猫の手貸します

case10:説得

once upon a time(3)




「おっはよーございまーす!」
 午後になって、お馴染みの元気の良さで事務所のドアを全開にして、時子が姿を見せた。
「あ、おはよう、時子君」
 普段なら、その乱暴さと紙一重の活発さに、一つくらいはお小言をこぼす鈴鹿は、今日は静かにそれだけを口にして、すぐにまた自分のデスクに目を戻してしまった。一応ペンを持って、何かを書いているような仕草をしているものの、実際はほとんど目にも頭にも入っていないのだろう。まあ、本当に何かをしていたところで、どうせ実のないことをしているに決まっているのだから、業務上、特に問題はないし何の変わりもないからいいのだが。
 ……いいのだが、よくないのは、それが時子からも丸わかりだ、という点なのである。
「どうかしましたか、所長」
 怪訝そうに時子に訊ねられ、鈴鹿はびくっと顔を上げた。その顔には、「狼狽」 という文字が黒々と書いてあるみたいだった。
「ど、どうかって、どうもしないよ、別に。ははは、いやだな、なに言ってんのかなまったくもう時子君は」
「…………」
 時子は口を噤み、環は深く溜め息をつく。鈴鹿に隠し事が出来るとは、環もあんまり思ってはいなかったが、それにしたってここまで酷いとは。甘かった。ある意味、鈴鹿を見くびっていた。
 時子は目を眇め、ふーん……といった表情で、事務所内を見回した。その視線はぐるりと廻った後で環にも向けられたが、ちょっと考えてから、また鈴鹿へと戻された。その無表情を見て、環も 「共犯」 と察したらしい。そして環と鈴鹿とでは、格段に鈴鹿の方がオトシやすい、と判断したらしい。女というのはこういう時、冷酷なほど正確に状況を見て取ることに長けている。
「午前中に、お客さんが来たんですか?」
 ずばりと言われて、鈴鹿は口の中で、ぎゃっ、と小さな悲鳴を上げた。
「い、いいいいや、えーと、来たっていえば来たし、来てないっていえば」
「来たんですね」
「……うん」
 おろおろと誤魔化そうとしていた鈴鹿は、ぴしゃりと時子に確認されて、結局は身を縮めて肯定した。時子が少し眉を上げて、腕を組む。
「なんなんですか、もう。言っておきますけど、また代理恋人とかの依頼だったら、お断りですよ?」
「う、うん。いや、そういうことじゃないから」
「そういうことじゃなかったら、なんなんですか」
「……う、うーん」
 時子に問い詰められて、鈴鹿はだらだらと汗をかきながら返事に窮している。ちらっと縋るような目が飛んできたが、環は明後日の方向に顔を向けた。ここで環が余計な助け舟を出せば、却って時子の不審を増大させる。あらゆる部分でいい加減な鈴鹿だが、「言わない」 と桐子に対して答えた以上、その約束くらいは守るだろう、という思いもあった。
「えっと、えっと……あのね」
 散々うろうろと目を泳がせて言い淀んでから、鈴鹿は観念したのか、とうとうぱっと顔を上げて時子を見返した。
「うん、お客さんは、来たんだよ」
 精一杯毅然とした口調でそう言って、
「けど、その詳細についてはヒミツです! 以上!」
 と、ヤケクソのように一気に言いきった。
「あっ、開き直った!」
 時子が目を丸くして、感嘆するような声を出す。それからすぐに、呆れた表情になった。
「ヒミツって、若い女の子でもあるまいし。所長くらいのトシの男の人が口にするような単語じゃないでしょ。ちょっと気持ち悪いんですけど」
 同感だ。
「君ね、そういうことは面と向かって言うもんじゃないから。とにかくこの件については僕は何も言わない。質問にも一切答えない。これ以上の追及はお断り。ノーコメント!」
「そんな密会をスクープされた芸能人みたいなこと言って……」
 よく判らない喩えを持ち出して時子は唇を尖らせたが、特に怒っているようではなかった。
 少し考えるような顔をしてから、
「そうですか。じゃあ、まあ、いいです」
 すんなり諦めて、くるりと身を翻し、そのまま物置へと向かう。
「あ……あ、うん、そう?」
 これ以上なくヘタクソな誤魔化しかたをした鈴鹿は、自分自身でも多少はその自覚があったらしい。時子の態度に明らかに拍子抜けして、こころもち身体を前のめりにさせながら、目を瞬いて曖昧な返事をした。
 時子が、掃除掃除〜、今日も楽しいモップがけ〜、と何が原曲なのかも不明な鼻歌を口ずさみながら環の前を通り過ぎる。
「…………」
 環は無言で、その姿をじっと目で追った。
「トキ」
 声をかけたら、時子がぴたりと口を閉じ、こちらを振り向いた。
 そのまま、何も言わずに環を見つめている。
 環はその顔を見て、ああそうだ、と、自分の迂闊さに舌打ちしそうになった。
 もっと早く気づいていて然るべきだったんだ。
 普通に考えて、桐子が今回日本に帰ってきてから、時子に一切のコンタクトを取らずに、いきなりこの事務所を訪れるなんてこと、あるわけがないじゃないか。
「──誰が来たか、判ってるんだろ?」
 え、と驚いた声を出したのは鈴鹿だった。目と口を丸く開けて、ぽかんと環を見ている。
「…………」
 しばらく黙って環の顔を見ていた時子は、ふいに、口元を微かに緩めた。
 そして、ちょっとだけ困ったように笑い、
「やっぱり、お客さんって、桐子さんだったんだ?」
 と言った。


