空中散歩

7.交渉人



 以前、成海が銀行を訪れた際、最初に応対してくれたのは窓口の若い女性だった。
 そういう場所で改まった話をすることにはまったく慣れていなかった成海だが、それでも頑張って、現在の状況を率直に説明したつもりだ。
 しかし、はじめはにこやかだった窓口嬢は、成海が話を続けていくにつれ、徐々に表情に困惑の色を乗せ、最終的には同情を混ぜ込んだ口調で、
「申し訳ないのですが、通帳とカードがなく、名義人様がいらっしゃらない以上、こちらではなんとも……」
 と言った。
 そういう返事が来るのはある程度予想していたし、銀行側の対応としてはそう言うしかないのだろうということも理解はしていたので、失望も怒りもなかった。その上で、なんとかならないかと訊ねる自分が、ひどく非常識なのだということも弁えている。しかしそれでも、この預金は自分にとっての将来的な命綱なので、そうそう簡単に引き下がるわけにもいかなかった。
 印鑑はある。身分証明もある。誠と成海が、ずっと同居していた真実血の繋がった兄妹であるという公的書類だってある。父と母はおらず、親類もいない。成海は、これからなんら収入のない状態で、兄の帰りを待たねばならない、ということを、粘り強く説明し続けた。
 二十代くらいの窓口嬢は、心情的には成海の味方をしてやりたいと思ってくれていただろう。終いには無言で頷くだけになって、目の前の年少の客に対して心底からの憐憫の眼差しを向けていたが、彼女だけではどうにもならない問題であることがはっきりすると、「お待ちください」 と、席を立った。

 そしてしばらくして、代わりにやって来たのは、四十代くらいの厳めしい顔つきをした中年男性だった。

 その人が席に座った途端、成海の言葉は、まったく意味を成さないものに変わってしまった。
 困惑しながらも真面目に話に耳を傾けてくれていた窓口嬢とは違い、彼は最初から、すでに耳と心を閉じた状態で、成海と向き合っていたからだ。成海が何を言っても、どう言っても、無機質で画一的な応対しかされない。こちらの声は彼の中を素通りしていることが明らかで、その目には、成海という存在は見えていても、「話相手」 としては認識されていなかった。
 ──その理由は、多分、成海が、「子供」 だから。
「とにかく、こちらではどうしようもないんですよ」
 係長なのか課長なのか、とにかくそういうポジションにいるらしい男性は、淡々とそう言って、成海が提示した書類のすべてを綺麗に整えて突っ返した。
「ご境遇は気の毒とは思いますが、こちらにも銀行として守らなければならないルールがあることを理解してくださいね。まだ未成年ということなら、早いうちに、どちらかに保護を求めるのが、まず第一だと思いますよ」
 そう言って、成海の返事も聞かずに、窓口から離れ、さっさと自分の席に戻って行ってしまった。要するに、聞く耳も持たずに、追い払われたのだ。
 はじめに話を聞いてくれた窓口嬢が、憐れむように、そして気まずそうに、立ったままこちらを見ているのを背にして、成海は唇を噛みしめて、すごすごと帰るしかなかった。
 その時のやりきれなさ、悔しさ、惨めさ、そしてどうしようもないほどの寂しさは、今でもよく覚えている。
 ……話をすることも出来ないほど、私は 「保護」 が必要な人間なの?



