猫の手貸します

case7:人物観察

汝、欺くことなかれ(3)




「俺と真子が小学生の時、うちの両親が離婚してさ」
 一旦話し始めたら、純の口調は却って穏やかなくらいに淡々としていた。
 環はちらりと時子を窺う。純の話に頷くでもなく相槌を打つでもなく、ただ黙って聞いている時子の表情は、まったくといっていいほど変化がない。こういう時の彼女が何を考えているのか、環は全然判らない。
 判らなくて、少し、もどかしく切ない気持ちになることはある。けれど、悲しいとか寂しいとか思ったりしたことはない。環は、考え方の根底に、「他人を理解したい」 というものを持っていないのだ。昔から、現在に至るまでずっとそうだった。だから、自分にも他人にも興味がない、こんな歪な性格が出来上がった。
 人間と人間は、判り合えなくて当たり前。痛みやつらさ苦しさは、それを持つ本人だけのもので、他の誰かが、それを本当に理解することなんか出来るわけがない。共有しようなんていうのは、ただの無神経なエゴと自己満足だ。唯一特別であるはずの時子に対してさえ、環はそう思っている。
「妹はまだ、小学校にあがったばかりだったよ。親たちは、子供をどうするかってことで揉めたみたいだったけど、当然、俺たちの意見なんか聞いてもくれなかった。まだ子供だから、っていう理由で、完全に蚊帳の外に置かれて、大人の間だけで話し合いが進んでた。俺たちは、まぎれもない当事者だったのに」
 環の内心とは別に、純の話は訥々と続いていた。今までずっと可愛い女の子にしか見えなかった純だが、こうしてどこか諦めきった乾いた笑みを浮かべると、一人の青年の姿が覗く。
「結局、子供は一人ずつ分けよう、ってことになってさ」
 二つあるから、半分こしよう。そんな感じで。
「──母親は、迷いもしないで俺を選んだ」
 ここではじめて、純の目の中に、くっきりとした怒りが混じった。机の上に据えられていた視線に、強い光が込められる。大きな手が、拳の形になって握られた。
「信じられる? まったく、迷わなかったんだ。夫婦仲が上手くいってた頃はさ、母親は俺よりも妹のほうに甘かった。やっぱり女の子は可愛いわよね、なんて言って、しょっちゅう買い物に連れて行っては洋服や人形を買ってやってさ。俺と妹が喧嘩をしたら、『真子は女の子なのよ、お兄ちゃんなんだから我慢しなさい』 って、必ず俺のほうを叱ってたくらいだったのに」
 しかも俺を選んだのは、愛情の差なんかじゃないんだよ、と、純は吐き捨てるように言った。
「俺が男だから──理由はそれだけだった。男だから、大人になったら経済的に自分を助けてくれるだろう、って、そんな打算的なことだった。娘よりも、息子の方が、将来アテになりそうだって。どこまでも、自分のことしか頭になかったんだ、あの人は」
 母親を 「あの人」 と呼ぶ純の声には、複雑すぎて消化しきれないものを、たくさん含んでいるようだった。
「自分、自分、自分──それだけさ。そうして娘を捨て、息子を選んだ。捨てられた真子が……どう思うか、どんなに傷つくかなんて、きっと、考えてもいなかった。まだ小さいから、理解なんて出来ないだろうと思ってたのかもしれない。けどさ、けど、理解は出来なくたって、人形じゃないんだ。目には見えるし、耳には聞こえるし、いろんなことを感じる心だってある。俺は、そんなことも判らない母親が、ほんとうに憎かった」
「……だから、そうやって女の子の格好をしてるの?」
 問いかける時子の声は、いつもと変わりない。揺らぎのない、落ち着いた話し方。そして子供と大人の中間にいるような顔。まるで動揺の見えない瞳。
「…………」
 それを見て、環の中に、かすかな苛立ちが頭をもたげる。どうしてだろう、今までこんな風に思ったことはなかったのに。
 ──どうして、そんななんでもない顔をしてるんだ。
 その胸の中に、浮かんでいないはずがないのに。最後まで自分のことしか考えなかった母親の顔が。
 好きな人が出来たから別れてくれ、と頭を下げ続ける夫を絶対に許さず、怒って、責めて、泣いて、縋って、勝手に絶望し、この世からさっさと去ることを選んでしまった女性。
 苦しいのは自分だけだと思い込んで。両親の間で苦しんでいる娘のことなんて、気づきもせず。
 環でさえ、会ったことのないその女性に訊ねてみたくなるのだ。あんたは、死ぬ直前まで、命の灯が消えるその瞬間まで、本当に娘のことを考えもしなかったのか、と。
 夫と夫を奪った女性への恨みつらみだけを書き記した遺書には、ただの一言だって娘の名前はなかった。それを読んだ娘の気持ちを、あんたはほんの少しでも、頭に浮かべることはなかったのか──と。

 トキ、お前はどうしてこの話を、こんなにも冷静に聞いていられるんだ?

