空中散歩

6.認識の距離感



 翌日、朝からさんざん着る服に迷っていた成海は、出かける間際になってようやく決まったそれにやれやれと息を吐き、仏壇の前に座った。
「じゃあ、いってきます、お父さんお母さん」
 いつもの挨拶をしてから、隣にある誠人形に視線を移す。
「えーとね、誠ちゃん」
 目と目を合わせて話しかけたはいいが、ほとんど無意識に、正座をした足の指がそわそわと動いた。
「今日は学校をサボっちゃったけど、それは決して、遊びたいからとか眠いからとかダルいからとか、そんな理由じゃないんだよ、ホントだよ」
 我ながら、言い訳くさい。
「やむを得ない事情で……だってほら、銀行って平日しか行員さんがいないじゃない? 学校が終わってからだと、窓口は閉まってるじゃない? 二、三分で終わるような用件じゃないし、しょうがないんだよ。だからあの、今回は大目に見てもらえたらなーと」
 どうしてもぼそぼそとした言い方になってしまうのは、あの真面目な兄に、学校をサボって男の人と二人でお出かけ、などという事実を知られたら、卒倒されかねない、と思うからだ。
 兄の性格をよく知っていて、自分自身もけっこう真面目かも、と思っている成海としても、やむを得ないこととは言いつつ、病気でもないのに学校を休んで外出するというのは、どこかやっぱり後ろめたい。自然、弁明をしながら、視線はどんどん誠人形から逸れていく。マジックで描かれたニコニコ顔が、なんだか静かに怒っているように見えて仕方なかった。
 いつもはだらだらと人形相手にお喋りをするところだが、今日はさすがにそういう気分にはなれない。床に正座した格好で、手をついてぺこりと頭を下げ、
「えーとそんなわけで、いってきます」
 と、傍らに置いてあった大きめの鞄を手に取り、そそくさと立ち上がる。
 誠人形はもちろん何も返事をしてくれなかったが、黒々とした太い眉が、まるで、「帰ったら説教だぞ」 と言っているみたいで、ドアを開けながらドキドキした。


 待ち合わせの時間よりも十分ほど早かったのに、駅に到着すると、晃星はすでに来て待っていた。
 出口にある五段ほどの階段のいちばん上、柱にもたれた姿勢で、またスマホを操作しながら、すらりと立っている。黒いシャツ、黒のレザージャケットで、色合いとしては地味なのに、明るい栗色の髪が、離れていてもよく目立った。
 片手でスマホを操り、もう片方の手はジーンズのポケットに入れているという晃星は、周囲にまったく関心を向けない。でも、その脇を通っていく女性たちは、ちらっちらっと彼を振り返っていくことが多かった。
 きっと、長い脚を組み替えるさまとか、体重のかけ方とか、ちょっとした頭の動きとか、そういう何気ない仕草のいちいちがスマートだからだろう。なるほど、海外暮らしが長いと、そういったことが自然と身につくようになるものか。成海は感心した。
「お待たせしました」
 近寄って声をかけると、晃星が目を上げて、口許を綻ばせた。今までずっとスマホに視線を落として無表情だったため、それだけでなんとなくホッとする。笑顔でない時の晃星は、雰囲気が少々近寄りがたい。
「や、成海ちゃん。早いね」
「八神さんこそ」
「思ったより早く着いちゃってさ」
 電車の時間が合わなかったのかな、と内心で思って気がついた。

