猫の手貸します

case4:代理恋人

嫉妬は恋の潤滑油(4)




 結局、二人は何も注文することなく、その喫茶店を出た。
 駐車場にまで来て、桂馬がちらりと腕時計を見る。
「さてと、時子ちゃん、昼はなにが食べたい?」
 何かを探しているように周囲をきょろきょろしていた時子は、その問いにやっと桂馬の方を向き、「は?」 と不思議そうに首を傾げた。
 わざとやってんのか? と穿った見方をしてしまうのはさっきの一件が尾を引いているからだと思うが、今度は素できょとんとしているらしい。
「一緒にランチしない? って誘ってんだけど。時間も頃合いだし、もちろんおれの奢り。この辺だと、そうだな、イタリアンとか」
 遊びには慣れているだけあって、桂馬の頭の中には、この近辺の地図と一緒に、「女の子が喜ぶ店一覧」 がきっちりと入っていたりするのである。車で十分くらい行ったところに、洒落たイタリアンの店があったっけ、そこがダメならちょっと遠くなるけどフレンチでもいいか、なんてことを素早く計算して弾きだすのが苦もなく出来る彼は、この手のことにかけては本当にそつのない、嫌味な男であった。
「せっかくですが、遠慮します」
 時子の答えははっきりとしていたが、どこか上の空であるようにも見えた。もうちょっと、迷いとか恥じらいとかがあったっていいだろうと思うのに、それもない。視線はまたどこか違う方向を彷徨っている。
 あからさまに興味のなさそうなその態度に、桂馬の中でまた苛立ちが頭をもたげる。薄っすらと笑みを貼り付けたまま、口から出る言葉は少し調子が強くなった。
「なんで? おじさんのことなら心配要らないよ、ちゃんと電話しておくから。別に昼飯くらい食べて帰ったところで、怒られたりしないでしょ」
「所長はそりゃ、怒らないでしょうけど。緒方さんと食事をする必然性がありません」
「必然性?」
 聞き返す口調は、我ながら微妙に強張っていた。口許から、笑いが消える。
 時子はまた桂馬に顔を向けると、しげしげと眺めるように見つめてきた。桂馬がどうして不機嫌な顔をしているのか判らない、というようでもあるし、どうしてこんな簡単なことが判らないの? と呆れているようでもある。
 子供なのか大人なのか判らない曖昧さ、状況によってどちらにも柔軟に切り替えるしたたかさ、それが時子の魅力でもあるのだろう。けれどこの時は、彼女のそんなところが、無性に憎たらしかった。
「だって、依頼された仕事はもう済んだわけですし。もう恋人同士のフリをする必要もないでしょう? だったら、別に食事なんかしなくたっていいじゃないですか」
 そんなことをあっけらかんとした口調で言う時子は、一体どこからが故意で、どこまでが天然なのか、まるで判らない。けれど、どちらにしろ容赦のない撥ねつけ方だった。重ねての誘いの余地を残すなんて思わせぶりなことを一切しないその態度は、いっそ潔いくらいである。
「…………」
 なんだか、猛然と腹が立ってきた。
 いつもの自分なら、ここで引き下がるところだ。その気のない女にまで言い寄るほど、相手に不自由しているわけじゃない。けれど何故か、今は簡単に退く気にならなかった。腹が立って、悔しくて、意地になっている。自分でも、わけが判らない。
「……へえ。あくまで、おれとは付き合いたくないんだ」
 腹の中は熱く煮えたぎっているのに、頭のほうは急速に冷えていった。低い声で言いながら、すうっと目を眇める今の自分は、多分、かなり怖い顔をしているのではないかと思う。
「車の中で、その理由を言いましたよね?」
 しかし、時子に怯む様子はなかった。正面からこちらを見返す瞳は、やっぱり強い光を放っている。桂馬はそこから目を離せない。
「……おれが、君のことをまったく好きじゃないって?」
 呟くように、問い返した。

