猫の手貸します

case8:レンタル

甘くて苦い果実(1)




 はいはい、と、鈴鹿が愛想のいい声で電話の向こうの相手に応答している。
 仕事の依頼だな、というのは、特に聞き耳を立てなくてもすぐに判った。これがビルの大家だったりすると、わざわざデスクに身を伏せるようにして暗い表情でひそひそと話すので、それもまたよく判るのだが。
「不破君、仕事だよー」
 案の定、電話を切った鈴鹿は、そう言って環のほうを向き、にっこりした。
 こういうところを見ると、時子はいつも不思議に思ってしまう。
 ……毎回、仕事を当然のように環にそのまま廻してしまう鈴鹿は、所長として、自身の責任と勤労意欲をどこに置き忘れているのだろう。
 これなら、「所長」 という存在は、いてもいなくても、さほど変わらないではないか。
 たとえば──
「私や環君が所長でも、全然問題ないんじゃないかしらね」
「時子君時子君、思考がだだ漏れになってるよ」
 特にそんなつもりはなかったのだが、ついつい思ったことが口に出てしまっていたらしい。鈴鹿が非常にイヤそうな顔をした。
「あれ、私、口に出してました?」
「思いっきり、普通の音量で」
「そうですかー。じゃあ、いっそ、私と一日所長を交代してみませんか」
 謝罪どころか、唐突で理不尽な提案が返ってきたことに、鈴鹿は目を剥いて驚いた。
「 『じゃあ』 ってなんだい?! 時子君、前々から思ってたけど、君、人とのコミュニケーション能力に、ちょっと問題があるよ!」
「つまり所長にも判るように噛み砕いて説明するとですね」
「説明は要らないから、その前に君のぶっ飛んだ思考をどうにかして欲しい」
 鈴鹿はきっぱりと言ったが、もちろん時子は聞いてなんかいない。
「所長が毎日毎日ロクな仕事もせず、私と環君にほとんどの業務を丸投げして、自分は電話番と家賃の計算ばっかりしているのなら、私が一日 『所長』 になったところで、さして変化はないんじゃないか、という疑問を実証してみたいわけです」
「僕はちっともしたくない。ていうか、君、上司に対してものすごく悪しざまなことを言ってるって自覚してるのかな」
「いいじゃないですか。アイドルが一日警察署長をやるみたいなもんですよ」
「全然違うよ!!」
 掛け合いが一段落したところを見計らい、環がようやく 「──で」 と、割り込んだ。のんびり吸っていた煙草を、手元の灰皿に押し付けて消す。
「仕事はなんですか」
 その言葉でようやく思い出したような顔をした鈴鹿は、「そうそう」 と手を叩いた。いちいち余分な時間がかかってしまうのは、それだけ暇だということなのかもしれない。どちらにしても、自慢にはならないのだが。
「 『m.m』 のオーナーさんが、今日も手伝って欲しいんだって。不破君ご指名なんだよ」
 最後の一言は、どうも時子に対する言い訳のようだ。指名なんかなくたって、どうせ環にやらせるくせに。
「ああ……」
 と、環は頷いた。
 「m.m」 というのは、もうじき開店予定のバーである。ビルの店舗を借りて細々と営業するような店ではなく、小さいなりに一軒家の体裁をとった、なかなか立派で洒落た感じの店なのだそうだ。内装はあくまで落ち付いたシックな色調でまとめられていて、大人が静かにゆっくりと時間を過ごせるように、というコンセプトで作られたバーであるらしい。
 だそうだ、とか、らしい、とか言っているのは、時子が、まだその店を見たことがないからだ。
 ちなみに、環は昨日も行った。もちろん客としてではなく、仕事でだが。潰れた喫茶店の土地を買い取り、じきに新装開店だというそのバーは、まだ準備が整っておらず、人手も足りないため、酒やら調理器具やらを運び込む臨時の助っ人として、便利屋を雇うことにしたのである。
「まだ準備が終わってないのかー。大変ね、私も手伝っ」
「未成年は入店禁止だ」
 さりげなく言いかけた時子の言葉を、環がすげなく突っ撥ねる。ぶう、と時子はむくれた。環はこういうところ、けっこう厳しいのだ。環自身は酒に強いが、デートの時は、絶対に時子を連れて飲み屋に行くようなことはしない。
「まだ開店前なのに……」
「それでもバーはバーだから」
「自分が未成年の頃は、絶対そんなに品行方正じゃなかったくせに……」
「否定はしないが、それとこれとは別」
 昨日も散々ゴネて断られたのに、諦めきれずに、ぶつぶつと文句を言ってみるが、環はまるで聞き入れてくれる様子はない。
