猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(1)




 午後三時過ぎ、その電話はかかってきた。

「あれ、時子君?」
 受話器を耳に当てて言った鈴鹿の素っ頓狂な声に、自分の机にいた環は顔を向けた。
「今日? うん、そりゃ構わないけど。どうかしたのかい? ……ああ、うん、判った。はい、それじゃあね。えっと、不破く」
 不破君に代わろうか、と、鈴鹿としては気を遣ったつもりで、問いかけようとしたのだろう。しかし、それを言い終わる前に、電話は切れてしまったらしい。少し怪訝な面持ちで、鈴鹿は受話器を置いた。
 それから、くるりと環の方を振り向き、
「時子君、今日お休みだって」
 と、業務連絡のように言う。
 そうですか、と答えて、口を噤んだのは、当然鈴鹿の言葉に続くものがあるのだろうと思ったためなのだが、一拍の沈黙の後で、鈴鹿は困ったような顔で首を傾げた。
「何かあったのかな?」
 なんで、それを環に向かって訊ねるのだ?
「今の電話はトキ本人からだったんですよね?」
「うん、そうだけど」
「休むにあたっての理由を言いませんでしたか」
 大体、鈴鹿は今の電話で、それを問いかけて、判った、とも答えていたはずではないか。
「いやなんかさ、『すみません、ちょっと』 としか、言わないんだよね。だから僕も、それ以上聞いたらいけないのかなあと思って」
 一応雇用主という立場であるというのに、鈴鹿の腰は思いきり引けている。なんでかと思ったら、
「……ホラあのさ、女の子だから、いろいろと体調のすぐれない時もあるだろうし」
 とぼそぼそ恥ずかしそうに言うので合点がいった。つまりこれは、ちゃんとした会社などでいうところの、「生理休暇」 なんじゃないか、と鈴鹿は考えているわけだ。
「…………」
 いいトシをした鈴鹿の羞恥心は見ていてあまり気持ちのいいもんじゃない、とか、よりにもよって時子に対してそういった想像をされると驚くくらい腹が立つもんだな、とか、そういうことはさておき、環はわずかに首を捻る。
 もちろん口に出して言ったりはしないが、時子はいつも、月に一度のその痛みはほとんどない方である。さらに言うなら、一週間ほど前にそれはもう終わっている、はずだ。いやもちろん、そんなことは口に出して言ったりはしないけれど。
 じゃあなんで、そんな風に言葉を濁す必要があるのか、というところが判らないので、環も首を捻るしかないのだった。時子のバイトは、原則、定休日である水曜以外すべて、ということになっているのだが、家や大学のほうで用事などがあると、その都度休みを取ることはままある。そんな時、いつもならハッキリその旨を鈴鹿に告げて、休みます、という了承を取っていた。時子が休む理由を曖昧にすることなんて今までになかったから、鈴鹿も余計な気を廻してしまうのだろう。
 ……何か、あったのかな。
 思いながら、ちらりと机の上に放り出してある自分の携帯に目をやってみたが、それはまったくなんの反応も示さずじっと黙ったままだ。
 何か突発的な予定でも入ったのなら、環にメールなり電話なりしてきそうなものなのだが。もしかして、本当に体調でも崩して、そんな元気もない、ということなんだろうか。
 そこまで考えて、思いついた。そもそも、時子は自分が病気になったりすると、それを環に対して伝える、ということをしない。いや、もっと露骨に言ってしまえば、隠す、のである。付き合いはじめた頃から、ずっと、そうだった。
 軽い風邪でも、ひどい時にはインフルエンザで高熱を出していても、「ちょっと忙しくて、しばらく会えないみたい」 としれっとした声で電話をかけてきたりしていた。騙される自分もバカなのかもしれないが、環がその事実を知ったのは、時子と深い仲になって、かなりしばらく経ってからのことだ。
 そして、それは決して、「心配をかけたくないから」 などという殊勝な理由からじゃない、ということに気づくのにも、随分時間がかかった。

 ──時子はそれだけ、誰にも弱味を見せたがらない、ということなのだと。

 環にも、友人たちにも、あるいは祖母に対してもそうなのかもしれない。時子は具合が悪くなると自分の部屋にこもってしまって、ほとんど看病もさせてもらえない、と以前に時子の祖母が嘆くように言うのを、環は聞いたことがある。
 今回もそのパターンなのか、と携帯を見ながら思った。
 だったら、帰りに家に寄って様子を見てみようか。いやしかし、そうすると、たとえば熱があったとしてもなんでもない顔で外に出てきそうだな。じゃあ却って行かない方がいいのかな、とぐるぐる悩んでしまう。
 ……まあ、その悩みは、結局、
「やっほー、時子ちゃん、いるー?!」
 という、脳天を突き破るような軽薄で無神経な大声に、強制的に中断させられたわけなのだけれども。
 環が、こいつホントに殺したい、と思ってしまうのはこんな時だ。