「そう。俺はどうしても母親を許せなかった。男だから、っていう理由で、真子を捨て、俺を選んだっていうのなら、じゃあ俺は女になってやるよ、って思ったんだ。ま、小学生の考えることだからね、ホント、子供じみてるんだけど。それくらいしか、報復の方法が思いつかなかったんだよ」
「え、じゃあ、君、小学生の時から、そういう女装をしてるわけ?」
 鈴鹿が驚いた表情で訊くと、純は正直に、ちょっと照れくさそうな顔をした。
「そうです。最初のうちは母親も狂ったように怒ってましたけど、俺が頑としてやめなかったもんだから、そのうち諦めたみたいで、何も言わなくなりました」
 純の母は、それが子供なりの怒りの表明だと、気づいたのかもしれない。
「周囲から奇異な目で見られて、恥ずかしいと思うこともそりゃありましたけど、俺、こういうところだけは意志が強いもんですから」
「はあー……、それはそれで、偉い、のかな?」
 鈴鹿は感心しながら首を捻っている。それは褒めるべきことなのかどうか、自分でもわけが判らなくなっているらしい。
 苦笑いのようなものを浮かべ、純は首を横に振った。
「いや、俺はね、結局甘えていただけなんですよ。なんだかんだいって、こうして成人するまで育ててもらったわけだし。母子家庭ながら、大学にまで行かせてもらってますしね。娘を捨てた、って言っても、実際、母親には二人の子供を引き取って育てる余裕なんてなかった。父親と別れることになって、経済的なことをいちばんに心配したのも無理はなかったかもしれない。母親なりに苦労したことも判ってる。子供の頃には見えなかったものが見えてきて、あの頃の母親を理解できてしまう部分もある」
 そうして目線を下げ、自分の格好を見下ろした。
「だからこの女装も、当初の報復って目的は大分薄れて、今ではもう惰性のように続けてるだけなんですけどね。今更、やめるきっかけもないというか。まあ、自分で言うのもなんだけど、似合ってるし」
 はは、と軽く笑う声にも顔にも、力がない。
「──けど、真子は」
 言いかけて、口を結ぶ。どこかが痛むみたいに、眉が寄せられた。
「真子はまだ、高校生なんだ。今もあの時の傷は癒えていないかもしれない。父親と一緒に暮らしているはずだけど、今、どんな暮らしをしているのかも判らない。幸せなのか、それとも不幸なのか。俺はずっと、妹のことを考えると、重たい荷物を背中に背負ってるみたいな気分になった」
 罪悪感もあったのだろう。秤にかけられ、取られたのは自分。悪いのは、純ではないのに。
「だからこの間、偶然真子を見つけた時は、心臓がひっくり返るくらい驚いた。十年間会ってなかったけど、すぐに真子だって判ったよ。だって、俺の高校生の頃と、瓜二つなんだもん」
 あ、俺の高校は私服だったんですけど、とどうでもいい注釈を加えてから、また視線を机の上に戻して、瞬きもせず据え付ける。そこには、さっき純が出した封筒があるだけなのだけれど。
「声をかけようかと散々迷って、でも、どうしても出来なかった。俺、こんな格好だしね。俺のこと、覚えてないのかもしれないし。けど、気になって気になって。今、楽しい毎日を送ってるのか。困っていることはないのか」
 笑っているだろうか。
 お前はもう、苦しんではいないだろうか。
「それで、こんな依頼を持ち込んだってわけ。──これでいい? 逢坂さん」
 そう言って時子のほうを向く純の口許には、皮肉めいたものが乗っている。しかしそんな皮肉、てんから気にしていない時子が 「へえ、そう」 とにべもなく答えたので、ガックリと肩を落とした。
「……で、私たちが、『悲しそうで、何かに悩んでいるみたいでした』 っていう報告をしてたら、どうしてたの?」
「え」
 時子の質問に、純はぽかんとした。
「その場合もやっぱり、『そうか、悩んでるのか』 でお終いにしてた? 困っていることはないか、苦しんではいないか、って気にして、実際にそうだったら、純ちゃんはどうするつもりだったの?」
「それ、は……」
 純は言葉に詰まっている。その先のことは考えていなかったのか。いいやあるいは、考えないようにしていたのか。
 妹の前に姿を見せることが出来ないからと、便利屋を頼んで見に行かせる。傷を抱えていても笑える自分を知っているのに、妹が楽しそうだと聞いただけで安心する。困っていることはないだろうかと心配しながら、思考がその先へ進まない。
 純の行動は、最初から矛盾ばかりだ。会えないというのなら、それきり忘れてしまえばよかった。妹に対して悪いと思うのなら、ごめんと謝って気持ちに決着をつけてしまえばよかった。住所を調べ、父親に会って、これまでの話を聞くことだって、しようと思えばいくらでも出来たはずだった。

