空中散歩

40.星と太陽



 晃星はそもそも、イギリスで生まれたらしい。
「ま、父親の仕事の関係で、あちこちをウロウロしたんだけどね。日本に住んでたのは、けっこう長かったほう。その後、オーストラリアに行ったところで、親が離婚して、俺は母親に引き取られることになって名前が変わった。母親は母親で日本は窮屈だってそのまま俺を連れてアメリカに行ってさ……けど、その話はまた今度でもいいかな?」
 少し困ったように笑いかけられて、成海は素直に、はいと頷いた。なんとなく、表情と口ぶりから、あまり話したくない内容であることが察せられる。
「で、誠のことだけど……どこまで言ったっけ」
 晃星が話の舵を切り直した。ようやく見つけた誠が何も覚えていなかった、というところまでだ。
「崖から転げ落ちた誠は、意識が朦朧となりながらも、なんとか人の住む場所まで歩いてきた。どこもかしこも傷だらけだったけど、特に首から上が酷い有様でね。顔なんてもう、血だらけの上にあちこちが切れて潰れて、顔かたちもはっきり判別できないくらいだったらしい。転落した時に落としたんだろう、身元の判るものも何も持っていなかった。……それで村の人がさ、これはひょっとして、武藤のとこの息子なんじゃないか、と思ったんだってって」
「武藤?」
「俺がずっと世話になってたご夫婦だよ」
 聞き返す成海に、誠が付け加えた。とてもいい人たちだよ──と言って、少し遠い目をしながら。
「その武藤さんのところは息子が一人いたんだけど、十代の時に、家を飛び出しちゃったらしいんだよね。それっきり姿を見せないままの、その放蕩息子っていうのが、今の年齢にするとちょうどこのくらい。体格もけっこうがっちりしてたみたいで、あのまま成長したら、こんな感じになったかもしれない。さては、自分ちに帰ろうとしたけど、今さらどのツラ下げて戻ればいいのかわからず、うろうろ迷っているうちに足を滑らせて落っこちたんじゃないか……と、そんな話になったわけさ」
 そういうわけで、記憶をなくした誠は、(仮)つきではあるが、武藤家の息子として、その村で治療を受け、看病され、世話をされることになった。
 身体が回復して起き上がれるようになった頃には、さすがに武藤夫妻も、これはうちの息子ではない、ということに気づいていたそうだが、その時にはいくらか、この誰とも知れない若者に情も覚えるようになっていた。自分たちも夫婦二人で寂しいし、帰るところも判らないのなら、とりあえずもう少し自分のことを思い出すまで、ここで静養がてら暮らしてみないかい、という話になったのだそうだ。
 村は老人ばかりで、若い手が足りない。足が不自由とはいえ、力のある誠は、そこで何かと頼りにされ、重宝されていたという。
 行方が知れない間、誠は誠で、穏やかな日常を送っていたのだと判り、成海はほっとした。
「あのねなるちゃん、言っとくけど、ここは怒っていいところだからね」
 晃星がじろっと睨む。
「そんなわけで、俺がこの馬鹿を見つけた時には、もうすっかりあの村に馴染んでてさ。俺がどんだけ説得しても、引っ掴んで連れて帰ろうとしても、いや、ここにいる、って言い張って聞かないんだよ」
 記憶のない自分が帰ったとしても迷惑になるだけだし、ここの人たちには恩がある。それを返すまではここを離れるわけにはいかない、と誠は頑固に主張したのだそうだ。記憶がなくても、そういう性質までは変わらないらしい。
「妹がどんな思いで待ってるのかも知らずにさ。俺、何度も、こいつ殺してえ、って思っちゃった」
 はははと爽やかに笑いながら、満更冗談とも思えない空気を発した晃星が言って、誠が目を逸らした。
「とにかく、誠が生きてるってことだけは、なるちゃんに知らせないと──と思って、俺は一度帰ることにした」