 つまんない、と時子はますますむくれた。時子だって新しい店をさらにピカピカにしたり、新品の食器やグラスを箱から出して並べて、うっとりしたいのに。
 子供のように拗ねる時子を放って、環はさっさと出かけるために立ち上がった。
「……不破君はわりと過保護だよねー」
 という鈴鹿の感心するような呟きは、見事なまでに知らんぷりを貫いている。
「そうです。環君は過保護なんです」
 時子の同意にいろいろな意味が含まれていることにも、気づかないフリをした。
「──じゃあ、行ってきます」
 と、ドアを開けて出て行こうとする。その背中に、鈴鹿がまた思い出したように言った。
「そうそう、今の電話で、オーナーさんが褒めてたよ。不破君は酒の種類も扱い方も詳しくて、安心して任せられるって。君、そんなにお酒が好きだっけ?」
「…………」
 ドアノブに手をかけて振り向いた環は、ちょっと困ったような顔をしてから、
「……昔、バーテンをしてたことがあるもんで」
 ぼそりと言葉を落として、今度こそ事務所から出て行った。
「ええーーっ?!」
 と驚いたのは鈴鹿だけではなく、時子もである。二人同時に出した驚愕の叫びは、薄いドアの向こうの環の耳にも届いたに決まっているが、もちろん彼は再びドアを開けることはしなかった。
 だが、本人がいないからって、そこで会話を打ち切る時子と鈴鹿ではない。顔を見合わせて、また同時に騒々しく喋りはじめる。
「ええーって、なんで時子君まで驚いてるのさ。君、恋人でしょ!」
「所長、なんで驚いてるんですか。環君を雇う時、履歴書くらい目を通したはずでしょ!」
 不毛に責め合ってから、二人揃って、はあっとため息をついた。
「僕、履歴書なんて貰わなかったよ。そんな紙切れで人を判断するなんて、僕の美意識に反するからね。やっぱり自分の目で見たものだけを信用しないと」
「ウソですよね? おおかた、全然所員のなり手がいなくって、やってきた環君を逃がしてなるもんかって、面接もロクにしないで強引に雇っちゃったんですよね?」
「…………」
 どうやら図星だったらしい。鈴鹿は反論せずに目を逸らした。
 そういえば、私がバイトに入る時も、履歴書なんて要求されなかったわ、と時子は思い出した。つくづくいい加減な経営姿勢である。まあ、結果的には 「鈴鹿に人を見る目がある」 ということになっているのかもしれないが、それはそれでちょっと悔しい。
「そっかー、環君がバーテンかあ……」
 独り言のように言って、時子は見たことのない環のバーテン時代に思いを馳せてみた。
 馳せてみて、眩暈に襲われそうになった。黒服を身にまとい、無言でシェイカーを振っている環。どうしよう、考えただけで格好良すぎて気絶しそう。
「さぞかし、モッテモテだったんでしょうねえ……」
「…………。いや、それはどうかなって、僕としては疑問を抱かざるを得ないんだけど」
 ぼそぼそと鈴鹿は言ったが、そんな言葉、もうこの状態の時子の耳に入るわけがない。
「今度、コスプレさせて、シェイカー振ってもらおうかなあ……」
「そんなことして何が楽しいのかさっぱり判らない。大体、あの不破君が、君に酒を作って出すとは思えないけど」
「中身はコーラでいいです」
「いやシェイカーから噴き出しちゃうから」
 馬鹿な会話を交わしてから、鈴鹿は純粋に不思議そうな表情をした。
「──時子君は、そういうことを不破君に訊ねてみたことはないの?」
「は?」
 時子がきょとんとする。「いや、だからさ」 と、鈴鹿はもごもごと言った。
「そのう……不破君の過去、とか。僕はそういうのに興味ないから、彼がどういう経緯でこの便利屋に来ることになったのかなんて、聞いたことないんだけど。まあ、なんとなく、いろんなことを経験してきたのかなって思う程度でさ。でも、時子君は恋人なんだから、普通はそういうの、けっこう気になるもんじゃないの?」
「……そう、ですか?」
 ぱちぱちと瞳を瞬きしながら、時子は訊き返した。本気で意外そうな様子に、鈴鹿もいきなり自信がなくなったように首を捻る。
「いや、でも、最近の子は、そういうことは考えないのかな。時々忘れそうになるけど、時子君も若い今どきの女の子だもんねえ」
 どうして、見るからにピチピチな若い自分を前にして 「時々忘れそうになる」 のかは謎だが、それは別にして、時子も鈴鹿と同様に首を捻った。

