猫の手貸します

case8:レンタル

甘くて苦い果実(3)




 制限速度を完全に超過してバイクを飛ばし、スズカ便利屋に到着した環を、鈴鹿は待ちかねたように出迎えた。
 ──事務所の中に、時子の姿はない。
「待ってたよ、不破君!」
 飛びついてきかねないくらいの勢いで駆け寄ってきた鈴鹿に、「何があったんです」 とすぐに訊ねる環の語調は強い。いつもならそこでもうビビってしまう鈴鹿は、この時ばかりは気にする様子もなく、がくがくと首を縦に振り、
「実は今日、君が出て行った後に、剣崎さんが来てさ……」
 と、口早に事の顛末を話し始めた。


          ***


 鈴鹿は最初から、思い違いをしていたのだ。
 剣崎夫人は、そもそも依頼の具体的内容は、何一つ口にしていなかった。それを 「いつもの買い物代行のような仕事」 だろうと思い込んでしまったのは、鈴鹿の明らかな手落ちだったと言わざるを得ない。
 しかし便利屋なんていうのは、もともと信用商売である。客からの信用を得られなければ干上がるが、同じように、こちらだってある程度は客のことを信用せねばならない。何回か利用してもらった客ならなおさら、依頼のたび煩わしい思いをさせないために、細かい手続きを省略してしまうのはよくあることだ。
 まして、こんな小さな事務所であるから、多少のことはルーズになっても仕方ない。地域密着型の、誰でも気軽に利用できる便利屋であるためにも、敷居は低ければ低いほどいい。その形で、いつも何の問題もなくやってこれていた、というのもある。
 この場合、客が男性だったりしたなら、さすがに鈴鹿だって時子を一人で行かせることはしなかったが、相手は年配女性、名前も住んでいる場所もはっきりしていて、おまけに夫はそれなりに社会的地位にある人物だ。そういう点でも、鈴鹿は今回の依頼に、なんの疑問も抱いていなかった。
 ……が。
 時子と剣崎夫人が出て行ってから、その時間が長引いていくにつれ、不安が頭をもたげてきた。いくらなんでも、遅すぎやしないか。いつもだったら一時間、長くても二時間あれば十分に仕事を終わらせることが出来ていたのに。
 これが環だったらそうそう心配なんてしないところだが、今回はバイトの時子を一人で行かせたという負い目もある。しっかりしすぎているくらいしっかりした子だから、鈴鹿も過信があったのかもしれない。いくら理不尽に堂々としていたって、時子はまだ大学生の女の子なのだ、何か突発事態が起きたりしたら、対処しきれなくても無理はない。
 ひとりで困っていたらどうしよう。可哀想に。時子の困っている姿って、あんまり想像できないんだけど。
 いやいや、それとももしかして、帰りの途中で何かがあったのかも──と思い始めたら、もう不安は加速する一方だった。事故に遭っていたり、変質者に遭遇していたりする可能性も皆無ではない。時子なら元気いっぱいに変質者を撃退し、ついでに舌先三寸で丸め込んで慰謝料まで巻き上げそうだが、それはともかく。
 鈴鹿はすっかり帰りの遅い娘を心配する父親のようになって (この時点で、仕事のことはほとんど頭から飛んでいた)、不在が三時間を過ぎたところで辛抱が切れて、時子の携帯に電話をしてみた。
 だが、何度かけても、繋がらない。
 ざーっと真っ青になった。藁にも縋る気持ちで、今度は剣崎夫人の自宅に電話を入れてみる。時子君、そこにいてくれよ、と祈るような気分だった。
 ──すると。
「ええ、時子さんならここにいますよ」
 と電話の向こうから剣崎夫人の朗らかな声が返ってきて、鈴鹿は座っていた椅子からずり落ちそうになるほど安堵した。
「ああ、そうですか。いや、ずいぶん時間がかかっているようなので、何かあったのかと……。それで、ご依頼の件は、まだ片付かないわけですか。でしたら、僕もそちらに」
「あら、それには及びません。時子さん一人で十分ですもの」
 おっとりとした声は、鈴鹿の申し出を速攻で断った。穏やかだけれどきっぱりしたもの言いに、鈴鹿は一瞬返答に詰まる。
「え……いやしかし、まだ仕事が終わっていないから、時子君はそちらにいるんですよね?」
 それとも、裕福ゆえに暇のありそうな剣崎夫人の話相手でもさせられているのかな、と鈴鹿は訝った。しかし時子はあれで律儀なところもあるので、それなら事務所に連絡がありそうなものなのだが。
「ええ、終わっていません。だって、『お借りする』 って、申し上げたでしょう?」
「は……あ?」
 意味が判らなくてぽかんとする鈴鹿に、「そうそう」 とたった今思いついたように、屈託なく剣崎夫人は言った。
「一日当たりの料金は、おいくら支払えばよろしいか、聞いておりませんでしたね。わたし、まだまだ時子さんをお借りするつもりですから、一か月分くらい前払いすればよろしいかしら。おたくはカードが使えましたっけ?」
「はあ?!」
 鈴鹿は仰天した。
「ちょ、なに言ってるんですか、剣崎さん」
 受話器に向かって叫んだが、向こうは 「まあ、耳が痛くなるから大声を出さないでくださいな」 と平然としている。
 ここにきて鈴鹿はやっと、今話している相手が、どこか常軌を逸した世界の住人であることに気がついて、狼狽した。
 剣崎夫人の場違いにゆったりとした口調が、なおのこと鈴鹿を焦らせる。これはもしかすると、非常にまずい事態なのではあるまいか。
「時子君はレンタルビデオじゃないんですから、一日いくらで貸し出したりしませんよ! 早く帰してください!」
 鈴鹿にしては目一杯の厳しい声を出したつもりなのだが、相手はまったく怯むことなく、それどころか明らかに気分を害したらしかった。
「ですから、お返ししませんと申しました」
 今までの優雅さが一転し、つっけんどんなくらいの言い方になる。剣崎夫人の言葉は、どう聞いても、「帰す」 ではなく、「返す」 だ。まるで、時子を本当にレンタルした物のように。
 鈴鹿はまた青くなった。これは、お金持ちだからちょっと変わってる、なんてレベルではない。完全に、普通の場所から浮き上がってしまっているのだ。話が噛み合うはずがない。
「あの子は、これから時子さんじゃなく、『亜実』 としてここで暮らすんです。ちゃんとその分のお金をお支払いするんですから、何も問題はないですよね。じゃあ」
「え、ちょっと、剣崎さん!」
 鈴鹿は慌てたが、剣崎夫人はすげなく通話を切って──それ以降、何度かけ直しても、彼女が電話に出ることはなかった。


