猫の手貸します

case4:代理恋人

嫉妬は恋の潤滑油(3)




「……そもそも、時子ちゃんはこういうの、どう思ってんの?」
 と、桂馬は助手席の時子に向かって訊ねた。「こういうのって?」 と時子は聞き返したが、その視線はさっきからずっとサイドミラーに張り付いて、こちらには向けられもしない。
 さっきまでのナビといい、何がそんなに面白いんだか。本当に子供みたいだなと桂馬は思う。
「だからさ、ニセモノの恋人を仕立てて女と別れようとしている件について。君みたいに夢見がちな女の子にとっては、そういうの、けっこう抵抗があるんじゃないかと思うんだけど、案外あっさりこの話に乗ったよね」
「ちょっとは彼女に対して罪悪感があるんですか?」
 ミラーの方に向けられているので表情はよく見えないが、時子の口調は素っ気ない。しかし、特に腹を立てているわけではないようだ。
 桂馬は軽い笑い声をあげた。
「おれが? 罪悪感? いいや全然。むしろ、こんなことまでして別れようとしているおれって、けっこう誠実だったんだなあって自分で感心してるくらい」
「…………」
 桂馬の冷淡な台詞に、時子は少しの間黙った。さすがに怒らせたかなと思ったが、意に反して、そのあとで出された声には、まったくなんの変化もなかった。顔が見えないから、彼女が何を考えているのか、ますます判らない。
「緒方さんの 『好き』 っていうのは、どうやら羽毛布団の中身よりも軽いみたいなんですけど」
 私はそういうの許せないんですとか納得できないんですとか続くのかと思ったら、違った。

「……そんな 『好き』 でも、なくなっちゃったら、しょうがないじゃないですか」

「…………」
 かなり意外な思いで、桂馬は口を噤んでしまう。そんな醒めた言葉が、この娘の口から出るとは思ってもいなかった。しかもその言い方は、投げやりなものでも捨て鉢なものでもない。
 淡々と、そこにある 「事実」 を述べるように、時子は言っているのだ。
 想う気持ちがなくなってしまったら、しょうがない──と。
「……随分、冷静な意見だね」
 女の子の中には、時々、「オトナな自分」 を故意に作り上げて見せるタイプがいる。そういう女は、たとえ恋愛をしても、それに夢中にならないよう、自分自身に枷をかける。クールさを装い、こんなものは所詮いっときのものだからと割り切って、相手に未練を持つことを 「みっともない」 と極端に嫌ったりする。遊んでいる女、というのとはまた違うのだが、そんな女は案外無理をしていたり、強がっていたりするだけであることも多い。だからドロ沼に入り込んだりすると、却って最悪なところまでこじらせてしまったりする。
 けれど、目の前の時子からは、そういう女にありがちな気負いのようなものが、何ひとつとして伝わってこなかった。大体、彼女の環への態度には、どう考えたって枷なんてない。行動と言うことが、ちぐはぐだ。
「知ってますから」
 と、時子は言った。相変わらず、顔はじっとサイドミラーに固定されて、動かない。
「知ってるって?」
「たとえば、どんなに愛し合っていたって、幸福な日々を過ごしていたって、『気持ちがなくなることはある』、ってことを、知ってるんです。ひとの心は縛れないものだから、動いたり、変わったり、消えてしまったりすることがある。他の人間には、それを止められない。自分自身にも止められないんだから、他の人間に止められるわけがないじゃないですか。悲しいことだけれど、そういうことは、どうしてもあるんです。そしてそれは──しょうがない」
 しょうがないということを、知ってる、と、呟くように言った。
「でも、その相手に執着するのは、さらに悲しいことだと思うんです。なくなってしまったものを取り戻すのは、すごく難しい……不可能なくらい難しいのに、どこまでも執着してしまうのは、哀しいです」
 哀しい、と言うわりに、時子のその声音には、何の感情も含まれていないような気がする。
「私は──」
 と言いかけ、時子は言葉を途切らせた。
 そこでようやく、くるりと桂馬の方を向いた顔は、ちょっと前までに見せていたそれと、まるで変わらないものだった。明るくて可愛くて、イタズラを企む子供のような笑い方は、今までの彼女が話していた内容とひどくギャップがあるように思えて、桂馬ですら戸惑うくらいだった。
「──私は、だから、ニセの恋人でもなんでも、彼女さんが納得して緒方さんを諦められるのなら、それはそれでいいんじゃないか、って思ったんですよ。緒方さんよりもいい男なんていうのはこの世に星の数ほどいるわけですから、さっさと見限って次を探した方が、よっぽど建設的ですし、彼女さんにとっても幸せです。代理恋人を引き受けたことに関しては、まあちょっと、考えなしだったかなと反省する部分も今となってはあるわけですが、その基本方針については、別に反対じゃありません」
「……そう」
 呑まれたように、そんな返事しか出来なかった。
 ここに至って、桂馬も気づいた。時子は、ちょっと一筋縄ではいかない。表面的な見た目も行動も判りやすいから、すっかり油断した。
 しかしそれを認めてしまうのもなんとなく癪で、無理矢理のように、口許に笑いを浮かべてみせる。
「じゃあ、時子ちゃんは、あの環って奴に同じことされたらすんなり納得して、引き下がるわけ? 恋人が出来たから別れてくれ、って言われたら」
「まさかー」
 桂馬の質問を、時子は笑い飛ばした。
「泣き喚いて、大暴れして、殴ったり蹴ったりくらいはしますよー」
 当然でしょ? と桂馬を脅すように茶目っ気たっぷりに言ったけれど。
 泣き喚いて、大暴れして、殴ったり蹴ったりして──それからどうするのかは、時子は言わなかった。