 ……そういえば、晃星はどこに住んでいるのだろう。

 ずっと海外に住んでいて、今回、日本に来たのは、短い滞在なのか、それとも、こちらで暮らすことになったのか、それさえもはっきりとは聞いていない。
 成海の前にふらりと現れた二回ともが、カフェの近辺だ。果たしてそのあたりに彼の拠点があるのかどうかも定かではない。大体、どんな場所で寝起きしているのだろう。ホテルか、家か、それとも知人や親戚のところなのか。
「……あの」
「可愛いねー、成海ちゃん。制服姿以外をはじめて見たよ。あれはあれでいいけど、私服も新鮮だ」
 問いかけようとしたら、晃星の軽い声がかぶって、その先の言葉が喉の奥に引っ込んだ。
 顔を見たら、本気で嬉しそうにニコニコしながら、成海の上から下までを眺めている。無邪気なくらいのその視線には、まったく遠慮というものがなかった。
 海外暮らしだったからそうなのか、晃星のもともとの性質なのか。視線と共に向けられる笑顔は、相手に不愉快さを与えるようなものではないものの、ここでそつなく対処できるほど、成海はそういうのに慣れていない。
 洋服の裾を指で引っ張って、もじもじする。
「大人っぽい服装、って言われて、迷ったんですけど」
 成海とて現役女子高校生、オシャレに興味がないわけではないが、クローゼットから溢れて困る、というような衣装持ちでもない。手持ちの洋服を全部ひっくり返すように出してコーディネートに悩んだが、結局、無難なものがいいのではないかという結論に行き着いた。
 タートルの白い薄手のニットに、えんじ色の膝丈フレアスカート。銀行の人と話をするのだからと気張ってみたところで、どんなに背伸びをしても 「大人の女性」 には見えないだろうから、せめて落ち着いた印象になりそうなものを選んだ。
「似合う、似合う。すごく可愛い。うん。可愛いなあー」
 目尻を下げた晃星は手放しで褒めてくれるが、そこまで 「可愛い」 を連発されるのも少々複雑だ。やっぱり、この格好も子供っぽいのかな。また行員たちに相手にしてもらえなかったらどうしよう、と不安になる。
「スーツとかにしたほうがよかったかな……」
 スーツなんて持っていないのだが、そう言ってみる。あるいは、園加に事情を話して、洋服を借りてもよかっただろうか。しかしあの友人の好みは、ヒョウ柄だったり、やたらと襟ぐりが大きかったり、おへそが見えるようなデザインだったりして、確かに大人っぽいのだが、成海に似合うとはあまり思えない。
「でも、あと私の持っている服っていうと、ジーンズとかミニスカートとかショートパンツとかになっちゃうし……」
「うっわ!」
 独り言のようにぶつぶつと呟いていた言葉に、いきなり晃星が反応した。目を見開いて大声を出され、びくっとする。
「ミニスカにショーパン! うわ、俺、失敗した?! 大人っぽい格好なんて、言わなきゃよかったか! そっちのほうが見たかったー!」
「…………」
「あー失敗した! 痛恨! 大後悔!」
「……あの、八神さん」
「成海ちゃんのミニスカ姿が間近で堂々と拝める機会だったのに! あーどうしよ、俺、今夜は悔しくて悔しくて眠れない! なるべく足が露出する格好で来てね、って言えばよかった!」
「八神さん、先に行きますね」
 地団駄を踏んで自分の失言を悔やみ続ける晃星を置いて、成海はさっさと改札を抜けることにした。

 うん、もしもこれからまた私服でこの人と会う機会があったら、その時はジーンズを履こう……。


          ***


 一緒にランチでも、という言葉通り、晃星はわざわざ店を予約しておいてくれたらしい。
 連れて行かれたのは、若い女性同士やカップルで賑わう、地中海料理の店だった。天井が高く、シックな内装の店内には、大きな窓から明るい陽射しがよく入る。落ち着いてはいるが、そんなに取り澄ましたような高級感もなくて、安心した。
 多分、成海が委縮しないようにとその店を選んでくれたらしい晃星は、メニューを見ながらさりげなく料理の説明をしたりして、大人の気遣いと余裕が見える。電車の中でも未練たらしく、今度はミニスカートにしてねと念を押していた人物とは思えない。

