猫の手貸します

case6:ボディーガード

絆という名の諸刃の剣(3)




「……今日は、木下さんから電話がかかってこないね」
 という鈴鹿の言葉に、環は 「そうですね」 と素っ気なく返事をした。
 それから、事務所の壁にかかっている時計を確認して、そろそろ時子が来る頃だな、と心の中で呟いた。少し喉が渇いてきたのだが、いつも時子が来るまでなるべくコーヒーは飲まないようにしているのだ。
 そんな環に、ちら、と鈴鹿が自分のデスクから意味ありげな視線を寄越す。
「結局、十日連続で依頼があったわけだね」
「そうですね」
「もういい加減、お金が勿体なくなったのかなあ」
「そうですね」
「昨日は、エアコンの掃除を、っていう依頼だったっけ」
「そうですね」
「木下さんと何かあったでしょ」
「………………」
 危うく、「そうですね」 と言いかけた言葉を飲み込んだ。何かのテレビでこういう遣り取りがあったが、誘導尋問の罠にも使用可能らしい。
「何かって?」
 とぼけながら問い返すと、鈴鹿は思いきり胡乱そうな目つきになった。
「不破君、君、とうとう手を出しちゃったの?」
「…………」
 ここまで露骨な言い方をされたら、環もさすがにげんなりする。
「所長はもうちょっと所員を信頼すべきじゃないですか」
 別に鈴鹿に信頼して欲しいわけでもないが、それにしたって、こういう時にまず一直線にそちらの方向へ思考が進んでしまうというのは、上司としてどうなのだろうと思う。自分が上司である鈴鹿を信頼しているかどうかはさておき。
「俺は何もしてません。……何もしてないから、電話をかけてこないんでしょう」
「つまり、肉体的に迫られたのを断った、と」
「だからそういう露骨な言い方はどうかと……」
 溜め息混じりに環は言ったが、否定はしなかった。
 正確に言うと、帰り際に抱きつかれて、「今日の夜、仕事が終わったらまた来てくれませんか」 と言われたわけなのだが、まあ意味合い的にはそう違いはないだろう。
 それを見て、鈴鹿は納得したように、うんうんと頷いた。得意先を失ったことに対して嫌味の一つでも飛んでくるかなと思ったが、却ってホッとしているようだった。
「そうかあ〜。まあ、そういうことなら、仕方ないよね。彼氏のことは気がかりかもしれないけど、本当に危ない事態になったら、不破君でもどうしようもないだろうし。仕事が減るのは喜ばしいことではないけど、僕もさあ、この件に関してはやっぱりちょっとどうなのかなって思ってたんだ。誰が誰を好きになろうと、それは自由だし、僕の知ったことじゃないけど、でも」
 そこで、鈴鹿は声を少し落とした。
「やり方が、あんまり好きじゃないっていうかさ」
「……そうですね」
 環は頷いたが、実のところ、その言葉に同意したわけではなかった。
 好きも嫌いもない。環は本当に心の底から、どうでもよかったのである。


 自我、というものをあまり持っていなさそうなあの女も、「弱さ」 を前面に押し出そうとする芝居がかった言動も、いちいちこちらを持ち上げるわざとらしさも、仕事を口実に篭絡しようとする狡猾なやり方も。
 絵梨は今まで、その方法で自分を庇護してくれそうな男を捕まえていたのかもしれない。だからきっと、何も考えず、環に対してもそうしようとしただけのことだ。確かに、そういうのが好きな男だって、可愛いと思う男だって、世の中にはたくさんいるのだろう。
 ……けれど、それらのどれも、環の中の何ひとつとして動かすものではなかったのだ。不愉快にすらならなかったのは、感情に触れるものも何もなかったから、というだけのこと。
 冷え冷えとした心で、ただ、見ていただけだった。
 だから、背中に廻った彼女の腕を掴んで引き剥がすことに、まったく躊躇はなかった。
 抱きつかれて誘われたところで、心も身体も、ぴくりとも揺れなかった。彼女が何を思おうと、どう感じようと、まるで興味が湧かなかったから、無言で背を向け部屋を出て行くのにも、何の罪悪感もなかった。
 不破さん、と後ろで名を呼んだ時の涙声が本物かどうか、確認する気もないくらい、どうでもよかった。
 最初から、ずっと。
 あの女に対して、知りたいとも、手を伸ばしたいとも、ちらりとも思ったことがない。ましてや守ろうだなんて、一瞬でも頭を過ぎったこともない。
 これでもう、ここに来る 「仕事」 は終わりだな、とせいせいした気分でいたくらいだった。
 ──幻想ではない実際の環が、そんな風にどこまでも他人に対して無関心になれる人間だということを、ドアが閉じられるその瞬間までに、絵梨は果たして気づいただろうか。


