猫の手貸します

case8:レンタル

甘くて苦い果実(4)




 剣崎夫人が少し心を病んでしまっていることに気づくのに、そう時間はかからなかったらしい。
「おうちに入ってすぐに、私のこと、『亜実』 って呼びはじめたから」
 マンションを出たところで、時子が顔を上げ、建物のずっと上の方を見ながら言った。
 地上からは、もうその部屋の窓すら見えない。時子はあの後、剣崎夫人の手を引いて、そっと寝室にまで連れて行き、子供をあやすように小さな声で何かを語りかけていた。その内容までは環には聞こえなかったが、それに応える剣崎夫人の声はまったくしなかった。
 今もひっそりと泣き続けているのか。それとも、穏やかな眠りにでも就いているのか。
 ……そして、彼女の夢に現れるのは誰なのだろう。本当の娘か、それとも、別の顔をした身代わりの誰かか。
 突然、「亜実」 と呼ばれた時子は、困惑しながらも、なるべく剣崎夫人を刺激しないように、それに付き合うことにしたのだという。話を合わせて会話を交わすうちに、本当の娘がすでに亡くなっていることも知った。夫人は脅すようなこともしなかったし、ただでさえ線の細い女性だから、その気になればいつでも部屋を出ることは出来たのだけれど。
 でも、時子には出来なかった。
「 『どこにも行かないでね』 って、泣きそうな顔で言うの。『外に出ると、また車とぶつかってしまうかもしれないわ、だから家にいてね』 って」
 本物の 「亜実」 は、自動車事故で亡くなったのか。
「環君、リビングに写真が飾ってあったの覚えてる? 剣崎さんと、ご主人と、娘さんが並んで、笑ってる写真。今もね、ちゃんとあそこにあるんだよ」
「……ああ」
 以前に仕事でそこを訪れた時、剣崎夫人の方からその写真を見せられたことを、環も覚えている。銀色のフレームの中で、楽しそうに笑う、母と父と娘。幸福をそのまま形にしたような家族写真だった。
 その時、剣崎夫人は、写真を環と時子に見せながら、「娘は大学に入ってからなにかと忙しくて、わたしとあまり買い物に行ってくれなくなりましたの」 と、笑いながら言っていた。その口調はどこまでも自然で、疑う余地など一片もなかった。きっと、それよりももっと前から、彼女の娘はこの世にはいなかったのだろうに。
 時子はその時、なんて答えていたんだっけ。「ああ、そうですよねー、大学に入るといろいろとありますからね」 なんて、当たり障りのないことを言っていた気がする。子を失くした母と、母を失くした娘が、表面的には何もないかのように会話をしていたわけだ。お互いの傷は見せずにしまい込んだまま。
 人と人は、時にそうやって、絶望的なまでに何も触れ合うことが出来ない。
「亜実、亜実、って、私を呼ぶ時、剣崎さん、ものすごく幸せそうだった」
 淡々と話す時子の横顔には、表情がない。間違いなく時子の顔なのに、まるでのっぺらぼうのようだった。そこには、いつもと違い、生き生きとした感情がまるでないからだ。怒りも悲しみも苦しさも、どこかに置き忘れてきてしまったみたいに。