 晃星と再び出向いたその場所で、はじめのうち、それとほぼ同じことが繰り返された。
 前回とは違って、窓口嬢はやや年配の、ベテランっぽい女性行員だったが、成海の話をちゃんと聞いてくれたし、「申し訳ないのですが、こちらではなんとも」 と困ったように答えるところまで、まったく同様だった。ひょっとして、銀行にはそういうマニュアルでもあるのかもしれない。
 成海の側で異なっているのは、隣に晃星が座っているという点だ。晃星は何を考えているのかよく判らないアルカイックスマイルみたいなのを浮かべて腕を組み、成海と女性行員のやり取りを黙って眺めているだけだったが、それでも一人きりでいた時よりは、格段に心強かった。
「お気の毒ですけど、名義人様がいらっしゃらないことには」
「それは判ってます。なにも私だって、今、全額を引き出したいって言っているわけじゃないんです。今後、どうしても困った時のことを相談したくて来ているんです。これから、もしかしたら、電気もガスも止められて、もう飢え死にするより道はない、っていう時が来るかもしれない。そういう事態になったら、少しだけでもこの預金から切り崩すことは出来ませんか。両親が残してくれたお金なんです。私が生き延びるためにこのお金を使ったとしても、兄は絶対にあとで文句を言ったりすることはないし、銀行を訴えたりすることもしません」
「そう仰られても……」
 結局、前と同じように、窓口嬢は匙を投げて、上司にバトンタッチした。
 目の前に来た男性は、前と同じ人物だった。彼に苦手意識を持っていた成海もちょっと気持ち的に後ずさりしかけたが、相手も覚えていたようで、露骨に顔にうんざりしたものを浮かべていた。
 彼はちらっと晃星を一瞥したが、その瞳は無関心なままだ。きっと、ボーイフレンドを連れてきたのか、くらいのことしか思っていないのだろう。
「何度来られても、こっちは同じことしかお答えできないんですけどねえ」
 溜め息とともにそう言われて、成海は思わずひるんでしまう。やっぱりこの人物は苦手だ。ずっと、「他人に迷惑をかけないように」 と兄に教えられて思春期を過ごした成海は、こうまであからさまに、迷惑な客扱いをされる耐性がついていない。かなり、めげそうになる。
「あの、でも」
「ここは銀行ですからね、お兄さんが行方不明云々の話をされても、どうしようもないんですよ」
「ですけど」
「同情はしますけどね、それはそちらの都合であって、こちらの仕事とは関わりないわけですし」

「──うん、だから、そちらの仕事の話をしましょうよ」

 いきなり割って入ってきた新たな声に、男性行員が少し目を見開く。そちらを向いた行員と顔を合わせて、晃星がニコッと笑い、組んでいた腕をほどいた。
 窓口のカウンターテーブルに肘を突き、わずかに身を乗り出す。その動きにつられ、男性行員の身体が少しだけ後ろへとずれた。
 トン、と晃星が指で叩くテーブル上には、成海が用意して持ってきたたくさんの書類が、秩序なく散りばめられている。
「こっちも、見ず知らずのおじさんの同情なんて、これっぽっちも必要ないんでね。さっきから聞いてりゃ、あの女の人もあんたも、何かといえば 『お気の毒だとは思いますが』 だ。あのね、いちいち感情論を差し込むのはやめにしてもらえる? この子はずっと最初から、判りの悪い銀行のおじさんたちに、理性的に説明をしようと一生懸命努力してるでしょうに」
 非常に人懐っこく見える晃星の笑顔だが、その口から辛辣な言葉が出ると、皮肉なものにしか映らない。成海はちょっとびっくりして目を丸くし、男性行員はむっと憤慨したように眉を寄せた。
「……失礼ですが、あなたは?」
「俺はこの子の婚約者」
 笑いながらなんでもなく出された言葉に、ええっ、と成海は大いに動揺したが、なんとかそれは表情に出ないように押しとどめた。この場面で、無関係の赤の他人です、とは、そりゃ言えないだろう。そういう口実を作るのなら、事前に言っておいてほしかったが。
 男性行員の目は、どう見ても成海たちの関係性を疑っていたが (無理もない)、胡散臭そうな視線を向けるだけで、何も言いはしなかった。ウソに決まってるのは判っているけど、とりあえずその点は不問ということにしてあげましょう、というような少々恩着せがましい譲歩が、その顔にくっきりと表れている。
「では、理性的にお返事しますが、この状況では、こちらではどうにも出来かねます」
「だからさ」
 もう一度、トン、と晃星の指がテーブルを叩いた。
「どうにも出来ない、っていうのは、どういうことなわけ」
「ですから、なんともしようがない、ということです。いくらご兄妹でも、名義人ではない方の引き出しを、認めるわけにはいきません」
「けど、カードがありゃ、この子でもATMで引き出しできるでしょ。暗証番号、知ってるよね、成海ちゃん」
「はい」
 大きく頷く。家計は成海に任されていたので、現在も普段使いの通帳とカードは成海の管理下にある。誠はその点妹に頼り切っていて、自分のお給料なのに自分では引き出すこともせず、個人的に使うお金は毎月の小遣い制にしていたくらいなのだ。
 通帳に設定されている暗証番号は、すべて同じ。カードさえあれば、成海は預金を引き出すことが問題なく出来ていたはずだった。
「ですからそれは」
「印鑑はあるんだから、通帳がありゃ、窓口でも引き出せる。五万とか十万とかなら、名義人本人でなくても銀行は特に詮索しない。せいぜい提出を求められるのは、この子の身分証くらいのもんじゃない? それと一体、どう違うのかなあ。さっきからこの子が言ってるのは、もしも今後経済的に切羽詰まってきた時に、生活費だけでも下ろすことが出来ないか、っていうことなんだけど」
「ですから、カードや通帳があれば、そういうことも出来るでしょう。しかしそれらがないと仰るんですから、それではこちらも処理できない、とお答えしているんです」
「できないできないって、バカの一つ覚えみたいに繰り返されなくても、ちゃんと聞こえてるよ。俺が言ってんのは、だったら具体的にどうすればいいのか、ってことだ」
 晃星はそう言って、テーブルに散らばっていた書類をまとめ、一枚一枚確認するように並べていった。

