

39.本当



 誠の顔は、成海が知るそれとは、少し変わっていた。
 額と顎に、はっきり判るほどの大きな傷跡がある。片目が細められているのは、わざとそうしているわけではなく、それ以上は開けられないためらしい。以前よりも色黒になった肌は今は血の気をなくしていて、片方の頬が妙に腫れてもいる。
 しかしそういう明らかな変化だけではなく、全体的にどこか何かが違う気もした。たとえるなら、夏休み明け、なんとなく印象が変わったクラスメートを見た時のような。あとで園加がこっそりと、あの子瞼を二重にしたんだってさ、と教えてくれて、ああそうかと納得したんだっけ。
 でも、間違いなく、そこにいるのは誠だ。
 たとえ顔のあちこちが変わろうと。短く刈り上げていた髪を後ろで括るほどに伸ばしていようと。成海が見たこともない洋服を着ていようと。
 ここにいるのは、誠だ。
「……誠ちゃん」
 唇から出た声は、あまりにも小さくて、吐き出した白い息と一緒に、そのまま闇の中に溶けて消えそうだった。
「誠ちゃん」
 また一歩、足が前へと踏み出す。どうしてこんなにゆっくりとしか動けないのだろう。まるで、雲の上を歩いているみたいに、足許がふわふわする。頭がちっとも働かない。自分が何をしたいのか、すべきなのか、思いつかない。
 ぽろ、と涙が頬を滑り落ちる感触がした。泣いてるんだ、と意識した途端、加速をつけて涙がどんどん零れて落ちた。ぽろぽろぽろ。止まらない。
「誠ちゃん、誠ちゃん、まことちゃん」
 ただ、名前を呼び続けることしか出来ない。他に何か言うことがあるのではという思考も、今の成海の頭には浮かばない。次から次へと膨れ上がる涙の粒で、その姿さえ覚束なくなった視界の中、ひたすらに繰り返し、繰り返し、名前を呼んだ。
 もどかしいほどの歩みで足だけが動く。一歩、もう一歩。吸い込もうとした息が、ひゅっと音を立てて喉を塞ぐ。吐き出す息は嗚咽に変わった。口元が歪み、眉が下がる。目からは滂沱のように涙ばかりが流れ落ちていく。
「まことちゃ……っう、ふう、ううっ……」
 歯を食いしばっても、息を止めようとしても、何をしても上手くいかない。涙で声が崩れて、言葉が続けられない。
「……成海」
 誠の口からその言葉が出た瞬間、感情が決壊した。
「誠ちゃんっ!」
 こちらに伸ばされた大きな手を掴む。そこにちゃんと温かい熱があることを感じて歓喜に震えた。誠がこちらに向かって足を踏み出そうとして、マツの支えから離れる。ぐらりと傾いだその身体を、飛びつくようにして抱きしめた。こちらにかかる重みに、また涙が溢れた。
 広い胸に顔を押しつけ、大泣きした。
 うわあんと大声を上げる。慟哭が暗闇に響き渡る。胸の奥底から湧き出してくるものを止めもせず、全身を振り絞って泣いた。わあわあと叫ぶように声を出した。激しい情動にすべてを委ねた。時間も、景色も、何もかもを意識の外へと追い出して、ひたすら泣いた。その泣き声の合間合間に、まってたの、まってたの、ずっとずっとあいたかったの──と子供のように訴えた。力いっぱいしがみつき、何度も揺すった。
 ここにいるその存在を確かめるように。



