猫の手貸します

case9:子守り

この子どこの子(3)




 鈴鹿の後から入ってきたのは、派手な格好をした二十代くらいの若い女性で、彼女は事務所の中に足を踏み入れて、時子に抱かれた赤ん坊を見るなり、飛びつくようにしてそちらに駆け寄った。
「さくら!」
 叫びながら、時子からもぎ取るようにして赤ん坊を奪い取る。大きなシュシュで後ろに束ねられたピンクブラウンの髪が、大きく跳ねるようにして揺れるほどの勢いだった。
「ごめんね、さくら。こんな所で、寂しかったでしょ。お腹空いてない? 怖い思いした? ごめんね、もう大丈夫だからね」
「…………」
 女性は赤ん坊を抱いて必死に言い募ったが、その無神経な台詞の連発に、鈴鹿はかちんときた。
 「こんな所」 って何なのだ。ここではまず、自分たちに謝罪があって然るべきなんじゃないのか。身勝手で非常識な自分のことは棚に上げ、まるで被害者のような言いようも腹立たしい。鈴鹿たちが誘拐してきたわけでもあるまいし。
 ピンクちゃんはちっとも寂しそうではなかったし、ミルクもごくごく飲んで満腹だし、怖がるどころか大人たち (というか、おもに鈴鹿) を散々振り回して、本人はけろりとしていたんだっつーの。
「あのね、あなたね、一体どういうつもりで──」
 と意気込んで文句を言いかけた鈴鹿だが、その前に、考えるような顔で女性を見ていた時子が割って入った。
「……小暮さん、じゃないですか?」
 確認するように口にされた名で、女性はようやく我に返ったらしい。はっとしたように顔を上げ、警戒するように時子を見た。
「そうだけど」
「え、時子君の知り合いかい?」
 女性と鈴鹿の二人が同時に口を開く。時子はくるりと鈴鹿の方を向いた。
「以前、一度だけ依頼を受けたお客さんですよ。えーと、確か、お掃除と買い物でしたっけ。赤ちゃん用品をいろいろと揃えないといけないんだけど、お腹も大きいし自分一人じゃ無理だからって。そーかー、あの時確か、妊娠八か月とかって言ってましたもんね。じゃあ、あのお腹の中にいた子が、このピンクちゃんってわけですね」
 時子はうんうんと頷きながら、納得するようにしみじみとした顔で赤ん坊の顔に見入っている。「ピンクちゃん?」 と女性は首を傾げ、「お客さん?」 と鈴鹿も首を傾げた。
「電話での依頼だったから、所長は小暮さんの顔を知らないんですよ。環君は覚えてるわよね?」
「小暮って名前と仕事の内容は覚えてる」
 時子に訊ねられた環は、どうやら名前と仕事の内容は覚えていても、依頼客だった女性の顔までは覚えていないようで、こちらもまた同じように首を傾げた。きっと興味がないからって、ろくすっぽ見ていなかったに違いない。頼りにならない男性陣に、時子は 「もうー」 とおかんむりである。
「よく覚えてるね、時子君」
「普通です」
 感心したように間延びした声を出す鈴鹿に、きっぱりと返す。大体、こんなに全体の客数が少ない中で、個人客の名前も覚えていないことこそ問題なのだ。
「えっと……小暮、すみれさん、でしたっけ」
「う、うん、そう」
 下の名まで言われて、女性は驚いた顔をした。本人も、たった一回仕事を頼んだだけで、そこまで覚えられているとは思っていなかったようだ。時子の記憶力に呆気にとられたためか、彼女の顔からは最初の険しさはすっかり消えて、ぽかんとした感じになっている。
 一触即発だった空気は、ここにきて、妙に間の抜けた落ち着いたものになった。時子がそれを計算でやっているのかどうかはまったく不明だが。
 ぽん、と元気よく両手を打ち合わせる。
「じゃあ、とりあえず、みんなでお茶にしましょうかー」
「…………」
 時子ににっこり言われ、鈴鹿もすみれも呑まれたように、はい、と頷いた。


