猫の手貸します

case8:レンタル

甘くて苦い果実(2)




「悪いね、不破君。頼むのは一日だけのつもりだったのに」
 「m.m」 のオーナーの言葉に、店のカウンターで、綺麗に拭いたグラスを棚に並べていた環は、「いえ」 と短く言った。
 そういう環の素っ気なさを、オーナーは気にする素振りもない。外側に出ている温和な表情が、そのまま内心を表すような単純な人物ではないみたいなので、実際はどうか判らないのだが。
  彼は鈴鹿と同じ四十代である。ちょっと貧相な体格であるのもよく似ている。しかし、その精悍な顔つきや、全身から滲み出る風格というか存在感というか、そういうものが気の毒なくらい違っていた。気の毒なのが鈴鹿のほうであるのは言うまでもない。
 一見、頭の良さそうな実業家タイプだが、時々眼光が鋭くなるところを見ると、外見ほど温厚な性質ではないらしいことくらいは判る。そりゃ、そうでもなければ、こんな広くていい場所に、高級感あふれるバーなんて独力で開店させられるはずないのかもしれない。オーナーは、ここ以外にも、幾つか自分の店を持っているという話だ。
「開店は、いつでしたっけ」
「明後日」
「…………」
 なにげなく出した環の質問に、まだビニールを被ったままの新品のカウンターチェアに腰かけたオーナーは、ニコニコして答えた。笑っている場合なのだろうか。まだ、内装工事だって終わっていない場所があるのに。
「大丈夫大丈夫、いざとなったら、徹夜してでもやらせるからね」
 やらせる、という言葉をこのオーナーが口にすると、なんだか微妙に物騒な意味を含んでいるように聞こえてしまう。気のせいか、途端に職人たちの手が早まったように見えた。
 そうですか、とだけ言って、環はまた黙然と作業を続ける。オーナーはなんだか面白そうな顔で、その姿を眺めていた。
「不破君は、いくつだっけ?」
「二十五です」
「そうかー、それにしちゃ、落ち着いてるよね」
 老けてる、と言いたいのかな、とちらっと考えた。このオーナーの場合、たとえ皮肉や嫌味を口に出したとしても、なんとなくすべてが許される雰囲気がある。何を言っても憎めない、という意味ではなく、ヘタに反論や口答えをすると、非常に怖いことになりそうな感じがあるからだ。
「グラスを持つ手つきも堂に入ってるし。若いやつにそういうのを持たせると、高価なグラスに平然とベタベタ指紋をつけちゃったりして、ぶっ殺してやりたくなっちゃうんだけどねえ」
 あはは、と笑いながら言っているが、かなり目が本気で、ちっとも冗談になっていない。実際そういうことをした 「若いやつ」 は、今頃海の底で静かに眠っていそうな目つきだった。いやもちろん、あくまで空想上の話であるが。
「……以前、こういう仕事をしてたことがあるんで」
「ああ、そうか、やっぱりね」
 本日二回目の環の台詞に、オーナーはあっさりと納得顔で頷いた。同じことを言っているのに、ずいぶんと反応が違う。
「…………」
 ほんの一瞬、手が止まった。
 昔の環だったら、確実に、目の前のオーナーのような態度をとられていたほうが楽だった。大げさに驚くこともせず、必要以上に他人の過去に立ち入ることもしない、大人の対応だ。
 バーテンダーをしていた頃の環が、たまに話し相手をするのも、決まってそういう人物ばかりだった。環の作った壁を気づきもしないで、ずかずかと無遠慮に踏み込んでくるような輩には、極力近寄らないようにしていた。そうやって、なるべく人と関わらないようにして、昔から環は生きてきたはずだった。
 ──なのに、どうしてだろう。
 今は、スズカ便利屋のあの賑やかな驚愕の声と、ドアを閉じてから聞こえてきた子供のような罵り合いの声が、なんだかやたらと懐かしい。ビルを出ながら、環がつい噴き出していたことなんて、あの二人はきっと気づいていないだろう。
 そういえば、特に何も考えず、バーテンをやってたことを言ってしまったけど。
(帰ったら、いろいろと聞かれるのかな)
 故意に内緒にしていたわけではなくて、言い出す機会もなかったので黙っていたにすぎないのだが、口にしてしまった以上、あれこれと聞かれることくらいは覚悟しておいたほうがよさそうだ。
 けれど不思議なことに、そのことに対して、さほど嫌な気持ちは湧かなかった。こういったことをかなり極端に避けたがる自分の性質は自覚しているが、やれやれと肩を竦める程度の気分にしかならない。
 まあどうせ、あの二人のことだから、くだらないことしか聞いてこないに決まっているし。
 と、いうよりも。
 時子あたり、どうにもロクでもないことを考えているような気がしてならない。コスプレして、シェイカー振れ、とか。
 それを環が断り、時子がむくれ、鈴鹿が無責任に囃し立てて、またいつものような馬鹿騒ぎになるのだろう。
 やれやれ、ともう一度思ったが、悪くはないな、とも思った。いや、コスプレのことではなく。