 だったら、今自分が抱いている、この感情はなんだ。

 苛立ちがあって、憤りがあって、とことんまで苛めてやりたいような気分がある。目の前にある、綺麗で、そのくせ冷淡な瞳には、環のことを話す時の輝きの十分の一だってありゃしない。その瞳が憎らしくて、けれどずっと見ていたい。
 ──囚われる。
 手に入れたいと、心の底から強烈な欲求が湧き上がる。
 こういうのを、人は執着と言うのだろうか。
「けど、生憎だな。君の 『仕事』 はまだ終わっちゃいないよ」
 意地の悪い笑みを浮かべながらそう言って、同時に手を伸ばした。逃がす間も与えないで、時子の腕を掴み、ぐっと力を込める。痛かったのだろう、時子が顔を顰めた。手加減していないのだから当然だ。
「おれ、まだ金を払ってないからね。支払いが済むまで正式な取り引きは終了しないってのは、常識だよ? 金銭的にちゃんと精算が終わるまで、君はおれの恋人でいなきゃいけない。だろ?」
「屁理屈ですよ」
 時子は不満げに唇を尖らせた。怒るわけでもないが、受け入れる素振りもない。本当に手強い女だな、と桂馬は内心で呟く。そのことに、却って闘争心が湧いたのも否めない。
「屁理屈だろうがなんだろうが、金でおれの恋人になった以上、その分だけは付き合ってもらうさ」
 腕を掴んだ手に、さらに力が加わる。声を漏らすことはしなかったが、時子が眉を寄せきゅっと歯を喰いしばった。この分だと、彼女の腕にはくっきりとした赤い痣が残ることだろう。自分のつけた跡だと思えば、それも悪くない。
 時子が、ゆっくりと顔を上げて桂馬を見た。
「環君が──」
「あいつは関係ないだろ」
 時子の出した名前に、自分でも驚くほど過剰に反応してしまう。きつい声で遮るように言うと、時子は大きな目をひとつ瞬いて口を噤み、それから改めて口を開いた。
「……この仕事を引き受けた時、環君が怒った理由を、私はもう知ってます。私は、よく考えもしないで、こういうことに頷いたりしちゃいけなかったんです。ですから、その件については私に落ち度があるかもしれません。こういう扱いをされても、そういうことを言われても、私に、文句を言う筋合いはないですよね」
 殊勝なことを言っているが、時子の顔には殊勝の 「し」 の字もない。痛みのためか口許は少し曲がっているが、桂馬を見上げる瞳には、なんだかまた、反省しないイタズラ小僧のようなけろっとしたものが覗いている。
「というわけで、緒方さん」
「何が、『というわけ』 なのか判らないんだけど」
「私が文句を言う筋合いはないんですが、こんな強引な手段を取られるのも不本意なので」
 そう言って、時子はにこりと笑った。
「スーパーマンを呼ぶことにしました」
「……は?」
 と、怪訝な顔で問い返す間もなく。

 桂馬は思いきり、後ろから蹴りを入れられた。


          ***


「帰るぞ、トキ」
 桂馬の背中に蹴りをお見舞いして地面に倒した張本人は、何事もなかったように時子に向かって声をかけた。
「はーい」
 と、時子が無邪気に答える。
「……い、って。なんだよ、あんた、いつの間に」
 駐車場のアスファルトに四つん這いになって、腰の辺りを押さえながら桂馬が苦々しい声で呻いた。まあ、もちろん加減はしているだろうから、大事には至らないだろうとは思うが、足とか尻とかではなくわざわざその部位に狙いを定めるあたり、環もけっこう人が悪い。
「腰は男の命だって言うわよ、環君」
「こいつの場合、しばらく使い物にならないくらいのほうが世のため人のためだ」
 環の声は非常に素っ気ない。同情する気は毛頭ないらしいが、時子はちょびっとだけ同情した。
「周りの女の人たちからは変質者呼ばわりされて、腰も使えないなんて……。これはもう、軽い女遊びは控えよという、神様の啓示ですよ、緒方さん」
 どれもこれも自分のせいのくせに、時子はしんみりとした口調で厳かにのたまった。神様が怒るぞ、というくらいの厚かましさだった。言っている内容は若い娘にあるまじき品のなさだし。
「では、私はこれで。お大事にしてください、緒方さん。お疲れ様でした!」
「…………」
 元気に言ってぴょこんと頭を下げる時子に (助け起こすつもりはないのである)、やっとその場に上体を起こして座り込んだ桂馬は、黙って目を向けた。
「……時子ちゃん」
「はい?」
 こんなことをされて怒り出すかと思ったが、桂馬の声は予想に反して落ち着いていた。というか、さっきまでより、毒気が抜けたようにも見える。時子に向ける彼の双眸からは、今までのようなぎらぎらした光は消えていた。
「おれ、判ったような気がするよ」
「? 何がですか?」
「いろんなこと」
 そう言って、桂馬は少し笑った。座ったまま、目を移して時子の隣にいる環を見上げる。
 向かってくる桂馬の視線を、環は無表情で受け止めた。一瞬、目元を引き締めたが、それだけだった。くるりと踵を返して背を向ける。
 その唐突さにちょっと戸惑った表情をした時子に、
「行くぞ、トキ」
 とすたすたと歩きながら環が言って、
「またね、時子ちゃん」
 と桂馬が笑って手を振った。