          ***


「……要するに、男なのよ、男」
 ソファに座ったすみれは、時子に出されたコーヒーを一口飲んでから、ちらりとクーハンの中のピンクちゃん、改め、さくらに目をやってそう言った。さくらはまたすやすやと穏やかな眠りに入っている。
 身体の線がぴっちり出るような原色のシャツに、デニムの上着、ミニスカートに黒いスパッツ、ヒールのついたサンダル、という普段着姿とおぼしき服装をしたすみれは、言っては何だが、見るからに水商売の女性だった。恰好がどうこうというより、全身からそういった雰囲気が滲み出ているのだ。
 真っ赤なマニキュアを施したその指の間には、細長い煙草が挟まれている。コーヒーを飲みながら煙草を吸っている彼女は、それでも煙を吐く時は、必ず顔を逸らしてさくらのいる方向とは逆を向いた。ただ、そちらにいる鈴鹿が咳き込んでも、それは無視である。
「男って……」
 怪訝そうに訊く鈴鹿に、ふん、と軽く鼻を鳴らす。
「今、付き合ってるオトコよ。決まってんでしょ。さくらは前のダンナとの間に出来た子なんだけどさ、そいつとは妊娠中に別れちゃったし」
「えっ、緒方さんて、結婚してたことがあるんですか」
「いや、そんなの僕、初耳だけど」
「誰よ、緒方って」
 目を丸くした時子と鈴鹿に、すみれは不思議そうに目を瞬いた。「あ、こっちの話です」 と言い訳しながら、三人で一斉に同じことを心の中で呟く。
 ──そうか、桂馬の子供じゃなかったのか……
「今の彼氏とは一か月前くらいから付き合い始めたんだったかな。店の客でさ。そこそこ真面目そうで、いい人なのよ。まあ、うちみたいな店に来る時点で、真面目ったって、底が知れてんだけど。あたしからすると、毎日会社に行ってるってだけで、ポイント高いからね」
「はあ……」
 他になんとも言いようがなくて、鈴鹿は曖昧に相槌を打った。なんとなーく、話の行き着く先が見えてきて、どうしても顔つきが渋くなる。
「で、あたしは、なんとしても、その男を捕まえときたいわけ。判るでしょ?」
 すみれが机の上の灰皿に煙草を力強く押し付け、ぐっと身を乗り出す。判るでしょ、って言われてもねえ。
「その男と、結婚したいの。だって、母子家庭って大変なのよ。さくらに父親だって欲しいしさ。ああいう男は、結婚しよう、って言わせたら、もうこっちのもんじゃない」
 だから、ああいう男、と言われても、こっちはその人のことを知らないんだから、と鈴鹿は思ったが、ぺらぺらと喋り続けるすみれは、ちっとも気にしていない。根っから、そういう大雑把な性格なんだろう。艶やかな濃い色の口紅に彩られた唇が、まあよく動くこと。
「あともうひと押しでいける、ってとこまで来てんの。けっこう向こうだってその気になりつつある感じなの。ここまできたら、逃がすって手はないでしょ。そんなに高給取りじゃないけどさ、フツーに稼ぎがありゃ十分。エッチの相性だっていいし」
「ちょっとちょっと」
 露骨なことを言われて、さすがに鈴鹿が慌てて止めに入る。ここには未成年の娘さんがいるんだから、と時子を窺ったが、同じようにソファに座った時子はまったく平然とした顔で話を聞いていて、それはそれでどうなんだと思わずにいられない。もう少しさあ、恥じらうとか頬を赤らめるとかしてみようよ、時子君。
「──つまり」
 ごほんと咳払いなどをしてみる。
「小暮さんは、その相手の男性に、自分が子持ちってことを、まだ言ってないわけだ」
「そーゆーこと」
 あっさりと言って、すみれはあっははと笑った。笑ってから、すぐに口をへの字にした難しい顔になる。
「なのにさあ、今日いきなり電話があって、仕事が休みだから、今からアパートに行っていい? なんて言うのよ。いつもさくらを預ける託児所は夕方から朝までの夜間しかやってないから、あたし焦っちゃってさ。なんだかんだと言い訳したら、『もしかして男と住んでるんじゃないんだろうな』 なんて疑われるし。まいったわよ、まったく」
「……で、この事務所に連れてきた、と?」
「そう。いっぺん利用して、ここのことは知ってたしね。愛想の悪い男はともかく、若い女の子もいるんだから、なんとかなるかと思って。彼にアパートの中を見せて納得させたら、すぐに帰して、さくらを引き取りに来るつもりだったのよ。実際、すぐ来たでしょ」
 すみれの口ぶりは、ちっとも悪びれていない。反省の色もない。そもそも、悪いことをしたという意識はてんからなさそうだ。
「……あのねえ」
 我慢がならなくなって、鈴鹿は思い切り机を叩こうとしたが、寝ているさくらに気づいて寸前でそれを止めた。
「無責任にも、ほどがある! 君のしてることは、子供を置き去りにしたも同然だよ、判ってるのかい!」
 「!」 がついてはいるものの、鈴鹿はこれもさくらを憚って音量を抑えているため、怒鳴り声とは程遠い、ひそひそ声になった。叱っているのに、ちっとも迫力がない。怒鳴ったところで、迫力はないかもしれないが。
 すみれが機嫌悪そうに、「はあー?」 と鈴鹿を睨みあげる。反抗期の子供みたいな目つきに、鈴鹿はますますむっとした。再び、険悪な空気がたちこめる。
「なんでよ。ちゃんと、おたくの事務所の名前を書いておいたでしょ。わざわざ 『様』 までつけてさ」
「一言の事情説明もなく、ビルの入り口に放っておくようなやり方でね」
「事情を説明したら、快く引き受けてくれたわけ?」
「無理に決まってるでしょう。ここは託児所じゃないんだから」