 こんな風に、いつの間にかスズカ便利屋の風景に、ごく自然に溶け込んでいる自分は、悪くない。

 環の口許に浮かんだ笑みは、ほとんど判らないくらい微かなものであったのに、目敏いオーナーは見逃さなかったらしい。
「不破君、彼女いるでしょ」
 唐突なその言葉は、質問ではなく、確認だった。否定する必要もないので、素直に頷く。
「います」
「いくつ?」
「十九です」
「おや、若いね」
 オーナーはちょっと意外そうに目を見開いた。しかしさっきから思っているのだが、なんでこの人はこうして延々と自分を相手に喋ってばかりいるのだろう。どう考えても、鈴鹿とは違って、暇な人ではなさそうなのだが。
「いや失礼、君、オトナの女性に好かれそうなタイプだなと思ったものだから。黙っていても貢いでもらえそうな、一つ間違えばあっけなくヒモになりそうな」
「…………」
 もっと失礼なことを言うオーナーは、やっぱりあははーと楽しそうに笑っている。この人、俺のことをどういう目で見ているんだろう、とは思ったが、過去に、水商売の女性に勝手に貢がれたりしたことのある経験もないではないので、何も言わないでおいた。
 鈴鹿が知ったら腰を抜かして驚かれそうだが、環は、ごく一部の特定の仕事の女性に好かれる傾向があるのである。バーテンをやめたのも、実はそういうことから起こる揉め事にうんざりしたから、という理由が大きかった。環自身は何も言っていないし、していないのに、いつの間にか女同士が争い始めてしまうのだ。
 興味がないから放っておくと、さらに泥沼にまで入り込み、環の個人的領域にまで侵入してこようとする。そこまでされると黙っているわけにもいかず、もともと親切にしたつもりもない女たちを、これ以上はないくらい冷淡に突き放すことになる。女たちは泣いて喚いて、結果、環だけが悪者になって騒ぎが収まる。
 そんな次第で、鈴鹿が知ったらやっぱり卒倒しそうだが、バーテンダー時代の環は 「女泣かせの達人」 などと呼ばれていたくらいなのだ。環は本当に何もしていないのに。
 女性経験はそれなりにあるものの、環はいつだって、後腐れのないタイプを注意深く選んでいたくらいだった。それでも、毎晩のように店に通ってきては、自分のことを喋りたがり、環の気を惹こうと必死になる女たちがいた。
 あの頃、環は心の底から不思議だった。


 どうして、この女たちは、俺のことを 「好きだ」 なんていうんだろう?
 俺はそれに返したことなんか一度もない──好きだと言ったわけでもない。思わせぶりな態度をとったこともない。ただ言われるがまま酒を作って出して、どうでもいい会話に、心の入らない簡単な受け答えをしていただけなのに。
 いいや、そもそも。
 俺は他人を好きになったことなんて、ただの一度だってないっていうのに。
 一体、俺の何を見て、好きなんていうんだ?