 鈴鹿はふーんと唸るように呟いて、とん、と指でデスクを叩いた。
「それならまあ、それでいいんだけど、君、そのことはちゃんと時子君に言ったわけ?」
「は?」
 その質問は、環にとってひどく唐突なものに思えた。だからつい聞き返したのだが、その反応を見た鈴鹿は、思いきりしかめっ面になった。
「……ひょっとして、何も説明してないの?」
 まるで、責めるような言い方だ。
「説明も何も……」
 少し困惑して、曖昧に言葉を濁す。意味がよく判らない。
 時子は絵梨のことについて、一言も口にしない。環が絵梨に呼ばれていくようになってから、一度だってその名前を出したことがない。何も聞かれないのに、あれこれ自分から話すのも不自然だ。最近、笑顔が少なくなってきたことにはもちろん気づいていたから、意識的に、一緒にいる時間をできるだけ増やしたりはしたが、二人の間で、そんな会話を交わすことはなかった。
 何も言わなくても、環が絵梨に対してまったく興味を持っていないということくらい、時子には通じているはずだ。それなのに、何を説明しろというのか。
「だって不破君、ここんとこ毎日他の女性のところに入り浸ってたわけだよね」
 非常に理不尽なことを、それも詰るような口調で言われ、環は驚いて目を見開いた。
「所長が依頼を受けて、『仕事だよ』 って俺に回したんですよね?」
「でも君、断らなかったじゃないか」
「断る選択肢があったんですか」
 それならそうと言ってくれれば、断っていたのに。
「不破君に気がある女性に呼び出されてさ、そのたびいそいそ出かけていくんだから、時子君は、そりゃあ面白くないよね」
「俺がいつ、いそいそと行きました」
 聞き捨てならず、反論する。
 環にとって、仕事は仕事、それ以上でも以下でもない。だから、普段の仕事は、大体どんなことでも淡々とこなす。そこに自分の好き嫌いとか、私情も感情も差し挟まない。今回だって、同じようにしただけだ。
「俺があそこに行っていたのは単に仕事だからです。トキはそんなことも理解できないような馬鹿じゃありません」
 だからこそ、時子だって、何も言わなかったのではないか。「面白くない」 という気分はそりゃあるのだろうけれど、まさか本気で環が絵梨みたいな女に言い寄られて喜んでいると思うほど、時子は愚かじゃないだろう。
「そうだね、時子君は理解してるだろうね」
 じろりと睨まれた。
「けど、それでも普通は、不安になるもんなんじゃないの? 好きな男が他の女性と毎日会っていて、不安になったり心配になったりするのは、そんなに馬鹿なことなのかな。……それともさあ」
 鈴鹿は口の端を上げて、ちらりと皮肉な笑い方をした。そういう顔をすると、血の繋がりはないのに、なんとなく桂馬と似ている。というより、普段、間の抜けたところしか見せないだけに、鈴鹿のほうがよっぽどタチが悪く見えた。
「それとも、そんなことくらいではほんの少しも揺るがないくらい、君たちの間には強固な信頼関係ってやつがあるのかな。時子君は、何があっても君のことを信じているだろう、って?」
「それは……」
 言いかけて、口を噤む。
 時子は自分のことを信用してくれているだろう、と思う。そう、ある程度は。
「ある程度は、信じているんだよね、きっと」
 内心をそのまま鈴鹿に口にされた。
「だから時子君は、木下さんのところに向かう不破君を、引き止めたりはしなかったわけだ。仕事だから、って自分に言い聞かせて。いじらしいよねえ」
 しみじみと首を振る。それから、真っ直ぐ環を向いた。
「──で、君は?」
「え……」
「君は、その信用に応えるための努力ってのを、したのかな。以前、時子君、言ってたよね。今まで一度も、不破君に、好きとも、愛してるとも、言われたことがないって。本来なら、そういう言葉が、恋人同士が信頼を築く土台となるべきものなのにね。その土台がないのに、当然のように時子君が君を信頼するなんて身勝手なこと、どうして思えるのかな。むしろ、そんなことを言われてもいないのに、君を信じようとしている時子君に感謝したっていいくらいだよ。僕からすると、不破君は、その信用の上に、ただあぐらをかいてるだけにしか見えないな」
「………………」
 口調はいつもと変わりないのに、中身はかなり辛辣だった。少なくとも、環には、相当な威力を伴って突き刺さった。
「……所長は、俺に何をさせたいんですか」
 しばらくの沈黙のあとで、ぼそりと訊ねる。
 言われたことについては、反発も反論もする気はなかった。鈴鹿の言うことはもっともだと思ったし、疼くような痛みを覚えたのも事実だ。かといって、すぐに自分の態度を改めることも出来ない。環には環の事情というものがある。
 鈴鹿が肩を落とし、はあーっと深い息を吐く。
「そりゃ、不破君に、ちゃんと言葉を尽くして時子君を安心させてもらいたいんだよ。困るから」
「困る?」
 環の問いに、鈴鹿は情けなく眉を下げた。
「……だって、あんなにも毎回毎回、物置のドアを力任せに叩きつけられたら、僕の大事な事務所が壊れちゃうじゃないか」