「お金ならちゃんと払うわよ。それでいいんでしょ」
「だからそういう問題じゃないって──」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!!」
 鈴鹿と違い、すみれは遠慮なく怒鳴って、遠慮なく机を平手でぱんっと叩いた。やっぱりというかなんというか、さくらが目を覚まして、うええんと泣きはじめる。すみれはちっと舌打ちしながらクーハンに近づいて、さくらを抱き上げると、よしよしとあやした。
「……しょうがないでしょ、あたし、他に頼る人がいないんだもん。高校の時に家出して、親とは絶縁状態だし、友達もいないし。知り合いはみんな水商売関係だから、この時間、起きてなんていないしさ。さくらを預けるところって、他にどうしても思い浮かばなかったんだ」
 後ろ姿を見せながら、さくらを抱いたすみれが、ぽつりと言った。その背中はいかにも頼りなく心細げで、鈴鹿もぐっと言葉に詰まってしまう。
 世間の荒波の中、若い女性がたった一人で赤ん坊を育てるというのは、どれほどの苦労と困難を伴うことだろう、と思うくらいの想像力は、鈴鹿だって持っている。しかしここで、しょうがないなと許してしまえば、すみれはまた同じ状況に陥った時、きっと同じことをやるだろう。ここではなくても、他のところへ行くかもしれない。どこでもこの事務所と同じような対応をすると思ったら、それは大間違いだ。
「──それで、相手の人はどうしました?」
 今までずっと大人しく話を聞いていた時子が、ふいに口を開いた。すみれが面白くなさそうに口を曲げながら、時子を振り向く。また説教されるのかと身構えているらしい。
「これから用事がある、って言ったら、すんなり帰ったわよ。他に男がいるわけじゃないって判って、安心したんでしょ」
「それはよかったですね。けど、おうちには、赤ちゃん用品がたくさんあるんじゃないですか?」
 時子の口調が朗らかなので、すみれも気を緩めたのか、ちょっと自慢げな顔になった。
「ベビーベッドとか、大層なものがあるわけじゃないからね。オムツやミルクやおもちゃなんて、いくらでも隠しようがあるし。子供がいないように見せるのなんて、チョロイもんよ」
「そうですかー」
 笑いながら返事をした時子は、その顔のまま、
「……で、すみれさんは、そうやって、さくらちゃんも隠したわけですね。お人形を押し入れの中に突っ込んでしまうみたいに、外側から見えなきゃそれでいい、という理屈で」
 と、さらりとした皮肉を言った。
 すみれの顔がまた強張る。聞いていた鈴鹿もさあっと背中が冷えた。それくらい、笑っているのに時子の声は容赦なく冷淡だった。
 鈴鹿はちらっと環を見たが、彼は相変わらず何を考えているのか判らない顔をして、黙って成り行きを見ているだけだ。
「……なんか、イヤな言い方」
 ぼそりと、すみれが言葉を吐きだした。
「別にあたしだって、こんなことをいつまでも続けるつもりはないのよ。男をもっとしっかり捕まえられたら、その時にさくらのことを言おうと思って」
「さくらちゃんのことを打ち明けて、相手の人が逃げようとしたら、どうするんですか? また、ここに連れてきますか? 見えなければいいやって、思いますか? さくらちゃんという存在を、『なかったこと』 にして、恋人と仲良くやることを選びますか?」
 時子は追及の手を緩めない。口調が穏やかな分、鈴鹿の数倍、鋭く胸に突き刺さる。
「……そんな、こと」
 すみれは、喉の奥に何かが詰まったような声を出した。腕の中にいる赤ん坊に視線をやり、それからきっと時子に燃えるような怒りの目を向ける。
「そんなこと、するわけないじゃない! さくらはあたしの子なんだから! なによ……なによ、偉そうなこと言わないでよ。あんたみたいに苦労知らずのお嬢さんに、親の金でぬくぬくと大学に通って遊び半分のバイトなんてしてる子に、なにが判るのよ!」
 なによ、と言いながら、すみれの目から、ぽとりぽとりと涙の粒が落ちる。抱いているさくらの顔に水滴がかかって、さくらが訝しげな顔でちいさな手を伸ばした。
 これ、なんだろう、というように。
 それを見て、時子が、ふ、と表情を和ませる。
「そうです。私には大事な家族がいて、素敵な恋人もいて、親のお金で大学に通って、はっきり言って生活費の足しにもならないような低賃金のバイトをしているだけのお嬢さんです。だから、すみれさんの苦労は判りません」
「……喧嘩を売ってんの?」
 堂々と言い切る時子に、眉を上げたすみれが涙声で文句を言ったが、「──けど」 という時子の言葉に、口を噤んだ。なんとなく、すみれでさえそうせざるを得ない響きが、そこにはあった。
「ちょっとだけ、判ることもあります」
 小さな声で呟いて、時子がソファから腰を上げ、すみれの方へと近づいた。もうすっかり泣き止んで、安心しきった顔で母親に抱かれているさくらの頬を、指先でわずかに撫でる。
「……さくらちゃんは間違いなくここにいる、ってことです。別に、何がなんでも子供を第一に考えろ、ってことじゃないんです。第一に考えるのは自分、それでいいんです。でも──」
 でも、と、時子は静かに続けた。
「ここにいます。傍にいます。さくらちゃんは、すみれさんのことが好きです。大好きなんです。忘れないであげてください。いないことにしてしまわないでください。見えないもの扱いにはしないでください。……お願いですから」