「──常陸先輩」
 泣いて泣いて、成海がようやくその泣き声を喉の奥にまで収めてから、誠が改めて、その人の名を呼んだ。
 半分兄に抱きとめられて、そしてもう半分は、一人で立つのが少し難しいらしい兄の身体を支えながら、成海もそちらに顔を向ける。しゃくり上げ、涙でぐしゃぐしゃになってしまった頬を、拳でぐいぐいと拭った。
 征司はどこか魂の抜けたような表情で、誠と成海の二人を見ていた。その口許に、いつもの優しい微笑みはもうない。けれど──けれど、瞳は静かで、そして、柔らかかった。
 成海の気のせいではなく。見間違いでもなく。
 征司がこちらを見るその眼差しは、優しかった。
「……生きてたんだね」
 小さな声でそう言って、下を向く。聞き取りにくいその言葉は、少し自嘲の混じった、でも確かに、安堵のこもった息と共に落とされた。
 それから再び顔を上げた時、征司はどこかさばさばとしたような表情をそこに貼り付けていた。ちらっと晃星に視線を送り、唇の端を上げて、軽く肩を竦める。
「そりゃ、見てきたように話すはずだ。当事者から聞いてたんだからね。種明かしをすればつまらない。だから君はやることなすこと、パフォーマンスが過ぎるって言うんだよ」
 黙ったままの晃星から、今度はまた誠に目を戻す。
「──で? どうするのかな。僕をこのまま警察に連れて行くつもりかな。殺人……いや、生きていたんだから、殺人未遂か。あるいは過失傷害? でも僕は、そのどちらも認める気はないよ」
 鋭い視線がこちらを突き刺した。
 今の彼の心の中にあるのは、何なのだろう、と成海は思う。
 夢の結晶であるあの店か。それとも、脆いところのあるあの美しい恋人か。
 それらは多分、誠が崖の上から落ちるのを見た時も、彼の頭を過ぎったに違いない。

 ──征司が守りたいもの。守らなければならないもの。

「そこにいる彼がさっき言ったように、証拠はどこにもない。僕はそんなことはやっていないし、覚えもない。天野と僕、どちらの言い分を警察は信用するのかな。自慢じゃないけど、僕はこれで、人を言いくるめるのは得意中の得意だよ。上手いこと言いくるめることが出来なかったのは、天野と成海ちゃんくらいのものだ」
 まったく兄妹揃って……と呆れるような笑いを零した。
「警察になんて、行きませんよ」
 誠の静かな声に、その笑みが止まった。
 晃星が、聞こえるようにチッと舌打ちをして、そっぽを向く。そちらを見て、誠がわずかに苦笑した。
「コウともさんざん、この件で揉めたんですけどね。崖から落ちたのは、俺が勝手に足を滑らせたせいだ。その場所に先導したのも俺なら、そもそも露草山に行きませんかと言い出したのも俺だ。……大学のワンゲル部で、よく合宿しましたよね、あの山で。常陸先輩はいつもてきぱきしてて、すぐにいいカッコしたがる男たちとワガママなことばっかり言う女の子たちを、嫌な顔一つせず上手に取りまとめてた。後輩の面倒見もよくて、まだ入ったばかりで慣れない俺にも、困ったことはないかってあれこれ気を遣ってくれた。俺にとって、常陸先輩は、なんでも出来て、人にも優しい、憧れの先輩だったんですよ。だからあの山に行って、もう一度あの頃に戻って話をすれば、なんてことを考えた俺が悪かったんです」
「…………」
 征司は無言で誠を見つめてから、ふい、と顔を背けた。
「昔の、余裕のあった頃の話だよ」
 誠が頷く。
「そうです。楽しいことばかりの、夢だけを追って、それで許されていた学生の頃のね。まだ厳しい現実ってやつを知らない頃の。だから俺は、そんな所に行こうなんて言いだしちゃいけなかったんだ。昔は昔で、今は今。お互いに現実を背負っていることを直視して、その上で、もう学生じゃない大人として、話をしなきゃいけなかった。そんな話をするのに、思い出の場所なんかを選んだりしちゃ、いけなかった。……それはあまりにも、浅はかで、無神経な選択だった」
 俺が悪かったんですよ、と誠はもう一度繰り返し、不自由な右足に目をやった。
「あれはただの事故だったんです。先輩のせいじゃない。だから警察になんて行くつもりはありません」
「甘いんだよ」
 我慢ならなくなったかのように、晃星が口を挟む。その顔、その声にも、隠しようもなく怒りが露わになっていた。
「たとえあれが事故だったにしろ、そいつはお前を見捨てて逃げたんだ。わかってんのか、お前が生きてたのはただの偶然と幸運の結果で、あのまま崖下で死体で発見されてても、なんの不思議もなかったんだぞ」
 そうか、逆に言えば、もしも誠がその時本当に死んでいたら、それが事故であったかどうかも、判らなかったんだな、と成海はそれを聞いて思った。
 ……征司もきっと、そう思ったのだろう。
 山の中。周りには誰もいない。自分たちのやり取りを、誠が落ちていくところを、見ていた人間はいない。
 この状況で、警察や救急車を呼んで、「事故だ」 という自分の言い分は、果たして信じてもらえるのか──と。
 手許にあるのは、自分の金ではない二百万。地面にはどう見ても、争った足跡が入り乱れている。疑いの目が自分に向けられるのは止めようがない。
 もしも殺人者として捕まってしまったら、その場合、置いてきたものはどうなる、と考えずにはいられなかっただろう。
 なんとか存続させるために手を尽くしてきた店は、誰からも放置され、あっけなく潰れてしまう。そして、まったく事情も判らず一人取り残された笙子は、精神の重圧に耐えきれず、壊れてしまう……
「その上、そいつはなるちゃんのことだって」
「晃星くん」
「なるちゃんもそう思うだろ。そいつは君のことを今までずっと騙してたんだぜ。君も、そこの甘っちょろいことばっかり言う馬鹿に、説教してやんなよ。今まで君が長いこと苦労してたのは──」
「晃星くん、私も誠ちゃんに賛成です」
 成海がそう言うと、晃星の口が、「な」 の形になって止まった。すぐ後ろにいるマツが、ぷっと噴き出す気配がする。
「成海ちゃん……」
 征司までが驚いた顔になってこちらを見返してくる。成海は誠と目を見交わし、お互いに少し笑ってから、そちらを向いた。
「常陸さんは、ずっと私に優しくしてくれましたよ」
「……それは」
「晃星くんには晃星くんの 『本当』 があるんでしょうけど、私には私の 『本当』 があります。常陸さんが私に向けてくれた優しさの全部が、偽物だったなんて、思っていません」

