猫の手貸します

case9:子守り

この子どこの子(2)




 赤ん坊は、時子によって、「ピンクちゃん」 という仮の名が付けられた。
 頬っぺたが赤というよりはピンクだから、赤ちゃん、ではなく、ピンクちゃん、がいいだろうという理屈である。環は別に異議を差し挟まなかったが、鈴鹿は 「時子君、君、そのネーミングセンスは致命的だよ!」 と感嘆するように言った。
 その赤ん坊のピンクちゃんは、現在、オムツも新しいものに替えられて、さっぱりした顔で鈴鹿の作ったミルクを飲んでいる。
 抱っこして飲ませているのはもちろん時子だが、鈴鹿と環も前にあるソファに並んで座って、それをもの珍しそうに眺めていた。気分的には、動物園で飼育係が猿やパンダの赤ちゃんにミルクを飲ませる場面を見物するようなものに近い。ヒマな事務所でなによりだ。
 歯のない口で哺乳瓶の乳首に吸い付いて、こっくんこっくんと小さな音を立てながらミルクを飲んでいる姿は、不思議と見飽きるということがない。気がつけば、三人揃って馬鹿みたいにぼーっと赤ん坊の動く口許を見つめていて、
「はっ!」
 と鈴鹿が我に返ったのは、ピンクちゃんがミルクをキレイに飲み干してしまった後のことだった。遅すぎる。
「いや、こんなことをしてる場合じゃないんだけど! ていうか、どこまで話が進んでたんだっけ?」
「父親を呼ぶ、ってところまでじゃないですか」
 と、環が冷静に言う。
「あ、そうそう、そうだったよね。それで、桂馬君の携帯番号を……時子君、知ってる?」
「書かれたメモはもう捨てたって言ったじゃないですか」
 と、時子が呆れたように答える。
「そ、そうそう、そうだったそうだった」
 部下二人がすでに平常心を取り戻しているというのに、鈴鹿は一人、まだテンパリ状態から抜け出せないでいるらしい。
「えーと、じゃあ……」
 まず自分の妻に電話をして──と、ようやくさっきと同じところまで思考を戻した瞬間、はくちん! という可愛らしいくしゃみが赤ん坊の口から飛び出した。
 時子がびっくりしたように、目を見開く。
「え。こんなにちっちゃいのに、くしゃみした」
「や、時子君、驚くところが微妙におかしいよね? 小さくたって生き物なんだから、くしゃみくらいするでしょう」
 とは言いながら、鈴鹿はおろおろとした風情になった。いや、おろおろしているのはずっとなのだが。寒いのかな? エアコンつけたほうがいいかな? とやかましくうろたえながら、事務所内をうろつきはじめる。環は、この事務所の場合、寒さよりも埃の方を気にすべきなんじゃないか、と思ったが、面倒くさいので黙っていた。
 時子が少し首を傾げながら、床に放置されたままのクーハンに目をやる。
「そのカゴの中に、毛布が入ってましたよね?」
「あ、うん、これね」
「その毛布でくるんであげましょうか」
「そ、そうだね。風邪でも引いたら大変だもんね」
 過保護なお祖父ちゃんみたいなことを言って毛布を差し出す鈴鹿に、それを受け取る代わり、時子はずいっと赤ん坊を差し出した。
「私、哺乳瓶洗ってきますから、ピンクちゃんを抱っこしててください」
「ええっ?!」
 ぎょっとして後ずさり、手を振り回す。
「いやいや、むむむ無理無理無理。僕、赤ん坊なんて抱いたことないもん。落としたら大変じゃないか」
「落とさないように抱けばいいんです」
「カンベンしてよー。また泣かれたらどうすればいいか判んないし。こういうことに動じない不破君に頼んでよ」
「なに言ってるんです。環君に他の女の子を抱かせるなんて、私に出来るわけないじゃないですか」
「いくらなんでも、この子は不破君の恋愛対象には入らないと思う」
「いいから、早く抱っこしてください。緒方さんの子供ってことは、所長の親戚筋の子でしょ」
「そ、それとこれとは別……って、不破君、なに完全に他人のフリしてんのさ!」
 環はさっさと空の哺乳瓶を持って給湯室へ逃げ込んでしまっている。時子と鈴鹿の賑やかな言い争いは続いていたが、時子の腕の中にいる赤ん坊は、真ん丸な目を開けて、じいっとその騒ぎを見学していた。
 しょうもない大人たちだなあ……と思っていたのかもしれない。


