猫の手貸します

case5:除草作業

毒を喰らわば皿まで(3)




 仕事の依頼から三日後、約束どおり自宅にやってきたスズカ便利屋の二人を見て、川又老人は困惑した顔をした。
「川又さん、お台所を貸して欲しいんですけど」
 開口一番そう言った時子の手には、大きな布製のバッグと、スーパーの袋がぶら下がっている。
「台所……は、いいけど、どうするんだい?」
「お料理をしたいんですよ。あ、だからついでに、鍋や調味料なんかもお借りしたいんですけど、いいですか」
「料理?」
 ますます首を傾げてしまった川又老人は、時子を見て、それからその後ろにいる環に目を移した。
 こちらは、いつも通り動きやすそうなTシャツとジーンズ姿である。彼が肩に担ぐようにして持つ作業袋からは、草刈り用の鎌らしきものが覗いていて、ほっとした。何か勘違いをして、草むしりを頼むつもりが、違うことを頼んでしまったのかと思ったのだ。
「どうしてまた? 学校で、調理実習でもあるのかい?」
 何か、緊急に料理をしなければならないような、よほど切羽詰った事情でもあるのかと思ってそう訊ねてみたのだが、時子はあっさりと首を横に振った。
「調理実習のあるような学部、私が受かるわけないじゃないですかー。そういうことじゃなくて、ただ単に、お料理がしたいだけです」
「ただ、単に?」
 意味が判らない、という顔を川又老人はした。
「よかったら、川又さんに食べてもらいたいんです。えーと、無理にとは言わないんですけど」
「僕に?」
 驚いて訊き返してから、ああ、と納得して口許を綻ばせる。
 そうか、それは時子の、一人暮らしの老人への心遣いなのだな、と思ったのだ。そんなに心配されるほど老いて見えるのかな、という苦笑じみた気持ちはあるが、こちらに向けられるその親切心は素直に嬉しいものだと思うから、ありがたく、好意を受け取ることにした。
「そうかあ、嬉しいね。何を作ってくれるのかな」
「それは秘密ですよ」
 スーパーの袋からは完全にごぼうがにょっきり飛び出しているのだから、秘密もへったくれもないような気がする。
 ごぼうを使った料理というと、きんぴらか何かかな……と心の中でひとりごちた川又老人は、そこで、口許に浮かんでいた穏やかな笑みを、引っ込めた。
「…………」
 以前、自分が言った言葉を、この時になって思い出した。