 向けられた笑顔と思いやりのすべてが、偽物だなんて思わない。
 そこに思惑が隠れていたとしても、差し伸べられた手に、救われたものは確かにある。
 それもまた、成海にとっての本当だ。

「あーもう、この馬鹿兄妹は手に負えない……」
 晃星が唸るように言って、腕を組み、がっくりと頭を垂らした。
 征司はじっと黙ってその場に立ち続けていたが、やがて、息を抜くように肩を落として、苦笑した。
「……本当、馬鹿だよね……」
 呟くように言う。
 それから、成海のほうをまっすぐに見返した。
「君たちの言うことは、どこまでも綺麗事だよ。この世の中は、綺麗事だけでは、廻ってはいけないよ、成海ちゃん」
「綺麗事、ですか?」
「愛情とか、信頼とか、そういうものさ」
「でも、それでたくさん、廻るものもあります」
 にこっと笑った。
 成海は知ってる。それをもう知ってる。困った時、途方に暮れた時、行き詰まった時、助けてくれたのはいつも自分以外の誰かだった。自分一人では、自分を助けられない。誰かがいて、手を差し伸べてくれたから、成海は今もこうしてここにしっかりと立っていられる。たくさんの温かい心があって、愛情があって、信頼があったからこそ、成海は今、笑っていられるのだ。
 誰かを好きになること。信じること。分かち合うこと。笑い合うこと。支えて、支えられること。形はなくても、目には見えなくても、「綺麗事」 なんかじゃない、「綺麗なこと」 は、間違いなくここにある。
 そうやって人と人は、愛し、守り、慈しみ、喜んで、ある時は戦いながら、幸せを追い求めて生きていける。
 成海はだから、笑って言える。