          ***


「ダメだー、繋がんないよ」
 自分の妻から聞き出した甥っ子の番号に何度か電話をかけてみて、諦めたように鈴鹿ががっくりと肩を落とした。
「何してるんでしょうねえ。会議中とか、商談中とかなんでしょうか。いついかなる時もスマホを手放さないような緒方さんでも、仕事をする時はさすがにそういうわけにもいかないってことですかね」
 赤ん坊を抱いた時子が不思議そうに言う。
「うーん……」
 と曖昧に言葉を濁した鈴鹿と、無言の環が頭に浮かべたのは、多分同じ内容だ。
 ──女とホテルにでも行ってるんじゃないか?
 せっせとこの事務所に通っては時子を口説き続けている桂馬であるが、それはそれとして、「そういう相手」 にはやっぱり事欠いていないようなのである。事欠かないだけでなく、桂馬自身が、「時子ちゃんは好きだけど、でもホラ、本気と遊びは別だし」 と悪びれもせずあちこちに手を出しているのも、鈴鹿と環は知っている。誠意というものをミジンコくらいしか持っていない桂馬の中では、それは何ら矛盾する行為ではないらしい。ちなみに桂馬は普通の会社に勤めるサラリーマンで、今はれっきとした就業時間内だ。まことに、サイテー男の名にふさわしい男なのであった。
「困りましたね」
 ぽつんと言って、時子が抱いている赤ん坊に目を落とす。ピンクちゃんはなかなか豪胆な性格の女の子なのか、慣れない腕の中とはいっても、泣き出すわけでも、居心地悪そうにするわけでもない。さっきからずっと、自分の拳を自分の口の中に押し込む、という偉業に一心不乱に挑戦し続けていた。
「緒方さんに連絡がつくまで、ここで預かってた方がいいんでしょうか」
「うーん、この子のお母さんが戻って来てくれるのが、一番いいんだろうけどねえ。……あ、そうだ」
 と、鈴鹿がふいに思いついたように言った。
 鈴鹿にしてみれば、それは本当に悪意のない、単なる提案、というくらいの軽い気持で口に出したものであったに違いない。
「いっそのことさあ、時子君のお母さんに応援に来てもらおうか。僕の奥さんは赤ん坊を世話した経験がないから呼んでも仕方ないけど、時子君のお母さんは時子君を育てたんだから、赤ん坊の扱いにも慣れてるよね」
「………………」
 晴れやかな顔でそんなことを言う鈴鹿を、環は本気で窓から放り投げてやりたくなった。
「言いませんでしたっけ」
 赤ん坊から目を上げた時子には、まるきり変わったところはない。昨日食べた夕飯は何でしたっけ、というような顔つきと口調だった。心の中に風が吹いていたとしても、それが微風なのか強風なのかは、外側から窺い知ることは出来なかった。
「私、母はいないんです」
 亡くなった、ではなく、いない、と時子ははっきり言った。