 ──「過去」 なんて、知りたいもんかしら。

 自分が普通か普通でないのかはさておき、鈴鹿の言い方では、女の子というのは、恋人の過去を気にしたり、知りたいと思ったりするものであるらしい。
 けど、そんなものを知って、どうするというのだろう。
 環のバーテン姿には興味があるが、その頃の彼が、店にやってくるお姉さんたちを相手にブイブイいわせていた (かもしれない) なんてことを知っても、愉快になるとは思えない。
 時子自身、環と付き合う以前の自分のことを、彼に話したことはほとんどないくらいだ。時子の場合は、どうやら祖母がある程度話してしまったようなのだが、実を言えば、時子にとって、それはあんまり嬉しいことではなかった。
 知れば、どうやったって、自分を見る目が変わってしまう。母の葬儀の後、急に態度の変わった友人たちや近所の人たちを思い出すまでもない。優しくなったり、よそよそしくなったり、腫れ物に触れるようにおどおどと話しかけてきたり、好奇心に満ちた目を向けられたり。
 時子は、なんにも要らなかったのに。同情も、憐憫も、嘲笑も。
 救いの手も。
 だから、好きな人の過去を知りたいと思う気持ちが、よく判らない。本人が言わないことならば、それはそのまま秘されておけばいいと思う。過ぎたことを知って、楽しくなるのは、極めて稀なことではないのだろうか。
 ……「今」 があればそれでいい、と思うのは、そんなに変なことなのだろうか。
 そこまで思った時、
「こんにちは、よろしいかしら」
 と、ドアの開く音と共におっとりとした声が入ってきて、時子は思考を中断させた。入り口に姿を現した女性を目に入れ、にこっと笑う。
「はい、いらっしゃいませー」
 「いつもの顔」 を取り戻し、時子は元気よく声を出した。