 この世界は、美しいものでいっぱいだ。

「…………」
 征司は成海の顔を見つめてから、まだ憮然としている晃星をちらりと一瞥した。
「……君のことは、本当に、ずっと心配してたよ」
 最初に、天野のことを訊ねに成海ちゃんが僕の前に現れた時から、君のことは、ずっと心配してたよ──征司はよくそう言っていた。
「あるいはいつか君が、真実に近づいてしまうことがあるかもしれない思ったから。そこにいる彼の言う通り、僕はずっと、君を注意深く見張ってた。余計なことをしないように、おかしな動きをしないように」
 でも、と目を伏せて、ぽつりと続けた。
「……でも、これから君を守っていこうと思ったのも、君が安心して暮らせるようになんとかしようと思ったのも、嘘じゃなかった」
 君が一人になってしまったのは、僕のせいだから、とそっと言葉を落とす。
「そういう意味で、『心配だった』 のも、本当なんだ」
「はい」
 成海が真面目な顔で返事をすると、征司はまた顔を上げて、ふっと笑った。
「結局、何が嘘で、何が本当なのか、よく判っていなかったのは僕のほうだ。僕のような人間が、強く生きる君みたいな子を守ることなんて、そもそも出来るはずもない。笙子を守るだけで精一杯だ」
「私、二人が一緒に笑っているところを見るのが、とても好きでした」
 成海の言葉に、征司がまた笑う。
「君は、君の真実に、ちゃんと辿り着いたんだね」
 目を細め、今度こそ、優しい微笑を浮かべた。
「──僕も」
 何かを言いかけて、しかし征司は、そこで言葉を止めた。口を噤み、ふわりと身を翻して、背中を向ける。
 ゆっくりと遠ざかる足音だけが静寂に響いて、やがて暗闇の中に消えていった。


          ***


 それから、また四人で 「ラーメンにし」 に戻ることになった。
「親父さんが、今頃やきもきしすぎて頭から湯気を出しながら待ってるだろうからさ」
 マツが言うには、晃星と誠があの店に到着したのが、成海が征司と一緒に店を出たすぐ後、くらいだったのだそうだ。
「キツネ君が、なるちゃん! って満面の笑顔で店に飛び込んできたんだよ。それで、ついさっき前の店の店長が来て……って言いかけたら、いきなり血相を変えてまた店を飛び出して行ってさ。その剣幕にまずビックリ。その後、杖をつきながら入ってきた人を見て、親父さん、またまたビックリ。もうトシもトシだし、心臓発作を起こして倒れないだけ、よかったよねえー」
 と、マツはどこまでも楽しそうに笑いながら語った。いや、笑っていい場面ではないと思うのだが。晃星は、「キツネ君って、もしかして俺のこと?」 と目を剥いている。
「何がなんだかわかんなかったんだけど、とにかく急を要するってことだから、俺が慌ててアパートまでバイク取りに戻って、ここまでその人を乗せてきたんだ」
「はあ……」
 何がなんだか判らないのは成海も同様である。あやふやに返事をすると、晃星がじれったそうな顔で、びしりと人差し指を突きつけた。
「判ってないようだから言っておくけどね、なるちゃん。あの男はもう精神的にかなり追い詰められてたんだよ。こんなところまで来て、直接君を連れ出すような真似をするところからして、それが表れてる。ひょっとしたら、君の身に危害が及ぶ可能性だって大いにあった。あのコートのポケットに、何が入ってたか、ちょっとでも想像してみた? なのにフラフラついて行った挙句、警察に突き出すこともせずにすんなり許しちゃって」
 怖い顔でガミガミと説教されて、成海は首を捻った。
「危害って……そんなことにはなりませんよ」
「なんでそう言えるわけ」
「うーん……なんとなく」
「あーもう!」
 晃星が、処置なし、というように天を仰いで、マツが大笑いした。
「結局、なるちゃんが最強ってことだよ」
 とにかく成海にも聞きたいことはたくさんあるが、こんなところで立ったまま、誠を問い詰めるわけにもいかない。店主を安心させるためにも急いで店に戻ることにして、杖なしでは歩きにくいという誠がまたバイクの後部座席に乗るのを手伝った。
 メットをかぶりながら、小さく 「痛て」 と声が漏れる。見ると、誠が左の頬を手で押さえて、顔を顰めていた。妙に腫れているように見えたのは気のせいではなくて、間近で確認してみたら、その部分だけがくっきりと赤い。
「誠ちゃん、頬っぺた、どうしたの?」
 額と顎の大きな傷はある程度時間が経過したもののようだが、頬の腫れはどう見ても最近だ。どこかでぶつけたか打ったかしたのかなと思って問うと、誠は少しうろたえたように慌ててメットをかぶって隠した。
「うん、いや、なんでもないなんでもない」
「でも、痛そうだよ」
「いやいや、いいんだ、怒って当然、じゃない、これはその、自業自得だから」
「?」
 成海の後ろで、晃星が、自分の右の拳を手の平に打ちつけて、ばしんという威勢のいい音を立てた。


