空中散歩

4.窓の灯りと月明かり



 ガチャンと鍵を廻し、玄関のドアを開けて、ただいま、と言った。
 もちろん、室内は真っ暗だ。手探りでまず狭い玄関の照明をつけ、それからLDKへと入って、再びスイッチをバチンと押した。途端にぱっと明るくなった視界に、朝、成海がここを出た時から、まったく変化のない光景が飛び込んでくる。
 小さな食卓には、まだ広げられてもいない新聞。流しにあるのは、バタバタと慌てていたため、放置したままのマグカップ。しんとした空気。朝から今まで、ここだけ、時間の流れから取り残されてしまっているようだった。
 兄がいなくなってから、幾度も実感させられる。
 家に成海以外の居住者がいないということは、部屋のすべてが時を止める、ということなのだ。二人で住んでいた時には、どちらが先に帰っても、何かしら物が動いた形跡があったり、自分の持ち物ではない何かが置いてあったりして、もう一人の存在を感じ取れたものなのだが。
 季節はまだ秋とはいえ、誰もいないがらんとした部屋は、どこもかしこも寒々としていた。
「…………」
 ふ、と短い溜め息だけを落としてから、「よし!」 と声を上げ、軽く自分で自分に気合いを入れる。
 そんなことばかり考えていたって、しょうがないではないか。下を向き続けていても、目に入るのは地面ばかりだ。それではかえって前に進みにくい。
 狭いLDKの一角には、小さいながらも仏壇が据えてある。その前に正座して鈴を打ち鳴らし、手を合わせた。

「ちょっと遅くなっちゃったけど、ただいま。お父さんお母さん」

 仏壇には、朗らかに笑っている両親の写真がある。二人が亡くなってから、成海は、朝は必ず二人にご飯と綺麗なお水を用意して、どんなに時間がなくても 「いってきます」 と一声かけ、帰ってきてからも同様に、「ただいま」 と挨拶するのを日課としていた。
 それを終えてから、自分のすぐ傍らに目線を移した。
 ……そこには、男物のスーツ一式を着せられた長枕が、まるで一人の人間のように壁にもたれかかっている。

「ただいま、誠ちゃん」

 兄がいなくなってから、あまりにも寂しく、せめて話相手となるような代用品が欲しかった。写真を飾ろうかとも思ったのだが、それはそれでかなり不吉な気がして、考えた末に、誠が気に入っていた紺のスーツを長枕に着せることを思いついた。
 スーツのズボンは折り畳んで正座させ、ワイシャツの首元から出ている枕の一部分には、ちゃんとマジックで顔と髪の毛が描かれてある。兄は眉の太い、男らしい顔立ちをしているので、そこを強調して描いた。我ながら、よく似ている。
 こうしていると、成海の隣で、兄も一緒に仏壇に手を合わせているように思えて嬉しい。
「あのね誠ちゃん、今日、誠ちゃんのお友達に会ったよ」
 早速、誠人形に向かって報告をした。
「八神晃星さんて人。幼馴染だったんだってね。私、ちっとも知らなかったよ」
 考えてみれば、兄は成海に対して、あまり自分のことは語らない人ではあった。無口だとか無愛想だとかそういうことではなく、やたら成海のことばかり聞きたがるからだ。
 学校のこと、友達のこと、担任の先生のこと。今日あったこと、楽しかったこと、イヤだったこと。
 質問攻めにあっている時は、ちょっとばかりその過干渉を困ったものだと思っていたが、今になると、もっといろいろなことを話し合っていればよかったなと思う。ひとつ質問をされたら、答えを返してから、自分もひとつ質問をしてみるべきだった。そうすれば、すべてではなくても、兄だって成海に対してもう少し自分のことを話してくれただろうに。
 せめて小学校の卒業文集やアルバムでも残っていれば、子供時代の誠と晃星が笑顔で並んでいる写真でも見られたかもしれないのだが、なにしろ誠が昔から写真嫌いで数が少ない上に、そういったものに対する執着心もあまりなく、もとの家からこのアパートに転居する際、それらはほとんど処分されてしまっていた。
「ちょっと軽い感じもするけど、いい人だね。パフェも奢ってもらっちゃった。フルーツがいっぱい乗った、豪華なやつ。七百円もしたのに、気前よく奢ってくれたよ、八神さん。七百円だよ? すごいよね」
 それから、でもパフェとハンバーグ単品が同じくらいの値段ってどうなのかな、と、ひとしきり誠人形に向かって疑問を投げかけた。これってどっちが高くてどっちが安いってことなのかな。そりゃ好きなのはパフェのほうだけど、お腹が満たされるという観点からするとお得なのはハンバーグだよねえ? と同意を求めてみるが、枕に描かれた顔は変わらずニコニコしているばかりだ。
「今までは、たまーに二人で会って、一緒にご飯を食べたりしていたんだってね」
 タイプの違うあの二人が、どんな会話をしていたのか、成海も見てみたい気がする。きっとそこにあるのは、妹に見せる顔とは、またぜんぜん違うものだったりするのだろう。兄が怒って、晃星がそれをからかったり茶化したりするような場面は、想像するだけでも楽しそうだ。
 成海に遠慮してか家に連れてくることはしなかったけれど、そうやって二人で会う時には、この近くまで晃星と一緒に来たこともあったのかもしれない。だって幼馴染なのだもの、両親が亡くなってからはどうしているのかと、気になって訊ねることくらいはするだろう。
 このあたりまで来て、あれが俺の住んでいるところだよ、と兄が指で示して言ったりして。晃星がふーんとそれに応えて。
 だから晃星は、このアパートのことを知っていたのだ、きっと。