 それが、あの夜。
 成海に、「話さなきゃいけないことがある」 と電話をかけた晃星は、こちらはこちらで、事態が思わぬ方向に急変していたことを知った。

「まさかそんなことになってるとは思わなかったよ。だって、なるちゃんからは、なんっっにも、聞かされてなかったし」
 さらに笑いながら部分的に強調されて、成海も目を逸らした。兄妹揃ってすみません。
 晃星は一旦口を噤み、笑いを引っ込めると、真面目な目で宙を見据えた。指がとんとテーブルを叩く。
「心臓も冷えたし、本気で俺も死ぬかと思った。あんな思いはもう二度と御免だ。用心には用心を重ねないと、と決心した」
 そして考えた。
 確かに、記憶がない誠を、無理やりここに連れて帰るのは得策ではないかもしれない。ただでさえ、相手は焦っている。まだ詳しい事情も掴めていないこの状況で、下手に刺激を与えたら、今度こそどう転がるか予測がつかない。
 大体、殺そうという明確な意思があったかどうかも判然としていないのだ。死んだと思い込んでいる人間の生存を知った時、果たしてあの男はどんな行動に出るのか。あるいは、成海にも危険の及ぶ可能性が──
「それで、黙ってたんだ。なるちゃんが、本当に必死に誠の帰りを待ち望んでるのは知ってたし、たとえ記憶がないにしろ、生きてるってことだけでも判れば、君がどれほど喜ぶかってことも知ってたけど」
 ごめんな、とまっすぐ成海を見て晃星が謝る。その向こうから、誠も慌てて言い添えた。
「その件については兄ちゃんが悪いんだ、成海。自分のことは黙っていてくれ、って頼んだのは俺だから。自分のことも妹のことも覚えてない厄介者を抱えて途方に暮れるよりは、死んだと思っていたほうがいいんじゃないかと、その時は思って」
「…………」
 成海は少し曖昧に笑うだけにした。記憶があろうとなかろうと誠は誠だし、生きていてくれればそれだけでも充分嬉しかったけれど、誠に 「誰?」 と問われて平常心でいられる自信も確かにない。
 今さら過去のことを仮定で考えても仕方がない。晃星も、誠も、それぞれ成海のことを慮った結果、自分なりの決断を下した、ということなのだ。
「それで少しでも誠の記憶を戻す方向でやってみよう、と思ったんだけどさ、これが、ことごとく空振りで」
 病院にも連れて行った。脳の検査もした。果ては催眠療法まで試してみた。本やネットを漁って調べ、あらゆる伝手を辿って治療法を模索した。
 しかし結果は、すべて変化なし。病院では、「何かの簡単なきっかけで、あっさりと記憶が戻ってくる可能性は充分ある。しかしそれは、明日かもしれないし、十年後かもしれない。あるいは一生、戻らないかもしれない」 と言われた。
 記憶を取り戻すきっかけ、というものをいろいろと探してみたが、どれも誠の魂には響かなかった。何をしても、まったく進捗しない。好転しない。前に進むことがない。晃星は武藤家の一室を借りて寝泊まりしながら誠の記憶を取り戻そうと努力したが、まるでその兆しがないことに、焦りと疲労ばかりが溜まっていった。
 成海を一人にして。待たせて。
 ──自分は、選ぶべき道を間違えただろうか。
「寝不足もどんどん酷くなる一方だし。ほら俺、なるちゃんのそばじゃないと安心して寝られないから」
 しゃらっと出された言葉に、誠が飛び上がらんばかりに驚く。
「ちょ、おま、今、なに言って」
「誠ちゃん」
「な、な、ななな成海……お、お前、兄ちゃんがいない間に、不良に」
「誠ちゃん、ちょっと静かにして」
 冷静に窘めると、誠はガーンという擬音が聞こえそうなほどにショックを受けて、そのまま顔面蒼白で固まってしまった。その肩を、店主とマツが、カウンターの向こうから伸ばした手でぽんぽんと叩く。
「まあまあ、落ち着いて、天野君」
「そうそう、そこを追及するのは後にしましょうよ、お兄さん」
「お、俺の妹……妹が……」
「だから、なるちゃんから預かった写真は、俺にとって、最後の賭けだったんだ」
 誠は今にも泡を吹いて倒れそうだが、晃星は徹頭徹尾、それを無視するつもりらしい。
「これ、返すね」
 上着のポケットから手帳を取り出し、その中に大切に挟んであった写真を、成海に向かって差し出す。
「その写真は、誠にとっても、心を大きく揺さぶられる、たくさんの感情が詰まった貴重なものだったみたいだ」
「…………」
 きちんと透明な袋に入れられたその写真は、「誠の記憶を呼び起こす」 という大きな役目を果たし、約束通り、汚れもせずに、成海の手許に戻ってきた。
 本物の誠と一緒に。
 成海はその写真を胸に押し当て、静かに息を吐いた。
 ゆっくりと、目を閉じる。
 これから先、写真も、人形も、もう誠の 「形代」 は必要ないのだ。
 ……ずっと、この時を待っていた。
「君はやっぱり、幸運の女神さまだったよ」
 晃星が笑って言った。