「ええー、休みー?」
 鈴鹿の言葉を聞いて、スーツ姿の桂馬は、表情と態度で目一杯不満を表明した。
「せっかく来たのにー」
 予告もせずに突然押しかけておいて、まるで裏切られたとでも言わんばかりの、その被害者ヅラはどうなんだ、と環は思わずにいられない。大体、いつものことだがお前、仕事はどうした。
 鈴鹿も多分環と同じようなことを思ったのだろう。深く息を吐いて、かなり一般常識が欠如していると思われる自分の甥っ子に、嗜めるような顔を向けた。
「あのさあ、桂馬君、せっかくも何も、時子君がいたとしても君はあんまり歓迎されないだろうということに、そろそろ気づいてもいい頃なんじゃないのかな」
「おじさん、女の子の 『いや』 は本当は 『いいよ』 っていう意味だって、今までの人生で学ばなかった?」
「ああー、なるほど、すると君は今まで、その誤った考えで女性に接してきたわけだね。だからこんな風になっちゃったわけだ」
「こんな風って、どんな風さ。おれの熱烈なアプローチを受けて、絶対、時子ちゃんだって内心では悪い気はしてないに決まってるって」
「僕には、時子君はものすごく迷惑そうにしてるようにしか見えないんだけど、その根拠のない自信は一体どこから来るのか不思議でならないよ。それに桂馬君には気の毒だけど、今のところ時子君は不破君にしか目が行っていないと思うな。今さらだけど。本っ当に、今さらだけどねえ」
 くどくどしい鈴鹿の念押しにも、桂馬はちっともひるまない。ある意味、羨ましいほどに神経の図太い男なのである。
「そんなん、気にしないよ」
 と、ケロリとして言い放った。
「どうせいつか、別れるに決まってるもん」
 断言しながら、ちらりと今まで見向きもしなかった環の方へ視線を寄越す。にやっと笑う目には、この男の持っている底意地の悪さがちかちかと瞬いていた。
「え、なんで言いきっちゃうの?」
 驚いたように鈴鹿が声を上げたが、桂馬は平然とした態度を崩さない。
「だって男と女の結末なんて、二通りしかないじゃん。別れるか、自分のものにするか。この場合の 『自分のもの』 ってのは、結婚する、とかそういう意味だけじゃないよ。他のやつに渡さないように、諸々の覚悟を背負うってことさ。この男に、そんなことが出来るわけないからね。いずれ放っといても、こいつと時子ちゃんは別れることになる。おれはいつか来るその時のために、今のうちに打てる手は打っておきたいんだよ」
「…………」
 鈴鹿が黙ったのは、桂馬の台詞に、何かしら思うところがあったからなのだろう。桐子が事務所にやってきて以来、特に何かを言いはしないが、鈴鹿が環を見る目には、いろいろと複雑な色が混じっている。
 黙っているのは環も同じだ。口を閉じたまま、机の上の煙草に手を伸ばそうとしたのを見咎めて、「なんにも言わないの?」 と、桂馬が素早く言った。
 環がじろりと目を上げる。
「……ここは、俺が何かを言うところか?」
「あんたじゃなきゃ、この場で誰が何を言うの?」
「お前が何を思おうと、俺の知ったことじゃない」
「またそうやって逃げるんだね」
「…………」
 容赦なく環を追い詰めようとする桂馬の口許は、まるで嘲るように吊り上がっていた。皮肉に目を眇めてこちらを見据える顔は、軽薄ではあるが冷然としている。
 女の前でこの顔を見せるのは、別れを切り出す時限定なんだろうな、と、環はそれを見ながらどうでもいいことを考えた。そうでもしていないと、殴ってしまいそうだ。
「……あの、さ」
 険悪な二人の間に、おずおずと割って入った声は、鈴鹿のものだった。
「あの、桂馬君はさっき、男女の結末は二通りしかないって言ったけど」
「ん?」
 くるりと叔父を振り返る桂馬の顔は、またいつものヘラッとしたものに戻っている。よくもこうまでコロコロと変えられるものだ。
「桂馬君の場合はどうなのかな。時子君とは、やっぱり、今までの君の彼女みたいに、いつか別れることを前提にして付き合いたいと思ってるのかな」
 不破君と同じだね、とまでは言わなかったが、鈴鹿の表情には、その考えがありありと乗っかっているのが見て取れた。
「いや」
 桂馬が、整った顔立ちににこりとした笑みを浮かべる。同性からすると、胡散臭い、としか思えないが、異性からしたら、きっとさぞかし魅力的に映ることだろう、という笑顔だった。
「おれは、時子ちゃんを自分のものにしたいと思ってる」
 再び環を見て、はっきりとそう言い切った。
「……他の女に、あれこれ手を出してるくせに」
 ぼそっと憎まれ口を叩いたが、その声には、環自身イヤになるくらい、力が入っていない。
「だって、まだ時子ちゃん、おれの方見てくんないからさ。時子ちゃんが他の女に手を出すのやめろって言ったら、女遊びなんて、すぐやめる。もともと、そんなに女好きだってわけじゃないんだ。ただ退屈だからさ」
 どの口がしゃあしゃあとそんなことを言うのかと呆れるが、いや、実はけっこう本気で言っているのかもな、と思い直した。桂馬のような──そして環のような人間には、何に対しても熱中するほど好きなことなんて、滅多に存在しない。ましてや生きた人間相手なら、なおさらだ。
 もしかして、桂馬は他の女の存在をちらりちらりと時子に匂わせながら、様子を探っているんだろうか、と気がついた。時子が嫉妬の片鱗でも覗かせたらいい、とでも思っているのかもしれない。そうやって、周到につけ入る隙を与えようとするあたり、やっぱり桂馬は環なんかよりもよっぽど女慣れしているのだろう。
「時子ちゃんが望むなら、プロポーズだってするよ」
 紙箱から煙草を取り出す指がピクリと揺れた。桂馬がじっとこちらを窺っているのが判るから、ことさら無表情でそれを口元まで持っていく。
「いや、時子君はまだ大学生だし、プロポーズなんてそんな」
 まるで父親のように、鈴鹿がオロオロとした風情で手を振り、桂馬はくすっと笑った。
「それだけ、おれは本気だってこと」
 言いながら、すたすた歩いて環の机のすぐ前までやって来る。着崩した上等なスーツのズボンのポケットに両手を突っ込み、嫌がらせのように下から環の顔を覗き込んだ。
 その瞳が、強い光を放っていた。
「おれは、少なくともそういう覚悟を持って時子ちゃんを口説いてる。どうしても、あの子が欲しいんだ」
「…………」
「そうだよね。あんたは何も言えないよね。あんたには、その覚悟がないんだからさ。おれを止める権利もなきゃ、時子ちゃんを引き留める資格もない。……ぐずぐず未練を持ってないで、早いとこ手を離してやんなよ。その方が、時子ちゃんのためだ」
 最後の言葉だけ、囁くような低い声だった。薄く笑みながら、机の上のライターを手に取り、環が咥えている煙草に火を点ける。
 それから、ばっと踵を返すと、また普段の明るくて軽い笑いを顔に貼り付けた。「じゃ、帰るよ。また来るねー」 と陽気な声を出し、事務所を出て行く。
 桂馬が消えると、残されたのは気まずい鈴鹿と、黙って煙草を咥えているだけの環だ。そのしーんとした静けさに耐え切れなくなったのか、鈴鹿がもごもごと言葉を口から出した。
「……え、と、不破君、ごめんね、桂馬君が言いたいこと言って」
「いえ」
 と、素っ気なく答えて、白い煙を口から吐き出す。
 その煙がゆっくりと空気中に拡散していくのを眺めながら、独り言のように呟いた。
「……何が一体、本当の 『トキのため』 なんですかね」
 環は最近、どうしてもそれが判らない。