 亜実、と呼ばれて、はい、と返事をしながら、時子は一体、何を思っていたのだろう。

 ──亜実、お茶を飲みましょう。
 ──亜実、大学はどう? あなたも忙しいだろうけど、たまにはママの相手もしてちょうだいね。
 剣崎夫人が見ていたのは、あくまで 「自分の娘」 の身代わり。亜実であって、時子じゃない。
 時子はまた、「そこにはいない存在」 として、扱われたのだ。実の母親が、時子のことをまったく見なかったのと同様に。
 時子がぽつりと呟いた。
「……にこにこして、楽しそうで、あんまり幸せそうだったから、じゃあ、私、もうこのまま 『亜実』 になってもいいかなあ、って思ったんだよね」
「…………」
 それを聞いて、環は何も言えずに息を呑む。お前、なに言ってんだよ、と思ったけれど、それを言葉には出来なかった。
 今まで剣崎夫人のしてきたことがそう騒ぎにもならなかったのは、閉じ込められた女の子たちが、半分は自分の意志でそこにいたという理由もあったのかもしれない。あまりに剣崎夫人の姿が哀れで、それを振り払うことが出来ずに、少しの間だけならと、「娘のフリ」 をしてやっていたのかも。
 ──けど、時子のそれは、そういうものとは全然違う。そこにあったのは多分、同情心、なんてものではない。
 もっと強いもの。もっと暗いもの。時子が、環にも祖母にも、決して見せようとしないもの。彼女の心の奥深くに隠された何か。
「トキ」
 思わず腕を伸ばして、時子の手の平を捕まえた。ぎゅっと握ると、ようやく時子がずっと上に向けていた顔をこちらに向けた。
 そして、ふわりと笑った。
「でもね、その時、環君の声が聞こえて」
 時子! と大声で名を呼ぶ、環の声が耳に入った瞬間。
「ああそっか、私、時子なんだっけ、って思い出した。環君がいて、おばあちゃんがいるんだから、私は 『亜実』 さんにはなれないな、って」
 その言葉が、どんな意味を持っているのか本人は判っていないのか。逆に言えば、環も祖母もいなければ、時子は 「自分」 を簡単に消してしまえる、ということなのに。
 時子は強い。強いけれど──
 その強さは、どこか、危ういほどに脆い。
「前も、こういうこと、あったよねえ」
 時子がそう言って、懐かしそうに目を細める。
「……うん」
 環の意識も、束の間、過去に引き戻された。



 ──雪が降り続き、街中を真っ白に染めていたあの日。
 公園の中でぽつんと一人立ち尽くす女の子の前を、誰もが知らない顔で通り過ぎていた。
 みんな傘を差して、自分の足元ばかりを気にしながら歩いていたから、雪の中何も差さずに立つなんていう奇妙なその存在に気がつかなかったのかもしれない。
 あるいは。
 泣きもせず笑いもせず、ただひたすら静かに立つ少女は、頭にも全身にも雪が降り積もり、周囲の白い景色と完全に同化していて、まるで銅像か何かみたいに見えたためかもしれない。
 そう見えたとしても不思議はないくらい、その少女は無表情で前を向いたまま、身動きもせず、じっと立っているだけだった。
 一体、彼女はいつからそうやって立っていたのか。動くわけでもないのに、靴はもうすっかり雪に埋もれてしまっていた。普通の靴だから雪水が浸み込んで冷たいだろうに、それでもずっと立ち続けていた。
 環は、その少女に自分の傘を差しかけた。
 別に、優しさからでは全然なかった。ただなんとなく──そう、なんとなく、非常に目障りだったからだ。
 彼女はぱっと目を上げ、正面に立つ男を見た。その時になってやっと、銅像に命が吹き込まれたみたいに、ひどく驚いた表情になった。
「あれ、私が見えるんですか?」
 と、素っ頓狂な声を出す少女は、この頃から確かにちょっと変わり者だった。
「見えるに決まってるだろ」
 環が仏頂面で答えると、相手はますますびっくりしたように目を真ん丸にした。なんなんだよ、とは思うが、そこにちゃんと感情が戻っているのを見て、環はほっとした。考えてみれば、この時から、自分がこの先も彼女に振り回されることは、もう見えていたようなものだった。
「いえなんか、あまりにもみんなが私を無視して通っていくので、私の姿は誰の目にも見えていないのかと思って。そうですか、私、透明人間になったわけじゃなかったんですね」
「…………」
 どうやら本気で言っているらしい。だって真顔だ。
「それで、あなたのお名前は?」
 いきなりの質問にたじろぐ。通常あるべき過程を、あれこれすっ飛ばしている気がしてならない。
「……なんで、名乗らなきゃいけないんだ?」
 言い返したものの、傘を押し付けてさっさとその場を立ち去ることもしない自分に、環はいささか戸惑っていた。戸惑うといえば、少女のあまり普通じゃない思考回路にもかなり戸惑っていたが。
「だって、これはナンパでしょ?」
「違う」
 断じて違う、と返事をしたが、少女はちっとも聞いてない。「あっそうか、まず私から名乗るべきなんですね」 と、勝手に納得した。違うって言ってるのに。
「私、逢坂時子です」
 名乗ってから、じいっとこちらを覗き込む眼差しは、疑いもなく環が名乗り返すのを待っている。環は少女に傘を差しかけた体勢のまま固まって、しばらく沈黙した。ぐるぐると、いろんなことが頭を駆け巡る。黙ろうか、逃げようか、それとも。
 それとも?
 ──で、結局、環は負けた。環にとって、それまでの人生におけるはじめての敗北、それから続く連敗の、記念すべきいちばん最初の敗北だ。
「……不破。不破、環」
「不破さんですか。いい名前ですね!」
 と、あの時、時子は明るく笑って言った。