「どうしよう、不破君。やっぱり警察に連絡したほうがいいのかなあ」
 鈴鹿は檻に入れられた熊のようにうろうろと歩き回りながら、途方に暮れたように言った。
 事務所を開いてからこちら、こんな事態に陥ったことはなかったのだから、対処の仕方に迷ってしまう。こんなこと、そう頻繁にあるはずもないけれど。
「警察?」
 短く問い返す環の声には、はっきりとした怒りが込められている。怖いので正面からは見れないが、きっと顔もものすごく怒っているのだろう。だってもう漂ってくるオーラからして、脂汗が滲みそうなくらい迫力があって怖い。
「警察なんて呼ぶようなことですか、これが」
 そうかな、これはれっきとした犯罪と言ってもいいんじゃないかなあと鈴鹿は思ったが、口には出せなかった。なんだか今の環には、逆らえない断固とした空気がある。
 普段のぼーっとした言動からは推し量れないが、環は実は、鈴鹿が思っているよりももっと 「いろんなこと」 を経験してきたのかもしれない。この状況で、そこに怒りはあっても、動揺はなかった。
「ただのガキの言い草ですよ。ままごとに他人を巻き込んで満足してるだけなんです。そんなもんに、警察まで呼んでまともに付き合うなんて馬鹿げてますね」
 叩きつけるようにそう言うと、環はくるっと身を翻した。乱暴に事務所のドアを開ける。
「……トキは、俺が迎えに行きます」
 反論を許さない、毅然とした言い方だった。