          ***


 しばらくしてから、ふと気づいたように、鈴鹿が壁の時計に目をやった。
「──そういえば、時子君、今日はちょっと遅いよね」
 つられるようにして環も再びそちらに視線を移し、時刻を確認して、眉を寄せた。
 確かに遅い。
 時子のバイトの入り時間は特に決まっておらず、「学校が終わってから」 という結構いい加減な決め事しかないのだが、いつもは、大体一定の時刻には事務所に顔を出している。時給が低い引け目もあってか、鈴鹿もあまりうるさいことは言わないのに、大学で何かがあったり、電車の都合で遅れたりするような場合は、ちゃんと連絡もしてきていたはずだった。
「あの子、言うことは出鱈目なところがあるけど、そういう面ではきちんとしてるからね。ご両親の躾が良かったのかな」
「…………」
 鈴鹿はなにげなく言ったが、環は返事をしなかった。何も知らないから仕方ないとはいえ、鈴鹿が、時子の前で、「ご両親の躾が」 なんてことを言い出さないでいることを祈るしかない。
 ……でも、きっと。
 そんなことは、時子の日常の中で、いくらでもあることなんだろう。時子の家庭の事情なんていうのは、結局どこまでも個人的なものでしかないのだ。誰が何を言ったとしても、それをどう受け取るかはあくまで 「こちら」 の都合でしかない。相手を責めるようなことじゃない、ということくらい、環も弁えている。
 ただ、ふとした拍子に、どうしても考えてしまうことはある。
 自分の見えないところ、知らないところで。
 大部分の何も知らない人々が、なんの悪意もなく口にする言葉に、今まで時子はどれだけひっそりと傷つけられていたのかな、と。
 笑いながら、ずけずけとものを言いながら、冗談に紛れさせながら。
 環がそんな風に思っていることを知ったら、時子は多分、元気よく笑い飛ばすのだろうけど。

 やーね環君、そんなことをいちいち気にしていたら、世の中なんて渡っていけないでしょ?
 私、見た目は可愛いけど中身は図太いんだから、何を言われたって、いまさらなんとも思わないよ。
 環君は、おばあちゃんと一緒で、ちょっと過保護なのよねえ〜。

 ──なんて。
 苦笑いしながら、呆れるように、子供みたいな大人みたいな顔になって目を細め、そう言い切ってしまうんだろう。
 環はそういう時子のことが本当に大事だし、愛しいと思う。好きとも愛してるとも言えないのに手を離すことが出来ないのは、彼女のその、ぴんと伸びた背中の線を、真っ直ぐな眼差しを、少しでも長い間、傍で見ていたいからだ。
 そこに、他の女が入り込むような余地なんて、あるわけがない。
「不破君、やっぱり時子君に愛想つかされたんじゃないの? それで、バイトにも来る気が失せちゃったのかもしれないよ」
「…………」
 からかうように鈴鹿は言ったが、環はわりと本気でグサッときて、机に突っ伏しそうになった。
 やーいやーい、フラレんぼー、と鈴鹿は手を叩いて子供のように囃し立てている。こんな中年男をほんの一瞬でも見直してしまった自分こそが腹立たしい。
「……ちょっと、電話してみます」
 うっかり友人と話しこんでいるとか、そんなことなのかもしれない。時子は、学校内ではなかなか顔が広いらしいし。あのさばさばとした気性に、自然と人が集まってくるのだろう。
 携帯を耳に当て、しばらく待ったが、いつまでも呼び出し音は続いたままだった。電車に乗っている途中なのか──それとも。
 何か、あったのか。
 そう思ったら、不意に、ひやりとした。頭の中を、桂馬の言葉が素早く掠めていく。

 ──そういう女って、時々暴走したりすることがあるからね、わけのわかんない方向に。

「…………。ちょっと、出てきます」
 環は座っていた椅子から立ち上がり、鈴鹿に向かってそう言った。



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