 こんな中途半端なことをしたのは、きっと、誰かに背中を押して欲しかったからだ。

 時子は、それに気づいてる。
 枝葉末節を取り払い、最も大切なことは何か。
「──真子ちゃんを、たすけたい?」
「…………」
 正面から見据えられ、静かに問う声に、純はぐっと口を結んだ。
「困っていたり、悩んでいたり、苦しんでいたなら、たすけたいと思う?」
「…………」
 純の頭がゆっくりと下がっていく。しばらくそうして黙ったまま動きを止めて、ようやく出てきた、俺──という声は、少しだけ震えていた。
「……お、俺、さ」
 顔を上げないのは、見られたくないからなのだろう。
「俺と真子、けっこう仲のいい兄妹だったんだよ」
「うん」
 頷く時子の声は柔らかい。
「喧嘩もしたし、生意気だって思うこともいっぱいあったし、妹なんて邪魔なだけだって思ったことだって、あったけど、それでもやっぱり、大事だった。苛められてたら守ってやったし、泣いてたら頭を撫でてもやった。い……いつだって、真子は、『おにいちゃん』 って、俺をいちばんに頼ってた」
「うん」
「──たすけてやりたいんだ」
 涙で崩れた声を、ようやくのように吐き出した。
「困ってたり、悩んでたりしたら、たすけてやりたい。泣いているようなら、また頭を撫でて、大丈夫だよって言ってやりたい。け……けど、俺に、そんな資格、あるのかな」
 今までそれなりに平和に暮らしてきた自分。娘を捨てた母親に対して、昔のように純粋に怒りも憎しみも覚えることが出来なくなってしまった自分が。
 真子に、手を差し伸べる資格があるだろうか。
「資格とか、そういうことは、私にはわかんないけど」
 答える時子は、どこまでも正直だった。
「真子ちゃんは、本当に今、悩みも困っていることも、ないのかもしれない。カッコいい彼氏でもいて、幸せな毎日を送っているのかもしれないし、小さい頃離れ離れになったお兄ちゃんのことなんか、つるっと忘れちゃってるのかもしれない」
 時子君……と、もらい泣きしている単純な鈴鹿が咎めるような目をしている。
「でも、そうじゃないのかもしれない。……それは、やっぱり、実際に会ってみないと何も判らないことよね。見ているだけでは、判らない。人は、つらくても苦しくても、笑えるものだから」
 いくらでも、欺ける。
 「本当」 は、その気になれば、どれだけでも隠しおおせる。
「もし、真子ちゃんにも、そういうところがあるのなら」
 と、時子は言った。「も」 と言ってしまったのは、多分本人も気づいていない。
「私は、たすけてあげたほうがいいと思う。……手遅れに、ならないうちに」
 後半の言葉は、呟くような声だった。
 頭にあるのは、一体誰のことなのだろう、と環は思った。
 過去の自分か、それとも、救えなかった母親か。
「──純ちゃんが、後悔することのないように」
 その言葉に、やっと純が顔を上げた。真っ赤な目にはまだ涙が残っているが、全員がそれに気づかない振りをした。
 純はその目でじっと時子を見て、それから、うん──と、素直に頷いた。