「──環君はいつも、私を見つけてくれるんだね」
「…………」
 にこ、と笑う時子に、環はどうやって返したものか迷ってしまう。こういう時、もっと気の利くことを言ってやれるような男であればよかった、と自分が腹立たしい。
「ねえ環君」
 けれど時子は気にした様子もなく、環に向かって呼びかけた。切ない笑顔のまま。
「何かを大切に思うっていうのは、とっても心が満たされることだよね。嬉しくて、楽しくて、胸がふわふわして、とろけそうなほど、あったかい」
 甘くて美味しい果実のように、人を虜にするけれど。
「──けど、そればっかりでもないのが、悲しいね」
 その果実は、時に、苦く……時に、身を滅ぼす毒にもなる。
 どうしてだろう、愛情は、もっと人を幸福にさせるもののはずなのに。
 悲しいね、と、時子はもう一度、独り言のように繰り返した。
「トキ」
 繋いだ手に、力を込める。時子はふっと息を吐き、いつもの顔になって、えへ、と笑い、環の手を力強く握り返した。
 ──と。
 時子が肩にかけたバッグの中から、携帯の着信音が響いた。
「やーね、いいところで」
 ぶつぶつ言いながら、時子が携帯を取り出し、耳に当てる。相手は鈴鹿だ、というのが環にも判ったのは、その大音量の叫び声に、時子が思わず携帯を放り出しそうになったからだ。もうー、と口を尖らせながら、時子は携帯を再び耳に寄せた。
「ちょっと所長、私が難聴になったら労災扱いにしてくださいよ。……はあ。はい、大丈夫です。大丈夫ですってば。今から環君と帰ります。はい……はい……あのね所長、いい大人が、泣くのはやめましょうよ。ちゃんと帰りますから、ね?」
 どうやら、携帯の向こうで鈴鹿は本当に泣いているらしい。時子が呆れたような顔で、それでも一生懸命鈴鹿を慰めている。苦笑気味に、心配させてすみません、と謝って、けれど、ほんのりと幸せそうに目元を緩めた。
 それから。
「……仕事はしなくても、やっぱり、『所長』 は所長でいいです」
 と呟くように言ったのだが、その声は小さすぎて、鈴鹿には届かなかったかもしれない。


