猫の手貸します

case3:部屋掃除

捨てるもの・拾うもの(3)




 とりあえず、「ゴミ」 と判別したものを袋に押し込んで、すべて外の軽トラに乗せてしまってから、時子はふう、と額の汗を腕で拭った。
「……ちょっとは、すっきりしたかな」
 呟かれた言葉に、美里は 「そうね……」 と返事をした。それだけしか言わなかったのは、ふてくされていたわけではなく、本気で感動していたからだ。
 すごく久しぶりに床が見える。そこにはまだ衣類とか雑誌とかが散乱しているわけだが、それでもプラ容器や紙くずなどの明らかなゴミがなくなっただけで、ここ最近ずっと美里を圧迫し続けていた息苦しさ、追い詰められるような切羽詰った感じが、すうっと消えていくように感じられた。
 ……つまり、自分を苦しめていたものは、この部屋の汚さ以上に、「捨てられない、片付けられない」 という自己嫌悪だったのだろう。
 目の前からゴミがなくなった分、不思議なほど、自分の心も軽くなった。実際に片付けたのは、美里ではないのだけれど。
「じゃあ、私はこれからお洋服をどんどん畳んでいきますから、美里さんはそれを箪笥にしまってくださいね」
「え、私が?」
 時子に言われて、美里は驚いて聞き返した。ずーっとベッドの上に座って眺めているだけだった美里が、何かを指示されたのはこれがはじめてで、突然のことに少し戸惑ってしまう。
「だって、どこに何をしまうかなんて、同じ女とはいえ、私が決めることじゃないですもん。箪笥には下着とかも入ってるから、環君には尚更させられないですし」
 どうも時子は、美里に気を遣うというよりは、環に他の異性の下着を見せたり触れさせたくない、という理由でそう言っているらしい。それはちょっと私に対してどうなのよ、と美里は思わないでもないが、確かに環に箪笥をいじられるのは抵抗があるので黙っておくことにした。
 時子はすいすいと床から洋服を拾っては、手早く畳んでベッドの上に並べはじめる。それを引き出しに入れていくだけなのだから、このところさっぱりそういうことが出来なくなっていた美里にとっても気楽な作業だった。時子の畳み方は手際もいいし、セーターもブラウスも、すべてがきちんと同じくらいの大きさに揃っているから、尚のこと簡単だ。
「……時子さんは、どうしてあの便利屋でバイトしてるの?」
 その様子を半ば感心しながら見物して、美里は問いかけた。環は現在、台所方面の片付けをしているので、聞こえないようにこっそりと声を潜める。言ってはなんだが、どう見ても待遇のよくなさそうなあの事務所よりも、時子だったら、他にいくらでもバイト先が見つかりそうなものなのに。
「環君がいるからに決まってるじゃないですか」
 時子の答えは単純明快だった。
「それだけなの?」
「それだけです」
 きっぱりと返され、美里はなんとなく納得できずに首を捻る。
「時子さんって、あんまりそういう感じには見えないんだけど」
 なおも続けて言うと、時子がくるりと顔を向けた。その間も手は休まずにさくさくと動いているから、床の露出部分は順当に広がっていく。
「そういう感じって?」
「えーと、なんていうか、彼氏がこれをするから自分もする、みたいな。追随型、っていうの? 時子さんは、そんな感じじゃなくて、どっちかっていうと、相手を振り回すタイプに見える。それとも、不破さんにやってくれって頼まれたの?」
「…………」
 時子は口を閉じ、ついでに手も止めた。首を傾げ、じっと美里を見返す。
「美里さん、なんか誤解してるみたいですけど、私は環君がこの仕事をしてるから自分もしてみたい、なんて思ったわけじゃないですよ。頼まれたわけでもありません。環君はむしろ、私がバイトするって話に、あからさまな反対こそしなかったけど、いい顔をしませんでした。それを強引に押し切ったのは、私が、環君がいるところと同じ場所にいたい、って思ったからです」
「……その二つは、違うものなの?」
「全然違いますね」
 断言されて、美里は口を閉じる。何がどう違うのか、よく判らない。
 時子は美里のその困惑したような顔を見て、少し口許を上げた。一瞬だけふっと大人びた表情は、今までのような 「元気のいい明るい女の子」 のものではなくて、どきりとする。
「──要するに、私のワガママなんですよ」
 と、付け加えられた声は、独り言のように小さなものだった。え? と問い返そうとした美里を遮るように、時子はたちまちまた元の屈託のない笑顔に戻った。
「でも、この仕事が好き、っていうのもあります。時給は低いけど、楽しいことや、面白いこともありますしね」
「楽しい? こんな……他人の部屋の掃除でも?」
 美里は怪訝な顔をした。自分だったら、こんなこと、とてもじゃないけど 「楽しい」 なんて思えないのに、時子は本当に心から楽しげに頷いた。
「はい。もともと掃除は私の得意分野でもありますから。楚々とした美人だけどズボラな美里さん、みたいな愉快な人にも出会えて、楽しいです」
「なんだかその言い方、不愉快だわ」
 言い返すと、時子が声を立てて笑った。美里もちょっと笑った。時々憎たらしいことを言う子だが、その言動は、実のところ美里にとって、そんなに不愉快なものではない。
 ──きっと、時子は 「人を否定する」 ということをしないからだ、と思った。
 呆れたり、ずけずけとした言い方をしても、あるものをあるがまま受け入れてしまう時子の度量の広さは、なんだか美里をひどく安心させてくれるのだ。面白そうに 「ズボラだ」 と形容しても、そこに、それを責めるような響きはまったくない。
 美里の恋人とは違って。
「……お部屋が片付いたら、ちょっとは美里さんもすっきりしましたか」
 問われて、美里は改めて部屋を見回し、こくりと頷いた。
 それはよかった、と時子は言って、にっこりと笑った。