「何か食っていくか」
 二人で並んで歩きながら、ふいに、環が提案した。桂馬の時と違い、今度のそれは、もちろん時子だって諸手を挙げて大賛成である。事務所で待っている鈴鹿のことは、忘却の地平に置き去りだ。
「うん。あ、でも、私こんな格好だから、環君のバイクに乗れないね。どうしようかな……何処かで安いシャツとパンツでも買おうかな。環君、ちょっと付き合ってくれる?」
 自分のワンピースを見下ろしながら、残念そうに時子は言った。こうなることが判っていれば、ジーンズとは言わないまでも、それなりの格好はしてきたのであるが。
 ──環が、来てくれるとは思わなかったから。
「…………」
 時子は少し上目がちになって、隣を歩く環の顔を覗き込んでみた。時子にも、環の考えを汲むことも出来なかった自分の浅はかな判断を反省する気持ちは、大いにある。
 あるのだが、それはそれとして。
「……ね、ちょっとは、妬いた? 環君」
 そうっと訊ねてみると、環はちらっと時子を見返した。
 しかし、その口から出たのは、「いいや」 という、あっさりした言葉だった。かなり本気でがっかりする。
「なーんだー」
 環に甘やかなものを期待するほうが間違っているとはいえ、やはりなんとなく面白くない気持ちになってしまうのはしょうがない。むーっと、口を曲げる。
 ──が、一拍置いて、
「すごく、妬いた」
 という言葉が、ぼそりと続いた。
「………………」
 さすがに時子も、すぐには反応できずに固まってしまう。環は時々、油断も隙もない。
「……環君て、たまーに、ごく稀に、殺し文句を言うよね」
 赤い顔になって口の中でもごもごと言うと、環がちょっと笑った。
「殺されたか?」
「瞬殺でした」
 それから、二人で声を合わせて笑った。
 環が、ふと立ち止まり、上半身を傾けて、顔を寄せてくる。
 温かい感触を唇に受けて、時子はくすぐったそうに、もう一度笑った。


          ***


 翌日、いつものようにバイクで出勤した環は、事務所の駐車場に先客が停まっているのを見つけた。
「…………」
 この場所には似合わないその高級な車のドアが開き、一人の男が降りてくる。腰が痛むのか、まだ少し動きがぎこちない。環は溜め息をついてエンジンを止めると、メットを脱いだ。
「所長なら、もう中にいると思うぞ」
 バイクに跨りながらそう言うと、桂馬は愛想のいい笑顔で 「いや、おじさんに用じゃないんだ」 と応えた。てっきり、鈴鹿に昨日のことを言いつけにやって来たものだと思い込んでいた環は、少し意外に思う。そこまで子供じみてはいないということか。
「いいバイクだね」
 桂馬は環のバイクを見て、可笑しそうに目を細めた。
「時々、爆音が出ちゃうみたいだけどね」
 と続けて、くすくす笑う。
「トキなら、大学が終わってからしか来ない」
 環の言葉を、桂馬は再び首を振って否定した。
「時子ちゃんにも会いたいけど、そうじゃない。あんたに言っておくことがあって、来たんだ」
「昨日のことなら、謝罪なんかしないからな」
「ああ、いいよ。確かに、あれはおれが悪かった」
「治療代や慰謝料なんかも出せないぞ」
「……『出さない』 じゃなくて、『出せない』 なんだ。うん、いかにも金がなさそうだよね。そうじゃなくてさ」
 桂馬はそこでふっと顔つきを変えた。感情の読み取れない皮肉な目つきは、今までの軽い男のそれじゃない。面白がるように、環の顔を覗き込む。
 そして、言った。
「──あんた、おれと一緒でしょ」
「…………」
 環は無言で桂馬に視線を返す。なにが、とは聞かなかった。
「はじめて会った時から思ってたよ。同類は、なんとなくニオイで判るんだよね」
「……俺は、あんたみたいに女をとっかえひっかえするような真似はしたことないけど」
「そりゃ向かう方向が違うってだけの話。根っこのところは同じさ」
 桂馬は薄く笑った。