 店に到着すると、まだ閉店時間までには間があるにも関わらす、そこはすでに店主によって閉められていた。
 他に誰も客のいない店内で、成海、晃星、誠が並んで座る。
「えーと、どこから話したもんかな……」
 真ん中の晃星が、指でとんとんとテーブルを叩きながら、考えるように視線を上空に飛ばした。カウンター内では、難しい顔をした店主が腕組みをして、マツはどこまでも面白そうな顔つきで見物に徹している。
「まずは、俺が、誠のことを聞いたところからはじまるんだけど」
 晃星がそれを知ったのは、今年の八月だったという。
 その頃、晃星はアメリカでエンジニアとしての職を得て、毎日を多忙に過ごしていた。ずっとバタバタしていたが、少し時間に余裕が出来るようになって、しばらく無沙汰を続けている友人に連絡を入れてみようか、と思ったのがはじまり。
 何度誠の携帯に電話を入れても繋がらない。メールにも返事がない。最初は誠も仕事が忙しいのかと思っていたが、日本の八月といえば、「盆休み」 という長い休暇があるはずだということを思い出した。それでもずっと電話に出られないなんてことがあるだろうか?
 さては携帯を壊したか、と思ったものの、まったく連絡がないというのも変な話だ。なぜか胸騒ぎがして、誠との共通の友人に片っ端から電話をして訊ねてみたところ、驚くべき事実が判明した。

 ──あいつ、今年の四月からずっと行方不明なんだってさ。

 それを聞いた晃星は、すぐさま仕事を辞め、日本へと渡った。電話だけでは埒が明かない。自分の目と耳で事実を確認して、調べなければ気が済まなかったからだ。
「……ていうか、実を言うとさ」
 ちらっと隣の成海を見て、気まずそうな顔をする。
「その時点で、俺はほとんど確信めいて思ってた」

 誠はもう死んでいるのだろうと。

「あのシスコン男が、妹を置いてどこかに行くはずがない。だから、自発的な失踪・蒸発のセンはあり得ない。すると事故に遭ったか、なんらかの厄介ごとに巻き込まれたか、殺されたか。どれにしろ、今に至るまで、連絡もない、姿を現さないってことは、まず間違いなく死んでるんだろうなと思った。……となると」
 ごほん、とわざとらしく咳払いをして、成海から目を逸らす。晃星が気まずそうにするのは成海に対してだけで、「死んでる」 と思っていた隣の誠に対しては、まったくと言っていいほど気遣う様子を見せなかった。
「俺がすべきは、まず、誠の死体を見つけて、その死を明らかにすること。生死不明のまんまじゃ、残された妹がずっと宙ぶらりんの状態のまま生きていかなきゃいけない。たった一人の兄を亡くしたことを知れば、悲しむだろうけど、この世に絶望してしまうかもしれないけど、その役目を負うのは俺以外にいないと思った」
 晃星は、日本のマンションの一室に拠点を置き、本腰を入れて誠のことを調べ始めた。友人とはいえ、年に数回会うだけ、あとは電話やメールでやり取りをするだけの自分が知っていることは限られる。誠の日常から丹念に糸を手繰っていくしかない。
 以前住んでいた家、通っていた大学、働きはじめて数年になるという職場、そして現在、妹と暮らす小さなアパート……
「よっぽど、訪ねて行こうかなと思ったんだけどさ」
 でも、なんて言えばいいのか判らない。残された妹は、一人になっても、健気に頑張って、これまで通りの生活を続けながら兄の帰りを待っている。その彼女に、実は君の兄さんの死体を探して回ってるんだ、なんてこと、とてもじゃないけれど口にする勇気はなかった。
「だけど、どうしても気になって。一人でどうやって暮らしてるのかな、とか。それとなく様子を見たりして」
「……じゃ、『ル・クール』 にお客さんとして来たのは」
「素知らぬふりしてこっそり近くで見ようと思ったからです。あそこでバイトしてるのを知って、わざわざ先回りして待ってましたスミマセン」
 テーブルの上に手を置き、べったりと上半身をくっつけて、頭を下げる。「やっぱりストーカー気質充分だねえ」 と感心するように言ったマツは、店主に頭を叩かれた。
「……でも、そこではじめて、あのバイト先の店長が、誠の知り合いだと知った」
 成海が征司に向かって、「誠ちゃん」 と、その名を出すのを聞いたからだ。
「もちろん、他愛ない事情があるのかもしれない。けど、俺は今まで、誠の口から、カフェの店長をしている友人、なんて存在の話を聞いたことがなかった。そこまで近しい関係でもないのに、誠がいなくなってからいきなりなるちゃんの周りに出てくるなんて、なんだかキナ臭いような感じがしたんだよ。それで」
 あの夜、決心して、バイトが終わった成海に声をかけた。