 不思議な人だなあ、と成海は首を捻った。

 外見は今どきの若者だ。でもどこか洗練されている感じがする。安っぽい居酒屋でも、もっと高級なフレンチのお店でも、彼はその場に違和感なく馴染めるのかもしれない。美形、という顔立ちではないけれど、人を惹きつける何かを持っている。笑顔はとても人懐っこく憎めないが、笑みが消えた途端、近寄りがたいオーラをまとう。
 掴みどころがない。
 結局、彼がどういう人間なのかは、さっぱり判らない。
「うん? なに?」
 そんなことを思いながらぼんやりと目の前の人の顔を眺めていたら、晃星がニコッとして身を乗り出してきた。ぶしつけにジロジロ見すぎていたかな、と反省し、水の入ったグラスを口元に持っていく。
「なんでもないです。ごめんなさい」
「謝ることないでしょ。俺の顔、気に入った?」
 なぜそうなるのか。そして、なぜそんなに嬉しそうなのか。
「そういうことではないです」
 気に入るとか気に入らないとかの問題ではない、という意味で成海はそう返したのだが、晃星はちょっとがっかりしたような表情になった。よく判らない。気に入った、と答えても、顔だけで判断しているみたいだし、気に入らない、と答えても、それはそれで大いに失礼だろうに。
「ねえ、いい機会だから聞くけどさ」
 と、晃星がテーブルに置いた手を、軽くとんと叩くように動かした。
「成海ちゃんの好みってどういう顔? あのカフェの店長みたいなイケメン?」
「は……?」
 それは、「いい機会だから聞く」 ような内容かな、と非常に疑問になって、首を捻る。
「常陸さんは、確かに素敵だなと思いますけど」
 率直に言ったら、晃星はますます面白くなさげな顔になった。今度は机に頬杖をついて、子供のように唇を尖らせる。
「へー。まあ、あの店長、確かにカッコイイもんな」
「そうですね。お店に来るお客さんも、こっそり写メで撮ってたりしますよ」
「やだね、そうやって売り上げを伸ばしてんのか」
 そういうわけではない。
「そういう人たちばっかりじゃないし、男性のお客さんもよく来ます」
「男も籠絡してんの? 俺はイケメンには興味ない」
「だからそういうことじゃなく……」
 そりゃ、人によって美醜はあれど、そんなに顔って重要かなあ、と成海は思うほうなので、どうして晃星がここまでむくれるのか今ひとつ理解できない。晃星もきっと女性にモテるのだろうし、男同士のライバル意識みたいなものがあるのだろうか。
「で、なに、成海ちゃんも、あの店長のファンなわけ?」
 晃星はやけにしつこくその話題に固執した。ファンなのかと言われても……と、成海は戸惑ってしまう。
「助けてもらっている恩がありますから、私に出来る限り、それに返したいなとは思っています。常陸さんは素敵だし、優しいし、大人だし、紳士だし、落ち着いてるし、ミニスカートが見たい、なんてことは間違っても言いませんけど」
「…………」
「でも、とっても綺麗な恋人がいますから、軽々しくファンなんて言ったら悪いですよ」
「え、そうなの?」
 成海が驚くくらい、晃星は勢いよく食いついた。ますます身を乗り出して、「どんな人? どんな人?」 と訊ねてくる。そこまで露骨に 「とっても綺麗な女の人」 に興味を示さなくても、と思うが、口には出さないでおいた。
「すっごく美人さんなんです。笑うと、花が咲いたみたいに周りもぱあっと明るくなるんですよ。背も高くて、常陸さんの隣に立つと、ちょうどぴったり釣り合うし。二人でいるところを見ると、ドラマのワンシーンを見ているような気分になるくらいです」
「美男美女の組み合わせかあー。世の中ってのは不公平だね」
 成海が思ったのと同じようなことを言う晃星は、なんだかやけに機嫌良さそうにニコニコしている。他人に彼女がいる、という話は、そんなに楽しいものだろうか。
「なんて名前の人?」
「笙子さんです」
 ついうっかり口を滑らせてから、しまったかなと思った。人のプライベートなことまでべらべら喋ってしまうのは、相手に対して失礼で無神経であると同時に、自分の品性を貶める行為だと兄からよく言われていたのに。
 しかし晃星は、「笙子さん? へえー、名前も美人っぽい」 と言ったきり、それ以上その話題には触れてこなかった。彼も、そういったことの引き際はちゃんと心得ているのだろう。
「じゃあさ、成海ちゃん」
 その代わり、イタズラめいた瞳を成海に向けて、問いかけた。
「成海ちゃんの理想の男って、どんなの?」
「理想の男の人、ですか?」
 首を傾げる。
「うん、そう。アイドルとか、俳優とかで、こういうのが好き、っていうやつはいる?」
「アイドルや俳優ではいませんけど……」
「え、なに、もっと身近なところ? 学校の先輩とか、同級生とか」
「はあ、そうですね。身近なところでは」
 成海はぽっと頬を染めた。

「──誠ちゃんみたいな男の人が、いちばんいいです」
「…………」

 晃星はしばらく黙り込んでいたが、ややあって、前に乗り出していた上半身を後ろへと戻し、椅子の背もたれに背中を預けて、がくっと肩を落とした。
「怖い……最強のシスコンブラコンコンビ……」
 はあーっと深い息を吐きだし、うーんアレが理想かあー、と唸るように呟く。
 それから、まじまじとこちらを見返して、
「……成海ちゃんは、顔で男を選ばないタイプなんだね」
 と、失礼なことを真顔で言った。