「──あんたも、他人を信じられない人間なんだろ?」

「…………」
 口を閉ざす環に、さらに続ける。
「あんたも、おれと同じで、結構いい加減に生きてきたんだろ? 他人を信じられず、自分も信じられないおれらみたいな人間は、まともに人と関わることも、真面目に恋愛することも、出来やしない。ふらふらと浮き草みたいに世の中を適当に渡っていくしかないんだ」
「…………」
 環は無言を続けたが、桂馬はちっとも気にした様子はない。
「判るよ、おれ」
 と、瞳に少し真面目な色を浮かべた。
「おれらみたいな奴は、時子ちゃんみたいな女に出会ったら、憎むか惚れるしかない。そのまま素通りして済ませることがどうしても出来ない」
 時子のような──
 身体と心の奥深いところに、頑固なほど強靭な何かを持った女。
 あらゆるものを根底から変えてしまいそうな、可能性を秘めた女。
「……あんたは、どっちなんだ?」
 確かに、環はそうだった。どうしてもそのまま放っておけなかった。憎むか惚れるかしかなくて、環は結局、後者を選んだ。
 桂馬がまたくすくす笑う。
「さあ、どっちだろう。なんかさあ、苛めて苛めて、あの子をメチャクチャ苦しませて泣かせてやりたいような気分もあるんだけど、なんとしてでも欲しい、って思う気持ちもあるんだよね。可愛くないけど、可愛いし。憎たらしいけど、猛烈に惹かれる」
「…………」
「あれ、なんにも言わないの?『お前なんかに渡さない』 とか」
 からかうように言われて、環はふいと目を逸らした。
「それは、俺が決めることじゃない」
「ふうん」
 ちょっとだけ意外そうに声を上げ、桂馬はまじまじと環を見つめた。それから、にやりと口角を上げる。
「……つまり、枷があるのは、あんたの方なんだね」
 そう呟くと、桂馬はズボンの後ろポケットから封筒を取り出した。環の手の中に無理矢理ねじ込むようにして押し付ける。
「これ、今回の代金ね。おじさんに渡しといて。……これで、『仕事』 は終わったから、今度からは堂々と私的に時子ちゃんを誘いに来るよ。軽い遊びはするなって神様も言ってるらしいし、本気で攻めることにする」
 言いたいことだけ言うと、じゃあねー、と軽く手を上げ、桂馬はさっさと自分の車に乗り込んだ。エンジン音を響かせ、その場から去ってしまう。
「…………」
 環は手にした封筒を見下ろした。
 これをゴミ箱に放り込んだら、きっと所長が泣くんだろうな、とぼんやり考える。それに、時子はちゃんと仕事をしたんだし、その分の報酬を得る権利がある。環が受け取りたくないのは山々でも、握り潰してやりたいほど忌々しくても、それとこれとは別なのだ。
 深い溜め息をついた。
 まったく、「大人」 になんて、なるもんじゃない。


          ***


 ──その後、スズカ便利屋の前に据え付けられている消火栓ボックスのへこみは、いつの間にか二つに増えていて、時子と鈴鹿は不思議そうに首を捻ったそうである。



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