 ──俺、八神晃星。
 ──八神……さん?
 ──そ。君のお兄さんの、昔からの友達。

「そうしてファミレスで君の話を聞いて、ああ、これは金絡みだなと思った。多分、金のいざこざがあって、誠は殺されたんだなと」
 時間がかかっても兄を探すのは諦めないと言った成海に、ぎこちない対応をしていた晃星。あの時、彼は、誠が帰ってくることは、これからもないだろうと思っていたのだ。
「俺はそこで、方針を切り替えた」
 今現在、宙に浮いているという保険金の入った預金を、出来るだけ早く、そして確実に、妹の管理下に置けるように。
「金が原因だっていうのなら、これから狙われるとしたらそれしかない。……俺はその時点で、あの店長が怪しいなとは思ってたんだけど、君はすっかり信頼しちゃってるみたいだし、あの通り、イケメンだしさ。いずれ誑かされて、君が預金ごと取り込まれるんじゃないかとヒヤヒヤしてた」
 不謹慎だとは思いつつ、ぷっと噴き出してしまった。
 ──じゃあ、征司と晃星は、お互いに同じようなことを考えて、相手を警戒していたわけか。
「笑い事じゃないよ」
 晃星は仏頂面だ。
「恋人がいるっていうから、まだ安心したけどね。でも、まあ、近いうちに、あいつが後見人云々の話を持ち出すのは予想がついてたよ。俺としては、なるちゃんがその話に迂闊に乗っかっちゃうことのないように、そればかり気にしてた。かといって、まだ全然証拠もないうちに、あの男は信用しないように、とも言えないしさ」
「…………」
 征司が晃星のことを、何度も 「信用しないように」 と言っていたことは黙っていよう、と成海は内心で思った。
「気がついたら、俺、誠のことよりも、なるちゃんのことばっかり考えてんだよなー」
 独り言のようなその言葉に、誠がなんだかぎょっとしたような顔で振り向いたが、晃星は無視した。
「それであの常陸ってやつを集中的に調べて、あの店が、もうずっと前から上手くいってないってことを突き止めた。だんだん資金繰りが苦しくなってるってこともね。金のことで揉めて誠を殺したんだとしても、計画的だとは思えないし、衝動的なもんだっただろう。その場合、死体はどこに処分したのかなって考えたんだよ。まだ発見されてないってことは、どこかに埋めるか捨てるかしたってことだ。そんなに頭が悪いとは思えないから、捨てるにしたって、考えなしに放り出したりはしないはず。だから、やつの実家のほうにも行ったし、あの恋人とよくドライブに行くっていう場所も行って、あちこち聞いて廻った。でも全然わからなくて」
 晃星は真面目な顔をしているが、さっきから 「殺されて捨てられた」 ことを前提に話をされている誠はだんだん渋い顔つきになってきている。
「そんな時、なるちゃんが俺に情報をくれたでしょ」
「え。情報ですか?」
 成海はきょとんとした。私、何を言ったっけ?
「あの男と誠がワンゲル部に所属してたって。合宿とかで、近場の山によく行ってたって話」
「あ」
 思い出した。成海と、晃星と、誠人形とで、一緒に食事をした時だ。
「そこだ、と閃いたんだよね。近場で、行き慣れていて、土地勘もある。大した高さじゃないといったって、山は山だ。道路が通ってるから、車で運ぶこともできる」
 そして晃星は、今度こそ、誠の亡骸を見つけるために、その場所へ向かった。
 ──露草山へ。
「でもまあ、当然なんだけど、ちっとも見つからなくてさ。もしも捨てるとしたら道路沿いだよなあと思って、数日間みっちり、山の中のそれらしいところを探してみたんだけど、形跡すらない。これはもう少し証拠固めをしてから警察を頼らないとどうにもならないかなと諦めかけたんだけど、その前に、一応そのあたりの人に話を聞いてみようと思って」
 露草山は初心者の登山に適した山だが、周辺にはほとんど人が入れないような山もあり、それらの山に囲まれるように、小さな村があった。
 携帯は圏外でほとんど使えず、ネットも普及していない。あるのは、家と、畑と、小さな雑貨屋くらい、住んでいるのはおおむね老人ばかりの、ひっそりとした静かな村だ。
「ところがそこに行って、死ぬほどびっくりだよ」