          ***


「時子さんはいつも明るくて元気がよくていいわね」
「はい、明るくて元気のいいのが私の取り柄ですから。他にも取り柄はいくつもありますけど」
 ぬけぬけと言ってのける時子に、女性は楽しそうに笑った。上品に口元を押さえながら笑うその姿は、高価そうだが控えめで品のある服装ともアクセサリーともよく似合う。
「ご依頼ですか、剣崎さん」
 とニコニコしながら鈴鹿が問いかけた。
 剣崎瑠実というこの五十代の女性は、駅前の高級マンションに住んでいる。銀行の支店長だという夫と、大学生になる娘がいるという話だ。「奥様」 と呼ばれても違和感のないタイプの人で、これまでにも、買い物の代行などを二、三回引き受けていた。気前もよく金払いもよいという点で、非常に鈴鹿を機嫌よくさせることの出来る人物である。
「ええ、そうなんです。いつもいつも細かいことばかりお願いして、申しわけないんですけれど」
「とんでもない。そういう細々としたことをお引き受けするのが、便利屋なんですから」
 この事務所が、時に奇矯な依頼が舞い込んでくることを考えれば、なおさら剣崎夫人のような客は、鈴鹿にとって嬉しいのだろう。
「それで、今日は?」
 と訊ねる声には答えず、剣崎夫人は何かに気づいたように、事務所内を見回した。
「……あら、不破さんはいらっしゃらないんですね」
「あ、そうなんですよ。彼は今、別件の仕事に出てしまいまして。いやあ、これでなかなか忙しいものですから」
 嘘つけ。二件同時に依頼が入るなんてこと、この事務所では滅多にない。
「そうですか……」
 夫人はそれを聞くと、頬に手を当て、ちょっと考える風情になった。ここで引き下がられたら困る、と思ったのか、鈴鹿は慌てて言葉を継いだ。
「いや、あの、不破君はいなくても、僕がおりますから」
「…………」
 所長の言葉に、剣崎夫人は 「この人が?」 という心許ない顔をしている。そりゃそうだわね、と時子は思った。普段環にばっかり仕事を押し付けているから、そのツケが、こういう時に廻ってきてしまうのである。
 少しためらったあとで、剣崎夫人は時子を見て、また鈴鹿に顔を戻した。
「……あの、よろしかったら、時子さんを少しお借りできませんかしら」
「え、時子君をですか」
 鈴鹿は戸惑う表情になった。いやあ〜、と曖昧に言いながら頭を掻く。
 時子はそもそも事務として雇ったバイトである。それに、態度だけはデカイが、まだ大学生の女の子だ。環の手伝いとしてならともかく、一人で便利屋としての仕事をさせるのには、鈴鹿だって抵抗がある。たとえそれが、買い物とか犬の散歩とか、その程度のことであってもだ。
 それに、なにより。
 そういうことを勝手に引き受けて、あとでものすごく怒りそうな人間がいるのを、鈴鹿は知っている。
「申しわけないんですが、それは……」
「大したことをお願いするわけではありませんのよ。もちろん、時子さんに力仕事なんてさせませんわ。お借りできたら、危険なことなどもないように、責任を持って、わたしがお預かりしますから」
 熱心な口調になって言われ、鈴鹿はますます困ってしまう。剣崎夫人という人は、深窓の令嬢がそのまま妻になって母になったような女性で、線も細く、いかにも頼りなさげな外見と、それに沿った声を出す人なのだ。
 鈴鹿はこういう女性に弱い。女性全般に弱い、と言ってしまえばそれまでだが、特に弱い。
 その困り顔のまま振り向かれて、時子は肩を竦めた。
「別に、私は構いませんけど?」
 以前の剣崎夫人の依頼を受けて、その仕事を遂行したのは環だが、時子も毎回それに同行している。本当に子供でも出来るような内容ばかりだった。立場が違えば、こんなことに人を使うのは、お金がもったいないですよ、と助言していたくらいだ。
 あれくらいなら、時子一人にだって出来る。
「けどさあ、不破君が……」
「環君は、ちょっと過保護なんですよ」
 言いかけた言葉を遮るように、さっきと同じ台詞を口にした時子は、珍しく、環に対する反発心のようなものが湧いていたのかもしれない。
 未成年としての時子に厳しい、ということとは別に、環は時々、やたらと時子に対して過保護だ。気遣い、心配し、時子を傷つけまいとする。
 ……それはやっぱり、時子の過去を知っているからなのだろう。
 知らなければ、環の時子に対する態度はまた変わっていたはずだ、と思うと、なんだか時子は面白くない。その気持ちは嬉しいけれど、でも、余計なことだと思わずにいられない。
 時子はただ、環の傍にいたい。それだけなのだから。

 ──求めるものは、他にはない。

「ううーん……」
 鈴鹿はなおも迷っていたが、彼もやはり、今までの剣崎夫人の、他愛ないと言ってもいい依頼内容を知っているせいか、結局は時子と同じ結論に至ったようだった。
「それじゃあ……時子君は、なにぶんバイトなので、あるいは剣崎さんの意に沿う仕事はできないかもしれませんが」
「いいえ、そんな」
 鈴鹿の遠回しな了承に、剣崎夫人はぱっと嬉しそうに顔を輝かせた。
 微笑んで、ゆっくりと頷く。
「時子さんでなければ、出来ないことですのよ」
「……?」
 その言葉には、時子も少し不審を抱いた。時子にしか出来ないことって……なんだろう? 今度の買い物は、同性にしか頼めないようなものが入っているのだろうか。
「それじゃ、時子さんをお借りしますわね。時子さん、まずは私のマンションに来ていただける?」
 疑問は心の中にあったが、剣崎夫人のにっこりとした笑顔を見ては、今さら追及するのもためらわれ、時子は 「はい」 と返事をした。
 剣崎夫人は目を細めて、ふふ、と笑った。



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