猫の手貸します

case9:子守り

この子どこの子(1)




 ばたばたばた、という荒々しい足音がドアの向こうから聞こえてきて、鈴鹿は自分のデスクに向けていた目を上げ、環は口に咥えていた煙草を指に挟んで外した。
 騒々しい足音はビルの廊下を一直線にこの事務所に向かって突き進んでくる。そんなに広大な距離があるわけではないから、なんだろう、と鈴鹿が思う間もなく、事務所のドアがバターンと勢いよく開いた。
「たっ……!」
 そもそも安物のドアである。まるで体当たりするかのように乱暴な開け方をしたら、簡単に壊れてしまいかねない。気のせいか、事務所全体がみしみしと揺れているような気もする。鈴鹿は眉を寄せ、ドアの取っ手を握っている人物に、苦言を呈した。
「時子君、何度も言ってるけど、そこまで元気いっぱいに出勤するのは控えて欲しいんだよね。もっとフツーに入って、フツーに挨拶しようよ」
 しかし、時子は鈴鹿の注意なんて、まるで聞いてはいなかった。
「たっ、た……」
 聞いていないのはいつものことだが、今日は少し様子が違って、鈴鹿は、ん? と改めて時子を見る。普段だとドアを開けると同時に出す 「おはよーございまーす!」 という陽気な挨拶もない。もともと大きな目を見開いて、言葉をどもらせているその姿は、時子にしては珍しいほど動揺していて、さすがに鈴鹿も続く文句を喉の奥に呑み込んだ。
 なんだろ、近くで火事でも見つけちゃったとか? と、鈴鹿は思わず自分の後ろの窓の外を見る。黒い煙は上がっていないようだけど。
「たっ、た、たまたまたま」
「……頼むから、そこで切るのはやめてくれ。どうし」
 鈴鹿と同じく、時子の尋常ではない様子を怪訝そうに見ていた環が訊き終わらないうちに、時子が 「環君!」 と今度はちゃんと名を叫んだ。

「赤ちゃんがいるの!」

「………………」
 プラトニックの段階を過ぎた恋人に、いきなりこんなことを言われて、平静でいられる男は絶対、少数派だ。
 残念ながらその少数には入らなかった環は、きっかり五秒は心臓が停止した。多分。
 その五秒が過ぎたら、今度は怒涛のように頭の中を思考が流れていった。人は死ぬ前、走馬灯のようにそれまでの人生が頭の中に甦るというが、それに負けないくらいの猛スピードでこれまでの記憶が浮かんでは消えていく。この場合、浮かんだものはとりあえず環の人生のごくごく限られた特定の場面ばっかりなわけであるが。
 いやいや待て、「いつ」 の? と自問自答する。
 身に覚えはもちろん自分自身に確かめるまでもなく嫌というほどある。あるがしかし、環は 「そういう時」、いつだって、ちゃんと然るべき対応はしていた。ついつい欲求に流されそうになったことは何度もあるが、わずかに残る理性で押しとどめるという努力をしてきたはず。そりゃもちろん、だからって可能性はゼロパーセントではないのだろうが、いやしかし──
 ぐるぐると考えながら、いちばん直近である一昨日の夜のそのことを思い出し、ついでに時子の白くてしなやかな肢体なんかも脳裏に浮かべてしまい、軽く頭を振る。いかんいかん、現実逃避している場合じゃない。
「ねえ、赤ちゃんがいるんだってば!」
 動きを止めてしまった環と、なんとなく生ぬるい目をして環を見ている鈴鹿に向かって、時子が焦れたように地団駄を踏んだ。お前、そんな暴れていいのか、と石化してしまった環の心の一部分が心配そうに呟いている。
「ちょっと、落ち着け、トキ」
 自分だってかなり落ち着いていないのは判っているが、あまりそういうのが態度に出ることがない性質が今は幸いだ。座っていた椅子から立ち上がり、時子に向かって歩き出す。同時に、まだ火の点いたままの煙草を指に持っていることに気がついて、唇の端に押し込んだ。ぼろぼろと灰が床に落ちる。
「とにかく、安静にしろ、な?」
 ぽん、と肩に手を置いて言ってみる。俺も安静、じゃなかった冷静になろう、と自分に言い聞かせながら口に咥えた煙草を吸いかけたところで、煙草の煙はマズイんじゃないかと思いついた。禁煙しようかな、とどうでもいいことを考えている時点で、ちっとも冷静じゃない。
「……不破君、まずは二人でじっくり話し合ったらどうかな。仕事も入ってないし、時間をあげるから、近くの喫茶店にでも行っておいでよ」
 鈴鹿の声はやけに優しい。完全に他人事だと思っているのがありありだ。
「はあ、そうですね……」
 話し合いね、とどこかぼんやりと頷いた環とは正反対に、時子のボルテージは上がる一方である。
「んもう、二人とも、なに悠長なこと言ってるんですか! 赤ちゃんがいるんですよ?!」
「うんうん、判った判った。時子君、体に障るから、そんなに興奮しないで。こうなったら、どういう道を選ぶべきなのか、ゆっくりと話し合って結論をさ」
「ゆっくりしてる暇なんてありません!」
 年長者ぶったことを言う鈴鹿に、時子はいきり立った。それを見て、やっぱりこういう時は、精神的に不安定になるのかな、なんてことを思う環も相当アホだ。
「とにかく、環君、来て!」
 がしっと腕を掴まれ、少し狼狽する。
「え、病院か?」
 産婦人科って、何処にあるんだっけ。いやでも、バイクに乗せるのは駄目だよな、と思いつつ問い返すと、時子は今度こそ、完全にキレた。
「なにが病院なのよ! 今、ここにいるのよ、赤ちゃんが!」
「だから、お前の腹の中に」
「殴るわよ! このビルの前に、赤ちゃんが置かれてるの! カゴに入れられて、眠ってるんだってば!」
 えええええーーーっ?! という、鈴鹿の絶叫が響き渡った。