 しばらく、沈黙があった。
「……あ、そ、そう」
 ようやく、鈴鹿はもごもごとそんな返事をしたが、頭の中身は焦燥と困惑ではちきれそうだ。焦りつつ、これまでの記憶をフル回転でほじくり返してみる。
 そういえば、時子をバイトで雇う時、鈴鹿は特に履歴書などの提出を求めていない。家族構成などを改めて問うのもしたことがない。
 ここで働かせてもらえませんか、と事務所にやってきた時子は、最初から物怖じしない性格で、一応形ばかりの面接でも、鈴鹿の質問にはきはきと答えていた。自宅住まいで、大学に通っていると言い、住所も大学名も素直に口にした。
 保護者の同意もちゃんと貰っている、と。
 それが母なのか父なのか、それともそれ以外の 「保護者」 なのかということは確認しなかった。そもそも、環の付き合っている彼女、ということで身元の保証はされているような気になっていたからだ。鈴鹿の今までの経験からして、この子は大丈夫だろう、と感じたこともある。
 別に今さらそれをどうこう言うつもりもないし、亡くなっているのか離婚したのかは知らないが、母親の存在の有無で時子を見る目を変えたりすることもない。しかしなにしろ、てっきり時子はごくごく普通の家庭で育った健全なお嬢さん、と思い込んでいたため、この事実に狼狽してしまったのも本当だ。
 だから、つい、
「……えーと、それじゃあ、お父さんは」
 と余計な質問を重ねてするという愚を犯してしまった。
 時子はまったく表情を変えなかったが、傍らに無言で立っている環の全身から、不穏な空気が立ち昇っている気がする。すごくする。じっとりと冷や汗が滲んだ。
「父は、生きてます。どこかで」
「………………」
 鈴鹿の冷や汗は倍になった。
 なんかもう、その一言でいろんなことが察せられて、察せられたことはどれも、決して明るい話になりそうもないことくらいは判る。どうやら自分が、聞いてはいけないことを聞いてしまったことも判る。かといって、ごめんねと謝ったりしたら、さらにこの場が気まずくなることも、これまた判る。
 ──で、だらだらと汗をかきながら、ぐるんぐるんと混乱した頭をめぐらせてた鈴鹿が、何を選択したかっていうと。
「そういえば、さっき作った時、缶のミルクが残り少なくなってたんだよね! 僕ちょっと買ってくるから! 留守番、お願いね!」
 唐突にソファから立ち上がり、裏返った声でそれだけ言うと、脱兎のごとく事務所から飛び出したのだった。


          ***


 鈴鹿の露骨な逃亡に、時子はちょっとぽかんとして、それから可笑しそうに噴き出した。
「あんなに慌てなくっても」
 くすくす笑いながら、ねえ? と同意を求めるように環を振り返り、その顔を見て、きょとんと目を瞬く。
 口許の笑いを苦笑に変え、
「そんなに怖い顔しないの、環君」
 と、子供を諌めるような調子で言った。
「別に怖い顔なんてしてない」
「してるって」
「これが地顔なんだ」
 むっつりとした環の返答に、やれやれという顔をする。
「所長に悪気はないんだから」
「知ってる」
 鈴鹿に悪気なんてない。いいやそもそも、何か悪いことをしたわけでもない。鈴鹿は何も知らなかったのだし、未成年の学生に対しての、「両親は今、どこで何をしてるのか」 という質問自体、普通の人間が普通にする、一般的なものだ。
 それを責めるほうが間違っている……ことは、判っている。
 今までにだって、多くの人々が、同じ問いを時子に向かって投げかけたろう。そして時子は、そういう時に誤魔化したり、はぐらかしたりしない。訊かれれば訊かれた分、正直にありのまま答えるだろう。なんでもない顔をして。
 実際、問われても答えても、時子はなんとも思わないのかもしれない。良くも悪くも、時子はもうそういったことに慣れきってしまっている。
 ただ──
 問われて、答えて、そのあと訪れるものは、多分、何度経験したって、慣れるものではないんじゃないかと、環は思うのである。
 鈴鹿ほど極端なケースはあまりないだろうとはいえ、必ず一瞬はその場を支配する沈黙、気まずい空気。失敗した、悪かったと思って歪む、相手の表情。
 時子に向けられる、同情と憐憫の眼差し。
 環は、それを見たくない。そういうものを、時子がただ黙って受けるしかないのを、見たくない。しょうがないことだとは思っているし、すべて自分自身のエゴであるとは判っていても。
 見ると、自分の身の裡で痛むものがある。その痛みが何なのか、環にはよく判らない。
 ──だからいつも、腹立ちという形でそれを表に出すしかない。
「……こんな可愛い子でも、ビルの前に置いていくような人がいるんだね」
 赤ん坊を片手であやしながら、時子が呟いた。
 赤ん坊は、小さな両手で時子の指をがっちり掴み、一生懸命自分の口許に持っていこうとしている。時子はちょっと笑って、空いた指先でふくふくの頬っぺたをちょんとつっついた。