          ***


「これから私がすることを、決して覗いてはいけませんよ」
 と、恩返しをするツルのようなことを言って、時子は川又家の台所に引きこもり、ドアをバタンと閉じてしまった。
 こうなったらもう、あとは運を天に任せるだけである。環は正規の依頼に取り掛かることにして、庭に下りた。
 川又老人は最初、心配そうに台所のドアの前をウロウロとしていたようだったが、こちらもしばらくすると、どことなく強張った顔つきで縁側までやってきて、そこで腰を下ろした。
 台所からは、「えっ」 とか 「きゃっ」 とか、ガラガラドッシャン、とかの、どう考えても調理以外の騒音が漏れ聞こえて、生きた心地がしなくなったのだろう。気持ちは非常に理解できる。
「すみません、あいつのワガママに付き合わせて」
 庭に生えた雑草を片っ端から引っこ抜きながら、環は縁側の川又老人に向かって言った。
 何かをしていないと、自分も、悪い方向にばかり空想が進んでいってしまいそうだ。救急箱も持ってはきたが、それではどうにもならないような怪我をしたら、という不安を押し潰し、手を動かすことに専念する。
「……え、いや」
 老人もやっぱり、台所方面が気になるらしかった。ちらちらとそちらを振り返りながら環に返事をしたが、なんとなく歯切れが悪い。
 縁側に敷いた座布団の上で、川又老人はもぞもぞと落ち着かなさそうに身動きしている。ざしざしと手早く草を抜いている環を見て、何かを言いかけ、はあっと息を吐いた。もともと大柄な人ではないが、肩を落としたその姿は、いつもよりも小さくなってしまったように見えた。
 とはいえ、環は、そこでそちらに向かって踏み込むということをする人間ではない。何も言わず、何も訊ねず、黙々と抜いた雑草の山を大きくしていく。
 少しの間、川又老人は目線を下に落としていたが、やがて、何かを決意したかのように顔を上げ、立ち上がった。背中を向けて玄関の方へ歩いていって、また戻ってきた時、その手には、いつも彼が持ち歩いている杖があった。
 また同じ場所に座って、その杖を撫でる。
 それから、ゆっくりと、口を開いた。
「……これね、死んだ女房の形見なんだよ」
 環は一瞬手を止めたが、すぐにまた作業を再開した。
「そうですか」
 その方がいいのかなと思ったから、目は庭の雑草に向けたままだ。
「僕と女房はねえ、駆け落ち同然に家を出て、一緒になったんだよね」
 そう言う声の中には、ほんのりと照れ臭さが混じっていて、環は手を止めずにほんの少しだけ口許を和ませる。そんな話はこの世の中に幾つもあることなのかもしれないけれど、こんな風に言えるのなら、それはきっと稀なほどに良い方向へと行った 「駆け落ち」 だったのだろうな、と思った。
「いろいろと、お互いの家に難しいことがあって、普通に結婚できなくて──何度も諦めようとして、別れ話もしたけど、でも、やっぱり無理だったんだ。どうしても、どうしても、お互い離れられなかった。それで、二人で家を飛び出してね。遠く離れた場所に職を見つけて、住処を確保して……貧しいから結婚式なんてものは結局出来ないままだったし、たくさん苦労もしたけど、なんとか二人でやってきたんだよ」
「…………」
 こうして言葉にしたものを耳に入れると、それはただの物語のように単純なものに聞こえてしまって、申し訳ないほどだった。
 若き日の川又老人とその妻が、ひとつひとつ乗り越えてきた 「苦労」 というのは、きっと環には想像できないほど大きく辛いものであっただろう、と思うのだが、思うだけで限界だった。それを芯から実感するなんていうのは、土台、無理な話なのだ。
(結局、そういうものなんだ)
 と、心の中で呟く。
 本人がどんな痛みを持っても、苦しみを味わっても、苦渋や辛酸を舐めても、本当の意味でそれを他人に伝えることなんて出来やしない。どんなに言葉を尽くして語っても、涙を流して訴えても、それは当人にしか、判らない。
 ──共有することなんて、出来はしない。
 少なくとも、環はそう思う。
「喧嘩もしたし、諍いも、揉め事もあったけど、楽しかったなあ。僕らは、残念ながら子供には恵まれなかったのだけど、それでも、二人で寄り添って、なんでもない毎日を積み重ねていくのは、ほんとうに、楽しかった」
 川又老人の言い方は、どこか夢見るようでもある。過ぎてしまえばその日々は、本当に夢のようなものだったのかもしれない。
 ちらりと目をやると、彼はもう、環を見てはいなかった。伏せられた瞳は、じっと手に持った杖に据えられている。
「……女房が死んだ時、悲しいというよりは、胸にぽっかりと穴が開いてしまったようでね。その穴は、時間が経つと共に、塞がるどころか広がっていく一方だった。深く大きいその穴を覗き込むと、もうね、真っ暗な闇しかないんだよね。そこに引きずり込まれないように、立ち止まって踏ん張っているだけで、精一杯だった」
 それだけ、それまでが幸せな日々だったのだろう。人生の中で、そんなにも幸福な時間があって、まだよかったじゃないか──なんていうのは、所詮、口先だけの慰めだ。
「まあ、もうこの年齢になると、達観できたところもあるんだけどね。なるようにしかならないってね。けどそれでも、やっぱりまだ、時々、無性に胸が苦しくなることがある。会いたくて会いたくて、たまらないことがある。どうして早く迎えに来てくれないんだろう、って、仏壇に向かって恨み言を言いたくなることもある。子供もいないし、心残りはないんだから、もういいだろうって」
 そこまで言うと、川又老人は、申し訳なさそうに肩をすぼめてうな垂れた。
「それで、この間、つい、それを洩らしてしまったんだ」
 時子との会話の途中で、ふと、口をついて出てしまった。独り言のつもりだった。けれど、かなり本心だった。