          ***


 食事代金は晃星が支払ってくれた。
 自分の用事に付き合わせているのだから、本来なら、成海が食事代くらいは負担するのが筋というものだ。高校生の女の子に奢られるのが精神的に苦痛ということなら、せめて割り勘。そう思っていたのに、晃星はさっさと伝票を持ってレジに向かってしまい、当たり前のように財布から金を出して精算を済ませてしまった。手際が良すぎて、成海が、お金……と言い出すヒマもない。
「あの、八神さん、私、今日はちゃんとお金持ってきているので」
 店を出てから隣に並んで歩く晃星にそう言ったら、きょとんとされた。
「ん?」
「えーと、だからお茶とか飲みに行きませんか」
「成海ちゃんが誘ってくれるのは嬉しいけど、今? さっき食後のコーヒー飲んだばかりだよ」
「もう少しあとでもいいんですけど、お茶くらいご馳走させてください。わざわざ八神さんの時間を割いて来てもらってるのに、食事まで奢ってもらって、あまりにも申し訳ないですし」
「…………」
 口を噤んだ晃星が、突然、ぴたっと立ち止まった。
 つられて成海も立ち止まったが、晃星は顎に手をやり、口を曲げて、何か考えるようにこちらを見ているだけである。
「? 八神さん?」
「あー、そうか、わかった」
 困惑する成海に、晃星はふいに声を上げた。

「──つまり、俺と成海ちゃんとでは、認識の違いがあるんだね」

 そうかそうかと言いながら、うんうん頷かれたが、成海は意味が判らない。
「認識の違い、ですか」
「うん、そう。成海ちゃんは要するに、今日は重苦しい課題をクリアするために、意気込んでここまで出てきたわけだ」
「はい、そうです」
「成海ちゃんにとっての銀行は、ものすごく難しくて、敷居の高い場所で、だから考えてるのもそのことばっかり、と」
「はい」
「で、俺のことを、そこに付き添い役として重い腰を上げて申し出た善意の人だと思ってる」
「違うんですか」
「俺は、これはデートのつもり満々だった」
「え、デートではないですよね?」
「うわ、ざっくり言われた! けっこう傷つく」
 不満げにぶつくさ言って、晃星は正面から成海を向くと、わずかに身を屈めるようにして顔を覗き込んだ。

「……あのね成海ちゃん、たかが銀行に行くくらい、誰だってやってる。全然、大したことじゃないよ。成海ちゃんも、あんまり気負わないほうがいい。あっちもシビアな世界に生きてるんだからね、オドオドした態度をとると、すぐに見抜かれて足許見られるよ? 堂々として、かえって楽しむくらいの気持ちでいなよ」

「え……」
 ぱちりと瞬きをすると、晃星が目を細めた。
「少なくとも、俺はそういうつもりで来たからね。成海ちゃんとランチするのも、銀行のタヌキ親父たちを相手に立ち廻るのも、昨日から楽しみだったよ。うん、今も楽しい」
 そう言って、にっこりした。
「楽しい時間を提供してもらってるのは俺のほうだ。だから、成海ちゃんは変なことに気を廻す必要はない」
「…………」
 まっすぐ向けられる目は嘘をついているようには思えなかったが、だからといって、その言葉のすべてを鵜呑みにするほど成海も子供ではない。「でも」 と言いかけたら、晃星がそれを遮るように手を動かした。
 肩まで伸びた成海のストレートの髪に、近づいてきた長い指が、さらりと触れる。
 じっと見つめてくる瞳は、光の加減でか、琥珀色に見えた。
「いいから。──それとも、俺って、そんなに甲斐性がないように見える?」
 なんだか声が艶っぽい。成海は大いにうろたえて、どぎまぎした。これが色仕掛けというやつか。晃星はそういう点も外国人男性並みに羞恥心が湧かないタチらしい。
「そ、そういうわけではないんですけど、でも」
「でも?」
「八神さん、お仕事されてるんですか」
「今、無職」
「…………」
「いや、だからって財布を出すのやめてくれる? 同情の目で見るのもやめて。仕事はしてないけど、そんなに金には困ってないから。大丈夫だから」
 普段のトーンに戻って、言うんじゃなかったかなあー、とぽりぽりと頭を掻く。
 そうしてから、ふっと笑って、ぽんと軽く頭に手を置いた。晃星はわりと気軽にスキンシップをとる性格のようだが、さっきのとは違って、これはどぎまぎしない。どちらかというと、少し安心した。
「成海ちゃんが俺といて他のことばっかりに気を取られてるっていうのも癪だから、とりあえず、そっちの用事を済ませちゃおうか。ああいう所の人間ってのは、頭の固いのばっかりだけど、せいぜい引っ掻き回してやろう」
 その口調が、いかにも、これからイタズラをする子供のようなものだったから、それを聞いた成海の肩からも力が抜けた。
 抜けてからはじめて、ああ自分はずっと緊張していたんだなと、自覚した。
「八神さんは、そういうの、得意そうですね」
「どういう意味? 俺はまあ、クールに攻めようかなと思ってるんだけどさ」
「ミニスカにこだわる人がクールですか」
「What? ワタシ日本語ワカリマセーン」
 ニコニコしながら言われて、成海はたまらず笑い出した。
「やっと笑った」
 晃星が、嬉しそうに言った。



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