「……誠ちゃんが帰ってきたら、その時はちゃんとここに来てもらって、三人でお喋りできるといいね」

 自分でもはっきり判るくらいに、急に声のトーンが落ちた。それに伴い、目線も一緒に下に落ちる。そんなことが出来るのは一体いつになるのだろう──という考えが、咄嗟に頭を過ぎったからだ。
「えと、じゃあ、お風呂入れようかな」
 しかし成海は、すぐにそんな考えは打ち消して、ぱっと顔を上げた。
 その問いに答えがないのはよく判っている。長く考えれば考えるだけしんどくなるということも、イヤというほど経験済みだ。こんな時は、さっさと思考を切り替えて、別のことをするに限る。
 仏壇の前から立ち上がって、風呂場へ行き、浴槽に湯を張った。
 成海は綺麗好きなので、お風呂は毎日入らないと耐えられないほうだ。残り湯はもちろん洗濯などに使ったりするのだが、一人だと、そうそう毎日洗濯機を廻すことはない。結果、どうしても不経済なことになる。
「ううーん、あのお湯を、他に何か有効活用するすべはないかな……」
 真剣な表情で独り言をこぼしながら、着替えを持って風呂場へ向かう。途中、窓の外を見て、そういえばカーテンを閉めていなかったと思いだした。
 夜、照明をつけた部屋は、レースのカーテンだけだと、外から丸見えの状態になる。そんなのは無防備にもほどがある、といつも暗くなりかけるとすぐに兄が率先してカーテンを閉じていたため、成海一人でいると、その行為をつい忘れてしまいがちだ。
「いけない、いけない。誠ちゃんに怒られる」
 慌てて分厚いカーテンに手をかけ、ついでに、真っ暗な外の世界に目をやった。
 この部屋はアパートの二階にあるので、下の道路がよく見える。通る車も少なくなってきたこの時間、通行人の姿もない。道沿いに並ぶようにして建っている家やアパートでは、もう眠っている人も多いのか、ちらほらとした灯りが漏れているだけだった。
「──……」
 窓にともる灯り。
 それを見ると、成海はいつもぼんやりと、その中にあるものを頭に思い浮かべずにいられない。
 あそこでは、誰かが勉強しているのかな。テレビを観ているのかな。音楽を聴いているのかな。家族みんなで楽しくお喋りをしているのかな。あるいは夫婦で。あるいは親子で。あるいは兄妹で。喧嘩をしたり、笑ったり。そうやって誰かと一緒に時間を過ごしているのかな。
 ──だからあんなにも、温かく見えるのかな。
 他の家から見ると、この家もそんな風に見えるのだろうか。誰かと誰かが、楽しく笑いさざめき合って、幸福な時間を共有しているように見えるのだろうか。
 女の子が一人、ただぽつんと窓辺に佇んで、いくつもの灯りを眺めながら、帰らない人々のことを考えているなんて、だーれも思いもしないし、考えもしないだろうか。

 ……それって、まるで、世界からも置き去りにされているみたいだ。

「あーもう、やめやめ!」
 ぐっと強く握ったカーテンを、勢いよく引こうとした瞬間、突然、軽快な音楽が鳴った。
 きゃあっと飛び上がって驚き、弾かれるようにして振り向くと、発信源は自分の鞄の中だ。よくよく考えたら、その音はただのメールの着信音だった。
「な、なんだ……」
 早鐘を打つ心臓に手を当てて、そんなものでさえ大きく響いてしまうほど、室内が静かだったのだと今さらのように思い当たった。これからは、帰ったらテレビくらいは点けよう。電気代の無駄とか言っている場合ではない。こんなことにまでいちいち悲鳴を上げていては、成海の精神が保たない。
「えっと……」
 携帯を取り出してメールを確認する。成海のガラケーには、世間で蔓延しているチャット形式の通話アプリは入っていないため、友人が何かを連絡してくる時にはメールを使うしかない。こんな時間に、なんだろう?
「ん? 八神さん?」
 送信者は、八神晃星、となっていた。タイトルは、「こんばんはー」 である。しかも文末には、ニコニコと手を振る可愛い絵文字までついている。あの人は、なんとなくメールからして軽いんだなと、成海は感心した。


 『テスト送信を兼ねて。
 無事、家まで辿り着けた?
 今どき、おもな連絡手段がメールだけなんて、誠と成海ちゃんくらいのもんだよね!
 俺も久しぶりすぎて戸惑う。
 どうやってやるんだっけ?』