 夕方になって、スズカ便利屋の二人は美里の部屋を撤収することになった。
 時子はまだもの足りなさそうだったが、美里がもういいと言ったのだ。ゴミはすべてなくなり、衣類や鞄もあるべき場所へと収まって、掃除機もかけ雑巾がけまでされた部屋は、見違えるほど綺麗になった。もう充分だ、と。
「じゃあ、またお部屋が腐海に沈みそうになったら呼んでくださいねー」
 と、また余計なことを言って、時子は環と一緒に美里の部屋を出ていった。
 あんまりあっけない帰り方だったから、「ありがとう」 とも、「お疲れさま」 とも、言うタイミングがなかった。
 見送りくらいはすべきかしら、と思って美里が窓から見ていると、外に出てきた時子と環はなにやら言い争っている。というか、何事かを主張している時子に向かって、環が 「ダメ」 と言っている、ように見える。あの二人でも、やっぱり見解の相違くらいはあるということか。
 軽トラまで走り寄って、しきりと荷台を指で差している時子を見ていたら、主張の内容の見当がついた。どうやら、荷台に乗って帰りたい、と言い張っているようだ。小学生じゃあるまいし。
 環はやっぱり 「ダメ」 と言っているようなのだが (大体、違反じゃなかったっけ?)、時子は唇を尖らせてぶうぶうと文句を並べ立てている。
 そんな時子に、環は溜め息をついて近付いていき、ふっと身を屈めたと思ったら、まるで荷物のように、いきなり彼女の身体を肩に担ぎ上げてしまった。そのまますたすたと助手席まで運んでいこうとする。なるほど、説得するのは諦めて、実力行使に出ることにしたらしい。
 時子はびっくりした顔で短い悲鳴を上げたものの、すぐに弾けるような笑顔になって、環に何かを言った。
 環がそれに言葉を返し、こちらもまた目元を和らげ、笑う。
「………………」
 なんなのよ、見せつけちゃって、と美里は馬鹿馬鹿しくなった。二人は自分が見ていることになんて気づいていないのだから、別に見せつけているわけではないとは思うが。
 きっと、時子にも、時子なりに、何かしら抱えているものはあるのだろう。軽いものなのか重いものなのか、小さいのか大きいのか、そんなことは、美里には判るはずもないのだけれど。