          ***


 それから、数日後。
 成海は、晃星に連れられて、彼が日本で自分の拠点としていたという、マンションを訪れた。
 母方の祖父の持ち物だというそのマンションの部屋は、成海と誠が暮らす小さなアパートの部屋など比べ物にならないくらいに、広かった。LDKだけで、あの一室全体がすっぽり収まってしまいそうだ。
 晃星に促されて、ふかふかの大きなソファに腰かけながら、成海はわあーと感嘆の声を出して周囲を見回した。
「ずっと使ってなかったからさ、埃っぽくて悪いね」
 傷をつけたら大変なことになりそうな立派なテーブルの上に、晃星が二人分のコーヒーカップを置いて笑う。そのカップでさえ、もしや名のあるお方では、と思わずにはいられないような代物だ。
「一応、普段使うところだけは掃除したんだけど。あとは面倒だからほったらかし」
 広い室内には、美しい飾り棚や、アンティーク調のチェストや、すらりとした曲線を描く優美な椅子などもあったが、それらはすべてカバーがかけられ、その上を白い埃の膜が覆っている。
 数年──あるいは、十数年、ここは誰にも使われないまま、放置されていたのだろうと想像できた。
 すでに故人だという晃星の祖父というのは、一体どういう人だったのだろう。晃星自身が、きちんとした躾をされて育ったのではないか、というのは前にもちらっと考えたものの、判らないことはまだたくさん残っている。
 晃星はやっぱり、謎の多い人なのだった。
「うん? なに?」
 成海の隣に座って、微笑みかける。しかしどうしてここまで隙間なく、きっちりと詰めて座るのだろう。こんなに大きなソファなのだから、もう少しゆとりを持ってもよさそうなものなのだが。
「私はまだ、晃星くんのこと、よく知らないままだなあと思って」
「そう? だったら答えるよ。何が知りたい? 身長? 体重? 彼女の有無……は、もう知ってると思うけど」
 ニコニコしながら言われて赤くなる。最初にファミレスでこれと同じ台詞を言われた時は、この人とこんなにも近い距離で話をするようになるとは、思ってもいなかった。
 変わったものは、多くある。
 けれど、変わらないものもある。
 判らないところがまだたくさんある晃星。いろんなことを口にせず、黙ったまま一人で動き続けていた晃星。
 ──でも彼は、ずっとはじめから、成海に対して、何ひとつ嘘はつかなかった。
「じゃあ、あの、聞きたいんですけど」
「うん。なに?」
 あまりにも近いので、少し距離を取ってから、身体をずらして晃星のほうを向く。