 ?の後ろには、汗をかいてオロオロする 「困っている人」 の絵文字がついている。戸惑っているわりに、余計な修飾をつけて楽しんでいるような気がしてならない。どうやっても何も、普通に文字を打つだけではないだろうか。


 『ちょっと外を見てごらん。
 雲が流れて、月が綺麗に見えるようになったよ。
 成海ちゃんは、この月を見て、何を思うのかな?』


「月……」
 呟いて、もう一度窓の外に視線を移した。
 本当だ。気がつかなったが、夜空には、いつの間にか真円に近い月がでんと居座って、煌々と下界を照らし出していた。晃星と道を歩いていた時は、こんなにもはっきりと姿が見えなかったから、雲に隠れていたのだろう。
「わあ、ホントだ。綺麗……」
 思わず、感嘆の言葉が口から滑り落ちる。
 上のほうに、こんなにも美しいものが存在しているなんて、ちっとも気づかなかった。こんなに綺麗で明るいのに、目に入らなかった。成海が顔を上げなかったから。今まで見ていたのが、下の道路と、他の家ばかりだったから。
 気づかなかっただけ、雲で見えなかっただけで、この白い月は、ずっとそこにあったのか。
 なんだ、そうか。
 ──こんなにも明るく温かい光が、他の家ばかりではなく、成海のいる場所までも、ちゃんと平等に降り注いでくれていたのか。
 しばらくの間、顔を上げて月を眺めたあとで、再び手元の携帯に戻した。指を動かして、操作する。


 『こんばんは。
 ちゃんと家に帰りました。これからお風呂に入るところです。
 白くて真ん丸で大きくて、まるで、バニラアイスみたいな月ですね。
 美味しそう。
 私の目下の重要案件は、お風呂の残り湯をどうやったら無駄なく使い切れるか、ということです。
 何か良い知恵がありましたらお願いします』


 何を思うかと問われたので、今まで考えていたことを正直に返信したら、ほとんど間を置かず、すぐにまたメールが来た。早い。晃星は本当に、女子高校生と同等のスピードでスマホを操作することが出来るらしい。


 『全体的に意味がわからないよ!
 それから成海ちゃん、これから風呂に入るなんてこと軽々しく言ったらダメだよ!
 つーか、女の子なんだから、月を見たらもうちょっとロマンチックなこと考えようね!』


 今度は、後ろを向いて溜め息をつく、哀愁漂う後ろ姿の絵文字がくっついている。晃星はあれで、「女の子」 に対して幻想を抱くような可愛いところもあるらしい。ロマンチックって……と、申し訳ないと思いつつ、成海はぷっと噴き出した。
 それにしても、なぜ、お風呂に入ることを言ってはいけないのだろう。何日もお風呂に入らないと宣言して、窘められるのならともかく、意味が判らない。
 ちょっと気取って、シャワーを浴びる、にしたほうがよかっただろうか。シャワーは二次活用することも出来ずにただ排水溝に流れていくお湯を見るのが苦痛で、極力使わないようにしているのだが。


 『その調子なら、今夜は望み通り、山盛りパフェの夢が見られそうだね。
 戸締り用心、火の用心。寝る前にちゃんと確認すること。
 Have a nice dream.Good night.』


「わ……わあー」
 気障だ……と言いかけて、思い留まった。晃星は海外で生活していたのだから、彼にとって、これは単なるいつも通りの挨拶に過ぎないのだろう。なまじ見た目や態度が周囲に馴染んで違和感がないため、いきなりこんな横文字を出されると、どぎまぎしてしまう。そのわりに前段は普通の注意事項だったりして、そのギャップがなんだか可笑しい。
 くすくす笑いながら、わかりました、おやすみなさい、と返事を打って送信する。携帯を食卓の上に置いて、今度こそカーテンを閉じた。
 閉じきる前に、ちらっともう一度頭上を見上げ、笑みを零す。
 晃星も今、どこかで同じようにこの月を眺めているのだろうか。果てしなく広い世界で、この一瞬だけでも、成海のことを気にかけ、考えてくれている人がいる、という事実に、ほんのりと胸が熱くなる。

 まだ大丈夫、頑張れる、とそう思える。

 これからは、夜、外を見る時は、下ではなくて空を見ることにしよう。そこには月があり、星があり、自分を包む大きく優しい光がある。見ず知らずの誰かとでも、その光を共有出来ているのかもしれないと思えば、きっと励まされる。
 ちょっと考え、テレビを点けた。画面の中では、芸人のトークに、観客たちが陽気に笑っている。
 うん。今はいいや、これで。
 今はとりあえず、テレビから聞こえてくる笑い声だけでも、この部屋にあればいい。何もないよりは、ずっとマシだ。
 ──いつか、誠ちゃんが帰ってくるその日まで。
「よし、お風呂入ろうっと!」
 ことさら元気な声でそう言って、成海は浴室へ向かった。



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