 ──それでも、今のあの子は、あんなにも幸せそうに笑ってる。

 本当だったら、あんな風に輝くばかりの幸せそうな笑顔を浮かべていて然るべきは、美里のほうなのに。条件の整った、誰もが羨むような相手との結婚を控えた美里こそが、ああして笑っていなければならないのに。
 ……考えてみれば、美里と彼が、あの二人のようにじゃれ合って笑い合ったことなんて、今までにあっただろうか。
 もちろん、恋人同士だもの、楽しいことはあったし、幸福を感じる瞬間だって確かにあった。でも美里は、彼の前で、思いきり口を開けて笑ったことなんてない。一度だって、ない。いつでも、控えめに、おしとやかにと心掛けて、笑顔だって必要以上に崩れないように細心の注意を払って──
 彼と付き合っていく限り、美里はそうやって自分を抑え続けていかなければならないのだろう。泣くのも、笑うのも、怒るのも、なにもかも。そして彼は、そのことに気づかない。無言のうちに美里に 「女性らしさ」 を要求して、自分が美里に要求している、ということにすら、気づかない。彼はきっと、美里の上辺だけが綺麗に取り繕ってあればそれで満足なのだ。
 美里がどんなに努力をしても、感謝もなければ褒めることもない。「女なんだから」 出来て当然、と考えている彼は、そこに努力が必要だなんて思ってもいないだろう。我慢をさせてる、なんてことだって、ちらりとも頭を過ぎったりしないに違いない。
 我慢、我慢だ。そうだ、いつからか、美里が彼のためにする努力のすべては、「喜び」 から 「我慢」 へと変わっていたのだ。美里はそれに疲れていた。くたくたになってしまうほど。自覚はなかったけれど、自覚のない分、手に負えないくらい深く。

 環君と同じ場所にいたい、と、時子は言った。

 時子のそれは 「時子の意思」 だ。一緒にいたいと思うから、時子は環の傍にいるのだ。
 じゃあ、美里は? 美里は最近、彼と一緒にいたい、と望んだことがあっただろうか。まさか。美里自身をちっとも見ようとはしない相手の傍にいて、自分を殺し続けることに、苦痛を感じるようになっていく一方だった。
 彼に恋していた自分は間違いなくいた。けれどそれに違和感を感じるようになって、それでもその事実に見ない振りをし続けていたのは、やっぱり彼に付随する諸々に未練があったからだ。
 いつかは彼も美里のありのままを見てくれるようになるかもしれないと、もしそれが無理でも、経済的に充実していれば、きっとそんなことは大した問題にはならないと。自分が 「少し」 我慢すればいいことなのだからと。
 ……その結果が、あの澱んだゴミだらけの部屋だったのに。
 美里が部屋を片付けられないくらいに心を病んでしまっても、恋人であるはずの彼は、表面上美里が美しさを保っていれば、そのことに気づきもしなかった。
 彼だけを責めるのは間違いなのだろう。美里だって、もちろん悪いに決まっている。上辺だけの自分を彼に見せようとしなかったのは、美里自身だ。
 互いに判りあう努力をまったくしないで、そのくせ幸福だけは手に入れたいと望んでいた。せめてすっぱり割り切ることが出来たのならよかったのに、美里にはそれも無理だった。
 ああ、そう、無理だ、無理なのだ。
 部屋が綺麗になって、自分の心も曇りがなくなった今、はっきりと判った。
 いろいろと我慢して抑えつけ、口実を並べてみたけれど、要するに美里には 「無理」 だったのだ。
「………………」
 裕福な家庭、セレブな生活は憧れだ。海外のリッチな暮らし、華やかなホームパーティーだって捨てがたい。
 けれど。

