猫の手貸します

case6:ボディーガード

絆という名の諸刃の剣(5)




「え……」
 絵梨はぽかんとして口を開けた。何を言っているのか、意味が判らない。
「永遠なんていうものは、世界には存在しません」
 時子はそんな絵梨には構わず、表情も変えないで断言した。
「人と人との愛情も、ずっと続くものじゃありません。夫婦だって親子だってそうなんだから、ましてや他人同士、恋人同士なんて関係は、ちょっとしたことですぐに壊れるに決まってます。そこに恋や愛があっても、いいえ、あるからこそ、続けていくのは難しいんじゃないかと思います」
「…………」
 ちょっとしたことで、すぐに壊れる。絵梨が今までやったように、少し横から突っついただけで、ガラガラとあっけなく崩れる。脆い積み木みたいに。
 恋があるから、愛があるから、そこに不安という要素が侵入するのは容易い。一度不安が入り込んでしまえば、崩壊するまではあっという間だ。
「けど」
 と、時子は言った。こちらを向いているのに何を映しているのかまったく判らない瞳は、これまで絵梨が揉め事に関わってきた男にも女にも見たことのないものだった。
 それを見て、絵梨は少し背中が冷たくなった。
 ……子供? そんなわけない。こんな目をする子供なんて、いるはずがない。

 奥深いところに、混沌を隠した瞳。

「けど、私は、難しいから、せめて続けていく努力をしようと思うんですよ。永遠なんてあるわけないから、なおさら、二人で共有できる 『今』 のこの時間を大切にしたい。願っても望んでもいつまで続くのか判らないのに、簡単に壊してしまうなんて、真っ平です」
「……壊したくないから、不破さんが何をしても許すってこと?」
 そう訊ねると、時子はふっと表情を和らげて、またもとの幼さの残る顔に戻った。「私、そんなに寛大じゃありませんよー」 と、笑いながら否定する。
「ただ、環君と木下さんの間で、何かがあったとは、考えていません。いろいろと気に入らない点はありますが、この件で環君と喧嘩をしたり、別れたりすることはありません。そのことを、木下さんに、はっきりと言っておこうと思って」
「……なに、それ」
 絵梨は唇の端を持ち上げ、引き攣ったように笑った。なんだろう、無性に苛々する。黒々とした感情が、胸の中を渦巻いている。
 なんなの、この子、と、憎悪にも近い嫌悪感が湧いた。
 ──なんなのよ。
「バカみたい。結局、知らないフリでいよう、ってことなんでしょ? 問い詰めて、揉めるのが怖いから、それくらいなら何も聞かないでいようってことでしょ。『信じる』 なんて口先だけで、要するに逃げるんでしょ。男の人なんて、あなたが思っているほど真面目でもないし、貞操観念だって持ってないわよ。彼女がいようがなんだろうが、こっちから水を向ければ、ふらふらっと目先の欲を優先させるんだから」
「はあ、どさくさに紛れてすごいこと言ってますよ、木下さん」
 時子に目を丸くしながら突っ込まれ、今口にしたのが、自分のほうから環に迫ったことを認めるのも同然の台詞だったと気がついて、赤くなった。
「──うん、そうですね。確かに、環君も男なので、ふらふらっと誘惑に乗っちゃうことはあるかもしれないです」
 と、時子は拍子抜けするほどあっさり認めた。
 認めてから、静かに続けた。
「でも、もしそうなった場合、環君は私にそれを隠さずに言うと思うんです。隠せば、それだけ私が傷つくって知っているから、出来るだけ私の傷が少ない方法を取ろうとするんじゃないか、と思います。私が環君のことを信じるっていうのは、そういう意味です」
「…………」
 絵梨には理解できない内容だった。そんな男はいない、と言いたかった。
 けれど、実際に、環は絵梨の誘いに乗らなかった。

 あれは、もしかして、時子に悪いからしない──ではなく、時子を傷つけるようなことはしない、ということだった?

