猫の手貸します

case10:説得

once upon a time(2)




「…………」
 環は立ったまま、口元を引き結んで、一言も発しない。
「お願いします」
 下げていた頭を再び上げて、桐子は環を見つめて同じ言葉を繰り返した。だが、その目つきは、人に何かを頼むそれではない。まるで叩きつけるように強いものだった。
 二人はほとんど睨み合うように視線を交錯させていた。緊張でぴんと張りつめた空気に、真っ先にネを上げたのは、もちろんその中央に位置していた鈴鹿だ。
「──まあ、ちょっと、待ってください」
 溜め息交じりに手を挙げる。情けないくらい間延びした声に、やっと我に返ったように、環が自分の椅子に腰を下ろした。机の上に手を伸ばし、火を点けないまま煙草を口に咥える。咥える、というより、突っ込む、と表現したほうが近いくらいの、ずいぶんと荒々しい動作だった。
 いつも憎たらしいくらいにあまり物事に動じない環だが、時子が絡むと、わりとすぐに平常心を失いがちだ。そのこと、本人は自覚してんのかな、と鈴鹿は内心で呟いた。
「まず最初に申し上げますが、仕事を受けるかどうかは、所長である僕が判断することです」
 鈴鹿はせいぜい威厳をもって釘を刺したが、言いながら、その目がすぐ前の分厚い封筒にちらっと動いてしまったのはご愛嬌である。
「そして、咲月さんが仰ることは、こんな便利屋に依頼するべき内容ではないと思います」
「あら、どうしてです?」
 桐子は環に向けていた顔を、今度は鈴鹿に向けた。眦と口調に、険が滲んでいる。どうしてこの人は、こんなに喧嘩腰なのかなあ、と鈴鹿は不思議に思った。見たところ、もっと理性的な女性であるような雰囲気があるのに、今の彼女は、まるで全身に針を立ててでもいるようだ。
「どうしてって──それは、咲月さんと、ご主人と、時子君の間で、きちんと話し合いをして解決しなければならないことでしょう?」
「それがままならないから、こうして足を運んで依頼をしに参りました」
「肉親が説得して無理なことを、第三者が口を挟んで上手くいくとは思えませんが」
「不破さんは時子さんの恋人と伺いました。でしたらそれは、第三者という立場ではないのではないですか。それに、そんなことを言うのなら──」
 一瞬、躊躇するような間があって、桐子はふいと視線を逸らした。
「……私だって、第三者ということになります。私は咲月聡一の妻ですが、時子さんにとっては赤の他人でしかないんですから」
「それはまた、突き放すような物言いですね」
 鈴鹿は時子の家庭環境をよく知らない。母親が亡くなったということだって、つい最近知ったばかりなのだ。聞いたことだけを繋ぎ合わせて考えてみれば、桐子は時子の父がその後再婚した相手、ということになるのだろう。だから 「赤の他人」 という表現も、確かに間違ってはいないのだろうけれど。
「なのに、あなたは時子君をアメリカに呼び寄せて、一緒に暮らしたいと仰る」
「そうです」
「時子君のお父さんと三人で、家庭を築きたいと」
「ええ」
「でしたらなおさら、あなたのこのやり方は筋が通っていないのでは? 家族になりたいというのでしたら、まず信頼関係を結ぶところから始めなければならないものでしょう。お金を払って便利屋に依頼するようなことではないと思いますが」
「信頼関係?」
 桐子の尖った瞳が、また鈴鹿の方に戻ってきた。口紅で彩られた唇が、ぴりりと引き攣るように上がっている。
「あなたこそ、何か勘違いをなさっているのではありませんか。私は、時子さんと信頼関係を持つことなんて、はじめから求めてはおりません」
 きっぱりと言いきられ、鈴鹿は当惑してしまう。
「え、でも──」
 言いかけると、それを遮るようにして、桐子が強い口調で言った。
「だって、そんなことは、不可能なんですから。あの子の母親を死に追いやったのは、まぎれもなく私です。時子さんがこの世でいちばん憎んでいる人間がいるとしたら、それは私です。そんな相手を、どうしたら信じられると言うんです?」
 鈴鹿の後ろで、環が舌打ちするのが聞こえた。