「……どうして、ここまでしてくれたんですか?」

 真顔で訊ねると、晃星がちょっときょとんとした。
「ここまで?」
「せっかく就いていたお仕事を辞めて、アメリカから日本に来て、不便な暮らしをしながら、あちこちを動き回って、限界近くまで一生懸命、誠ちゃんを探してくれたのは、どうしてですか?」
「…………」
 晃星は口を閉じ、そこに浮かべていた楽しそうな笑いを、苦笑いのような、困惑の混じるような、微妙なものに変えた。手を顎のところに持っていき、するりと指で撫ぜる。
「……友達だから、っていうのは、理由にならない?」
「それだけでは、ないですよね?」
 もちろん、それが理由のいちばん大きなものであるのだろう。大事な友達だから。幼馴染だから。けれどそれだけでは、普通はここまではしない。心配しても、同情しても、力になろうとはしてくれても、多分、ここまで自分の生活を犠牲にして助けようとはしない。
「うーん」
 晃星が唸るような声を出して、目線を彷徨わせた。その顔は、言いたくない、というより、どう言えばいいのか自分でもよく判らない、という感じに見えたので、成海は黙って続きを待つ。
「……あのさ、俺、この通りの頭でしょ」
 しばらくして、ぽつりと切り出した。
 明るい栗色の髪を、ぴんと指で弾いて。
「今でこそ、日本にいたって、周りはみんな似たようなもんだから、誰にも何とも思われないけど。……それは大人の世界の話であって、小学生の世界では、また違うんだよね」
 そうか。これが地毛だというなら、小学四年生で誠のいる小学校に転校してきた時も、彼はこの色の髪をしていたわけだ。周りが真っ黒ばかり、多少色素の薄い子供がいたとしても、ここまではっきりと明るい色の髪の毛を持つ小学生は、さぞかし目立ったことだろう。
「まあ、俺がどこからどう見ても外国人、って顔をしてたら、まだよかったのかもしれないんだけど、どういうわけか髪と目は父親、顔立ちは母親の血を色濃く引いちゃってさ。とにかく、どこもかしこも中途半端なんだよ。まったくの異分子ってわけでもない、でも自分たちの仲間とも思えない、そういうやつってのは、わりと疎外されやすいんだよね」
 日本に来てから、晃星は周囲から仲間外れにされ続けたのだという。
「俺もそこで下手に出るほど可愛げのある性格じゃなかったし、たてついて、反抗して、争って、人間関係はこじれる一方だよ。その頃のガキなんてのは無邪気だけど残酷だからね、けっこう陰湿な苛めとかも受けたりして」
 無視され、罵声を浴びせられ、物を投げられ、理不尽な暴力に晒され。大人たちはみんな見て見ぬふり、教師でさえも、外国育ちの子供に対して腰が引けていた。外に出れば出たで、何も知らない人々から、「あんな子供の髪を染めるなんて非常識な」 と白い目で見られて、ひそひそと陰口を叩かれる。
 周囲はすべて、敵だった。
 子供のこととはいえ……いいや子供だからこそ、そんな毎日は疲弊する。たかが髪と目の色が違うくらいで異端扱いをする偏狭な日本の子供たちにも、ガイジンという言葉で受け入れを拒否する日本という閉鎖的な社会にも、心底うんざりした。つらく苦しい日々に耐えられなくなって、いっそ自分だけでもこの日本から出て行こう、と小遣いを貯めて逃亡資金を作っていた頃。