 あの頃、時子はただ、それだけを言いたかった。
 ──けれどそれは、母には伝わらなかった。
 だから時子は、どうしても言わずにいられない。まだ言葉を話せないさくらの代わりに。
 ここにいる。
 傍にいる。
 大好きなの。
 お願いだから……忘れないで。

「…………」
 環は黙ったまま、時子を見つめている。
 すみれも、ずずっと鼻をすすりながら、時子の顔を正面からまじまじと眺めた。何かを言いかけ、口を閉じる。
 それからごしごしと涙を拭ったため、マスカラが取れて、目の周りが真っ黒になった。
「……あたし、ね」
 しばらくして、ぽとりと落とした声音は、何ひとつ虚勢の混じらない、彼女の素直なものだった。
「あたし、そりゃ苦労はいっぱいあるし、毎日大変だし、仕事とかで嫌なことも多いんだけどさ……さくらを産まなきゃよかった、って思ったことは一度もないんだよ。さくらに救われたことも、数えられないくらい、あるんだよ」
「──そうですか」
 すみれの言葉に、時子が微笑んだ。どこか嬉しそうに、やわらかく。だからすみれも、ほっと安心したのかもしれない。へへ、と化粧の崩れた顔で、少し笑った。
「……彼氏に、さくらのこと、話してみるよ。そんで逃げていくような甲斐性なしは、こっちからお断りだ、って言ってやる」
 逞しい宣言に、思わず鈴鹿が拍手をする。すみれがまた照れくさそうに笑って、そういう顔をすると、彼女は年齢相応の可愛い顔立ちをしていることが判った。
「困ったことがあったら、電話してください。私たち、いつでも駆けつけます」
 時子がそう言うと、すみれはパチパチと瞬きをした。
「……助けてくれるの?」
「割安価格で」
「なによ、商売なの?!」
「 『リンリン参上、あなたの街のスズカ便利屋』 ですから」
 なにそれ、だっせえー、とすみれは大笑いした。鈴鹿がぐっさりと傷ついた顔をする。時子も声を立てて笑い、環も少しだけ口元を綻ばせた。
 すみれの腕の中で、さくらが笑顔になっていた。


