猫の手貸します

case5:除草作業

毒を喰らわば皿まで(2)




 環は一人暮らしなので、アパートの台所はそう大した広さがあるわけじゃない。
 であるから、その広くない台所の、さらに小さい流し台は、ごぼうと人参と唐辛子が置かれただけで、もう一杯になってしまった。
「で、環先生、最初は何をすればいいでしょう」
「まず、ごぼうを綺麗に洗うところから」
「はいっ」
 仕事を終わらせてから適当に夕飯を済ませ、買い物をし、このアパートに着いたのが、すでに夜の九時近くである。俺は一体何の因果で、こんな時間から自分の家で料理教室なんか開催しているんだろう、という根源的な疑問を、環は無理矢理胸の中に押し込めることにした。
 時子は非常に真面目な顔つきで、ごぼうに付いた土を流水で洗い落としている。これくらいなら、放っておいても時子にだって出来るだろう。まあ、ここまでなら幼稚園児にでも出来ることだと思うが。
「洗いました!」
「じゃ、まな板と包丁出して」
 一人暮らしをはじめてから結構年数の経つ環だから、一応、ここには最低限の調理器具くらいは揃っているのだ。時子と付き合うようになってから料理をする回数が飛躍的に増えたので、調味料の類も、きんぴらごぼうを作るのに困らない程度にはある。
 時子は言われたとおりまな板を出して、その上にごぼうを置いた。「長すぎてはみ出る……」 とぶつぶつ呟いているが、そんなことはこの際どうだっていい。
「それから、包丁で、ごぼうの皮をこそげ落とす」
「は? こそげ落とすって、何?」
 意味が判らなかったらしく、右手に包丁を持ったまま、時子が怪訝そうに問い返してきた。しかしその包丁の持ち方からして危なっかしくて、どうにも見ていられない。
 なので、その手から包丁を取り上げ、環は見本を見せることにした。見本ったって、環だってごぼうなんて食材を扱うのははじめてであるから、このやり方は、鈴鹿に教わったものだ。
「こうして、包丁の背を当てて、ゴリゴリ動かすんだとさ。……ほら、皮が落ちてくだろ」
 ほら、とか言いながら、環も内心では、こうしてやるのか、と思っている。手を動かしつつ、これなら簡単だから時子にも出来るかな、と安心もした。
 が、甘かった。
「へえー、面白いやり方するのね。こう?」
 と、感心したように言った時子が何をしたかって、改めて握った包丁の背をごぼうの端に当てて、そのまま力強く先まで一気にガーッと滑らせようとしたのである。ごぼうなんていうゴツゴツしたものにそんなことをしたら、途中で引っ掛かるに決まっているではないか。
「あ」
 という短い声と共に、時子の手から包丁がすぽっと抜けた。
 飛んでいった包丁は、一瞬宙を舞い、ガンガン、という派手な音を立て、ステンレスのシンクの中を跳ね返って着地した。飛行方向がそちらだったのは、本当に単なる幸運以外の何物でもない。
「えへへー、失敗失敗」
「…………」
 時子は照れくさそうに笑って再び包丁を手にしたが、環は硬直したまましばらく動けなかった。
 というか、どうしてこんな風に屈託なく笑っていられるのか、そっちの方がよっぽど謎だ。普段は長所である筈の時子の大らかさを、こんなにも恐怖心をもって実感したことはない。
「……トキ。いいか、ゆっくり、少しずつやれ。慌ててやろうとしなくていいから」
 若干強張った声で、なんとかそういうアドバイスをすると、時子は 「はーい」 と素直に返事をした。素直なのはいいんだが、本当に判ってるんだろうか、と環の不安はそくそくと募る一方である。
「こうかな?」
 と、時子が、今度はさっきよりは控えめに包丁を動かした。
 それでもまだ余分な力が入りすぎているらしく、ゴリゴリという包丁の動きと共に、皮だけでなく身の方まで大分こそげ落ちているようだ。しかしもうこうなったら、そんなのは些細なことなので、環は無視することにした。もとから細身のごぼうだったと思えばよろしい。
 とりあえずごぼうの皮を落としたところで、環はちょっと迷った。一口にきんぴらごぼうと言ったって、切り方は二通りある。ささがきか、千六本かだ。どっちが好みか、なんてことは問題じゃない。どっちがより時子のような超初心者にとって簡単か、それが最も重要なのだ。
「で、これくらいに切るのよね?」
 迷うまでもなかった。どっちが……と思っている最中に、そこだけは鈴鹿の説明を覚えていたらしい時子が、とっととごぼうを五センチくらいの長さに、威勢よくゴンゴンと切り始めてしまったからだ。しかも、見ているだけで血の気が引いていくような危険極まりない手つきで。
 ──お前、誰かの首を切り落とすわけじゃないんだから。
「ここから、どうするの? 環君」
「………………」
 ここで、環は決意した。
 いきなり時子に自力でこんなものを切らせるなんて無謀なことを考えた自分が馬鹿だったのである。ただでさえ、ごぼうは細くて丸くて切りにくい。この分だと、ごぼうと一緒に、時子が自分の指まですっぱり切ってしまう確率は、限りなく百パーセントに近いに決まっている。
「待て、トキ」
 張り切って、今にも包丁を構えようとしている時子を一旦制止してから、環は彼女の背後に廻ると、後ろから抱くようにした。
「え? あ、あの、環君?」
 突然の密着態勢に、腕の中にいる時子が珍しくうろたえたようにもぞもぞと動く。
 それは放っておいて、環は、包丁を持っている時子の右手と、ごぼうを掴んでいる左手に、伸ばした自分の手をそれぞれ上から重ねた。
 つまり、包丁を持つのにまったく慣れていないから、ふらふらして安定しないのだ。こうして固定させてやれば、少なくとも指を切り落とすような事態は回避できるだろう、多分。
「…………。あの、環君。かなり、恥ずかしい格好よね、これ」
 二人羽織の変形版みたいな状態で、時子が顔を赤くしてそう言ったが、現在、環の心境はイチャつき気分からは程遠い。
「いいから。包丁は、こうやって、しっかり持つ。反対側の手は、指を引っ込めて丸くしろ」
 時子の両手を握りつつ、小さな頭越しに教える環は、真剣そのものだ。
 この後、人参も切らなきゃいけないのか、と思ったら、気が遠くなりかけた。


