猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(2)




 翌日、いつもよりもずっと早く事務所に出勤した鈴鹿は、じりじりとした気分で環がやって来るのを待った。
 ビルの駐車場に面した窓にべったりとへばりついているものだから、同じ建物内に入っている会計事務所や中小企業の社員などが、ちょっと気味が悪そうな顔で眺めながら通り過ぎていく。しかしそれさえも意識の外に追い出して、鈴鹿は苛々と足踏みしながら環のバイクが走ってくるのを待ち続けた。
 ようやくその姿が駐車場に現れたのは、始業時間五分前。鈴鹿は飛び上がって事務所を出ると、ビルの外へと走った。
「ふ、不破君!!」
 バイクを停めてエンジンを切っている環に、ほとんど叫ぶようにして呼びかける。
 環はバイクに跨ったままメットを脱いで、ちらっと鈴鹿を見ると、「おはようございます」 と普段と同じ愛想のなさで挨拶をした。
「お、おはようじゃないんだよ! 君、なに呑気なこと言って──」
 唾を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てはじめた鈴鹿だが、途中でふと口を噤んだのは、環の様子がおかしいことに気づいたからだ。自分もあまり平常であるとは言い難い精神状態ではあるが、それよりもさらに。
 いや、何を考えているのかよく判らない無表情な顔つきは、いつもとあまり変わらない。変わらないが、その無表情のまま黙って鈴鹿の傍らを通り過ぎた環は、まず、駐車場の車止めに足を引っ掛けて転びそうになった。
「…………」
 敢えて声をかけずにその環の後をついていくと、すたすたと歩いているように見えるのに、なぜか進行方向が斜めになって、廊下の端に置いてある段ボールにぶつかったりしている。そして本人はちっともそのことに気づいていないように、そちらを見向きもしない。事務所の前に立って何をしているのかと思ったら、普通ドアは外開きに決まっているのに、ぐいぐいと内側に向かって押し開けようとしていた。
「…………」
 さらに観察を続ける鈴鹿の前で、自分の机に座った環は、着ている黒の革ジャンをごそごそとまさぐりはじめた。どうやら、煙草を探しているらしい、と鈴鹿は気づいた。すぐ自分の前にある、机の上に置かれた煙草は、その目に入っていないのか。
「…………」
 ようやくそれに気がついて、箱から煙草を一本取り出して咥えたはいいが、それはどう見ても逆さまである。環はそのことにも気づかずに、煙草を逆に唇に差し込んだまま、今度はライターを探し始めたようだ。だからそれも、机の上にあるっていうのに。

 ──不破君がマヌケだ……

 と、鈴鹿は心の中で呟いた。
 ついさっきまで慌てふためいていたのは自分だが、ここまであからさまに常態ではない人間を目の当たりにすると、不思議とかえって落ち着いてしまう。こんな調子でよく無事にバイクを運転してこられたもんだなあ、と鈴鹿は感心しながら思った。
「不破君」
 声をかけながら近づいて、環の口に挟まれた煙草を抜いて、正しい方向に戻してやる。放っておくと、本当にこのまま火を点けて、ぼんやりと吸いかねない。
「昨日の夜、時子君から電話があったよ」
 ぴた、と環の動きが止まった。
 鈴鹿の顔を見て、自分が咥えている煙草を見る。
「……そうですか」
 煙草を口に挟んだままだからなのか、環の返事は今ひとつ明瞭ではない。もごもごとそう言って、それきり黙ってしまうので、鈴鹿はちょっと苛々した。つい、吐き出すように声の調子が強くなる。
「──バイトを辞めさせてください、ってさ」
「…………」
 しばらくの無言の後で、環はもう一度、そうですか、と呟くように言った。
「あのね!」
 我慢出来なくなって、鈴鹿がばんと環の机を叩く。
「そうですか、じゃないんだよ。一体、何があったわけ」
 問い詰める口調に、環はじっと火の点いていない煙草に据えつけていた視線を、再び鈴鹿の方へと戻した。
「何が?」
 同じ言葉を繰り返したのは、別に反抗心からではないらしい。鈴鹿を見返してくる瞳には、掴みどころがないくらい感情が見えない。鸚鵡かなにかを相手にしているみたいで、少し怖い。
「何がって……何があったんですかね」
 まるで他人事みたいに言う。
「ちょっと、なに言ってんだい、不破君」
 さすがに不安になってきて、鈴鹿は眉を顰めた。端的に言うと、環のこの態度は薄気味悪い。いつも、時子のことになるとわりとすぐに熱くなりがちなこの男が、今この時、冷淡なほどに素っ気ないのはどうしたことか。
「時子君と、喧嘩でもしたのかい」
 改めてゆっくりと訊ねてみると、今度は環は口を結んだ。
「あのさ、お節介かとは思うけど、こういう時は不破君が大人になって、さっさと折れて出るべきなんじゃないかなと」
「トキは、何か言ってましたか」
 年長者ぶって諄々と諭すようなことを言い始めた鈴鹿の言葉は完全にスルーされて、環はぼそりとそう言った。
「え。いや、それがさ、僕が驚いて、なんで、どうして、って訊いても全然言ってくれないんだよ。すみません、って一言言って、それっきり切られちゃって」
「…………」
 環はまた黙って視線を落としてしまう。鈴鹿は焦れてきて、また机をばんと叩いた。
「不破君、あのさ」
「──別れよう、って言われたんですよ」
「へ?」
 語調を荒くして言いかけた言葉は、環の返事によって呑み込まれ、代わりに出てきたのは、なんとも間の抜けた声だった。
「え? 別れ、って、あの、それは」
 混乱のあまり、出てくる単語はまったく意味を成さないものばかりである。環は、火も点けていないのに煙草を灰皿にぎゅっと押しつけて、やっぱり何を考えているのかちっとも見えない目を向けた。
「昨日の夜、トキに電話で、そう言われました」
「け、喧嘩でもしたのかい」
 鈴鹿の再度の問いかけは、なんだか遠慮がちなものになったが、環は首を横に振った。
「喧嘩なんてしてません」
「じゃあ、なんで」
「知りません」
「はあ?」
 鈴鹿が目を見開く。驚いた顔が、今度はすぐに厳しくなった。「ちょっと、不破君、君──」 と詰め寄る鈴鹿を振り払うように、環はきっぱり言い切った。
「俺は、それを了承しました」