          ***


「どどどどどうしよう、これ」
 すっかりパニックになってうろたえる鈴鹿に、さっきまでの余裕は一ミリも残っていなかった。
「まあ、とにかく落ち着きましょうよ、所長」
 対する環は、打って変わって悠然とした態度で、のんびりと鈴鹿を諌めている。きいっと眦を吊り上げて、鈴鹿はそんな環を睨んだ。
「不破君、君ね、自分はもう直接関係なくなったからって!」
「所長だってさっきは他人事のように俺を見てたじゃないですか」
「仕返しなんて大人げない! あれは君たち二人だけの問題だと思ったからでしょ! けどこれはこの事務所全体の問題でしょ!」
「その事務所全体には俺とトキも含まれるんですか」
「当たり前じゃないか!」
「うるさいですよ、二人とも。赤ちゃんが起きちゃう」
 びしっと時子に叱られて、男二人はピタリと口を噤んだ。三人揃って、おそるおそるといった感じで 「それ」 を覗き込む。
 ベビークーハンに入れられた赤ん坊は、大人たちの騒ぎには我関せずとばかり、くうくうと眠り続けていた。この場には子供に詳しい人間は一人もいないので、月齢を推し量ることも出来ない。生後すぐ、というほどではないけど、まだ自力では動けなさそうなくらいかなあ、というアバウトさだ。
 ビルの入り口に置かれていたその赤ん坊に対して、まず警察に通報するという手段を取らず、とりあえずクーハンごとこの事務所内に運び込んだのは、眠り続ける赤ん坊の上に、一通の手紙、というか、一枚のメモが置かれていることがいちばんの理由だった。