 そんなことが何度か続いて、何もかもが面倒になってしまった環は、バーテンダーという仕事をやめた。
  夜の商売じゃなければこんなこともないのかと、「所員急募」 という張り紙のしてあった通りすがりの便利屋に入ったのは、もともと単なる軽い思い付きでしかなかった。そこの所長はちょっと変わった中年ではあったが、これまでの経歴なども聞いてこないいい加減さが少し気に入って、就職を決めた。
  ──そうして、環は時子と出会った。
「そんな年齢の彼女じゃあ、さぞかしメロメロだろう、不破君」
「…………」
 ほとんど断言されるように言われて、環は口を噤む。
「今ひとつ、結論に至るまでの論理が見えないのは俺だけですかね」
 なんで、「そんな年齢」 だと 「さぞかしメロメロ」 なのか、さっぱり思考の道筋が掴めない。実際間違ってはいないので、否定できないのが、けっこう癪だ。
「そりゃあ判るよー。君みたいな男は、そういう年齢の女の子と付き合うのを、ものすごく面倒に思うはずだろう。というか、そもそも、そういう対象にも思わないくらいじゃないかい。それでもなおかつ付き合っているというんなら、そこにはその面倒さを上回るくらいの、年齢を超えた人間的な魅力ってものが、その子にあるということだからね。そういう女の子にハマったら、もうメロメロになるしかないんだよ、男はね」
 うんうんとしたり顔で頷いているオーナーに、環はやっぱり黙っているしかない。ここで、付き合い始めたのは時子が高校生の時、などと言ったら、ますます何を言われるか判ったもんじゃない。
「僕も興味あるなあー。開店したら、一度店に連れておいでよ、不破君」
「無理です、まだ未成年なんで」
「なんだい、そりゃあ」
 環が断ると、オーナーは素っ頓狂な声を上げた。この店では、「未成年は入店禁止」 という常識的な禁止事項は掲げていないのだろうか。
「君の口からそんな真っ当な言葉が出るとはね……ははん」
 顎に手を当て、にやりと笑う。目を眇めた人の悪そうな顔は、妙に迫力があった。
「こういう猥雑な場所で、人間の醜さや汚さに触れさせたくない、とでも思ってるとか?」
「…………」
 何も言わず丁寧にグラスを拭き続ける環の姿を、オーナーは肯定と受け取ったようだ。
「過保護だね、君」
 また言われた。
「……そんなことないですよ」
 ぼそぼそと反論する。
  環はそれを、「過保護」 だとは思っていない。自分の経験から、こういう所は人間の欲望や本能が剥き出しになりがちだ、と考えているだけで。
 ……なるべく、時子には、そういうものを見せたくない、と思っているだけだ。
「そんなことしたって、いずれはその彼女だって現実ってやつと向き合わなきゃいけないよ」
「…………」
 違う。
 時子は、「現実」 はイヤというほど見た。醜いものも、汚いものも、多分、あの年齢の他の女の子の何倍も見た。直視せざるを得ない現実に真っ向から立ち向かって、その分だけ傷つけられた。
 だからこれ以上は見せたくない、と思うのは、絶対に、過保護なんかじゃない。
「だったら、店が開く前に来ればいい。客のいない時間帯に、二人でおいで。電話をくれれば、僕、店を開けて待ってるから。もちろん、ジュースも用意しておくよ」
 オーナーの声音には、ただの社交辞令には感じられない熱心さがあった。どうも本気で 「環の彼女」 という存在に興味を持ってしまったらしい。
「…………」
  環は手の中のグラスにちょっと目をやり、自分の後ろの棚に整然と並べられたそれらに視線を移した。
  オーナーは趣味人なのか、酒の種類によって形の違うグラス類は、どれも美しいものばかりだ。これを客に出すのか、というくらい高価なものもあるし、あまり見ないような珍しいグラスもある。こんなのを見たら、時子が目をキラキラさせて喜びそうだな、というのは、店の手伝いを始めた時からずっと思っていたことでもあった。
  それに、このオーナーと時子は、案外気が合いそうだ。二人でどんな会話を交わすのか、聞いてみたいような気もする。
「……それじゃ、そのうちに」
 環が返事をすると、「楽しみだなあ」 とオーナーが笑った。


          ***


 環が頼まれた仕事をほぼ終えたのは、もう夕闇が落ちて、暗くなりかけた頃だ。
「お疲れさまー、不破君。助かったよ」
 とオーナーは軽快に労ってくれたが、酒や食器や観葉植物までもが揃ったのに、やっぱり内装工事はまだ済んでいない。本当に明後日には開店出来るのだろうか。
 じゃあ、と挨拶しようとしたら、ジーンズのポケットの携帯が着信を知らせてブブブと振動した。
  取り出して耳に当てた途端、勢いよく耳に飛び込んできたのは、鈴鹿の慌てふためいた声だった。