 ──思いきり笑い合うことも出来ない相手と、これからずっと一生を共にしていくのなんて、真っ平だ。

 美里は左手の薬指から、ゆっくりと、指輪を抜き取った。
 ぽとりと、その手に水滴がひとつぶ零れて落ちた。



          ***


「美里さん、正式に婚約を解消したんだって」
 と、電話を切ってから時子が環に向かって言った。
 美里の依頼を終えてから、二週間が経っている。その間、美里はちょいちょいと事務所に電話をかけてきては、時子に経過報告をしていた。時子の遠慮のないもの言いによく腹を立てたりもするようだが、結局のところ、美里と時子は案外ウマが合うらしい。
「そーかー、あんな美人がねえ。相手の男も、惜しいことしたよねえ」
 としんみりとして答えたのは環ではなく、鈴鹿だった。鈴鹿の中で、美里は未だ、「ちょっと怖いところもあるけど淑やかな美女」 のままなのだ。時子は仕事の報告として、美里の部屋の状態を嘘偽りなく所長である鈴鹿に告げたのだが、まったく信じなかった。軽トラから溢れんばかりだったあのゴミの山を見せてやればよかったのだが、あれを見せても信じなかったかもしれない。
「 『ゴミも男も捨てて、せいせいした』 だって。まったくもう、なんでもかんでも捨てる捨てるって。美里さんはねえ、もったいないオバケに一度懇々と説教してもらうといいと思うわ」
 時子はまだそこにこだわっているのである。
「……まあ、またすぐ新しい恋人でも作って、お前に電話をしてくるんじゃないか。今度は、ちゃんと彼女を真っ向から見てくれる男を見つけてさ」
 環の言葉に、ちょっと考えてから、そうよね、と時子は頷いた。
「──そうやって、何かを捨てたり、何かを拾ったりして、進んでいけばいいのかもね」
 と、ぽつんと零すように言う。
「………………」
 環は一瞬口を噤んでしまったが、時子はまた普段どおりのけろりとした口調になって、
「環君みたいに一点も非の打ち所のないいい男は、あんまりいないだろうけどねー」
 と、寝言みたいな台詞を口にした。黙って聞き流せばいいのに、鈴鹿はこういう時、どうしても突っ込まずにはいられない。
「僕、時子君の言う 『いい男』 の基準が、全然判らないよ」
「え、なんでですか。すぐ目の前に生きた見本がいるでしょ」
「どこに?」
「いるじゃないですか、ここに! 環君ほどかっこよくて優しい男は全宇宙を捜したってなかなかいませんよ!」
「ああ、そこだよ」
 と、鈴鹿は手を打った。根本的な疑問が解けた、と言いたげだ。
「不破君て、どっか優しいとこなんかあったっけ?」
 その純粋な疑問に、時子は大げさに目を剥いて驚いた。
「なに言ってるんですか、所長。そもそも私が環君に恋に落ちたのは、その優しさがあったからだっていうのに」
「ははあ。どういうシチュエーション?」
「真冬の、寒ーい雪の日にですね、捨てられた子猫に傘を差しかけて、そのびしょ濡れの身体を、壊れ物を扱うようにしてそうっと抱き締め、優しく目を細めて微笑み、『可哀想に、俺のところへ来るかい?』──という、そんなシチュエーションですよ」
「……ウソでしょ?」
 と鈴鹿が確認したのは、時子ではなく環の方である。環はあっさりと 「ウソです」 と答えた。
 やっぱりね、と鈴鹿は口を曲げてまた時子に向き直る。そんな大昔の少女漫画パターンの環、想像するだけで怖い。
「もう、時子君、ウソはよくないよ、ウソは。大体、不破君が捨て猫なんて拾ったりするわけないし」
「ウソじゃないですよ。ただ、いろいろと脚色してあるだけですもん」
「だからそういうのをウソって言うんだよ!」
 わいわいと二人は言い合っていたが、環はちょっとだけ視線を虚空に投げかけて、意識を二年前の過去へと飛ばした。
 そう──環が拾ったのは、猫じゃない。
 親に捨てられ、泣くことも怒ることも出来ず、能面のような無表情で雪の中に立ち尽くしていた、一人の女の子だ。
「で、所長、ワックスがけの件ですけど」
「あっ、僕、用事を思い出した。ちょっと出かけてこよう」
「このショボくて貧乏くさい事務所を少しでも綺麗にしたいっていう私のこの慈悲の心が判らないんですかー!」
「ショボくも貧乏くさくもない!」
 時子は相変わらずくるくると表情を変えている。喋って、怒って、拗ねて、感情を素直に表に出している。瞳には、生き生きとした光がある。本当に心から楽しそうに笑う。
 それを見て、環はほっとする。

 ……トキが、トキらしくあり続けてくれること。

 環が時子に望むのは、それだけだ。



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