「──これだけ生きたんだから、もう早いところあの世へ行って、女房の作ったきんぴらごぼうが食べたいなあって」

「………………」
「時子ちゃんはそれに対して何も言わなかったから、聞こえていないもんだとばっかり、思ってた」
 もちろん、聞こえていたに決まっている。
「……時子ちゃんは、お祖母さんと二人暮らしなんだってね」
 ぽつ、と川又老人が言葉を落とすように言った。
「はい」
「お祖母さんは、僕と同じくらいの年齢なのかな」
「多分」
 返事をしながら、雑草を抜き続ける。上手いこと根っこから抜けず、ぶつっと途中で切れてしまった。くそ、と内心で罵る。
「ご両親は、いないんだろうか」
「親は……ちょっと、いろいろあって」
 環が曖昧に濁したことの意味を、それなりに察してくれたらしく、川又老人は、「そうか、うん、いろいろね」 と言ったきり、それ以上の追及はしてこなかった。
「時子ちゃんは、おばあちゃんっ子だろう」
「そうですね、昔から」
「きっと、孫を可愛がる、優しいお祖母さんなんだろうね」
「そう、ですね」
 包丁で手を切ったり、油が撥ねて火傷をしてはいけないからと、大学生になっても、未だに孫に台所で料理をするのを禁止するような。
 そういう過保護なところもあるけれど、いつでも温かく見守ってくれる愛情たっぷりな人であることは、間違いない。
 時子は本当に心から、祖母である彼女のことを、慕って、甘えて、大事にしている。その手に唯一残った身内だから、という理由でなくても、時子にとって、その人は、かけがえのない存在だ。
 川又老人は、息を吐きながら、静かに言った。
「残すほうも、残されるほうも、つらいってことは、僕も知っているつもりだったんだけどね」
「…………」
「随分と、残酷で無神経なことを、言ってしまった」
 しゅんとして俯く川又老人に、環はやっと正面から顔を向けた。
「川又さんが気にすることはないです。トキも、『これは自分の個人的なこだわりだから』 と言っていました。多分、その言葉に傷ついたとか、悲しくなったとか、そういうわけでもないんです」
 そんなことで傷ついたり悲しんだりするほど、時子は弱くない。
 ──どんなに愛して、大事に思っても、去っていくものを止めることは出来ないのを、時子は知ってる。
 行かないでと、願っても、縋っても、泣いても叫んでも。
 止められない、ことがある。それを、もう、知っている。
 だからこれは多分、時子の意地で、ワガママだ。時子自身、ちゃんとそれを自覚しているはずだ。
「申し訳ないんですけど、少しだけ、付き合ってやってもらえませんか」
 立ち上がって頭を下げた環を、川又老人は無言で見て、少ししてから 「うん」 と、ひとつ頷いた。