 そんな男、絵梨の周りには一人だっていたことがない。
 いいや、違う。絵梨には、世の中にそんな男もいるのだということが、見えていなかった。絵梨が今まで考えていた 「恋愛」 や 「彼氏」 の像の中には、そういったものが完全に抜け落ちていたからだ。
 では、絵梨が何をしても、環はもうこちらを向くことはないということか。いいや、そんなことよりも、時子と環の間にある 「何か」 は、猛烈に絵梨を嫉妬させた。そんなもの、絵梨は知らない。今まで付き合ってきた男の誰一人とも、持ったことはない。
 ああ……だから。
 だから、絵梨は時子が憎いのだ。自分の持っていないもの、得られないものを手にしている時子が、悔しくて、羨ましくて、憎くてたまらないのだ。物でも男でも、求めたものはいつも易々と自分のものにしていた絵梨は、自分が手に入れられないものを持っている人間がいるという事実に、耐えられない。
 お金にも男にも不自由しなかった。誰かに依存することで現実とも向き合おうとしなかった。楽な方向へ、少しでも見た目の良い方向へと流れてきたからこそ、自分にはないものを持つ誰かを許せない。不公平だ、と思ってしまう。
 ──なんで私が持っていないものを、あんたが持ってるのよ。
 そう思ったら、もうじっとしていられなかった。
 ゆっくりと、座っていたベンチから立ち上がり、時子の前に立つ。
 黙ってこちらを見返す落ち着いた双眸が、さらに絵梨の神経を苛立たせた。この平然と澄ました顔をどうにかして歪ませてやりたい、という欲求で胸が破裂しそうだ。はじめて、今の彼氏が癇癪を起こして手を上げる気持ちが理解出来た。身体だけは大人になっても、心は未だ成熟していない子供のままの人間は、「八つ当たり」 という形で他人にぶつけるより他に、怒りの処理の仕方が判らない。
 この子が悪いのよ、と絵梨は思った。
 年下のくせに偉そうな態度を取るから。絵梨の思惑通りに動かないから。生意気な言い方をするから。さも、環と信頼関係を築いているようなことを言うから。
 そうやって、絵梨のことは眼中にないとでも言いたげな顔をするから。
「…………」
 ぎゅうっと下唇を噛んだ。
 やにわに、右手に持っていたハンドバッグを高々と振り上げる。時子は一瞬顔を顰めたが、驚いたりはしなかった。避けようとも、手で庇おうともしなかった。それが余計に、絵梨を逆なでした。金具で顔に傷でも付けばいい、と本気で思った。
 時子の心にも、環との仲にも、傷を付けられないのなら。
「なによ──」
 思いきり時子の顔めがけてそれを振り下ろそうとした瞬間、背後から、誰かに腕を掴まれた。
 通りすがりの人間が制止にでも入ったのかと思った絵梨は、険しい顔で後ろを振り向いた。無関係の誰かに邪魔なんてされたくない。
 ──しかしそこには、絵梨よりもずっと険しい顔をした環が立っていた。