          ***


「──トキは、別に誰も憎んでなんかいない」
 環は口から煙草を外すと、近くの灰皿に力任せに押し付けた。火も点いていない煙草が、くにゃりと曲がって潰される。
「そんなわけ、ないでしょう」
 桐子がまた環に真っ向から視線をぶつけて答えた。唇が奇妙な形に歪んだままだ。狭い事務所内に、ビリビリ震えるような険悪なものが立ち込めて、鈴鹿が怯えるように口を噤んだ。
 だって、と静寂の中に、桐子の刺々しい声が続く。
 強張った表情で、彼女はまるで胸の中のものを吐き出すようにして、一気に言った。
「あの子は、一番近くですべてを見ていたんですから。母親から、散々私のことを聞かされてもいたはずです。あの性悪女が自分の夫をたぶらかしたんだとね。悪いのは全部、あの女だと。自分を裏切って、夫を寝取って、奪い去ったと。私は読んでいませんけど、許さない、絶対許さないと、何度も遺書に書いてあったそうじゃないですか。あなただって、時子さんの口からそれを聞かされているんでしょう? あの女が、自分たちの幸せをぶち壊したって」
「……やめろ」
「そりゃあ、恨んでも恨みきれないでしょうよ。母親が線路に飛び降りた時、その知らせを最初に受け取ったのも、誰よりも先に駆けつけて、ぺっちゃんこに潰れた遺体に対面したのも、あの子なんですから。その時、あの子の父親は私のマンションに──」
「やめろ!」
 何かに急かされるように、立て続けの早口で出され続けた言葉は、環の怒鳴り声にぴたりと止まった。固い顔は環に向けられたまま動きはしなかったが、一文字に結ばれた唇と、膝に乗せられた彼女の手が、小刻みに震えていた。
「…………」
 それを見て、環の中の凶暴なものがすうっと静まる。
 やっと、判った。

 ──この人も、苦しんでいるんだ。

 きっと、ずっと、苦しみ続けている。ここに現れた時から、桐子が怒りのようなものを浮かべていたのは、多分、それ以外の感情をどうやって持てばいいのか、判らなかったからだ。
 今になってそんなことに気がつくなんて、自分も相当動揺している。
「……トキは、俺にそんなことを一言だって言ったことはありません」
 次に自分の口から出てきたのは、いつもと変わりない声だった。鈴鹿があからさまにホッとした顔になって、環自身も安堵する。このとぼけた存在に救われる気持ちになるとは、今まで想像したこともなかった。
「聞いたのは、トキの祖母からです。──このことは、知っておいてもらった方がいいと思うから、と」
「…………」
 桐子は、ああ……と納得したように頷いて、それから、目を伏せた。
 時子の母の学生時代からの親友だったという桐子は、こんなことになるもっと昔から、その人のことを知っているのだろう。おっとりとして、愛情深いその性質も。
 現在、うな垂れる桐子の胸の中に去来しているのは、懐かしさなのか、申し訳なさなのか、それともまったく違う何かなのか。
「……あの人も、私のことを恨んでいるでしょうね」
 ぽつりと言った。
「恨み言を聞かせるために、俺にトキの事情を話してくれたと思ってるのなら、それは全然違います」
 環の言葉に、桐子が怪訝そうに顔を上げる。
 それを正面から見返して、環は自分の腹に力を入れた。
「──そういう事情で、いつか、トキが納得できる時期が来たら、自分の許から離すつもりだって、そう言ったんです。その時、あいつは日本を出て、父親のところに行くことになるだろう、って。……だから」
 だから、不破さんにも、そのつもりでいて欲しいんです、と時子の祖母は言った。
 そして、ごめんなさい、と本当に申し訳なさそうに、環に対して謝った。
 環と祖母の間でそういう会話が交わされていたことを、時子は知らない。
 知らない……はずだ。


「父親のところに……私たちのところに、ということですか」
 桐子は目を大きく開いて、確認するように言った。アメリカへ呼び寄せる、と言っていたのは彼女自身なのに、聞かされた内容に、誰より困惑しているように見える。
「そうです」
「……どうして」
 環に問うというよりは、呟くような言い方だった。
「じゃあ訊きますけど、あなたは、どうしてトキと一緒に暮らしたいと望んでいるんです?」
「それは……それは、そのほうが、きっと、あの子にとっていいだろうと思って」
 答える声からは、さっきまでの勢いはまったく失せていた。ためらうようにそう言ってから、きゅっと口を結び、決然と目を上げる。
「いいえ、違います。正直に言えば、夫のためです。あの死からずっと、自分を責め続けて、苦しみ続けている彼のために、私は時子さんをあちらに連れて行きたいんです。私のことは恨んでも憎んでも構わない。けれど、父親のことは──聡一のことは、許してやってほしいんです」
 そりゃまた身勝手な言い分ですね、という鈴鹿の小さな声にも、桐子の瞳は揺らがなかった。
 悩んだり、迷ったりはもう今までし尽くしてきたのだろう。そして決心してここまでやってきたのだから、嫌味の一つくらい、桐子だって覚悟していただろう。けれど、その決心や覚悟はすべて、彼女の愛する夫のため──つまりは、自分のためということだ。
 一人の女性の死が、彼らにとっても重くなかったはずがない。どれだけ愛し合っていたとしたって、彼女も、時子の父親も、少しもぎくしゃくせずに新しい生活を送っていくことなんて、不可能だ。
 夫のために、自分のために、桐子は時子を手元に引き取りたいと言う。ちょっとでも、自分たちの罪悪感から逃れるために。時子のことを考えてのことじゃない。桐子はそれを、隠しもしない。
 自分、自分、自分。
 またそれだ。さすがにうんざりだ。
 鈴鹿が憤然とした表情をしているのは、時子のために、そして時子の代わりに、怒っているからだ。今ここに、時子のために怒ってくれる人間がいる、という事実を、環は素直に嬉しいと思う。
「トキは誰も恨んでなんかいない、って俺はさっきも言いました」
 だって知ってるから、と時子がここにいたら言うだろう。