「誠が、よー、ヒマなら一緒に遊ばないかー? って声をかけてきてさ」
 その当時を思い出したのか、晃星がくすっと笑いを漏らした。

「周りがみんな、ギョッとした顔してんのに、一人だけ気づかないんだ。俺も最初は、仲間外れにされてる転校生に同情してんのかって穿った見方をしちゃったけど、そういうのでもなくて。ただ本当に、単純に、空気も読まずに、ヒマそうだから声かけた、ってだけ」
 長い付き合いの友人にも、「単純バカ」 と称される誠は、小学生の時から、単純で、大雑把で、ほとんど何も考えていない子供だった。
 単にヒマそうにしているやつがいるから遊びに誘っただけ。一緒に遊んでみれば、わりと話の合うやつだと判ったから、それからも声をかけ続けただけ。自分が楽しいから、仲良くなろうとした、それだけ。
「あんまり誠が堂々としてるから、いつの間にか、周りも俺を苛めるのをやめた。子供なんて、単純だよ。もちろん、それですべてが良い方向に廻るようになったかっていうと、そうでもないんだけどね。俺はすでにその時、かなり人間不信になってたし、もともとひねくれてるところがあったから。表面上はなんでもないような顔をして話もするんだけど、心の中は醒めてて、常に疑いの目で相手を見てた。今はこうでも、いつまた態度が変わるか判らない。誠だって、いつ俺を見捨てるか判ったもんじゃない、って」
 髪と目の色、ただそれだけで人を判断するようなやつらなんて信用できない。こうして能天気に笑っている誠だって、コロッと気を変えて、明日には自分の敵に廻っているかもしれない。
 誰も、何も、信じられない。晃星の世界は、冷たい暗闇のままだった。

「……そんな時、君に会った」

「え」
 晃星の言葉に、目を見開く。その頃……というと、成海は三歳かそれくらいだ。
「なんで誠の家に行くことになったのかな。それも覚えてないんだけどさ、とにかく、その家はものすごく温かくて、優しい人たちのいる場所だった」
 穏やかな父親、朗らかな母親、無邪気な妹。
「俺の家庭は、あんまり上手くいってるとはいえないものだったんだよね。父親はほとんど家にいないし、母親はさほど子育てに興味のない人で。だから俺、誠の家族を見た時、すっかり世の中の不公平さに腹を立てちゃって」
 何もかもが優しい世界。愛情に溢れた家族。笑顔の絶えない家。自分からは遠いものばかり。
 ──なんて、不公平な。
「だから、君が俺を見て、こう言った時も」
 誠が、「友達のコウだよ」 と紹介してくれた時、小さかった成海は、まじまじと晃星の栗色の髪を見て、にこーっと嬉しそうに顔いっぱいで笑ったのだそうだ。

 きれい。コウくんの髪、おひさまみたいで、きれいねえ。

「……バカみたいだ、としか思わなかった。その子は、なるちゃん、なるちゃん、ってみんなに呼ばれて愛されててさ、すごく幸せそうだった。だからそうやって無邪気な顔をして、屈託なく笑えて、そんなことが言えるんだって。日本に来てからはじめて、俺のこの髪を、偏見なくまるごと受け入れてもらえたのに、俺はそれさえも、素直に受け取れなかった。ここにいてもいいんだよって、自分の存在を肯定してもらっているようで、すごく嬉しかったはずなのに、その時の俺はただ、黙って、その子から顔を背けることしかしなかった」
 自嘲気味に言って、目を伏せる。その頃の晃星だって、まだまだ子供だったのだろうに、そのことが人生の汚点だとでも思っているかのように。
「──ありがとうって、言いたかったんだ、本当は」
 でも、言えなかった。晃星はその言葉を出せないまま、それきり誠の家にも行くことはなかったし、誠の妹と顔を合わせることもなかった。別の友人が、一度、小さな妹にちょっかいをかけて怖がらせたのだそうで、それ以降、誠は同年代の男の子を彼女に会わせることを極端に避けるようになったのだという。
 しかし、誠との付き合いはその後も続いた。そのうち、誠の単純なところに影響されたのか、晃星の人間不信も少しは改善されてきた。人との間に距離を置いてしまうのは変わらないが、以前のような冷え冷えとした気持ちはもうない。成長するにつれて、おもに女の子たちのほうで、この髪を好意的に捉える向きも増えてきて、それを勝手だなと呆れて笑ってしまえるくらいには。
「でも、また引っ越すことになってさ。結局、最後まで、俺は誠にも、君にも、何も返せないまま、日本を発った」
 もやっとした後悔を抱えたまま。
 だが、それでもどんどん時間は経っていく。いろいろあって、名前が変わり、大学に入って、自分自身も忙しく過ごしていた。その頃になって。
「……誠と君のご両親が、亡くなったって聞いた」
 あの優しかった人たち、晃星を、「いらっしゃい」 と出迎えてくれた人たちが亡くなったと知って、衝撃を受けた。
 じゃあ、もう、あの温かい家はなくなってしまったのか。
 人生は不公平だと腹を立てたあの時。けれど、その突然の不幸を、晃星は微塵も喜べはしなかった。これで平等になったと思うことも出来なかった。ただ打ちのめされた。
 誠は、あの妹は、これからどうするんだろう。
 なるちゃん、と呼ばれて、幸せそうに笑っていたあの子。こちらに向けてくれたあの笑顔は、もう失われてしまったのだろうか。
 湧いてくるのは、ひたすら、後悔、後悔、後悔、そればかりだ。ここに至って、やっと気づく。あの時の、いや今までの自分が、どれだけ、まっすぐな気性の誠と、あの美しい夢のような家族と、小さな女の子の笑顔と言葉に、支えられ、救われていたかということを。
 失われてしまったもの。これからもう見られないかもしれないもの。その喪失の大きさに今になって気づいたところで、一体自分に何が出来るだろう?
「──だから、今度こそ後悔しないために、俺はここに来た」