 そこに、他でもない誠がいたからだ。

「呑気に畑の手伝いなんかしてやがって。この野郎ってぶん殴ってやろうと思ったら、その誠が真顔で言うわけさ」

 ──どちら様ですか?

「冗談かと思ったら本気も本気。村の人に聞いたら、春頃、どこかから血だらけでふらふらと歩いて来たけど、自分がどこの誰なのか、まったく覚えてなかった、って言うんだよね。どうも崖から落ちたものの、受け身の染みついた頑健な身体が幸いして死にはしなかった。でも、頭を打って、記憶障害を起こしたらしいんだな」
 あははと晃星は笑っているが、目はまったく笑っていない。誠は大きな身体を縮めて、ひたすら小さくなっている。
「記憶障害?」
「まあ、いわゆる記憶喪失ってやつ。自分のことはおろか、最愛の妹のなるちゃんのことも、昔っからの幼馴染である俺のことも、なーんにも覚えていやがらなくて」
 ん?
「あの……」
 笑いながら憎々しげにぐりぐりと誠の脇腹を小突いている晃星の顔を、成海は覗き込んだ。
「晃星くん、ひとつ質問してもいいでしょうか」
「うん? なに?」
 手を止めて、晃星がこちらを振り返る。
「幼馴染、なんですか?」
「は?」
「晃星くんは、誠ちゃんの幼馴染、なんですか?」
「へ?」
 晃星は目を瞬いた。
「なんで? 俺、最初に会った時から、そう言ってたはずだけど」
「だって、常陸さんが言ってたじゃないですか。誠ちゃんが通ってた小中学校に、八神晃星という人はいなかったって」
 そして晃星本人も、それを認めていたではないか。
「あ、それ……」
 いきなり、きまりが悪そうな顔になった。その隣で、誠が不思議そうに首を傾げる。
「なんだコウ、成海に言ってなかったのか」
「いや、それはわざわざ言わなくてもいいことかなと思ってさ……いずれ判ることだし」
 晃星がもごもごと口を濁す。「あんなことになるとは、こっちだって予想外だったんだよ……」 と溜め息をついてから、
「あのね、なるちゃん」
 くるりとこちらを振り向いた。
「はい」
「誠と同じ小中学校、同じ学年に、八神晃星という名前をもつ人間はいない。それは本当」
「はい」
「晃星、という漢字の名前の人間もいない」
「はい」
「そう訊かれれば、学校としては、いませんと答えるしかない。そういう質問のされ方をしたら、なるちゃんに決して嘘はつきませんと誓いを立てた俺だって、その通りだと認めるしかない。……だからあの男の調べ方は、中途半端だっていうんだよ」
「……?」
「もっとちゃんと調べりゃ、すぐ判ったはずなんだ。──八神晃星という人間はいなかったけど、コウセイ・ウォードという人間はいた、ってことが」
「は?」
 間の抜けた表情で、間の抜けた声を出してしまった成海に、誠が晃星の向こうからひょいと顔を見せて説明を加えた。
「ハーフなんだよ、コウは。母親が日本人、父親がイギリス人なんだ」
「え……」
「そういうこと。だからマツが軽薄だって言って、なるちゃんが好きだって言ったこの髪は」
 晃星がにやっと笑い、自分の明るい栗色の髪の毛を指で挟む。
「思いっきり、俺の地毛です」
 えええーーー!!



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