          ***


 時子がいなくとも、もともとさほど仕事量のないスズカ便利屋の業務はつつがなく執り行われ、何事もなくこの日の営業時間は終了した。
 環は結局、時子の家には寄らずに自分のアパートへと帰ることにした。本当に時子の体調が悪いのなら電話のほうがいいだろう、と思ったのもあるし、正直、今は少し顔を合わせづらい、ということもある。
 アパートの狭い駐車場にバイクを停め、鉄製の階段を上って二階の自分の部屋へと向かう。電気の点いていない真っ暗な部屋の前に立ち、ドアノブの下の鍵穴に鍵を差し込んで、廻した途端。
 携帯が着信音を鳴らした。
 取り出してみると、ディスプレイに表示されているのは時子の名前である。まるで見計らったようなタイミングだな、と可笑しくなって、ボタンを押した。まさか驚かそうと思って、この近くに潜んでいるんじゃないだろうな。
 やりかねない、と思って、ちょっと笑う。
「トキ?」
 ドアの手前で立ち止まったまま、携帯を耳に当てて名を呼んだ。
 と──ほんの、一瞬。
 なんとも言えない 「空白」 があった。
「……環君?」
 携帯の向こうから返ってきた声に、少しほっとする。なんだろう。何か今、非常に緊張感を孕んだ間があったような気がしたのだが。
 気のせいか?
「トキ、どうしたんだ? 体調が悪いなら──」
「環君」
「…………」
 言いかけた言葉は時子の静かな声で遮られ、環は口を噤んだ。
 時子の声は、いつもとあまり変わりない。そのはずなのに、環の胸をざわつかせる。妙な胸騒ぎがして、息を呑むようにして携帯から聞こえる声に耳を澄ませた。
「ごめんね」
 と、時子はぽつりと言った。
 それきり、またしばしの沈黙だ。アパートの廊下の薄暗い明かりの下、まるで別世界にでも放り込まれたように、周囲の暗闇からは、なんの物音もしない。
 静寂が、ぴんと張りつめる。
「ごめん、って、何が」
 自分の声がやけに遠い。鋭い冷気の中で、自分の口から洩れる息が白かった。携帯の電波は、無言以外、何も伝えてはくれない。
 この向こう側で、同じように携帯を握って耳に当てているはずの時子の顔も、姿も、心も、環には見えない。
 何も。
 それから、かすかに息を吸うような気配がして。
「──別れよう」
 と、時子が言った。



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