          ***


 剣崎夫人の住むマンションに着いた頃には、周囲はもう真っ暗になっていた。
 ライトアップされて闇の中に白く浮かび上がるその建物の前に立ち、環は顔を上げて高層部を見上げた。目指す部屋は最上階だ。
 マンション入り口の自動ドアの前には、黒くて重厚なオートロック装置が据えられて、住人以外の第三者は、エントランス内にも勝手に入ることが出来ない仕組みになっている。
 以前に仕事で出入りした時には、もちろん依頼人である剣崎夫人に中から開けてもらっていたわけだが、鈴鹿から聞いた経緯からして、今、環が剣崎家を呼び出しても、出てはもらえないか、あるいは出たとしても開けてはもらえない可能性が高いだろう。
 オートロックは別に万能ではないから、入る方法はないわけでもない。居住者や宅配業者がやってくるのを待って、そのあとに、何食わぬ顔をして一緒に入ってしまう、とか。
 しかし、環は悠長にそんなものを待つつもりはなかったので、別の手段をとることにした。
 携帯を取り出し、押した番号は 「m.m」 のオーナーのものだ。彼女を連れてくる時に連絡してね、と教えられたものだが、こんなことで役に立つとは思わなかった。
 相手はすぐに出て、環は簡潔に説明をした。やたらと人脈の広そうなオーナーに、このマンションの住人の伝手はないかと訊ねると、呑み込みの早い彼は事情を深く追及することなく了承して、十五分後には、環が建物内に入れるように便宜を図ってくれた。
 ひとつ貸しだね、と嬉しそうに言うオーナーに礼を述べ、解錠されたエントランスから、環は堂々とマンションの中に足を踏み入れる。この際、誰に貸しを作ったって構わない。
 エレベーターに乗り、最上階で降りて真っ直ぐ剣崎家に進む。高級マンションだけあって、廊下も壁も大理石調の立派な造りだ。防音設備が整っているのか、声も物音もまったくしない。静寂の中、環の荒い足音だけが響いている。
 部屋のドアの前に立ち、チャイムを押した。
 しかし、返ってくるのは沈黙だけだった。
 いないわけがない。きっと、インターホンに付けられたカメラで、廊下に立つ環の姿を確認して、故意に出ないのだろう。セキュリティが万全で、結構なことである。
 環は気にせずに何度もチャイムを鳴らし、拳でドアそのものを叩いた。ドアも厚そうだから、さほど音は届かないだろうが、両隣には十分伝わる程度にはうるさい。
 ガンガンと遠慮なく叩き続けていたら、しばらくしてカチリというわずかな音を立て、ドアが細く開いた。ドアチェーン──いや、鎖ではないか、それよりも丈夫な鉄製のアームは用心深く外されないままだったが。
 すかさず、環がスニーカーの足先をそのドアと枠との細い間に差し込んで、再び閉じられるのを阻止する。隙間から顔を覗かせた剣崎夫人は、それを見て、眦を吊り上げた。
「やめていただけないかしら、不破さん。ご近所に迷惑だわ」
 こんなことをしておいて近所への体面は気にするのか、と環は皮肉に考える。
「トキを迎えに来ました」
 感情の篭らない平坦な声で言うと、剣崎夫人の丁寧に化粧の施された顔立ちは、ますます不快そうなものになった。
「所長さんにも申し上げましたよ? 時子さんは、わたしがお借りしますと。お約束はなにも違えていませんのよ。力仕事もさせませんし、危険なことからも守ります。この家で、傷ひとつつけずに大事にしますわ。その分だけのお金は払うんですから、今度は問題ないはずでしょう?」
 「今度は」 というのは、今まで連れてきて閉じ込めた女の子たちのことを言っているのか。彼女にとっては、大事にしていたのにどうして取り上げられなければいけないのかと、非常に不本意なことであったのだろう。
 ……だったら今度は、お金を払って正式に 「レンタル」 すれば問題ない、と、剣崎夫人はどこかが歪んでしまった頭の中で考えたのかもしれない。
「トキは人間だ。人形じゃない」
 吐き捨てるように環は言った。剣崎夫人が薄っすらと笑う。
「ええ、お人形なんかじゃありません。だってこれから、わたしの娘になってもらうんですから」
 そして、環の足が挟まっているのも構わずに、ドアを閉めようとした。
 環は今度は右手で、閉じられようとするドアをがっちり掴み、内側に向かって大声で怒鳴った。