          ***


 時子が台所に篭もってから二時間。
 環の除草作業も終わって、庭がさっぱりとした姿になった頃、料理は完成した。
「えっとー、出来ました、けど」
 こんな自信なさげな声を出す時子は、滅多に見られるもんじゃない。
 ようやく台所から出てきた時子は、非常に不得要領な表情で、皿に盛られたきんぴらごぼうを差し出した。なんでこんなものが出来てしまったんだろう、と本人がいちばん不思議に思っているみたいだった。
「…………」
 なるほど、不思議に思えてしまうのももっともだ、と思わず納得してしまうような代物ではある。
 ごぼうも人参も不揃いもいいところだし、非常に油でぎらついて、てらてらとした不気味な光沢を放っている。育ち盛りの子供はまだしも、老人にはあまり適していなさそうだ。茶色というよりは黒っぽく、そのわりに赤いのは、どう考えても唐辛子が多すぎるからなのだろう。味の方は推して知るべし、といったところである。
 しかしまあ、とりあえず時子が無傷でこれを作り上げたというのがすでに奇跡であるから、これ以上の奇跡を望む気持ちは、環には毛頭ない。川又さんが食べなくても俺が食べよう、と思いながら隣を窺うと、机の上に乗ったそれを見て、老人はしわしわの顔をいっぱいに綻ばせていた。
「いやあ、いいなあ、これ。新婚の頃、女房が作ったきんぴらも、こんな感じだった」
 懐かしそうに目を細める。どうも、時子を慰めるための作り話というわけでもないらしい。
「なんか身体に悪そうなので、食べなくてもいいですよ」
 時子が心配そうに言うのにも構わず、にこにこしながら箸を取り、ごぼうを挟んで口に運んだ。笑ったまま倒れるんじゃないか、と環はちょっとハラハラしたが、川又老人はそれを咀嚼して飲み込み、またにっこりと笑った。
「旨い」
 と、呟く。
「えー……」
 時子は明らかに信じていない表情で、少し不満そうな声を出した。自分の作った料理を褒められて、その反応もどうかと思うのだが。
 環も箸を手にして、そのきんぴらを食べてみた。味は……まあ、想像通り、としか言いようがない。固くて、辛くて、油っこくて、しょっぱい。それでも環はいちばん最初に時子が作った 「きんぴらごぼう」 がどんな物体であったか知っているから、ここまでのものを作るのに、彼女がどれだけ苦労をしたのかも察しがついた。
 だから、
「旨い」
 と、同意したのは、嘘ではなかった。
 川又老人は、二度、三度と、その不可思議な味のきんぴらごぼうを口に入れ、ゆっくりと噛みしめて食べた。
 そうして、しみじみともう一度言った。
「旨いなあ」
 その言葉に、時子がやっと安心したように、表情を緩めた。
 ちょっとだけ頬を染め、えへへ、と目元を崩して、照れたように、そして嬉しそうに笑った。
 花が咲いたみたいに。


          ***


 時子が台所の片付けをする間、環と川又老人は、時子の作ったきんぴらごぼうをつまみに、二人でビールを飲むことにした。酒の肴として食べる分には、これはこれで悪くない、かもしれない。
 まだ一応就業時間内なのだが、依頼は終えたし、鈴鹿には早退扱いにしてくれと連絡もしてある。「もうこの後の予定は入ってないからいいよー」 という、軽い答えだった。零細事務所はこういうところが気楽だ。
「僕と女房はねえ、駆け落ち同然で結婚したんだよ」
 川又老人は、あまり酒が強くないらしい。ちょっと飲んだだけなのに、赤い顔をして、さっきと同じことを言っている。
「たくさんの人を、怒らせて、困らせて、悲しませたんだけどね、それでもね、幸せだったんだ」
「そうですか」
 と、コップを傾けながら、環もさっきと同じような相槌を打った。環の場合、ビール瓶二本程度では、まるっきり素面の状態と変わらない。
「不破君もね」
 と、唐突にこちらに話が振られる。やっぱり少し、酔っているのだろうか。
「不破君も、欲しいものがあったら、ためらっちゃダメだよ。いつもいつもじゃ困るけど、時には、うん、時にはね、一生に一度くらいは、貪欲に手を伸ばして、掴んで、離さないで、しっかりと捕まえるんだよ。誰が怒っても、困っても、悲しんでも、どうしてもどうしても欲しいものを、諦めようとしてはダメだよ。手に入れてから失うのもつらいけれど、手を伸ばす前に諦めるのは、もっとつらい。そういうのはね、いつまでも、死ぬまで、残ってしまうよ」
「………………」
 黙り込む環を余所に、川又老人は顔を動かして、整然とした庭に視線を移した。
「──人の心は、草のように、簡単には抜けないものだから」
 それが罪だとしても、欲しいものは欲しいと、言い張るんだよ。
 川又老人は、穏やかな声で呟くようにして言った。そして、遠い目をして、微笑んだ。
 その言葉に、何が含まれていて、どういう意味があるのかなんてことは、判らない。川又老人の過去も、苦労も、痛みも辛さも、環には判らないのだから。それは川又老人だけのもので、誰にも共有なんて出来っこない。
 ──でも、とても幸せそうな顔をしているようには、見えた。
 川又老人は、どうせ罪を犯すなら、とことんまでいきなさい、と言って、またごぼうを口に入れた。



 ……結局、鉢皿に盛られたきんぴらごぼうを、環と川又老人は完食してしまった。
 その後、二人して胃薬のお世話になったことは、時子にはナイショだ。



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