          ***


 だが、桂馬の彼女の思考は、時子のように凶暴な方向には行かなかったようだ。
 いつ頃から待っていたのだろう、時子たちがその喫茶店に着いた時、すでに彼女の前に置かれたコーヒーは冷め切って、お冷やの中の氷も半分以上溶けかかっていた。ひょっとしたら、桂馬が事務所に来ると言っていた 「午前十一時」 こそが、彼女と約束した時間だったんじゃないか、とその時になって時子は思った。
 なかなか綺麗な容姿のその女性は、ようやく現われた桂馬と、その隣にいる時子を見て、さっと顔色を変えた。
「こういうことだから」
 と、彼女に向かって言い放つ桂馬の口調はにべもない。注文を取りにきたウェイトレスを、無造作に片手を振って追い払ったのは、長居をするつもりはない、という意思表示らしい。誠実、とかいう言葉を聞いたような気がするけど幻聴だったみたい、と時子はひとりごちた。
「これで気が済んだだろ。おれは言われたとおり、新しい彼女を連れてきた。だからこれ以上ゴネるのはやめてくれ」
 桂馬の言い方には、思いやりとか優しさとかが、欠片も混じっていなかった。時子だって、これから別れるつもりの彼女に優しさをもって接することが良いことだなんて思ってはいないけれど、それにしたって冷え冷えとしすぎていた。せめてイラついた感情とか、怒りとかが覗いていればまだ救われたかもしれないのに、それさえもなかった。
 彼女は俯いて、ぎゅっと下唇を噛み締めている。桂馬が彼女に向ける視線は、そこに置いてある水の入ったグラスに向けるのと同じくらい、無関心なものだ。こんなことでは、修羅場にだってなりようがない。
 少し顔を上げ、彼女が見たのは桂馬ではなく時子のほうだった。この泥棒猫、くらいの罵倒を受ける覚悟くらいはしていたが、桂馬の態度に傷つきすぎてしまったのか、その口から出た声は、弱々しく震えていた。
「……あなた、いくつ?」
 時子は、その彼女の視線をちゃんと受け止めた。
 はい、と真面目な顔で答えて、

「十七歳です」
 と、しゃらっと嘘をついた。

「……は?」
「は?」
 同じ言葉が、桂馬の口から出たのと彼女の口から出たのはほぼ同時で、だから彼女の耳には桂馬の声は聞こえなかったのだろうし、桂馬が自分と同じように目を点にしたことにも、気づかなかったようだ。悲愴に表情を歪めていた彼女の心は、そこで一旦、ピタリと下降を止めた。
「えっ、と、十七っていうと」
「高校二年です」
「…………」
 彼女は口を閉じたが、それは時子の言葉を疑っているから、という理由ではないことははっきりしていた。そもそも時子は普段でも高校生に間違われることがよくある。二歳くらいサバを読んだところで、なんの問題もないのだ。
「高校生、なの。あの、じゃあ、桂馬とはどうやって」
「制服姿でいるところを、ナンパされまして」
 ぬけぬけとして返事をする時子の嘘は、堂に入っている。
 桂馬は唖然として何かを言いかけたようだったが、時子は完璧にそれを無視してのけた。なんだかちょっと狼狽している彼女も同じく、もうそちらには目をやりもしない。
「ナンパ……」
「はい。なんかー、そのセーラー服、可愛いね、とかってー」
 しょっちゅう言葉遣いが古臭いと鈴鹿に指摘される時子だが、場合によっては、こういう喋り方だって出来るのである。
「……セーラー服……」
 独り言のように呟く彼女の声に、胡乱なものが滲みはじめる。ちら、と桂馬に向ける目つきも同様だ。桂馬はもちろん反論しようとしたが、それよりも時子が口を開く方が早かった。
「緒方さんて、そーゆーの、好きみたいなんですよねー。この間なんか、体操服着てるの見てみたい、なんて言われちゃってー、しょうがないから着てあげたんですけどー、スマホでがんがん撮るもんだからー、私もちょっと困っちゃった、っていうかー」
 という時子のしれしれとした爆弾発言に、
「………………」

