空中散歩

8.見上げる空



 晃星は成海を家の近くまで送ってくれたが、最後まで、「用件だけ済ませて帰るなんてつまんない」 とぶうぶう不満を零していた。
「来週はもうちょっとちゃんとしたデートをしようね、成海ちゃん。学校をサボるってこと、君はとんでもない罪悪のように考えすぎだよ。用事のための欠席を重く考える必要はまったくなし。世の中には、勉強よりもずっと大事なことがたくさんあるんだからさ」
「はい、ですから銀行に行くために、学校を休むのはやむを得ないと思ってます。でもだからって、そのついでに遊び回るのは……」
「社会勉強ってやつだよ」
「違うと思います」
 晃星が、小さな息をついて首を傾げ、成海を見返した。強情な子供を相手に手を焼く、というような目をしている。
「成海ちゃん、真面目とつまらないは紙一重だよ。何事も楽しまないと」
「…………」
 その言葉に、成海は少し困って眉を下げた。
 確かに現在、自分に物事を楽しむ余裕はまったくない。でも、行動を共にしてもらっている人を 「つまらない」 と思わせるのは、やっぱり問題があるのではないか。暗い表情をして、重苦しい気持ちを他人に伝染させてしまうことは、なるべくしないようにと努力していたつもりだったけれど。
「ごめんなさい。次の時は、もうちょっと八神さんに楽しんでもらえるように頑張ります」
「は?」
 しゅんとして謝ったら、晃星は目を見開き、本気でぽかんとしたような顔をした。
 それから一拍置いて、「あー」 という唸り声をあげ、栗色の髪に手を突っ込んでくしゃっとかき回す。
「ごめん、俺の言い方が悪かった。別に、君がつまらないって言ってるわけじゃなかったんだけど」
 俺、繊細な言い回しっていうのが出来ないんだよね……と呟きながら、目線を宙に彷徨わせる。ああでもないこうでもないと考えるように、難しい表情で首を捻った。
「えーと、つまりね……あんまり箱の中に入ってばかりだと息苦しいっていうかな……。うん、息を抜いて、リラックスしようってことなんだよ」
「リラックス、ですか?」
「うん、そう。緊張したり、たくさん考えたり、まっすぐ前ばかり見たりするのは、たまにはいいけど、いつもいつもだと疲れちゃう。でしょ? 成海ちゃんは今も十分頑張ってるんだから、それ以上は頑張らなくてよろしい。それよりは、たまに余所見をして、もうちょっと楽しいことを考えるようにしよう。ね?」
 ニコッと笑いかけられて、成海は戸惑った。
 今まで、頑張ってね、と同情心と共に言われることはよくあったが、頑張らなくていい、と言われたのははじめてだ。
「でも、楽しいこと……といっても」
「なんでもいいんだよ。時々、深呼吸して、周りに目を向けて、気分を切り替える。それだけでもぜんぜん違う。目を開けて、耳を澄ましてみれば、青い空があり、白い雲があり、澄んだ空気の中には、ちゃんとのどかな鳥のさえずりが聞こえる。君の周囲には、たくさんの美しいものがある。それも見ないでいるのはもったいない、ってこと。ヘミングウェイも言ってるでしょ、『The world is a fine place and worth fighting for.』 って。ね?」
「は、はあ……」
 ぺらぺらと一気に喋られた上に、英語まで混じっていては、目を白黒させてあやふやに頷くしかない。よく判らないのだが、要するに、そんなに気を張ってばかりいないでもっと力を抜け、ということなのだろう、と成海は解釈した。
 ──私って、そんなにもガチガチに肩肘を張ってるように見えるのかなあ。
 そう思うと、少々恥ずかしいような気分になり、視線を上へ向けてみる。
 頭上には確かに晃星の言うとおり、抜けるような青い空がいっぱいに広がっていた。その中を、長く白い雲が流れるように風に押されて、コントラストがとても綺麗だ。こんなにもくっきりとした鮮明な色合いをしているのは空気が澄んでいるからなのだろうし、よくよく気がついてみれば、街の中だというのにチチチという鳥の短い鳴き声もしっかりと耳に届いてくる。
「…………」
 ……うん。

