猫の手貸します

case4:代理恋人

嫉妬は恋の潤滑油(1)




 時子がバイトに入った当初から、その日の鈴鹿は挙動不審だった。

「おはようございまーす!」
 という時子の元気な挨拶 (時間は午後の三時を廻っているが) に、自分のデスクにいた鈴鹿は一瞬びくっとし、「あ、うん、おはよう」 と挨拶を返した。しかしその声も様子も、妙に気弱におどおどしている。
 わざとらしく思いついたように机の上をごそごそとかき回しながら、そわそわと身体が揺れ動き、視線はあからさまに明後日の方向を向いているという不自然さだ。鈴鹿は小柄で貧相なおっさんであるだけに、そんな卑屈な態度を取ると、いかにも変質者っぽくて危ない感じになってしまう。
「?」
 もちろんそんな上司に疑問を抱かないわけはなくて、時子はつつつと恋人の環に寄って行き、こっそりと訊ねてみることにした。
「どうしたの? 所長ったら、いつもに増して変よ」
 普段から 「変」 だとは思ってるんだな、と環は思ったが、それは敢えて追及しないことにして、首を捻った。
「今日は朝からなんかちょっと様子が変なんだ。『時子君は今日何時ごろ来るんだっけ?』 って、やけにお前のことを気にしてると思えば、俺のほうをチラチラ見て、やたらと申し訳なさそうな顔をするし」
「なにか、後ろ暗い犯罪行為をしたのがバレたのかしらね。窃盗とか、覗きとか」
「それなら、気にするのはお前の動向じゃなくて警察だろ」
 否定すべきはそこではないのだが、環がそう言うと、時子はうーんと腕を組んでさらに推理した。今度はもうちょっと現実味のある内容だった。
「じゃあ、とうとうこの事務所、潰れるんじゃない? そのことを言い出せずに煩悶してるのかも。私、今月分のお給料、まだ貰ってないのになあー」
「俺だってまだ貰ってない。ていうか、所長は事務所が潰れると決まった時に、まず従業員に対して罪悪感を覚えるような人間じゃないと思うぞ。真っ先に自分自身が嘆いて大暴れして、俺たちに八つ当たりするようなタイプだ」
 そんなことを断言してしまう環の声は、面倒くさくなったのか、この時点ですっかり普通の音量に戻ってしまっている。もともと彼は、いつもと様子の違う自分の上司に対して、気を遣ったり心配したりするような性格をしていない。こういう点、環と時子は非常によく似た恋人同士なのだ。
「……あのね君たち、そういうことは、もうちょっと声を潜めて言ったらどうなのかな。言っておくけど、僕はなにも犯罪なんてしてないし、事務所も潰れたりしないから」
 とうとう部下二人の暴言に耐えかねて、鈴鹿は苦々しい声で割って入った。その言葉に、時子がありありと安心した表情になる。
「なーんだ、よかったー。私は信じてましたよ、所長」
「ウソだ絶対ウソだ。大体、僕が犯罪をするとして、なんで窃盗と覗きに限定されなきゃいけないのさ」
「痴漢とか下着ドロとか言わないだけ、私ってば優しいです。……で、何がそんなに私たちに対して後ろめたいんですか? さっさと吐いちゃったほうがラクですよ」
「だから人を犯罪者扱いするのやめてくれないかな」
 改めて向けられた質問に、鈴鹿は渋い表情をしたが、さすがに観念したと見えて、はあーっと深い溜め息をついた。
 ついてから、ぼそりと切り出す。
「実はね、僕の奥さんの」
「ええーーーっっ!!」
「……まだ、何も言ってないんだけど」
 時子の驚愕の声に、またいつもの冗談かと思った鈴鹿は仏頂面をしたが、視線を向けた彼女が本気で驚いているのを見て、きょとんとしてしまった。
 目と口をまん丸に開けて、時子は心底ショックを受けている。
「所長、奥さんがいたんですか! 私、てっきり、やもめの侘しい一人暮らしをしてるもんだとばっかり思ってました!」
「………………」
 その言葉に、鈴鹿は無言だ。というか、無言になるしかない。その思い込みは一体どこから発生しているのか小一時間くらい問い詰めたいが、「衝撃の事実」 に興奮した時子はもう既に鈴鹿なんか眼中にない。びっくり顔のまま、環をくるっと振り向く。
「環君、知ってた?!」
「いや」
 環の方はいつもと変わりない淡々とした態度だったが、それは鈴鹿が期待したような、「知ってたから」 とか 「驚くほどのことじゃないから」 という理由ではなかった。
「俺は別に、所長の私生活なんて興味なかったから、訊いたこともなかった。そうか、結婚してたのか。知らなかったな」
「……不破君、君、この事務所に勤めて、何年になるのかな」
 ぼそぼそと鈴鹿は恨み言みたいなことを言ったが、二人ともてんで聞いちゃいない。
「へえ〜、奥さんが。えー、しつこいようですけど、奥さんがねえ」
 と、時子は本当にしつこく驚いている。それから何を思いついたのか、ぽんっと手の平を拳で打った。
「あっ、でも、一緒に暮らしてるとは限らないのよね。別れた、とか、逃げられた、とかっていう前置きがついてるのかもしれないし!」
 環が 「なるほど」 と感心するように頷く。そこは感心するようなところではないのだが。要するに、環もちょっと悪ノリ気味なのだ。で、つい新しい可能性を口にしてみたりする。
「けどトキ、一緒に暮らしてるとしても、生身であるとは限らないぞ」
「というと?」
「等身大の人形に、『奥さん』 っていう名前が付いてるだけなのかもしれない」
「やっだー、環君のエッチ!」
 けたけたと笑いながら下品な冗談を言い合うバイトと所員に、「生きた人間だい!!」 と叫ぶ鈴鹿は、なんとなく泣きそうだ。
 そんなわけで、いつものことながら、まったく話が前に進まない三人なのであった。