「あ……ふ、不破さん」
 咄嗟に笑顔を貼り付けて、この状況をどう言い繕おうかと、絵梨は素早く思考をめぐらせた。自分が悪いのではない。時子だ、時子が悪いのだ──
「あの、私」
「…………」
 口をついて出かけた言い訳は、環の無言によって封じられた。突き刺すような鋭い視線に、舌が凍りついたように動かなくなる。
 少しの沈黙のあとで、
「……あんた、彼氏が怖いから、俺に傍にいて欲しいって、言ったよな」
 と、環はずいぶん唐突なことを言い出した。
 仕事ではないためか、これまでよりもずっとぞんざいな言葉遣いだったけれど、声音はいつもとさほど変わりなくて、絵梨はほっとした。やっぱり大人の男だから、こんな時も冷静に対応できるのだろう。
「あ、そ、そうです。私、そのことで時子さんとお話してたんですけど」
 時子が何かを言う前に、なんとか上手く説明しなくては、と絵梨は早口でまくし立て始めた。少し、焦ってもいた。いつもだったら、こうやって弁解するのは相手の女のほうで、自分はしょんぼりとうな垂れているだけでよかったのに。
「時子さんが──」
 しかし、絵梨の言葉を、環はまったく聞いてなんかいなかった。
「事務所にそういう依頼をして、所長が受けたなら、男を追い返すくらいのことはしてやるさ。あんたじゃなくても、誰でも。仕事だからな。それをあんたは、『守ってもらう』 って言うのかもしれないが」
 声の調子はあまり変わらないのに、彼のまとう空気が氷のように冷たく感じられて、絵梨は当惑して口を噤んだ。
「でも、たとえば」
 掴まれた腕が、解放される。どうでもいいとばかりにぽいと放り出すような、無造作なやり方だった。
「……たとえば、ここであんたが車に轢かれたとして」
 物騒なたとえ話を淡々と口に出されて、ぞっとする。どうしてこの人は、こんな無機質な瞳でそんなことが言えるんだろう?
「そうしたら、俺は、何もしない」
「……え?」
 言われた言葉が、よく判らなくて、聞き返した。
「通行人の義務として救急車くらいは呼ぶが、それだけだ。面倒ごとに関わるのは御免だから、さっさとそこから立ち去る。あんたがどれだけ血を流して苦しんでいても、死にそうになっていても、きっと、一度も振り返らない。仕事から離れたあんたは、俺にとって、そういう無関係の他人でしかないからだ。……そして俺は、無関係の他人には、興味がない」
「──……」
 面倒ごとだ、と。無関係の他人だ、と。興味がない、と。
 環はなんの感情も交えずに、そう言い切った。
「で、でも」
 震える声で、絵梨は反論した。怒られたり、喧嘩をしたりすることはあっても、絵梨は今まで、他人からこんな目で見られたことはない。こんな──まるで、道端の石でも見るような。
「でも、不破さんは、私を助けてくれたじゃないですか。彼氏に殴られていた時、声をかけて、止めてくれたじゃないですか」
 本当に絵梨に興味がないのなら、そんなことはしないはずだ。縋るようにそう思って言ったのに、環はそれさえもあっさりと切り捨てた。
「トキだ」
「え……」
「俺が止めたのは、トキだ。あの時、トキがあんたの泣き声に気づいて、そっちに向かっていったんだよ。俺はトキを引っ張ってそのまま通り過ぎようとしたのに、それを振り切って行こうとした。トキはこれでお人よしだし、一旦言い出したら、聞かないんだ。だから、しょうがなく、俺が先に行った。くだらない痴話喧嘩に首を突っ込んで怪我でもされたら、たまらないからな。あんたを助けようとしたわけじゃない、トキを巻き込ませたくなかっただけだ」
 ぱっと時子のほうを向くと、彼女は少し気まずそうな顔をした。じゃあ、さっき、「自分を助けてくれた」 と言った絵梨に対して何かを言いかけ、途中で口ごもったのは、そのことだったのか。
「それをちゃんと言っておかなかったのは、俺が悪かった」
 悪かった、という言葉とは裏腹に、環の声は平坦で、からからに乾燥している。
 そこには本当に、「何もない」。
「…………」
 ──怖い、と絵梨は思った。
 今まで、一度だって、男に対して怖いなんて思ったことはなかったのに、環に対しては身が竦むほどの恐怖を覚えた。環の 「落ち着いた大人」 の顔の裏には、興味のない相手、関係のない他人、そういう対象にはとことんまで冷淡で、冷酷にもなれそうな、どこかひどく欠落した部分があるような気がした。
「そうだよ」
 何も口に出していないのに肯定されて、びくりとする。
「判っただろ? ホントの俺は、そういう 『人間の出来損ない』 でしかない。……今後は、もう少しマトモな男を捕まえるように、見る目を養うんだな」
「…………」
 絵梨は唇を引き結び、くるりと彼らに背を向けると、小走りにそこから離れた。逃げるように、一目散に。
 走りながら、混乱した頭でぐるぐると考えていたのは、ずっと同じことだった。今更のように、けれどはじめて真剣に、考えた。
 考えて考えて考えて──そこに答えのようなものを見つけられた時、絵梨にも、時子が持っている何かの欠片が手に入るだろうか。

 ……ひとを好きになるって、どういうことなんだろう?