          ***


 平日のバーは空いている。
 それとも、まだ夜の十時という時間だからこうなのか。もしかしたら、これからもう少し客が増えてくるのかもしれない。以前こういう仕事をしていたとはいえ、あまり客の入らなさそうな、一人で飲んでいても放っておいてもらえそうな小さなバー、というだけの理由で選んだはじめての店だから、環にもその辺りはよく判らなかった。
 カウンターの中にはバーテンの中年の男と、バーのママらしい中年の女の姿しかない。ママはぼそぼそとカウンター席の常連客らしい男と小声で話していて、バーテンは我関せずといった顔つきで黙々とグラスを拭いている。言ってはなんだが、暗い気分がますます暗くなりそうな、さびれた店だった。
 店としては、「m.m」 のほうが数段も格が上である。雰囲気も、酒の味も、値段ももちろんだが。けれど環は、どうしてもそちらに足を向ける気にはなれなかった。こんな時にオーナーにでも会って、時子のことを聞かれたりするのは真っ平だ。ただでさえ、一日中鈴鹿に嫌味と皮肉と説教を言われ続けて、疲弊しきっているというのに。

 ──不破君、君、わかってんの。これはまさしく、異常事態なんだよ。

 と、鈴鹿は何度も何度も言っていた。いい加減、耳にタコが出来そうだ。警戒を知らせるサイレンの方が、まだしも静かかもしれない。少なくとも、サイレンはこんな風にいちいち環の神経をかき乱すようなことばっかり言わないし。

 ──相手は 「あの」 時子君なんだよ。君なんかにあれだけベタ惚れで、君の近くにいるためだけに、毎日毎日せっせとこの事務所に来て、時給の低さも我慢してたような子なんだよ。そりゃいろいろと変わってるところも多かったけど、でもこんなやり方で、いきなり別れを切り出したり、理由も言わずに電話一本でバイトを辞めるような子じゃなかったでしょう。そんなこと、君がいちばん、よく知ってるはずじゃないのかい。

 ああ、知ってる。そんなことは、鈴鹿に言われるまでもない。時子がこんなことをするような女じゃないってことは。
 それでもこんなことをせざるを得ない、「何か」 が起きたんだろう、ということくらいは、環にだって判ってる。

 ──じゃあなんだって、君はなんにもしないのさ。

 だったら、環だって聞きたい。
 じゃあ、俺に何をしろって言うんだ?
 何が起きたにしろ、時子は環を切り離す選択をしたんじゃないか。
 桐子がまた訪れて、時子と何かを話したのかもしれないし、今度は時子の父親が来たのかもしれない。それとも、祖母と話し合いでもしたのかもしれない。どちらにしろ、それは時子の 「今後」 に関わることだろう。
 大学を卒業してからのことか、それとももっと直近のことか、そんなことは知らないけれど、とにかく自分のこれからのことで、時子は何らかの決断を出したのだ。
 ……そして、その 「これから」 に、環は入っていなかった、という、それだけの話ではないか。
 環はそれに対して、異議を挟めるような権利を持っていない。
 そうだ、一片だって持ってない。いずれこうなることを待っていたのは環なんだから。

 好きだ、と一言だって言ってやったこともない。
 ずっと別れることを前提にして、時子と付き合ってきた。
 いつでも手を離してもいいんだぞ、と身勝手なことを言い続けていたのは自分。
 「時子が望む限り」、傍にいたいと思っていた。その前提がなくなれば、環にはもうそんなことを思う資格がない。
 こんな自分が、別れよう、という時子の言葉を、そのまま受け入れるより他に、一体、何が出来るって言うんだ?