「──それで、僕の奥さんにはお姉さんがいて、そのお姉さんには息子が一人いるんだけどね」
 鈴鹿がようやく話をそこまで進めたのは (戻った、というべきか)、それからさらに十分後のことだった。なんという不毛な時間の過ごし方であろう。
「その息子っていうのが、なんていうか、甘やかされて育った子供でさあ。奥さんのお姉さんのダンナは大きな会社の部長なんかをしてる人だから、経済的にも恵まれてて、欲しいものはすぐ手に入っちゃうっていうのも問題じゃないかと思うんだよね……って、時子君、なんでそんな憐憫の眼差しで僕を見てるのかな」
「いえ、別に。『じゃあスカのダンナを掴んだ妹は、お姉さんと天と地ほどに境遇が違っちゃったんですね、奥さん気の毒に』 なんてことは思っても言いません」
「言ってるじゃないか! 天と地ほどの差はないよ! せいぜい小山と富士山くらいの差だよ!」
「自分で言ってて悲しくなっちゃいませんか、所長」
「で、その息子がどうしたんです」
 放っておくときっと夜になっても終わらない、と思った環が、再び逸れていく会話の舵を切り直す。こんなくだらない理由で残業するのは、環だってイヤなのである。
 話が核心に近付くにつれ、鈴鹿はどことなく落ち着かなさげにもじもじとし始めた。
「うん、いや、だからその息子、つまり僕の甥っ子がね、この事務所に依頼をしたいって言うんだよ」
「へえ」
 と、時子が上げた声には、単なる相槌以上のものは含まれていなかった。だって、別に驚くことでもない。環もそう思ったのか、特にリアクションは起こさなかった。叔父のやっている便利屋に仕事を依頼する甥なんて、珍しくもなんともない。
 ……なのにどうして、鈴鹿はこんなにも困った顔をしているのだろう。
「よっぽど依頼料を値切られたんですか。身内だからよろしく、とか」
「お金には不自由してない子だから、そんなことは言わないよ。むしろ、こっちがビックリするくらいの金額を提示してきて、腰が抜けそうになった」
 それもどうなんだか。
「子、って、その甥っ子はいくつなんですか」
「今、二十四かな。不破君と年齢的には近いけど、随分感じが違うと思う。あっちはホントにお坊ちゃんっていうか……れっきとした社会人なのに、まだ親から小遣い貰ってるくらいだしねえ」
「つまり世間知らずで脛かじりで甘ったれの鼻持ちならないロクデナシってことですか」
「い、いや、そこまではっきり言うのもどうかと思うんだけどさ……。それで、そのロクデナシ、いやいや甥っ子は、女性面に関しても結構いい加減で、しょっちゅう彼女を代えちゃうんだよね」
「へえ」
 時子の相槌はまだテキトーなままである。話の行き着く先が、さっぱり見えてこない。
「今付き合ってる彼女も、なんだか飽きちゃって、別れたいんだって」
「へえ」
 どうにも好きにはなれそうにない男よね、ということくらいは判るのだが。
「けど、まあ当たり前なんだけど、そんな理由にもなってない理由では、到底相手が引き下がってくれなくてさ」
「へえ」
 そりゃそうだ。
「あんまりしつこく食い下がってくるもんだからウンザリして、じゃあこれなら諦めるのかなと思って、『新しく恋人が出来た』 って、言ったそうなんだ」
「へえ」
 好きな子、じゃなくて、恋人か。完全な、開き直り二股宣言ではないか。
「そうしたら相手の子がさ、その恋人に会わせろ、会わせるまでつきまとってやる、って激昂したらしくてね」
「……へえ」
 なんか、そろそろ嫌な予感がしてきたんですけど。
「それで甥っ子が、僕のところに電話してきたんだよ。……恋人のフリをしてくれる女の子を誰か見つけてくれ、って」
「………………」
 時子は黙ったし、環も黙った。
 鈴鹿は、そんな二人を等分に見やり、縋るような情けない口調で懇願した。
「──時子君、その恋人役、やってくれないかなあ」