          ***


「──トキ、ごめん」
 事務所に向かって歩く後ろ姿にそう言うと、うん? と時子が顔だけを振り向かせた。
「なんで環君が謝るの? なんか後ろ暗いことでもあるの?」
「ないけど」
 後ろ暗いところはない。でも、絵梨への対応を間違えた。そのせいで、時子に余計な火の粉が飛んだ。そのことについて謝罪していることは判っているのだろうに、時子は素っ気なかった。
「じゃあ、謝らなくたっていいじゃない」
 しれりとした顔でそう言って、また顔を前方に戻すと、すたすたと歩を進める。
「……お前、実はけっこう怒ってるだろ」
 よくよく考えてみれば、このところずっと嫌味のように毎日毎日ミニスカートかワンピースだ。環のバイクには同乗しない、という意図がありありである。
「怒ってないよ」
 とか言って、後ろを振り向きもしないし。
「怒ってるよな」
「怒ってません」
「怒ってる」
「怒ってないってば」
 そこで耐えられなくなったように、時子が噴き出した。くるっとこっちを振り返ったその顔が、いつもの時子の笑顔だったので、環は安心した。
「……本当のこと言うと、よく判らなかった」
「判らない?」
 うん、と頷いて、時子はそこで立ち止まり、環が追いついてくるのを待った。二人で並んでから、改めて歩き出す。
 今度はゆっくりと足を動かしながら、ぽつり、ぽつりと口を開いた。
「イヤだなあ、とは思ってた。環君が木下さんのマンションで何を話して、何をしてるのかも、実はすごく気になった。でも、そんなことを考える自分が、なんだか浅ましいような気になって、落ち込んだりもした。環君は、ああいうタイプはあんまり好きじゃないんじゃないかな、とは思っても、それでもやっぱり、不安だった。もし何かあったら環君はきっと馬鹿正直に私に言うんだろうな、と思ったから、環君が何かを言おうとするたび、ドキドキしてた。ちゃんと聞かないと、っていう気持ちと、聞きたくない、っていう気持ちが行ったり来たりしてたよ」
「…………」
「怒ってた、わけじゃないの。そういうものが、いっぱい自分の中にもあるんだってことを知って、ちょっとびっくりして、どうしたらいいか判らなかったの。そういう暗い感情はあんまり気分のいいものじゃなくて、正直言うと、重くてイヤな感じしかしなくて──」
 そこで一旦時子は言葉を切り、前を向いて、ぽとりと道に落とすように呟いた。
「──お母さんも、つらかったのかなあって、思った」
「…………」
 ああ、そうか、と環は思った。
 多分、時子にとって、いちばんしんどかったのはそれだ。
 時子は、自分を捨てた両親に、複雑な──とても言葉では言い表せないほど複雑な心情を抱いている。なんでもない顔をしているけれど、痛みはまだ、彼女の心に深く残っている。
 一方は他に家族を作り、一方は自らの命を放棄した。
 そういう両親に対して、突き放すような気持ちと、理解したい気持ちとが、時子の中では同じくらいあって、けれどそのどちらも、時子にとっては負担なのだ。
 時子が今まで一生懸命戦っていたのは、きっと、自分自身の内面だったのだろう。
 鈴鹿の言う通り。やっぱり環は、ちゃんと話をして、言葉を尽くして、時子の心配や不安をできるだけ取り除く努力をするべきだった。信頼の土台がない分揺れてしまう時子の心を、せめてしっかりと、捕まえておいてやらなければいけなかった。愛の言葉は、言ってはやれなくても。
 人の絆が脆くて儚いものだということを知っていてもなお、それを大事にしたいと願う彼女のために。
「……あのさ、トキ」
「うん?」
 どう言おうと迷って、結局出てきたのは、「もし、お前が車に轢かれたらさ」 という、口説き文句からははるか遠くかけ離れた台詞だった。自分はどう考えても、ロマンス小説の登場人物にはなれそうもない。
「──その時は、お前の望むこと、なんでもするから。どこかに行きたい、誰かに会いたい、って言ったら、どこまでも連れて行く。このまま抱いてろって言われたらそうするし、ずっとここにいろって言われたら、車の下敷きになってもその場所にいる。俺が出来ることなら、なんでもする」
「…………」
 環の言葉に、時子は瞳を瞬いてきょとんとした。
 ──それから、ほんの一瞬。
 目を細め、とろりと幸せそうに微笑んで、「……環君はね、出来損ないなんかじゃないよ」 と小さな声で言った。
 でもすぐに、時子はいつもの時子に戻った。
「じゃあね、その時は」
 と、明るい声を上げ、イタズラっぽく片目を瞑って、環を見上げる。
「まず、救急車を呼んでください」
 そう言って、屈託なく笑った。
 当たり前のように笑うその顔は、決して、当たり前にあるものではないのだろう。環は、ただそれを見て、満足しているだけではいけないのかもしれない。


 他人にも自分にも興味のない環が、この世で唯一守りたいと思うのは、その笑顔だけだから。



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