「や、不破君かい?! ちょっと、困ったことが起きてさ、仕事はいいからすぐに戻ってきてくれないかな?!」

 鈴鹿が、仕事はいい、なんて言うのは珍しい。というより、携帯の向こうで叫ぶような言い方が、さすがに環の眉を寄せさせた。威厳のあるなしでは、「m.m」 のオーナーとは比べ物にならないとはいっても、鈴鹿もいつもはここまで度を失うことはあまりない。
「仕事は終わって、今から帰ろうとしていたところです。何かあったんですか」
「いや、あの、その、剣崎さんがね」
「剣崎?……駅前のマンションに住んでる人ですか」
 その上品な婦人の顔立ちを思い浮かべながら問うと、鈴鹿はどういうわけか、さらに声を高く上げた。困惑を通り越して、泣きそうになっている。
「そそ、そうだよ、その人。あの人、一体どういうつもりで──いや、最初からそういう気だったのか、今考えるとおかしかったっていうか、そりゃ僕も迂闊だったかもしれないんだけど、まさかこんなことになるとは思わないじゃないか!」
「ちょっと、落ち着いてください」
 さっぱりわけが判らない。もう少し詳しく、と思ったのに、鈴鹿は 「とにかく一刻も早く帰ってきて」 と泣きつくように言うばかりだ。ため息をつきながら、今から帰りますから、と言って通話を切った。
「何かあったのかい?」
 それとなく聞き耳を立てていたらしいオーナーが、鋭い瞳になって訊ねてきたが、環にも説明しようがないので、首を捻るしかない。
「よく判りませんね。とにかく、帰ります」
「剣崎、って言ってたけど」
 つい口に出してしまったのはまずかったかな、と環は思った。一応、客に関することは個人情報として伏せておくべきものである。
「ああ……いえ」
 適当に誤魔化そうとしたのだが、オーナーは少し、厳しい顔になった。
「駅前のマンションに住んでる剣崎さんが関わってるなら、ちょっと厄介なことなのかもしれないよ。急いだほうがいい」
「知ってるんですか」
 少し驚いて訊ねると、オーナーは口元に凄味のある微笑を浮かべた。何を考えているのかまるで掴めないその顔は、この人物の正体不明さを如実に示している。
「僕、この界隈にいくつか店を持ってるからね。情報はいろいろと耳に入ってきちゃうんだ」
 どんな 「情報」 なのかは、追及するなという口ぶりだ。
「駅前マンションに住んでるお金持ちの剣崎さん──あの人、だいぶん前から、ちょっとずつ壊れ始めてるらしいよ」
「壊れ……?」
 意味が判らず問い返す。今まで数回仕事で会ったその人は、いつも穏やかにおっとりと笑っているような女性だった。
「表面上は、判らないんだ。だから、亭主も病院に連れて行こうとしない。ああいう立場の人たちってのは、何よりも醜聞を恐れるからね。今までの事件も、内密に金で解決してきたから、表沙汰にもなっていないけど、そろそろ近所も勘付きはじめてる。だから、僕なんかの耳にも噂が届いたりするわけだ。あの人は、ちょっと──ってね」
「事件?」
 思わず訊き返した環に、オーナーは頷き、

「──若い女の子を、自分の家に閉じ込めちゃうんだそうだ」

 と、言った。
「拉致、監禁、ってとこだね。立派な犯罪なんだけど、危害を加えるわけじゃなし、それどころか下にも置かないもてなしをするっていうんだな。けど、帰さない。なんとか示談金で事が収まってるのは、閉じ込められていた女の子たちが、ずっと丁寧に扱われ続けていたから、っていうのも理由の一つなんだろう」
「……若い、女の子」
 咄嗟に、言葉に詰まった。ついさっきの、鈴鹿の悲鳴のような声を思い出す。
  まさかこんなことになるとは思わなかった──「こんなこと」 ってなんだ?
 オーナーは淡々と続けた。
「剣崎さんはね、大学生だった娘さんを、亡くしてるんだ。それから、少しずつ、精神の平衡を失っていったらしい。……閉じ込めた女の子を、ずっと娘さんの名で呼ぶって話だよ。つまりは、身代わりだね」



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