          ***


 ……結局、ごぼうと人参を切り終えたところで、この日の料理教室は終了となった。
 それだけのことに、一時間以上もかかってしまったからである。普通ならそれだけの時間があれば、きんぴらごぼうなんて二、三回は作れてしまいそうなものなのに。
「ふう〜……、お料理って、大変ねえ〜」
 片付けを終えた時子は、吐息混じりにぐったりと床に寝そべった。しつこいようだが、普通は、これを 「料理」 とは呼ばない。
「こら、そんなところに寝転がるな。最近、あんまり掃除してないんだから」
 ベッドに背中を預けて座り、煙草を吸って一服している環が言った。気のせいか、時子よりもよっぽど疲れた顔をしている。
「そうなの? でも、そんなに汚れてないじゃない」
 ごろごろと転がりながら、時子は周囲を見回した。
 環のアパートの部屋はそんなに広くもないが、家具らしきものがほとんどないので、がらんとして見える。フローリングの床はそのまま剥き出し、もちろん座布団やクッションなどの気の利いたものもない。あるものといったら、背の低いベッドと、小さなローテーブルくらいだ。
 唯一、環個人の嗜好を示しているようなものといったら、隅に積まれたバイク関係の雑誌程度で、それ以外はあまり生活臭もない、味も素っ気もない部屋だった。なので、散らかりようもない。
「掃除機をかけてないんだ。いいから、こっち来い」
 と、環が手招きをするので、時子は寝そべった姿勢から手と膝を突いて、四つん這いでぺたぺたと床を移動した。
 環のすぐ近くまで行って、「じゃあ、遠慮なく」 と真正面からべったりと抱きつく。
「馬鹿、危ない」
 慌てて、環が口に咥えていた煙草を、床に置いてあった灰皿に押し付けて消した。
「だって、こっち来いって言った」
「こっちに来て座れ、って意味だ」
 そう言いながらも、環は両腕を時子の背中に廻して、ぎゅっと抱き締めてくれた。
 その胸に顔を押し付けて、ふう、と息をつく。環の匂い、煙草の匂い、少し固くて温かい身体。そういうものが、時子をひどく落ち着かせるのだ。精神安定剤として、これより効くものは他にない。
 後ろからハグされるのもいいけど (どうやら環はそういうつもりではなかったらしいが)、やっぱりこういうのがいちばんいいなあー、と時子はほんわかと幸せな気分になった。
「……トキ」
 耳元で、名前を呼ばれた。くすぐったくて、少し身を縮める。
「うん?」
「なんでそう、きんぴらごぼうにこだわるんだ? 川又さんは、本当は何て言ったんだ」
「…………」
 問いかけに、時子は口を噤んだ。
 事務所で、川又老人と 「その話」 をしていた時、環は仕事に行っていたし、鈴鹿は席を外していた。だから、環はその時の会話の内容を知らない。
「……つまんないことなの。私のね、とっても個人的なこだわりなの。川又のおじいちゃんが、特に何かを言ったわけじゃないの。ぜーんぶ、私が勝手にやってることなんだよ」
 環の胸に頭を凭せ掛けたまま、時子は静かに答えた。きっと、川又老人だって、時子がこんなことをしていると知ったら、驚くに違いない。自分が何を言ったのかも、もう忘れているかもしれない。そのくらい、それはなんでもない、時子以外の人間であれば、するりと聞き流してしまうような言葉だった。
 自分の頭のすぐ上で、環が小さく溜め息をつくのが聞こえた。けれど彼は、それ以上は何も訊ねてこようとはしなかった。
 ──多分、明日も訊かないまま、ただ、時子にきんぴらごぼうの作り方を教えてくれるのだろう。
 時子はちょっと身を離して、環と目を合わせると、ふふ、と笑み崩れた。
「環君のそういうところ、大好き」
 言いながら、そっと唇を軽く触れ合わせる。
 背中に廻った腕に力が篭もり、返事の代わりに、深く絡まるような口付けが返ってきた。