          ***


 次の日の夜、環と時子は、「m.m」 を訪れた。「詳しい事情を聞かせてもらえるんだろうね?」 とオーナーに凄まれ……いや、招待されたからだ。
 ちなみに、よろしかったら所長さんもどうぞ、と言われて、喜び勇んでついてきた鈴鹿も一緒である。そのために、本日のスズカ便利屋はいつもより二時間も早く営業時間が繰り上げられた。客がこないからって、放埓経営もいいところだ。潰れる時はちゃんと給料払ってからにしてくださいね、と環と時子に念を押され、鈴鹿は嫌そうな顔をした。
 新しい建物独特の香りが漂う店内は、他に誰もいない。高級店が、スズカ便利屋一行の貸し切りだ。こんなことは後にも先にももうないだろう。
「わあ、感じのいいお店ですねえ」
 と時子は感嘆したように言ったが、環は天井を見上げ、首を捻る。バーだからある程度薄暗いのはしょうがないとして、それにしても暗すぎないか、と思ったら、自分たちのいるカウンター付近以外の場所の照明器具が、まだ幾つか取り付けられていないのだった。開店は、明日じゃなかったっけ?
 カウンターの中のオーナーは、慣れた手つきで、鈴鹿と環に軽いカクテル、時子にコーラを出してくれた。オーナーの奢り、ということで、鈴鹿はもちろん大喜びだ。
「グラスも綺麗だし。私、こういうの見るの好きなんですよ」
 そういうものがより美しく見えるように、グラスが並べられた棚には、上方に付けられた小さなライトたちが、それぞれ別の角度から光を当てている。その前に立つオーナーは、時子の言葉に、ご満悦の表情でにっこりした。
「そうだろう? どれも僕が厳選した自慢のものばかりだからね。よかったら、気に入ったグラスをひとつあげようか?」
 気前のいいことを言うオーナーは、きっと時子を若い女の子だからと見くびっていたのだろう。「わあ、いいんですか? じゃああれください」 と無邪気に、そして迷いもせず時子が指差したグラスを見て、少しだけ顔を引き攣らせた。
 環が見る限り、そのグラスは多分この店で最高級に近い酒を注ぐもので、それ自体の値段も相当張る代物だ。
「…………。あれはちょっと、ダメだなあ〜」
「ですよねー、言ってみただけです」
 にこにこ可愛く笑いながらあっさり引く時子に、オーナーは、はははと一本調子で笑った。時子はたまに、ものすごーく性格が悪い、ということを言っておくべきだったかな、と環は考える。もう手遅れみたいだけど。
「いやしかし、時子君が来てから、うちの事務所はおかしな依頼がよく来るよね」
 その場の雰囲気を察したのか、慌てたように鈴鹿が口を挟んだが、あんまりフォローになってない。時子はぷっと頬を膨らませた。
「なんですか、人を疫病神みたいに。私がトラブルを引き起こすわけじゃなく、トラブルが仕事としてやってくるんじゃないですか」
「だからそういうのをトラブルメーカーって言うんじゃないのかな」
「あ、そーか。こういうのが、『Trouble is my buisiness』 ってやつでしょ。ハードボイルドですね」
「やめて。ホントやめて。チャンドラーが天国で泣くし、僕も泣く」
「誰ですか、それ。新しい韓流スターですか」
「作家の名前も知らずにテキトーなこと言うのやめようね、時子君!」
「それで、今回のそのトラブルは解決できたのかい?」
 鈴鹿とは違って、さすがにオーナーはいつまでも時子に振り回されることはない。上手に話を本筋へと戻した。
 時子はその問いにちょっと考え、首を傾けた。
「解決、ってわけではないです。剣崎さんは、心が回復するまでに、もうちょっと時間がかかるかもしれないし」
 ──そのために、時子は今日の昼、鈴鹿と環の立会いのもと、剣崎夫人と、その夫と会って、きちんと話をしたのである。そのまま投げ出してしまうことを、時子はしなかった。
 病院に行く、ということに、夫の方は渋い顔をしたが、剣崎夫人は大人しく同意した。何が彼女の内面に触れたのかは判らないが、確実に何らかの変化は起こったらしい。娘の死をちゃんと受け入れられるようになるのも、きっと、そう遠いことではないだろう。
 時子はまた改めて、剣崎夫人に会いに行くのだそうだ。もちろんその時は環も一緒だが、今度はちゃんと、「時子」 として。
 そう、と穏やかに頷いてから、オーナーはふいに、環に目をやってにやりと笑った。
「ところで僕、この件では不破君に貸しがあるわけだけど」
「…………」
 環は口を噤む。やっぱり来たか。
「……そうですね」
「どうやって返してもらおうかなあ」
「環君に、一日バーテンダーをしてもらうというのはどうでしょう」
「待て、お前なんでそっち側にいる?」
 環がオーナーに借りを作ったのは、時子を助けるためだ。言うならば、時子だって借りた側の人間であるはずだ。なのにどうして、嬉々として 「貸しの返済方法」 をオーナーに提案しているのか、環は心底不思議でならない。
「ダメだよ時子君。不破君を一日この店に貸しちゃったら、うちの事務所の仕事はどうなるのさ」
 鈴鹿は鈴鹿でまた勝手なことを言ってるし。
「一日くらい所長が働けばいいじゃないですか。ちなみにその時、私はこの店内の物陰に潜まないといけないので、事務所はお休みしますね。シェイカー振ってるところを写真に撮らないと」
「いや変だから。言ってることが彼女というより完全にストーカーだから」
「じゃあホステスさんに変装するんでもいいです」
「不破君が激怒するよ! やめて怖いから!」
 わいわいとくだらないことで盛り上がっている二人を放置することにして、環は自分のカクテルに口をつけた。どういう借りの返し方であれ、とりあえず、バーテンだけはやるまい、と固く決心する。
 ふと気づいたら、オーナーがくすくすと楽しそうに笑っていた。
「……いやあ、実は、不破君をこの店に引き抜いちゃおうかな、って考えてたんだけど」
 と、こっそり小声で言う。まだ騒いでいる鈴鹿と時子には聞こえないように。
「やめておこう。いくら待遇を良くしても、君はあの事務所をやめる気にはならないだろうから」
「…………」
 ちらりと二人の方を見て、そうですね、と環はちょっと笑った。


 甘くて苦い果実。
 ──けれども一度その味を知ってしまったら、手離すのは非常に困難だ。



BACK   TOP   case9

Copyright (c) はな  All rights reserved.