 世界は、こんなにも美しい。

 この間見た満月も美しかった。今目の前にある青空も美しい。成海が気がつかなかっただけで。ずっと長いこと、成海がそれらをちゃんと見もしなかっただけで。
「綺麗でしょ?」
 晃星の穏やかな笑み混じりの声が聞こえた。不意に、目頭が熱くなってうろたえる。どうしたのだろう、いきなり。悲しい気分でいたわけではなかったのに。
「綺麗ですね」
 顔を向けると泣きそうになっているのがバレてしまうので、上を向いたまま返事をした。しかし声の端が震えてしまって台無しだ。晃星は何も言わなかったけれど、一人で慌ててしまい、空を見上げたまま、誤魔化すように言葉を続けた。
「こんなにも綺麗な空を、歩けたらいいですね」
「うん?」
「あの雲の上を、ぴょんぴょん飛びながら歩くんです。時々は、のんびり寝転がってみたり、風に流されたり、虹を渡ってみたりして。果てしなく広くて開放的で、どんなにか気持ちがいいでしょうね。そんな風に、空をお散歩できたらいいですね」
 そうして、雲の上から地上を見下ろしてみたら、きっといろんなことが手に取るように判るだろう。地上にいたら見えないであろう、たくさんの景色がいっぺんに目に入る。ずっと遠いところだって見通せる。雲に乗って、日本どころか世界を巡って──そうしたら。

 ……そうしたら、誠を探すことも、ずっと容易に出来るだろうに。

 結局、成海の思考はそこに帰着してしまう。晃星の言うように、楽しいことを考えるのは、案外難しい。
 けれども、そんな夢のようなことを考えられる分、いくらかは気持ちも楽になったような気もした。
 素早く手の平で目尻を拭って顔を戻すと、晃星と目を合わせて、えへ、と笑った。何も言わずに目を細めただけの晃星は、繊細な言い回しは苦手でも、人の気持ちを慮ることがちゃんと出来る人だった。
「あのさ、成海ちゃん」
「はい」
「俺ね、これから少し、ここを離れないといけないんだ」
「はい」
 晃星の言う、「ここ」 が何を指すのかよく判らないながら返事をする。この街、ということなのか、どこか判然としない晃星の住む場所のことなのか。もしかしたら、「日本」 という意味であるとも考えられる。
 晃星には、そのあたりを説明する意思がまったくないように見えたので、成海も特に追及しなかった。あまり人のプライバシーに踏み込むのはよくない、と思ったのもあるし、自分はそんなことを詮索する立場にはないな、と思ったのもある。
「けど、来週の水曜には必ず間に合うように戻ってくるからね。電話とメールは、いつしてもらっても構わないから、何かあったら知らせて。すぐには無理でも、かけ直すか、返事をする」
「はい」
 晃星はけっこう忙しいらしい。無職だと言っていたし、就職活動とか、そういうのをしているのだろうか。だったら余計に、自分のことで手を煩わせるわけにはいかないなあ、と思いながら返事をしたら、晃星に眉を寄せられた。
「……あのね、ホントに変な遠慮は要らないからね。困ったことがあったら、ちゃんと言うんだよ? わかってる?」
「はい」
 困ったこと、と言われて、一瞬、担任の上田の顔が脳裏を過ぎったが、すぐに胸の底に押し込めて微笑んだ。
「何もないです。ありがとうございます」
「…………」
 ちょっとだけ疑わしそうな顔をしたが、晃星はそれ以上突っ込んではこなかった。
「水曜になる前に連絡するよ」
「はい」
「今度こそミニスカね」
「…………。あの、八神さん」
「ちょっと待った、さっきからさりげなく 『八神さん』 になってるんだけど。晃星くんはどこ行った?」
「…………」
 覚えてたか……。
「じゃあ、今日はこれで。ご迷惑おかけしますけど、また来週よろしくお願いします」
「成海ちゃん、このままなしくずしにその件をなかったことにしようかなとか思ってない? 言っておくけど、俺、来週になっても忘れないからね」
 ええ〜……。
「イヤな顔しない。じゃあホラ、練習しよう、今。Repeat after me.晃星くん」
 晃星が、英語教師のような真面目くさった顔をして言った。ますます恥ずかしい。平日の真っ昼間、人通りもある歩道上で、これは一体なんの罰ゲームなのか。
「八神さん……」
「晃星くん」
「…………こ、晃星くん」
 同年代の男の子に対しても、こんな呼び方をしたのは小学生の時以来だ。ましてや目の前にいるのは、成海から見て立派な男の人である。自然と顔が赤くなり、目を逸らした。
「声が小さいなー。はいこっち見て。もう一回ね。Once more please.」
 一方、晃星は明らかに楽しんでいた。このニヤニヤ笑い、銀行で男性行員を相手にしていた時と、まったく同じだ。ちょっとムカッとする。
 成海はまっすぐ相手を向くと、ヤケクソな気分と一緒に、はっきりと言葉を出した。
「晃星くん!」
 よくできました、と晃星はにっこり笑った。