 人の気持ちが変わるということも。
 何をしても去っていくものは止められないということも。
 永遠なんて、世界には存在しないということも。

 時子はそれを知っているし、しょうがないことだと諦めてもいる。恨んだり、憎んだりするようなことじゃないと、悲しいほどに達観している。
 ──ただ、ひっそりと一人で痛みを抱えるだけ。
「トキの祖母もです。あの二人は、よく似てるから」
「……どうして、あの人は時子さんを手離そうとしているんでしょう。昔から、とても孫を可愛がっていたお祖母さんだったはずなのに」
 だった、んじゃない。今だって、変わらず孫を可愛がっている。誰よりも。なによりも。
 だからこそ。
「──トキに、もう、人の死ってやつを、見せたくないんだそうです」
「え」
 環の言葉に、桐子はぽかんと口を開けた。まったく意味が判っていないその様子に、環の中で再び苛立ちが頭をもたげる。
 どうして、判らないんだろう。
 時子のことを、少しでも理解してやろうって気持ちは、あんた達にはないのか。
「年齢が年齢だし、そう遠くないうちに自分は死ぬだろうから、その時にまたトキに 『残される悲しみ』 を味わわせたくはない、そうです。そうなる前に手離して、父親の許に返した方がいいだろうって」
 時子のかけがえのない、今となってはたった一人だけの家族。
 どれほど、時子が祖母のことを愛しているか知っている。そして同時に、時子がその存在を失うのを怖れているのかも、知っている。だからなおさら、再びその死に立ち会わせることはしないと、彼女は決めたのだ。
「…………」
「あの人は、本当にトキのことを大切に思ってる」
 付け加えた一言を皮肉と受け取ったのか、いや、そのつもりで環は言ったのだから無理もないのだが、桐子は下唇を噛みしめ、目線を落とした。
 それからまた顔を上げ、環を見る。その瞳には、少し不審げなものが混じっていた。
「不破さんは、それでいいんですか」
「それで、って」
「お祖母さんは、いずれ時子さんを手離すつもりでいる。そうなれば、時子さんはきっと、アメリカに来ることになるでしょう。あなたとも、離れることになる。あなたはそれで、いいんですか」
「…………。俺のことは、関係ないです」
「関係ない、んですか」
「…………」
 それ以上環に応える意思がないことを見て取ったのか、桐子はもう質問を重ねてしてくることはなかった。
 じっと自分の前に置いた封筒を見つめ、しばらくの逡巡の後で、それをまた自分のバッグにしまい込む。
「……少し、考えてみます。私がここに来たことは、時子さんには黙っていていただけますか」
「言いませんよ」
 返事をしたのは環ではなく鈴鹿だった。それはいいのだが、鈴鹿の顔は桐子ではなく、環に向けられている。呆れるような憐れむような、なんとも言えない複雑な目の色が、正直、ちょっと鬱陶しい。
「私、明日までは日本におります。何かあったら、この番号に」
 と言って、桐子は名刺を出した。受け取ったのは鈴鹿だし、環は見る気もなかったが、そこには多分、時子の父親の会社の名前や、彼女の携帯の番号が載っているのだろう。
 それでは、と頭を下げて、桐子は静かに事務所を出て行った。
 環はもう一本煙草を箱から出して、今度こそ火を点けて口元に押し込んだ。




 ──むかしむかし。
 あるところに、幸福な一家がありました。
 穏やかで優しい父と、家族思いの母と、明るく真っ直ぐな一人娘と。
 そこには、たくさんの愛情が溢れておりました。
 笑顔の絶えない、とても、とても、幸せな家族だったのです。

 ……昔は。



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