「通帳とカードがありさえすれば、名義人でなくても、問題なく金を引き出せる。ということは、銀行も、その場合その人物には、それだけの権利がある、と考えてるってことでしょ。『同居の家族で、登録の印鑑を共有あるいは所持していて、本来本人しか知り得ない暗証番号を知っている』──そういう人間は、ある程度自由に口座の金を引き出して差支えない、と銀行側は認めているわけだ。それらの条件を、彼女はすべてクリアしてるよね。ましてや、この預金は、彼女の両親の保険金。保険金の受取人は、正確には互いの配偶者だったけど、同時に亡くなったために、二人の子供にそれぞれ相続された。つまり、この中に入っている金額の半分は、彼女の所有のものだ。こっちは、それらを証明する書類まで持参してるんだよ。お気の毒に、なんてことを言っているヒマがあったら、ちょっとはマトモな交渉相手になってもらえない? それとも、この銀行には、そんな風に頭を使える人間もいないのかな」

「…………」
 男性行員の顔が強張った。
 笑みはまるで動かさないのに、晃星の声音は冷静で、容赦なく冷淡だった。スパスパとした物言いには、曖昧さや遠慮というものがまったく感じられない。なるほど、主張すべきところは主張する、というのはこういう意味だったのか、と成海は思った。
 これが大人のやり方だというのなら、成海の説明なんて、確かに子供扱いされても無理はない。そう納得するほどに、晃星は堂々たる交渉人だった。
「いや、しかし……なにしろ未成年でもあることですし」
「成人の後見人がついていれば問題はないということかな」
「それは……はっきりとお答えできかねます」
「後見人ってのは、たとえば近所のおじさんみたいな人で問題ないレベル? だったら俺でもいいよね、婚約者だし。身分を証明するものもちゃんと持ってるよ」
「そ、そういうわけには」
「何がいけないのか、どういけないのか、筋道立てて言ってもらわないと、こっちだって引けないよなあ」
 そして、晃星は間違いなく、この交渉を楽しんでいた。声にも、ニヤニヤしている顔にも、それがくっきりと出ている。楽しみだ、と言っていた言葉に、どうやら嘘はなかったらしい。
 対照的に、成海に対してあんなにも迷惑そうな態度を取っていた男性行員が、今は額に滲む汗をハンカチで拭っている有様だった。
「それとも、正式に弁護士でも立てないと、取り合ってもらえない?」
「え──」
 行員の顔色がさっと変わる。弁護士、という言葉は、彼の動揺を突くのにそれなりの大きな役割を果たしたらしい。
「いい? こちらはこれだけの書類を提示して、正当性を主張し、柔軟な対応を求めているわけだ。そのためには何が必要なのか、どういう手立てを取ればいいのか、明瞭に返事をもらいたい、と言ってるんだよ。後見人が要るというのならその定義、弁護士からの書状が要るというのならその内容、そこを具体的に明示されなきゃ、こちらだって用意のしようがない」
「…………」
 男性行員は口を噤み、しばらく黙り込んだ。
「……そこまでは、私の判断ではなんとも……」
「だったら判断できる人呼んで。あんたよりも上の人。それとも、ここの支店長でもいいよ」
「いえ、支店長でも、多分、はっきりとは……本店のほうに聞いてみませんと」
「じゃあ、聞いて」
「……今すぐ聞いても、回答がすぐに返ってくるようなものではないです。お時間を頂かないと」
「時間って、どれくらい? 一時間? 二時間?」
「い、いや……」
 たたみかけるような晃星の言葉に、男性行員はすっかりたじたじとなっている。額だけでは収まらなくなってきた汗を、またハンカチで拭った。
「あちらでも前例などを調べたりするのに手間がかかるでしょうし、一カ月くらいは……」
 チッと舌打ちして、晃星が何かを言った。小さい声で、しかも英語だったので、成海にはまったく聞き取れない。
「論外だね。思いきり譲歩して、三日」
「いや、せ、せめて、二週間」
「じゃあ、一週間ね」
 それだけ言って、返事も待たずに、さっさと立ち上がる。あまりにも早い展開についていけなくて、成海もまごついてしまい、目の前の行員と隣に立つ晃星とをうろうろと見比べた。
 ──ここに来て、改めて事態を眺めてみれば。
 形勢も、立場も、前回この場所に足を踏み入れた時と、完全に逆転しているではないか。現在、難問を押しつけられたまま放り出されて途方に暮れているのは、成海ではなく、銀行側のほうだ。
 晃星はニコッと笑った。
「一週間後、またデートだ。成海ちゃん」
 これはこれで役得だなあ、と楽しそうに呟いた。