          ***


 翌日、いつも通り右往左往しながら、「ル・クール」 でバイトに励んでいたのだが、九時を過ぎたあたりで、客の入りが途切れて、店内にも客が一人もいないという、空白の時間がぽっかりと出来た。入る時は次から次へとまとまって入ったりするのに、たまにこんなことがある。
 こんな時は、いろいろと準備をしながら、征司と少し雑談をしたりして、お客さんがやって来るのを待つ。おおむね、バイトを始めたばかりで、まだ緊張している成海を、店長が気遣ってくれる形だ。
 なのでこの時も、まず質問されたのは、
「昨日はゆっくり休めたかい?」 
 ということだった。
 ここで、店長こそデートは楽しかったですかあ、などと笑って返せるほど、成海は世慣れてはいない。正直に、銀行へ行きました、と答えた。
「銀行?」
 征司が意外そうに目を瞬き、それから心配そうな表情になる。
「もしかして、例の口座の件で?」
 誠がカードと通帳を持っていったために、実質上凍結状態になっている口座のことは、征司にも話してある。ごめんね僕もそういう手続きには詳しくなくて、と申し訳なさそうに言われ、成海のほうが慌ててしまったくらいだ。二枚目男性に哀愁漂う憂い顔で頭を下げられるのは、非常に心臓に悪い。
「以前、銀行に相手にしてもらえなかったと言ってたけど、また、イヤな思いをしたんじゃないのかい。ああいうところは、型にはまった対応以外のことを、なるべく避けようとする傾向があるからね」
 さすがに征司は、やんわりと配慮の感じられる表現を使った。そもそも苦手意識を持っている成海からすると、銀行は、ついつい 「敵」 のように見なしてしまいがちだが、客観的に見れば、双方それぞれの立場や言い分があって当然なのである。大人の征司には、どちらも理解できる、ということなのだろう。
「今回は、一人で行ったわけじゃなかったので」
「誰かと一緒に行ったの? お友達?」
「いえあの、友達ってわけではないんですけど……」
 それで結局、晃星のことを征司にざっと説明することになった。説明といっても、成海自身、彼のことをそれほど把握しているわけではないので、誠の幼馴染で、数日前お客さんとしてここにも来て、という、かなり大雑把な内容にしかなりようがないのだが。
 成海の話を聞きながら、征司の形の良い眉は、徐々に中央に寄っていった。
 カウンターテーブルに肘を突き、口許に持っていった長い中指で、とんとんと軽く唇を叩く。難しい顔つきで店内の空間を見据え、視線を再び成海に戻すと、慎重な感じで言葉を出した。
「……成海ちゃん」
「はい」
「こんなことを言ってはなんだけど……その人物は、ちゃんと信頼できるのかな」
「え、はい」
 きょとんとする。
「だって、誠ちゃんの」
「幼馴染ね。うん、それはそうなのかもしれないんだけど」
 征司が少し困った表情をした。なんとなく、幼い子供に注意をしようとしている親、のような雰囲気だ。子供の主張はある程度認めた上で、でも言うべきことは言わないと、という理性と戒めが見える。
 そして成海は、こういうのに弱い。亡き父が、普段は滅多に怒らないが、幼い成海が悪さをしたりすると、こうやって静かに向き合い諄々と諭すタイプだったのである。いつだって、母に怒られるのよりも、父の説教のほうが、よっぽど胸に堪えた。
「でも、それだけで、人をまるっと信用してしまうのはどうかな。成海ちゃんが素直な子だというのは知っているけど、だからって、それがいつでも良い目に出るとは限らない。世の中には、いろんな人間がいるからね。すべての人が、善意に溢れているわけではないんだよ」
「それは……わかってます、けど」
 小さくなって、ぼそぼそと答える。征司が言っているのは、幼馴染という肩書、イコール、信頼できる人物、ではないということなのだろう。それは判っている、つもりだが、しかし。
「でも、八神さんは」
「彼は今、どこに住んでるの?」
「いえ、知りません」
「連絡先は?」
「ケータイの番号を交換しました」
「仕事はしてるのかな」
「……無職だそうです」
 征司が口を噤み、深く溜め息をつく。晃星の弁護をしようとした成海も、自分で言っていて怪しさ満載の内容に、その先の言葉を続けられない。
「──成海ちゃん」
 こちらに向けられる視線と声音が、厳しさを帯びた。すっかり叱られている気分になって、成海はますます身を縮めて 「はい」 と返事をする。
「悪いけど僕は、その彼のことは、信用のおける人物だと思えない。あまり深く関わらないようにしたほうがいいんじゃないかな」
「……でも」
「その口座には、ご両親の保険金が入っているんだろう? かなり多額なんじゃないのかい」
「四千万、くらいです」
 成海の返事に、征司が目を見開いた。
 支払われた保険金のうち、両親の葬儀代や墓の代金や諸費用などでいくらかは使ったが、まだそれくらいは残っている。これから何があるか判らないからと、成海と兄は将来に備え、そのお金を大事に取っておくつもりだったのだ。
「そんなに……」
 呟いて、征司が考え込むように口に手を当てた。眉間の皺がさらに深くなっている。具体的な金額を聞いて、征司の懸念はますます強くなってしまったようだった。
「だったらなおさらだ、成海ちゃん。君はもう少し警戒心というものを持たなければダメだよ。会ってすぐに銀行との交渉役を買って出るなんて、最初から目的がそこにあったとも考えられる」
「そんなこと」
「よく思い返してごらん。まず客としてこの店に来るなんて、距離の詰め方からして不自然だとは思わないかい。天野の幼馴染として君の身を案じているというのなら、普通はもっと常識的な方法で会いに来るものじゃないかな。なぜ彼は、口座から金を引き出すことに、そうまで熱心になるんだろう?」
「…………」
 どう返事をしていいのかも判らなくなり、成海は無言で視線を下に向ける。征司は自分のことを本当に心配して忠告してくれているのだろうと思うから、余計に何も言えなかった。
 その時、店のドアが開き、二人の女性客が賑やかに笑い声を立てながら入ってきた。救われた気分になってぱっと振り返り、「いらっしゃいませ!」 と努めて明るく声を出す。
 席に案内するためカウンターを離れる成海に、征司はまだ何かを言いかけていたが、思い直したように口を閉じた。