 誠がいなくなったと聞いて。
 今の自分に、出来る限りのことをするために。

「それで、十五年ぶりくらいかな、君を見てさ。誠のやつ、話はするけど、君の写真は頑として見せてくれなかったんだよ」
 どれだけ変わっているだろう。両親を失い、兄も失いかけている現在、どれだけ憔悴しきっているだろうと、おそるおそる様子を窺って、見つけた少女。
「──君はやっぱり、笑ってた」
 晃星が、そう言って、やんわりと目許を緩め、微笑んだ。
「昔とはもちろん違うけどね。でも、この状況でも、やっぱり優しく笑ってた。俺は最初、君の自立を手伝って、すべての片が付いたら、また離れるつもりだったんだ。だから、なるべく距離を保っていようと思ってたんだけど」
 ふわりと顔が近づく。軽く、唇を合わせた。
「途中から、ああ、これはもう捕まえておかないと無理だ、って諦めた。そうしなきゃ、俺がもたない。君ときたら、ホントに頑固で、人を容易く信用して、そのわりに手強くて、目が離せなくて、俺はずっと、君を追いかけるのに必死だったよ」
 途中から、やけに声が低く囁くようなものになったと思ったら、いつの間にか晃星の顔だけではなく身体まで、すぐ間近に迫っていた。そしていつの間にか、前のめりに体重をかけていて、成海に覆い被さるような態勢になっていることにも気がついた。
 あ、あれ?
 うろたえて、逃げ道を探したが、これまたいつの間にか、晃星の両手が自分を閉じ込めるようにがっちり両側を固めている。え、ちょっと待って。確かにはじめは、普通に座って話していたはずだったのに。
「あ、あの」
「納得した?」
「は、はい。えと、私、まだ、晃星くんにちゃんとお礼も言ってなかったなと思って」
 彼の側に、どんな理由があるにせよ。
 晃星は、ちゃんと誠を連れて帰ってくれた。
 成海をずっと、助けてくれていた。
 誠はギリギリで籍を抜かれる前に会社に復帰することになり、あのアパートも出て行かなくて済んだ。晃星が、そう出来るように、それに間に合うように、誠と成海に以前と同じ日常が戻ってくるように、懸命に動いてくれたからだ。
 だから、それについてのお礼はちゃんと言いたい。
 ……もうちょっと、まともな態勢で。
「そんなのはいいよ」
「そういうわけには……わ!」
 とうとうソファの上に押し倒された。言葉を続けようと開きかけた口を塞がれる。
「俺は俺のために動いただけだから。なるちゃんは、最後まで俺のことを信じてくれた、それで十分。以前にも言ったでしょ、君はそこにいるだけで、誰かに何かを与えられることもあるって。俺が何かを出来たとしたら、それは君がいたからだ。……俺にとって、君こそが、太陽だったよ、ずっと」
 そう言いながら、唇を甘噛みされた。舌がするりと入り込み、深くなる前に離れていく。愛しさの滲む声と、熱い吐息に、肩が震えた。
 優しく頬を撫でていた指が、滑るように首筋に移動した。ネックレスの石と一緒に、その下の肌にも唇が落とされて、びくりと身じろぎする。
「……ところでなんで今日、ジーンズなの?」
「え、あの、誠ちゃんの絶対命令で」
「…………。あ、そう」
 晃星が薄っすらと笑った。怖い、その顔、怖いです。
「別にいいけど。脱がせば一緒だし」
 わあ、なんかぼそっと言った!