          ***


「…………所長」
 しばらくの沈黙を破って、低い声を出したのは時子ではなく、環だった。
 環はなかなかの二枚目と言っていい顔立ちをしているが、優男タイプではない。目つきだってどちらかといえば鋭く、意志の強そうな眉は男気が感じられなくもない。体つきも引き締まってがっちりしているし、身長だって高いほうだ。普段のいかにもやる気のなさそうなぬーぼーとした雰囲気がそれらを台無しにしているだけであって、それさえなければ彼は、鈴鹿の好きなハードボイルド小説向きな外観をしていると言ってもいいくらいなのである。
 ……つまり要するに。
 表情はあまり変わらないものの、いつものやる気なさをどこか遠くにうっちゃって、険悪な空気を全身から滲み出させている今の環は、ぶっちゃけた話、ものすごく怖いのだった。
「う、うん。不破君はね、そりゃ面白くないことだと思うんだけどね」
 当然だが、鈴鹿はそんな環に、完全にビビっている。ずっと上司として接していたとはいえ、環のこんな所、彼も見たことがなかったのだろう。
「面白いとか面白くないとかの問題じゃないですね」
 突き放す環の声は低くて静かだが、きっぱりとしていて、非常に威圧感があった。押し潰されそうな鈴鹿の顔は、もう汗びっしょりだ。
「いやあ〜、僕もね、そんなのは便利屋の仕事じゃないって、断ったんだよ」
「便利屋の仕事じゃないどころか、トキにやらせることでもないです」
「そ、そうだよね。だからね、ちゃんと断ったんだよね、一回は」
「一回、は?」
「断ったんだけどね、ホラ、僕んち、子供がいないでしょう、それで奥さんが、その甥っ子を赤ん坊の頃から目の中に入れても痛くないほど可愛がっててね」
「それで?」
「それで、僕も、生意気な甥っ子の依頼は断れても、奥さんのお願いには弱いっていうか」
「だから?」
「だ、だから、可愛い甥がストーカー被害に遭うのを黙って見過ごす気なの、って奥さんに責められると、どうにも断れない、って、いうか……」
「そいつはまだストーカーの被害になんて遭ってないし、よしんばそんなことになっても、完璧に自業自得だと思うんですがね」
「だよねー」
 無責任に鈴鹿が同意したところで、環は苛立たしそうに、どん、と足踏みをした。器用なことに、鈴鹿は自分の椅子に座りながら、しゃっきりと直立不動の姿勢になった。
「断ってください、今すぐ直ちに」
 頼むというより、命令になっている。
「いやあのね、なにもね、時子君にいかがわしい真似をさせようってことじゃないんだよ。ただちょっと、恋人のフリして、二、三時間ほどお芝居に付き合ってくれたらいいんだよ。変なことにならないように、人目の多い喫茶店なんかを話し合いの場に選ぶって言ってたし」
「そんな具体的なところまで話を進めてるんですか。トキ本人の意向をまったく無視して?」
「だ、だから、今、お願いしてるんじゃないか」
 鈴鹿の言い訳を聞いて、環はますます眉を上げた。その環にびくびくしながら、鈴鹿は 「時子君……」 と、救いを求めるような弱々しい目を時子に向けた。
「…………」
 時子が、ふうっと息を吐く。
 今まで時子が何をしていたかというと、環の怒る姿というのが珍しくて、いや正直に言うとそれがかなり嬉しくて、ついついウットリ見惚れてしまっていたのだ。しかし、事は時子本人に関わることなのである。いつまでも楽しく傍観しているわけにはいかない。
「まあまあ環君、そんなに所長を追い詰めちゃ可哀想よ」
「だよね!」
 間に入った時子に、鈴鹿は素早く全力で同意した。現在の鈴鹿を可哀想だと思っているのは、誰より鈴鹿本人であるような気がするのだが。
「便利屋の仕事とは確かにちっとも関係ないことだけど、依頼は依頼じゃない。理由はどうあれ、その甥っ子君が困ってるのも間違いないんだろうし、大体、『自業自得』 なんて言ったら、便利屋の仕事って成り立たないと思うわ」
「けど、それをお前がやるのとは別問題だろ」
「だって、この場合、私以外に適任がいないじゃない。私だって、環君以外の男の人と、フリとはいえ恋人になるのはまったく気が進まないけど、ほんの少しの時間のことなんだし」
 それでも環は厳しい顔で何かを言おうと口を開きかけた──のだが、その時。
 事務所のドアが勢いよく開いた。