 バイトを終えて、帰り際に、
「成海ちゃん、僕の言ったこと、ちゃんとよく考えてみるんだよ」
 と征司に念を押された。
 はい、と返事をしたものの、店を出て一人になり、外の空気を吸ったら少しほっとした。
 征司の瞳には、危なっかしい子供をハラハラと見守るような色があって、いつもは兄を思い出してほっこりするそれが、今日に限ってはなんとなく気が重い。
 そんなに、自分は考えなしで、頼りなく映るのだろうか、と思うと、悲しくなる。
 上手に気持ちを伝えられないのがもどかしい。「でも」 の先を明確に言葉にして続けられない自分が情けない。筋としては、征司の言うことのほうが通っているのかもしれないが、彼の話を聞いていて、胸の中のもやもやは膨れていく一方だった。
 確かに、大金が絡むことなので、征司が気を揉むのは判る。彼は晃星と直接言葉を交わしたことがないのだから、なおのこと胡散臭く思えるのかもしれない。よくよく考えてみたら、あの店での晃星は、ただの軽いナンパ男としての面しか見せていなかったわけだし。いや、実際に会って言葉を交わしたとしても、胡散臭い印象が消えるかどうかはまったく自信がないのだが。
 ……正直なところを言うと。
 信じる、信じない、は、よく判らない。
 そんな判断が下せるほど、成海は晃星のことを知ってはいないからだ。兄の幼馴染、ということで、最初の段階で警戒心の枷が外れていたということは、確かにあるだろう。成海はあまり、人の言葉や行動の裏を読むことには長けていない、という自覚もある。
 ──でも。
 顔を上げ、真っ暗な夜空を見上げた。
 そこに青い空はもうないけれど、闇の中で明るく輝く月が自分のいる場所を照らしている。


 でも、晃星は、いつも上を指差して、成海に美しいものを見せてくれる。
 輝くもの、眩しいもの、明るい光を示してくれる。
 成海の周りに張り巡らされた目には見えない柵をひょいと乗り越えて隣に来てくれたのも、ぽんと背中を叩いてじゃあ一緒に戦おうかと声をかけてくれたのも、晃星ただ一人だった。


 はっきりしているのは、それだけ。
 ……けれど成海には、それこそがとても重要で、泣きたくなるほどに、とても嬉しいことだったのだ。



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