 彼女は明らかに、ドン引いた。

「あ、そう……」
 と呟くような彼女の声に、もうさっきのような迷いはない。椅子からすうっと立ち上がり、改めて桂馬に向けた瞳には、吹っ切れたようなさばさばとした色があった。ついでに言うと、気の毒な人を見るような目つきでもあった。
「そういう趣味なら、そりゃ、あたしとは合わないに決まってるわよね」
 冷笑を浮かべながらそんなことを言う声音は、なんとなく優しげでもある。女の人ってこういう時強いわよねー、と自分で蒔いた種が育っていくさまを眺める時子は、完全に他人事だ。
「おい、ちょっと、待っ」
 と焦った桂馬は同じように立ち上がりかけたが、彼女は待たなかったし、止まらなかった。
 この瞬間、捨てられた彼女は、自分から捨てる選択をした。
 財布から素早く千円札を出すと、「これ、払っておいて」 とすげなく言って、そのままくるりと背を向ける。ハイヒールの足音も高らかに、店から出て行く彼女は、一度も振り返らなかった。
「…………」
 中腰の姿勢でそれを呆然と見送った桂馬は、しばらくの無言の後で、心の底から腹立たしそうに深い溜め息をついた。どすんと再び椅子に腰を下ろし、「……やってくれたね」 と、呻くように言う。
 時子はけろりとして首を傾げた。
「なにがですかあ? よかったですね、緒方さん。円満にお別れできて。ストーカーに遭わなくて済みますよ、多分」
 平然とした言い草は、白々しいといったらない。
「ストーカーにはならなくても、今後おれが女子高生好きの変質者だっていう噂を、嬉々としてバラまくだろうさ」
 刺々しい桂馬の言葉に、時子は真顔で頷いている。
「大変ですねえ」
 と、しみじみと同情された。誰のせいだと思ってるんだ。そりゃあ、あの女はもう、桂馬にこれっぽっちも執着なんてしないだろう。さっさと次の男を捜して、幸せになるかもしれない。時子の狙い通りというわけか。これで当分の間、桂馬は周囲の女達から敬遠されながら過ごさなければならない羽目になりそうだというのに。
「時子ちゃん、君、最初からこんなことするつもりだったわけ?」
「いえ、その辺はまあ、臨機応変というやつですね」
 どんな 「臨機応変」 なんだよ、と心の中で毒づいた。
 確かに、恋人のフリをして彼女とスムーズに別れるための協力をしろ、という依頼をしたのは自分だ。そして結果としては、その依頼どおりに事は運んだ。その点で時子の行動を責める筋は桂馬にはない。ないけれど。
 肩を落とし、もう一度、はあーっという溜め息を深々と吐いた。
「……おれはもう金輪際、他人に自分の別れ話の尻拭いを頼もう、なんてことは考えないよ」
「それがいいです。ひとつ利口になりましたね、緒方さん」
「ちっとも嬉しくない」
「私も、今回のことでは少し勉強になりました。環君への愛も再確認できたし」
「……また 『環君』 か」
 腹のあたりで、もぞりと苛立たしい感情が湧いた。恋とか愛とかいう薄っぺらな言葉をすぐに口に出す時子にイラついたのかもしれないし、環君環君と連呼することを軽蔑したのかもしれないし、もしかしたら別の理由があったのかもしれない。
「あんな男の、どこがいいんだか」
 とにかく、桂馬が吐き捨てるように言ったその言葉には、前の時よりも数段の腹立たしさが上乗せされていた。かなり本心から、あんな男のどこがいいんだよ、と思ったのもある。
 それに気づいたのか、時子も、今度は 「どこもかしこも」 とは言わなかった。その代わり、黙って真っ直ぐに、桂馬に目を向けた。
「…………」
 それを見て、桂馬は続けて出そうとした言葉を喉の奥に飲み込む。

 勝ち気で、辛辣で、純粋で、しなやかな──瞳。
 吸い込まれそうに強烈な光を放つ、こんな瞳、今まで見たことがない。

「緒方さんは、『男と女の付き合いなんて、自己満足と優越感だけで成り立ってる』 って言いましたよね。そりゃ、そういう部分も、間違いなくあるとは思います。けど」
 と、時子は静かな口調で言った。
「──けど、そこにはちゃんと、綺麗なものも、あったかいものもあります。好きっていう気持ちだけでは解決できないことが、世の中にはたくさんありますけど、その気持ちで乗り越えられるものも確かにあります。ひとの心は変わっていくのかもしれませんが、だからこそ、違う人間同士が同じ気持ちを向け合える時間は、貴重なものだとも思います。……自分じゃない人間が、自分のために真剣に怒ってくれるのは、とても、心が揺さぶられます」
「………………」
 桂馬には、それに対して何も言い返せない。綺麗ごとだと笑い飛ばしてしまうことも出来ない。今までずっと、そんな恋愛をしてこなかった彼には、それについての否定も反論も出来るわけがなかった。
「私にそういうことを教えてくれたのは環君です。だから私は、環君のことが、大好きなんですよ」
 時子はそう言って、目を細めて笑った。やっぱり、子供みたいに無邪気だったけれど、今となってはその笑顔は、どうにも掴みどころのない大人のそれにも見えた。

 桂馬は認識を改めた。
 「ちょっと」、どころではない。
 時子は、「すごく」、一筋縄ではいかないのだ。

 ──多分、並の男では、手に負えない。



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