 ──スズカ便利屋様

 手帳を一枚破って、そう書かれた筆跡は、いかにも慌ただしく書き殴られていて、それ以外の説明は一切ない。差出人、つまりこの赤ん坊の親の名前もない。したがって、この赤ん坊が何処の誰であるかということも、さっぱり判らない。
「一体誰がこんな無責任なことしたんだろ。ていうか、どうしてこの事務所の名前なんか書くんだろ。これじゃ、まるでこの赤ん坊を事務所に託したみたいじゃないか」
「まるで、っていうか、明らかにそのつもりなんだと思いますけど」
 いやに冷たい声音で時子に言われて、反論しようとそちらを向いた鈴鹿は、自分に向けられているその視線が、声と同様に非常に冷たいものであることに気づいた。
「……あの、なんで、そんな怖い顔してるのかな、時子君」
 つい、おどおどと訊ねてしまう。ちらっと環を窺ってみたら、彼はすでに別の方向を向いて、知らんぷりを決め込んでいた。ひどい。
「所長……」
「な、なんだい」
「この子、何処の子なんですか」
 きつい口調で問い詰められて、鈴鹿は混乱した。たった今、自分がその疑問を提示したところではないか。
「え、だから、今、僕がそれを」
「とぼけてる場合じゃないでしょう。ど、こ、の、子、な、ん、で、す、か」
 わざわざ一語ずつ区切って同じ質問をする時子の眼差しは剣呑だ。ここに至って、自分が時子にあらぬ疑惑をかけられていることに気がつき、鈴鹿は飛び上がって仰天した。
「ええー?! なに、ひょっとして、時子君はこの子が僕の隠し子だとか思ってるわけ?! それで、相手の女性が僕に子供を渡して逃げたとか?!」
「それ以外に、何があるんです。環君の隠し子だとでも?」
「そっちの方が可能性としては高」
「違います」
 鈴鹿の言葉を、環が素早く割り入って否定する。今まで知らん顔でいたくせに。
「冗談じゃないよ! 自慢じゃないけど、僕には愛人を作る甲斐性も、隠し子を持つ度胸もないんだよ!」
「…………」
 本当に自慢にならないことを堂々と言われて、時子は少し戸惑ったように口を閉じた。その説得力のある台詞に、なるほど、と大いに納得したらしい。
「じゃ、なんでこの紙に、事務所の名前が書かれてあるんですか」
「だからね、それをね、今まさに僕が言ったんだけどね」
「便利屋って、託児所みたいなこともするんですか」
「するわけないでしょ!」
 ぷんぷん怒りながら言い返す。
 赤ん坊の上に置かれた紙をじっと見ていた環が、「……女文字ですね」 とぼそりと言った。鈴鹿と時子もそちらに目を移し、その意見に同意して頷く。何かに急かされて書いたかのような乱暴さだったが、角が丸く、微妙に斜めになった癖のある文字は、男性が書くそれではない。
 女性──それも、どちらかといえば、若い女性の書くような字体に見える。
「……ねえ、思うんだけど」
 ふいに、時子が新しい可能性を挙げた。
「こういったことに最も該当しそうな人が、一人いるわよね? この事務所に全く関係ないわけじゃなくて、ちゃらちゃらとあちこちに手を出して女遊びをする軽い性格で、遊んだ相手に子供ができたら上手いこと言って逃げちゃうようなサイテー男が」
「あり得る」
 間をおかず、鈴鹿と環が同時にきっぱりと言い切った。
 はあー、と鈴鹿が大きく息を吐き出す。
「なんだそうかあー。いやだなあ。桂馬君もさあ、こういうことはちゃんと自分で片を付けてくれないと」
「本人に話をしてもラチが明かないんで、だったら叔父さんに責任とってもらおう、ってことで、ここに連れてきたんでしょうかねえ」
「迷惑だよ!」
 しかしこれで話は解決したとばかりに、一同はほっとした。
「そういえば、似てるよね、この鼻のあたりが」
「緒方さんも赤ん坊の頃はこんな可愛い顔をしてたのかしらね」
「どこからあんな風に汚れていったんだかな」
「そーよねー、この子は父親みたいにならないといいわよね」
 赤ん坊を見ながら無責任極まりないことをわいわいと話し、うーん、と鈴鹿は迷ったように顎に手を当て、首を傾げた。
「だったら、下手に警察に知らせない方がいいのかねえ」
「問題がこじれるだけなんじゃないですか。俺の知ったこっちゃないですが」
「まずはお父さんにこの場に来てもらいましょうよ」
 すっかり赤ん坊の父親が桂馬だと決めつけて、そうだそうしよう、と爽やかに全会一致をみる。あとはもうすべて桂馬に押し付ければよし、と誰もが疑いもなく思っていた。
「えーと、桂馬君に連絡……」
 鈴鹿が自分の携帯を取り出して桂馬に電話をしようとしたが、はたと思い当たったように手を止めた。
「あ、そういえば僕、桂馬君の携帯番号知らないや。時子君、知ってる?」
「以前に番号とアドレスを書いた紙を貰いましたけど、捨てちゃいましたー」
 あっさりと言う時子はにべもない。少しだけ、鈴鹿は甥っ子が気の毒になった。いっそ清々しいほどに、報われない恋心だなあ。
「それじゃ……」
 まずは自分の妻に電話して、と考えつつ、再び携帯のボタンに指をかける。
 ──と、その時。
 唐突に、ぱか、と赤ん坊が目を開けた。
 そして、待ったなしで、泣き出した。