 紙切れ一枚で、放り出された子供。

「世界には、不幸がたくさん転がってる。仲のいい恋人同士でも、幸せな家庭でも、ちょっとしたことであっと言う間に壊れる。永遠に続くものは、世の中には存在しない。家族や夫婦なんてものは所詮、紙の上での繋がりでしかない。心は変わるものだし、変わるのは誰にも止められない。親と子の間に、永久不変の愛情があって当然だなんて、そんなことはあり得ない」
 救いのない内容を、まるでひとつひとつ数え上げながら謳うように、時子は淡々と言った。
「──それでも、やっぱり」
 頬に触れていた指が動いて、赤ん坊の薄い前髪に移動した。おでこを撫でるようにさらりと梳くと、赤ん坊は心地よさそうに目を細めた。
 時子もそれを見て微笑んだ。
「やっぱり、人と人の間には、何かがあるって信じたいね。綺麗なものとか、温かいものが。永遠に続くものではなくても、存在する何かが」
「……トキ」
 少し迷ってから、環は時子の隣に腰を下ろした。時子はソファの真ん中に座っていたので、片側の空いているスペースに無理矢理でかい図体を押し込む形になったが、気にしない。「ちょ、狭い狭い」 と時子が笑いながら文句を言う。
「あのね、環君」
 ぎゅうぎゅうと狭苦しくくっついて座りながら、時子が環の方を向いて、にこ、と笑った。
「私は、環君の傍にいると、それが信じられるような気がするんだよ」
「…………」
 胸が疼いた。
 人間と人間は、判り合えなくて当たり前──というのは、環がずっと思っていたことでもある。時子が言うことと、環のその考えは、表面的にはよく似ている。
 しかし、そこから向かうベクトルが、きっと、まるで違うのだ。どうせ判り合えないのだから判ろうとする意志をはじめから持たないのと、判り合えないけど、それでも何かがあるのだろうと信じようとする意志は、根本のところがまったく異なる。
 環は、自分にはない、時子のそういうところが眩しく思える。彼女を見ていると、今までどんなことにも揺れなかった感情が、いつだって激しく振り動かされる。その強い感情を愛情だと呼ぶのなら、多分そうなのだろう。愛情なんて、今まで誰にも抱いたことがないし、自分自身のことだって、環は一度も愛してやったことなんてないけれど。
 それでも、時子が信じてくれるのなら、環も自分を信じられるような気がする。人と人は、もしかしたら判り合うことが出来るかもしれないじゃないかと、そんな気がする。錯覚かもしれないけれど、もしかしたら、と。
 時子がいると、今までの無色透明だった自分の人生に、色が付きはじめるように思える。そしてそれは、けして悪い気分ではなかった。
 環は、自分が時子に何かをしてやれているとは思っていない。時子が言うような、綺麗なものや温かいものを与えてやれているかどうかも自信がない。時子が環に向けてくれる信頼に、応えられるのかも判らない。
(……けど)
 けれど、時子が望む限りは。

 傍にいたいと願ってしまうのは、環だっておんなじだ。

「トキ」
 名を呼びながら、顔を寄せた。すぐに間近にあったそれは、最初、ん? という表情をして、それから緩く口元を綻ばせると、大人しく目を閉じた。
 唇同士が触れ合うだけの軽いキスに、ふふ、と照れくさそうに笑う。
「赤ちゃんの前でこういうことをするのは、教育上どうかと思う」
「ちょっとだけ見ないフリをしていてもらおう」
 そう言って、もう一度唇を近づけた時──
 ドタドタというけたたましい足音がして、事務所のドアが勢いよく、バン、と開いた。
 時子に対して、ドアはもっとフツーに開けろ、と言っていた本人が、ぜいぜいと息を切らせながら、事務所の中に飛び込んでくるのを目にして、時子と環は揃ってきょとんとした。
「あれ、所長。早いですねー、もう買ってきたんですか」
「いや、それどころじゃないんだよ! 大変、大変!」
 のほほんとした時子の台詞を遮るように、鈴鹿は大声を出した。こんなに大変なことばかりあって、おそらく今日一日で、鈴鹿の寿命は五年は縮んだであろう。
「ピ」
 と、鈴鹿は一瞬言葉に詰まって、時子に抱かれている赤ん坊を見た。
「ピンクちゃんのお母さんが来たんだよ!」
 その言葉に、時子と環は顔を見合わせた。



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