「トキ──時子!」

 狭い視界の中では、広い玄関と廊下の一部くらいしか見えないが、声くらいは届くはずだ。はじめて、剣崎夫人の顔に狼狽が浮かんだ。
「やめて」
「時子、いるんだろ!」
 懇願には耳を貸さずに環は名を呼び続けた。静まり返るその場所で、環の声は明らかな異分子だ。ゆったりとした空気を切り裂くように鋭くて、凶暴なほどに力強い。
「やめて……やめてください、警察を呼びますよ」
「呼べよ」
 強張った顔をした剣崎夫人の抗議を、一言で振り捨てる。警察を呼んで困るのは環ではなく、剣崎夫人の方だ。それくらいは理解しているのか、それとも今まで権力に介入されて失敗した 「経験」 が頭を掠めたのか、彼女はぎゅっと口を結んだ。
 こちらを憎々しげに見返す目は、彼女の穏やかな生活に乱入してきた無礼な男に対する激しい怒りに燃えている。剣崎夫人には剣崎夫人なりの、正義や常識が存在しているらしい。他の人間には判らなくとも。
「あの子はもうわたしの亜実なんです。これから親子で仲良く一緒に暮らすんです。邪魔をしないで」
「ふざけんな!!」
 環の激しい怒号に、剣崎夫人の身体がびくりと揺れる。固まったように、その場に立ちすくんだ。
「トキをあんたの虚構の世界に巻き込むな! あいつはつらくて苦しくても、そこから目を背けるようなことはしない。一生懸命、この現実を生きようとしてる。いつまでも夢の中を漂ってるあんたとは違うんだ。目の前のことを受け入れられず逃げてばかりの臆病なやつが、トキの進む方向を塞ぐような真似をするな!」
 引き攣った表情の剣崎夫人の顔から、すうっと色が失せていく。ぶるぶると口元が震えた。
 その時。
「──剣崎さん」
 静かな声が、ドアの中から聞こえた。
 狭い隙間から、剣崎夫人の頭越しに、廊下に立つ時子が見えた。彼女がじっと見ているのは、魂が抜けてしまったかのように茫然としている剣崎夫人のか細い背中だった。
 のろりと剣崎夫人が後ろを振り返る。
「……亜実」
 そう呼ばれた時子は、悲しそうに微笑んで、
「はい」
 と返事をした。
 それから、口を開いてゆっくりと宣告した。
「ごめんなさい、これが最後です。私はもう、『時子』 に戻ります」
「…………」
 剣崎夫人は、いやいやをするように、力なく頭を振った。何度も。
 ごめんなさい、と時子がもう一度、ぽつりと呟く。
「……もう、こういうことは、お終いにしましょうね、剣崎さん」
 時子の声は、子供に言い聞かせるように優しい。剣崎夫人が、体の力が抜けたように、へたへたと座り込んだ。
 それから少しの間をおいて、弱々しいすすり泣きの声が、その口から漏れ出した。



BACK   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.