「あ、あの」
「ハーフだってこと、特に隠すつもりはなかったんだよ。でもさあ、わざわざ言わなくてもいいかなって。だって、いずれ判ることでしょ、なるちゃんには。この髪が別に染めてるわけじゃないってこと」
「は……?」
 問い返すと、ニコッと笑われた。
「この髪の毛が地毛ってことの証拠、見たくない?」
「…………」
 しょっちゅう気障な台詞を吐くくせに、晃星は時々下品なことを言う。
「キ、キスだけって」
「しばらくは、って言ったよね? なるちゃん、『しばらく』 ってのは、すぐじゃないけど、あんまり時間がかからない、ってことだよ。もうその期間は過ぎました」
 そうなの?! 期間、短くない?!
「心の準備が……」
「出来るまで待つよ。十秒? 二十秒?」
 以前よりも短縮されてるんですけど?!
「──ね、なるちゃん」
 艶のある琥珀色の瞳が細められる。こちらを覗き込んで、無邪気さを装い誘惑してくる。そうしている間にも、顔の至るところにキスの雨を降らせて、手はさわさわと腰の線をなぞるように動いている。次第にのしかかってくる重みが増していく。
 唇が耳に寄せられ、軽く噛むようにして、囁きが落とされた。
「……今日、泊まっ」
「あの、晃星くん」
「寝室はちゃんと掃除してあるから大丈夫」
「晃星くん、電話が鳴ってます」
「放っといていいよ。それより、なるちゃん、今日」
「晃星くんの電話じゃなくて、私の電話です」
「だからいいんだって」
「でも、ずーっと鳴って」
「聞こえない。俺は聞かない。なるちゃんも俺の声だけ聞いて、俺のことだけ考えてよ」
「無理ですよ……」
 なにしろ、鳴っては切れて、また鳴って、をしつこくしつこく繰り返しているのだ。何かこう、出るまでは絶対諦めない、という、執念というか怨念のようなものが漂ってくる。この状態で晃星のことだけを考えるのは至難の業だ。
「Shit!」
 いつまでも続く電子音に、さすがに我慢が切れたらしく、あまり品が良くないと思われる英語を吐き捨てて、晃星の身体が成海から離れた。
 バッグから取り出した携帯を、「も、もしもし?」 と耳に持っていく。晃星はソファにどっかりと身を預け、ものすごく機嫌が悪そうだ。無理もないけど。
「どうしたの? うん……うん。えっ、ど、どうして……う、うん、わかった、とにかくすぐ帰るね」
 すぐ帰るね、を言い終えて通話を切るのと、晃星が 「は?!」 と驚いた顔でこちらを振り返るのが同時だった。
「ちょ、なるちゃん」
「ごめんなさい、晃星くん。誠ちゃんが、いきなり原因不明の頭痛と腹痛と歯痛に襲われてるらしくて」
「…………」
「今にも死にそう、って言ってるので、帰ります。ごめんなさい、また」
 バッグを肩にかけ、小走りに出口へと向かう。
 バタバタと慌てて部屋を出て行く成海の背後で、
「……あのシスコン、いつか小包にして、また村に送り返してやるからな……!」
 という殺気のこもった声と、何かを思いきり蹴とばす音が聞こえた。


 とん、とん、とん、とステップを踏むようにして、成海は駆ける。
 ──まるで、雲から雲へと、軽やかに跳びながら歩いているみたいに。



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