          ***


 まだ少し、ふわふわと足が地に着かない感じがする。
 正式に返事をもらえたのではないのだから、問題が解決したわけではない。本店のほうに聞いてもらっても、やっぱりどうやっても無理です、という回答になるのは大いにあり得る。そういう意味では、家を出た時から、状況はほとんど変わっていない、と言えるのかもしれないが。
 ……でも、気持ちのありかたが、まったく違う。
 子供扱いをされて、クレーマーのような目で見られて、切り捨てられた前回。あの時に抱いた、身の置きどころのないような切ない感情が一切ない。
 どこか高揚が続いているような、ぼんやりと夢を見ているような気分で、銀行を出た成海はアスファルトの道路を歩いていた。

 真っ暗だった目の前に、小さな光が見える。それだけで、こうも救われるのか。

「さー成海ちゃん、どこに行こうか。映画? 買い物?」
 晃星は、銀行のことなんてすでにすっかり忘れたように、ニコニコとこれからの予定を立てている。楽しげなその子供っぽい顔を見ると、行員をやり込めたあの鋭い言動が幻だったのかと思うくらいだ。
「映画や買い物って……それじゃ、まるでデートみたいですよ」
「だから、これはデート……」
「これ以上、八神さんのお時間を取らせたら申し訳ないので、帰ります。それに、今日は学校をサボってるんですから、ふらふら遊ぶわけにはいきません」
 正直、帰ってからの誠人形の目が怖い、という理由もある。
「ええー」
 晃星は不満そうに口を尖らせた。れっきとした大人の男性である彼が、幼馴染の妹、というだけの女子高校生と遊んでも、大して楽しくはないだろうに。きっと気を遣ってくれているのだろう。
「あの、今日は本当に、ありがとうございました、八神さん」
 立ち止まり、成海は改めて、深く頭を下げて礼を言った。
 晃星がいなければ、事は決してこのようには進まなかっただろう。人を頼らなければ状況を前進させられない無力な自分は情けないが、兄との繋がりだけでここまで来てくれた晃星の親切は本当に嬉しかったから、出来る限りの気持ちを込めて、ありがとう、の言葉を出した。
 その情に返せるものが、言葉だけなんて、歯がゆいけれど。
 やっぱり、せめてお茶くらいはご馳走させてください、と言おうとして顔を上げたら、こちらを見ていた晃星と目が合った。
 彼は笑みを浮かべておらず、口を閉じて、ただこちらを見返している。
 あれ? と一瞬戸惑った間に、晃星はすぐにまた普段の気さくな表情に戻った。気のせいだろうか。こういうことが、何度かあるような。