          ***


 その日、たまたま事務所に立ち寄った桂馬は、一連の経緯を聞いて、ええーっ、と大げさにのけぞって仰天した。
「なにそれ! なんでその流れで、おれの子だ、っていう結論がすんなりと導き出されちゃうのか、意味が判んないんだけど!」
 あらぬ濡れ衣を着せられたことに憤慨する桂馬に、もちろん三人の反応は冷たい。
「いやー僕もさあ、桂馬君の子にしては可愛すぎるな、って思ったんだよね」
「鼻のあたりが似てる、とか言ってませんでしたっけ」
「さくらちゃんのためにも、こんな人が父親でなくてよかったですよ」
 一方的に桂馬が父親だと決めつけたくせに、全員揃って勝手なことを言っている。
 ちぇっとむくれながら、桂馬は性懲りもなく、いそいそと時子に近寄った。
「でも、おれと時子ちゃんの子だったら、見てみたいかなー。ねえ、時子ちゃん、おれと、子供が出来るようなこと、してみない?」
「地球滅亡の日が来ても、そんな下品な口説き文句を吐くような人とはしません」
「こらっ、時子君、女の子が 『しません』 とか言っちゃダメ!」
「所長、一度こいつを再起不能にしてやっていいですか」
「いやいや、駄目だよ、不破君。そういうことは業務時間外に、事務所とは離れたところでやってもらわないと」
「ツッコミどころが違うよ、おじさん!」
「そうよ環君、だめよ、そういうことは黙ってこっそりとやらなきゃ」
「ところで桂馬君、電話が通じない間、どこで何してたの?」
「……。いやだなあ、仕事に決まってるじゃん」
「今、明らかに不自然な間があったよな」
「なーんだ、そういうことだったんですか、緒方さん。やっぱりサイテーです」
「え、なに、ヤキモチやいてんの? 時子ちゃん」
「は? お餅がどうかしましたか。私は醤油をつけて海苔を巻いて食べる派ですけど」
 いつもと同じようなくだらない遣り取りをして、いつもと同じように時間が過ぎていく。
 時子は、いつもと変わらない。



          ***


 さくらを抱いて帰る間際、すみれが環にだけ、こそっと耳打ちした。
 ねえ、あんた、あの子の彼氏だよね? と確認して。
 かすかに眉を寄せ、心配そうに言った。

 あんた、あの子のこと、大事にしてやりなよね。
 なるべく、目を離さないようにしてあげなよね。
 あの子さ……あの子、よく判んないけど、なんかちょっと。
 ちょっと──


 時子の心の奥にある何か。彼女の中にある混沌の闇。
 もしかしたら、時子本人も、気づいていないのかもしれない。自覚がないのかもしれない。
 それくらい、それは深い深い場所に、ひっそりと潜んでいる。ほんの時々、ちらりと顔を覗かせ、けれど誰からの干渉も受けつけず、手を伸ばされることも拒絶して。
 なあ、トキ、と環は心の中で思う。
 俺はいつか、その正体を突き止めてやれるかな。
 お前の心の中に、踏み込んでいく決心をつけられるかな。
 人が、人を、判ること。いろいろなことを、共有し、分かち合うこと。
 ──俺は、それを信じることが出来るかな。



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