          ***


「ええっ?!」
 と鈴鹿が驚愕の叫びを上げた。
「どどど、どうして? 時子君、最初から判ってたの?!」
「はあ、実は私には読心術の心得が」
「ウソでしょ? ウソだよね? やめてくれる? この状況でそういう冗談言うの」
「本当のところはまあ、途中から、なんとなくそうじゃないのかなーって」
「な、なんとなく? どういうところから、なんとなく?」
「ですから、所長の表情とか、所長の態度とか、所長の言葉とかで」
「ええー、そうなの?!」
「そんな風に本気で驚くところが、どっちかっていうと驚きです」
「僕、そんなに顔に出ちゃうのかな」
「断言しますが、所長の場合、浮気でもしたら奥様に百発百中でバレますから、やめたほうがいいですよ」
「…………」
 しゅんとうな垂れる鈴鹿に、時子は軽く噴き出した。
「ていうか、昨日、桐子さんから電話があったんです。もしかしたら、いずれ父か桐子さんが、ここに来るんじゃないかなとも予想してました。ここでバイトしてることも、ここに環君っていう恋人がいることも、知ってますしね。おばあちゃんがいるから家には来ないだろうし、大学は広くて見つけにくいだろうから、来るとしたらこの事務所かなあって。ただ、私がいない時に来るっていうのは、ちょっと想定外だったんですけど」
「そ、そう」
 はあ〜……と長い息を吐き出して、鈴鹿はぐったりとデスクに突っ伏した。桐子がぶちまけた時子の 「家庭の事情」 に、鈴鹿は鈴鹿でいろいろと思うところもあったのだろうが、あまりにも時子がさばさばと言うので、どっと疲労が押し寄せてきたようだ。過程はともかく、鈴鹿は結局何も言わなかったわけだから、約束違反をしたことにもならない。
「で、桐子さんはなんて?」
「……あー、うん、それはね……」
 鈴鹿がごにょごにょと言葉を濁しながら、環の方を見る。ずっと口を結んだまま時子と鈴鹿の馬鹿馬鹿しい遣り取りを見ていた環は、ここでようやく深い溜め息をついて、再び口を開いた。この二人が会話を始めると、深刻な場面がちっとも深刻にならないのは、どうしてなのだろう。
「……お前がアメリカに行くように説得してくれ、って」
「うん、やっぱりね」
 時子は大人びた仕草で頭上を仰ぎ、苦笑めいたものを漏らした。環は指で、机の上をとんと叩く。
「恋人として、でなければ、仕事として、説得してくれって言ってた」
「仕事として?」
 時子は興味深そうに目をくりくりとさせて、ふうん、と笑った。
「面白いこと言うわね、桐子さん。……それで、その依頼を受けたんですか、所長」
「とんでもない」
 鈴鹿が慌てて手を振って否定する。環はもう一度、指で机を叩いた。
「──もし、所長がこの依頼を受けていて、俺がお前に 『アメリカに行け』 って言ったら、どうする?」