「こんにちはー」

 と陽気な声で挨拶し、姿を見せたのは、若い男だ。
 その人物を見て、鈴鹿が驚いたように目を見開く。
「桂馬君」
 ケイマ、と呼ばれた青年は、鈴鹿を見てにっこり笑い、次いでそのすぐ傍にいる時子に視線を移して、さらに楽しそうに笑み崩れた。そういうことをしても、あまりいやらしさの出ない得な顔立ちは、つまり、よく整っているということなのだろう。環よりは身長は低いが、すらっと細長い体には、長い手足がくっついていた。
「やあ、この子が、お願いしといた子? 嬉しいなー、予想よりもよっぽど可愛い」
 可愛い、と言われて嬉しくないわけではないのだが、なにしろその口調があまりに軽いので、時子はその台詞を右から左へと聞き流すことにした。誰にでも言うんだろうな、と思える言葉には、礼を言う必要もないだろうと判断する。
「所長、もしかして、この人が」
 訊ねると、鈴鹿は少々バツの悪そうな顔で、うん、と頷いた。
「桂馬君、どうしたんだい。今日ここに来るなんて、僕一言も聞いてなかったけど」
「だって、おれの恋人になってくれる子でしょ? ちゃんとこの目で確かめたいと思ってさあ」
 そう言って、あはは、と爽やかに笑う桂馬は、無言のまま立っている環の身体から発散される不穏な空気には、まるで気づかないらしい。なるほど、鈍感だ。そうでなきゃ、恥ずかしげもなく叔父にこんな依頼をしてこないだろう。もっと言えば、そもそもこんな状況を引き起こしたりもしないだろう。
 軽くて鈍感で顔はいいけどどことなく胡散臭い彼は、時子に向かって愛想よくにこっと笑うと、正式に自己紹介をした。思うに、環のことは、どうやら最初から視界に入っていないようだ。
「おれ、緒方桂馬。親父が将棋好きで、こんな名前付けられちゃったんだよね。よろしくね、えーと」
 しょうがないので、時子も軽く頭を下げる。
「逢坂時子です。こんにちは」
 緒方ケーハク君、と心の中で続けた。



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