「………………」
 全員がその場に固まった。
 固まっている間も、赤ん坊はうええうええと泣き続けている。なんとなく猫の鳴き声にも似たその声は、音量としてはそんなに大きいものではないのだが、どういうわけだか人をパニックに陥らせる効果は満点なのだった。
「きゃー! やだちょっと、どうしよどうしよ?!」
 最初に取り乱したのは時子だ。悲鳴のような声を上げ、両足で足踏みしながら、意味もなくくるくるとその場で廻り出す。時子のこんなところ、環でさえ見たことがない。
「おおお落ち着いて、落ち着いて時子君、赤ん坊というものは泣くものなんだから」
「じゃあ所長何とかしてくださいよ、どうすれば泣き止むんですか!」
「そんなこと、僕が知るわけないでしょ!」
 鈴鹿も泣きそうになっている。妻はいても子供のいない彼にとって、赤ん坊が未知の生物であることは、時子と似たり寄ったりだ。
 その場面で、いちばん落ち着いていたのは環だった。性格的にそうだというより、二人に先にパニックになられてしまったので、もう今さら慌てる気にならなくなったという方が正しい。
「……ミルクか、オムツなんじゃないか?」
 赤ん坊が泣く理由として最もポピュラーであろうと思われるものを口にしてみる。それくらいはいかに赤ん坊に縁のない環でも知っているのだ。だが知っているのはそこまでで、どうやってミルクを作ればいいのかとか、どうやってオムツを替えればいいのかなんてことは、もちろんまったく知るわけがない。
「ミ、ミルクかオムツ」
 時子はさすがに鈴鹿よりも立ち直りが早かった。環の言葉にはっと我に返り、クーハンと一緒に置いてあった布製のバッグに走り寄る。
「よかった、ミルクも哺乳瓶もオムツもちゃんと入ってるわ。所長、ポットのお湯でミルク作ってください!」
 中を確認して、ほっとしたような声を出したが、命令された鈴鹿は目を丸くした。
「僕、ミルクの作り方なんて知らないよ!」
「缶に書いてありますよ! それ読んで作る! ちゃんと冷まさなきゃダメですよ!」
 厳しく言いつけてから、クーハンの中で泣いている赤ん坊を覗き込み、ちょっとためらい、おずおずと手を伸ばした。
 赤ん坊を抱きあげる手つきはこわごわとしていて、お世辞にも上手とはいえないものだったが、その身体を両手でしっかりと支え、自分の胸のあたりに持っていくと、安心したらしく、赤ん坊の泣き声が小さくなった。
「──……」

 瞬間、時子の顔から、一切の表情が抜け落ちた。

「……トキ?」
 環の声に、時子は再びぱっといつもの時子に戻った。それは本当に、瞬きほどの間のことだった。すぐに何もなかったように、「環君、そのバッグ持ってきてくれる?」 と頼みながら、赤ん坊を抱いてソファに移動する。
 ──気のせいか?
 かすかに眉を寄せて、環はバッグを持って時子の後に従った。さりげなくその顔を窺ってみたが、時子はもうまったく普段と変わりない。
 いや……環の気のせい、というよりは。
 時子が、自分のその変化に、全然気づいていない、みたいな。
「オムツなのかなあ……でも、私、こんなのどうやって替えたらいいのか知らないんだけど」
 ぶつぶつ言いながら、ソファに寝かせた赤ん坊の洋服を、悪戦苦闘しながら脱がそうとする。手の先から足の先までひとつに繋がった服だったが、股のところに小さなボタンがたくさんついていた。これを外せば下半身だけが出る仕組みになっているんだな、と二人して納得した。
「世の中には、まだまだたくさん知らないことがあるのね、環君」
「まったくだ」
 感心しながら紙オムツのテープを剥がす。ちらっとその中を覗いてみて、時子はくるりと環を振り向いた。
「環君、あっち行ってて」
「は?」
「この子、女の子だわ」
 と、時子が大真面目な顔で言った。



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