「行かない」
 時子の返事は素早く、しかも簡潔だった。それは私が決めることだから、と続けられた言葉に、環は沈黙する。
「けど、桐子さんが思ってるような理由じゃないんだよ。一度壊れてしまったものをまた元通りにすることは出来ない、って確かに私は思ってるけど、だからって、桐子さんやお父さんの顔も見たくないとか、口もききたくない、なんて思ってるわけじゃないの。あっちに行かないのは、二人と一緒に暮らすのを嫌がってるってことじゃなくて、こっちにいたいからだって、毎回きちんとそう伝えてるつもり」
 そこでふと、時子は笑みを引っ込め、目を伏せた。
 でもね──と言葉を継ぐ。
「でも、何度もそう言ってるのに、判ってもらえない。……私の声が、気持ちが、あの人たちには、どうしても届かない」
 ぽとりと言葉を落とした。
「……そうか」
 ──恨んでいないなんて、そんなわけがない、と。
 頑なに態度を硬化させていた桐子の姿を思い出し、環もまた、目線を下に向けて頷く。
 それは多分、それだけ桐子と時子の父親の罪の意識が深い、ということなのかもしれない。恨まれて憎まれて当然だという思いがあるから、時子の言葉を素直に受け取ることが出来ないのかもしれない。遺書にあった呪詛のような言葉に縛られて、許されないと決めつけているのは、きっと、彼ら自身だ。
 いや、もっと皮肉な見方をするのなら。
 そのほうが彼らにとって、楽だから、なんじゃないか。どんなに苦しくても、もう死んでしまった人間には、謝罪も、償いも、反論も出来ない。だからあの二人は、時子に向かってそれをしたいのだ。そうして、許しを得たがっている。もとの妻の代わり、失った親友の代わりに。
 勝手な話だ。時子は時子、他の誰でもないっていうのに。謝罪も償いも反論も、時子は望んではいないのに。
 ここにいたいと言う時子。
 それを拒絶だと思う桐子。
 どうしても届かない。どうしても、判り合えない。
 環はそれを知っているつもりだったけれど、こんなにも哀しいと思ったことはなかった。
「あのね、環君」
 ほとんど無意識に煙草に伸ばそうとしていた手は、時子の声で動きを止めた。目を上げると、時子がまた、「大人みたいな子供みたいな顔」 をして、こっちを見つめていた。
「私の名前ね、桐子さんの名前から付けてるんだよ。ずっと大好きなお友達だから、大きくなったらああいう女の人になるように、って、お母さんが」

 ……まだまだ、幸福だった頃。
 時子の母と、桐子が、いちばんの親友だと身を寄せ合って屈託なく笑い合っていた頃。
 あなたみたいになるように、と生まれた娘に大事な人の名前から文字を取った。
 「とうこ」 と、「ときこ」。