          ***


「……っと」
 闇の中で目を覚まして、環が枕元に置いた携帯を開いてみたら、時間はもう十一時半を過ぎているところだった。
 しまったな、と思う。
 事が終わった途端に時子が寝入ってしまったので、少ししたら起こしてやるか、と思いながらその寝顔を見ているうちに、いつの間にか自分も眠ってしまったらしい。
 隣の時子を見ると、掛け布団に顔の半分を埋めるようにして、ぐっすりと熟睡してしまっている。こうなるともう、起こすのも気の毒だ。
 携帯を手に持ち、そうっと身体を起こしてベッドから抜け出る。床に散らばっている衣服の中から自分のを拾って適当に身につけてから、玄関近くまで移動した。
 いつも結構遅くまで起きているということだから、大丈夫かな、と思いながら携帯を開き、ボタンを操作する。耳に当てると、しばらくの呼び出し音の後で、相手が出た。
「不破です」
 時子を起こさないように、抑えた声で名乗ると、向こうから陽気な声で挨拶を返された。相変わらず元気な人だな、と口許に少し笑みが浮かんだ。
「すみません。トキが──今日は、帰るつもりだったようなんですが」
 環君ちに寄っていくから、帰るのが遅くなるね、と時子が電話していたのを環は聞いている。だから自分もちゃんと帰すつもりだったのに、ついつい自分の欲求を優先させてしまった。
 いや、現在進行形で、優先させている、と言うべきか。時子の安らかな眠りを妨げて帰らせるより、このまま自分の傍に置いておくほうを選んだのは、環自身なんだから。
「ちょっと、眠ってしまって」
 携帯の向こうから、明るい笑い声が聞こえた。あらあら、どうして寝ちゃったのかしらねえ、なんて言っている。判っているのだろうに、こういうところ、時子にそっくりだ。
「今日はこのまま、泊まらせようと思うんですが」
 環が言うと、あらまあ、ごめんなさいね、ご面倒かけて──と朗らかに謝られた。ここは普通なら叱られてもいい場面だと思うのだが、男女のことに関して、非常に寛大な人なのだ。あの年代の女性にしては、かなり稀有なタイプなのではないかと思う。
 そういや、ハーレクイン小説が好きだって、以前に時子が言っていたっけ。
「明日の朝、家まで送っていきます。……はい、じゃあ」
 簡単な挨拶を交わしてから、通話を切った。
 もう一度ベッドの方に戻ろうとして、少し顔を顰める。自分の裸足に目を落としたのは、足裏がわずかにざらついていることに気がついたからだ。
(掃除しないとな)
 と、心の中で呟く。環一人のことならまったく気にしないが、明日も料理の続きをしに、時子がここに来るのだろうし。何度言っても、時子はいつも無造作に、床にごろりと寝転がる。
(綺麗好きのくせに、大雑把なんだから)
 綺麗好き、イコール、神経質、というわけではないらしい。
 そういえば、普段せっせと事務所の掃除ばかりしている時子だが、環の部屋を掃除しようとしたことは、今までで一度もない。
 この殺風景な部屋は、それでも環の 「テリトリー」 なのだから、たとえ恋人といえど勝手に手を出すべきではない、という考えを持っているのだろう。他の男はどうなのか知らないが、時子のそういう性質や価値観を、環はとても気に入っている。
 気に入っている──というか。
(お前のそういうところが、好きだって)

 時子のように素直に口に出せたら、どんなにいいかと思うのだけど。

「…………」
 小さな息を吐いて、環は再び時子の隣で眠りを共有すべく、足を動かした。



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