          ***


 数日後、再びスズカ便利屋にやってきた純は、完全に男の姿になっていて、鈴鹿を大いに仰天させた。
「どうも」
 と爽やかに笑うその顔は以前と変わっていないのに、髪の毛を短く切って、男物のシャツとジーンズを着ただけで、どこからどう見てももう普通の青年にしか見えないのが不思議だ。もともとそういう趣味があったわけではないからか、仕草にも女っぽいところがカケラも残っていない。
「すっかり男になっちゃったんだねえ〜」
 と、鈴鹿はなにがし残念そうだったが、純は嬉しそうに笑った。
「そうですか? いやー、近所でも大学でも、けっこう騒ぎになっちゃったんですよね。なんか、早速交際の申し込みとかされちゃったし」
 無理もない。女の子の姿でかなり可愛かった純は、男としても、やっぱり可愛かった。イケメンとはまた別のタイプとして、女の子に人気の出そうな容姿をしている。
「でも、逢坂さんなんか、ひどいんですよ。髪を切った翌朝、構内ですれ違ったのに、まったく気づいてくれないんですから」
 純は口を突き出して不満そうだったが、時子は、え、そうだっけ? という顔をした。
「ごめん。私、環君以外の男の人はみんな、へのへのもへじにしか見えないもんだから」
 真顔で言われ、はは……と引き攣った笑いを浮かべる純に、「冗談だと思ったら大間違いだよ、久我君」 と、これまた真顔で鈴鹿が追い討ちをかける。
「で、そういう決心をしたってことは……」
 鈴鹿が窺うように言うと、純は微笑して肯った。
「真子に、会いに行きました」
 そうかあ、と鈴鹿はうんうんと頷く。わあー年寄りっぽい、と呟いた時子の声は、幸いにして耳に入らなかったらしい。
「突然のことで、真子も驚いてたし、戸惑ってもいたみたいだったけど、俺のことはちゃんと覚えていて、会えて嬉しい、って言ってくれました。昔のように、とはいかないし、信頼関係を作るのは、まだ少し時間がかかりそうなんですけど、ゆっくりやっていこうと思って」
「そうだねえ。それで、妹さんには、女装のこと言っ」
「やだな所長さん、女装って何のことですか」
 驚くほど速攻で、純は鈴鹿の言葉を遮った。爽やかな笑顔なのに目は笑っていなくて、ちょっと怖い。どうやら、妹に変態と思われたくないからって、女装の過去は抹殺してしまうことにしたようだ。
「俺、今までの分も、うんと真子のことを可愛がりたいと思ってるんです。真子にも、世界一頼りになるのは兄貴だって思われたいし」
「…………」
 力強くそんな決意表明をする純は、きっと当分の間は彼女も作らず、せっせと妹に愛情を注いで尽くすのだろう。それは微笑ましく思えないこともないが。
「……シスコンだね」
「シスコンですよね、間違いなく」
「聞こえるように密談をするのはやめてください」
 ひそひそと大声で言い合う鈴鹿と時子に、純は非常に不本意そうな顔をした。
 時子が、なんとなく夢見るような瞳を虚空に投げかける。
「ふうん、そうかー。でも、いいわね。私も、環君にもっと可愛がられるように頑張ろうっと」
「頑張るって、具体的には?」
「ううーん、とりあえず、巨乳になって環君を悩殺! っていうのは? ねえ、環君?」
 明るく笑いながら時子に振られて、ずっとこの会話に加わっていなかった環が、我に返ったように目を瞬いた。
「え、ああ……そうだな」
 内容も判らず、いい加減な返事をしたためか、三人がどっと笑う。
「………………」
 環は、やっぱりその声はほとんど耳に入らずに、ぼんやりと時子の顔を見ていた。

 笑ってる。
 陽気な冗談を言って、ずけずけとものを言って、声を立てて楽しそうに笑っている。
 その笑顔に嘘はなく、無理もない。欺いている、わけではない。
 ──でも。
 環はわずかに眉を寄せた。いつもは安心するばかりの時子の笑顔が、妙に心に引っ掛かる。じわじわと、不安と苛立ちが、胸の中を侵食するように広がっていく。
 こんなこと、はじめてだ。
(……トキ、お前)

 誰にも──環にも、祖母にも、知られない深いところに。
 「本当」 の何かを、隠してるんじゃないか?



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