「ちっちゃい頃から、桐子さんは私を可愛がってくれてたよ。家に来る時はたくさんオモチャを買ってきてくれて、お母さんに注意されたりね。一緒に遊んだり、ご飯を食べたり、頬っぺたをくっつけて、おんなじ布団で眠ったこともある。桐子さんは綺麗で、優しくて、ちょっとだけ抜けてて……私、ずっと、桐子さんのことが、大好きだった」
「…………」
「桐子さんも、私のこと、大好きだって言ってた」
 昔はね。
 そう呟く時子の瞳には、真っ暗な闇と、強靭な光が共存していた。どちらかがどちらかを打ち負かすのではなく、「どちらもある」 のだ。
 ──だから、そこには混沌が広がっている。
「あ」
 打って変って、時子が上げた声は、非常に素っ頓狂なものだ。
 さっきから変な音が漏れ聞こえてくると思ったら、それは鈴鹿の押し殺した嗚咽だったらしい。いつの間にか、鈴鹿は自分のデスクでぐしゅぐしゅと鼻を鳴らして、泣き出していた。とても四十を過ぎた男の姿とは思えない。
 もー、めんどくさい、と時子が率直な感想を口にして、そちらに寄っていく。
「ちょっと所長、涙もろいのもほどほどにしてくださいよ。もういい中年なんですから。ね?」
「だ、だってさ、時子君……だって」
「そんな顔で、お客さんが来たらどうするんです。ほら、これで拭いて」
 ずずーっと鼻を啜りながら、鈴鹿は涙目で差し出されたものを受け取った。
「……時子君、これ、ゾーキン」
「気にしないでください」
「気にするよ!」
 いつもの賑やかな成り行きになっていくのを眺めながら、環は少し迷ってから、手に取った煙草の紙箱を、また机の上へと戻す。
(……明日までは日本にいるって言ってたっけ)
 あとで、鈴鹿から名刺を見せてもらおう、と考えた。



          ***


 ──ずっと以前から、環はその人を、「逢坂さん」 と呼んでいる。
 明るくて、とてもおっとりとして、穏やかで優しく、そしてなにより、非常に愛情深い人だ。
 孫娘本人から、過保護だ、と言われるほどに。

 その人の口から、いずれ時子はアメリカに行くことになる、だからあなたもそのつもりでいて欲しい、と顔を伏せて言われた時、環は返事を迷わなかった。
 ……わかりました、とはっきりとそう了承した。
 その時は必ず、俺もあいつの手を離します、と。
 驚きがなかったわけではないし、痛みがなかったわけでもない。けれどその時、環は結論を出すのに、躊躇しなかった。
 逢坂さんは、いつでも時子のことを第一に考えている。大事にして、慈しんでいる。誰よりも。多分、亡くなった母よりも、父よりも──環よりも。
 その彼女の出した答えがそれであるのなら、きっと時子にとって、いちばん正しいことなのだろう、と思った。その考え方に反論する根拠を、環は持っていない。
 今までずっと、根無し草みたいにふらふらと生きてきた。他の誰かを信じたことも、愛したこともなかった。この世のすべては、ほとんど環の興味を引かないものばかりだった。
 ……当たり前だ、自分自身に対してさえ、興味がなかったんだから。
 環が引いた境界から踏み込んでくる人間は、いつも容赦なく切り捨てていた。他人を傷つけても、なんとも思わなかった。関心のないことには、とことんまで冷淡になれた。環は 「人間の欠陥品」 だ。それを自分が何より承知している。こんな自分の傍にいるより、いつか離れる方が、時子にとっても幸せなことなんだろう、と。
 家族三人で暮らしていた頃の時子の家庭はかなり裕福なほうであったらしい。アメリカにいる父は、現在も仕事で成功している人物なのだという。そこにいけば、いくらでも未来が選べる。開放的な広い場所で、明るい光の中で、前を向いて笑っているのが時子には似合う──そう、思った。
 鈴鹿の言うとおり。環はずっと、「続ける」 ことよりも 「終わる」 ことを念頭に置いて、時子と付き合ってきたのだ。気持ちを言葉に変換して形にすることを避け続けてきたのも、そのためだ。いつかその時が来るまではと、自分からは手離すことも出来ないまま、我ながらその狡さに時々うんざりして。
 でも。

 ──でも、それは本当に、「正しい」 ことなのかな、逢坂さん。

 環はよく判らなくなってきている。今になって、揺れはじめている。
 それはあるいは、桐子や時子の父と、同じなんじゃないだろうか。時子にとっての幸福は時子にしか決められないのに、環と逢坂さんの身勝手な考えを、時子に押し付けてるってことじゃないのだろうか。
 壊れたものはもう元には戻らない。それなのに、自分たちは築く努力をはじめから放棄して、壊れることばかり考えてしまっていたんじゃないのだろうか。
 人と人は判り合えない──かもしれない。でも、そうじゃないのかもしれない。
 可能性が少しでもあるのなら。
 ……それを信じてみてもいいんじゃないか、と、環は思いはじめている。



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