 成海が晃星の顔を見ていない時、彼はどういう表情で自分のことを見ているのだろう──と、ふと思った。

「そういうのはナシにしようって言ったでしょ、成海ちゃん」
「でも」
「そーだなあ、じゃあさ」
 晃星はちょっとイタズラめいた笑いを口元に貼り付けると、成海の顔を覗き込んだ。
「そういう気持ちがあるのなら、別の表しかたがいいな」
「あ、はい。だからお茶を」
「いや、そういうんじゃなくて」
「高級レストランとかでなければ、食事でもなんとか」
「成海ちゃん、いい加減そこから離れようね。一緒にお茶を飲みに行ったり食事に行ったりするのは大賛成だけど、そこの支払いを成海ちゃんにしてもらいたいとは思わない」
 キッパリ言われて、ああやっぱり……と成海はがっかりした。二十五の男性が、女子高校生に奢られて、いい気分にはなれない、ということなのだろう。でも、だとしたら成海には、他に感謝の気持ちを形にするすべが思いつかない。
「そっちじゃなくてさ」
「? はい」
「俺のこと、名前で呼んでよ」
「は?」
 きょとんとして首を傾げて見返すと、晃星は 「あ、これいい考えだ、これはいい」 と、一人で悦に入って盛り上がっている。ものすごく楽しそうだった。
「名前っていうと」
「晃星って」
「晃星さん、って呼べばいいんですか」
「さんはいらない」
「それは無理です」
 すっぱり断ると、ええーとまた唇を突きだした。
「なんで。俺さあ、慣れてないんだよね、八神さん、っていうの。あっちではみんな、コーセーって呼んでたし。だから成海ちゃんもそう呼んでよ」
「無理です。目上の人を呼び捨てにするなんて」
「うわ、そういう融通の利かないところ、ホント誠にそっくり。さん、って堅苦しいじゃん。も少しフランクにいかない?」
「ここは日本で、私は日本人ですから」
「How persistent you are!」
 晃星は、街中にいる若者と同じように、ざっくばらんで少々軽めの日本語を流暢に操るのに、たまに無意識のように英語が口をついて出るらしい。何を言っているのかは判らなかったが、その呆れたような顔つきで、大体の意味は推測できた。まったく頑固だな! とか、そんなようなことだろう。
 ここまで嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた晃星に、そんな顔をさせるのは成海だって本意ではない。かといって、そんな馴れ馴れしく、コーセーなどと呼べるはずもない。渋々、妥協案を出した。
「……じゃあ、晃星くん、っていうのはどうでしょう」
「ちぇー」
 晃星はその提案に面白くなさそうに唇を曲げたが、すぐに、ぷっと噴き出した。
「まあいいや。晃星くん。晃星くんね。うん、まあ、それも悪くない」
「…………」
 そんなに何度も繰り返して、素直に喜ばなくても。
 これからその名前で呼ぶのか……と思うと、自分で言い出したことながら、かなり恥ずかしい。しつこく晃星くん晃星くんと唱えてニコニコしている晃星の思考を逸らすために、話題を切り替えることにした。
「そういえば、銀行でも、英語で何か言ってましたよね」
「ん? そうだっけ……俺、何か言ったかな」
 晃星は考えるように首を捻った。ついぽろりと出た独り言のようなものだったから、自分が何を言ったのか、覚えていないらしい。成海がもっと英語が得意であればよかったのだが。
「えっと……アズ、なんとかって」
「ああ」
 成海の言葉で、ようやく思いついたように軽く声を上げる。一拍黙って、「assholeね」 と呟き、俺そんなこと言ったかな、とぶつぶつ言った。
「どういう意味なんですか?」
「…………。まあ、くそったれ、とかそんな感じの」
「へえー」
 要するに、罵声の一種だったようだ。なるほど、それは日本語で言わなくて正解だ。
「今度、ちゃんと辞書で調べてみますね」
「いや、いいから。お願いだからやめて成海ちゃん。俺の人格が疑われる」
 張り切って言ったら、なぜか慌てて止められた。



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