 褐色の液体が入ったグラスを口元に持って行って、喉に流し込む。なまじ酒に強いと、こんな時、なかなか酔えないから厄介だ。ウイスキーの一杯二杯ですべてが忘れられるほど酔えたなら、そんなに簡単なことはないのに。
「……ずいぶん乱暴な飲み方するのねえ」
 ふいに感嘆するような声がかけられて、振り向くと、いつの間にか隣の席に、ちゃっかりと若い女が腰かけていた。
 二十代後半くらいか。少なくとも真面目なOLとかには見えないが、この店のホステスというわけでもなさそうだ。いつからいたんだか、それさえも気づかなかった。バーテンもママも、知らんぷりで自分の仕事をしている。
 女はこの寒いのにミニスカートで、なのに足を組んでいるから白い腿がかなり露わだったが、それを隠そうという素振りもなかった。長いブーツのヒールでコンコンと椅子の脚を蹴って、頬杖を突きながらこちらを覗き込む。くるくると巻いた髪の毛は、時子とよく似た茶系の色だった。
「失恋でもしちゃった?」
 ニコニコしながら図星を衝いてくる。
「…………」
 そんなにヤケ酒っぽい飲み方をしてるのか、と思うと、環も苦笑を浮かべるしかない。部屋で一人飲みをしてつぶれるよりはマシかと思って外に出たのだけれど、みっともないのはどちらでもそう変わりはなかったか。
「まあな。振られたんだ」
 それも、これ以上なく、こっぴどくだ。
 別れよう、と携帯越しの、そんな一言だけで。
「あらー、可哀想に」
 女の言葉に、ますます苦笑が深まる。自分がこんな風に、憐れまれる立場になるとは思いもしなかった。人生は驚きの連続だよな、と数年前までは考えもしなかったことをしみじみと思う。
 そうだ、驚いてばかりだ。時子と出会ってから、ずっと。

 ──生きるってのは、こんなにも面白いものだったかと。

 時子と一緒にいると、ずっとそう驚かされた。
「あたしが慰めてあげよーか?」
「…………」
 屈託なく言う女の顔は、まったく悪びれたところがない。そういう商売なのかどうかは微妙なところだが、ここで頷けば、話は素早くまとまるのだろう。
 時子と会うまでは、こういう生活だったんだよな、と環は思わずまじまじと女の顔を見返しながら、ちょっとばかり懐かしい気持ちを抱いた。
 昼過ぎに起きて、夜になったら仕事にでかけ、いろんな職種の男や女を相手に酒を作り、適当に相槌を打つ。休みの日にはバイクを転がし、陽が暮れたらぶらりと飲みに行って、声をかけてくる女が、まあいいか、と思えるような相手だったらそのまま一晩だけを共にして。
 ──時子がいないなら、これからまたそんな生活に戻るのも悪くないかな、と少しだけ、気持ちが揺れたのは否定しない。
 だが結局、環はカウンターの上に金を置いて、席を立った。
「帰る」
 女は特に落胆した様子は見せなかった。あっそ、バイバイ、と軽く笑って手を振る。
「まだ未練があるのねえ」
 とからかうような笑み混じりの呟きが背中にかけられたが、振り返ることはしなかった。店のドアに手をかけて、ちょっとだけ笑う。
「……まったくだ」
 何をしても、時子のことばかり考える。
 傍にいても、いなくても。
 考えるたび、感情が波立ち、ざわめき、乱される。
 跳ね回って、暴れて、熱を持つ。
 時子の顔と声を思い出しただけで、胸がひりつくように痛みだす。

 ああそうか、これが 「苦しい」 ってことなのか──と、環はやっと思った。



          ***


「別れよう」
 と、時子は言った。
 そのあと、しばらく間があった。
 多分、理由を訊ねられるのを、待っていたのだろう。
 なんで? どうして? 何があったんだ、トキ。
 当然、そう訊ねるべきだった。訊ねなきゃ、いけなかった。
 なのに環は一言、
「わかった」
 と答えただけだった。
「…………」
 そのまま何も言わずに、電話は切れた。
 時子を取り巻く状況に変化が起こって、時子は環を切り離す決断をした。
 なにがあったのかは、環には判らない。
 ……でも、ひとつだけ、ハッキリと判っていることがある。
 彼女をいちばん傷つけたのは、他の誰でもない、環自身だ。



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