猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(3)




 時子がスズカ便利屋に来なくなってから、五日が過ぎた。

 その間、事あるごとに鈴鹿の口からはくどくどしい非難の言葉が出ていたが、仕事中そればかりで占められることもなかったのは、環にとってまだしも幸いだった。
 鈴鹿はもっとぐちぐちと言いたいようなのだが、さすがに勤務中に優先すべきはそれではないということくらいは弁えているらしい。早い話、時子がいなくなったことで、鈴鹿も家賃の計算ばかりをしていられるようなヒマな状況ではなくなってしまったのだ。
 便利屋の仕事自体はほとんど環がこなすとはいえ、それ以外の仕事だって当然ある。電話の応対から、客の相手、経理や伝票整理に追われつつ、銀行や郵便局にも慌ただしく出かけながら、鈴鹿は厭味ったらしく、はあーっと深い溜め息をついた。
「あーもう、こんなこと、いつも時子君がやってくれていたからさあ、僕、久しぶりすぎて勝手が判らない。かえって手間取っちゃうよ」
「トキが来るまでは、それは全部、所長の仕事だったじゃないですか」
 と冷たく受け流す環は、煙草を吸いながら事務所の掃除をしている。もちろん時子と違って、適当だし、大雑把だし、いい加減だ。しかも床を掃いているそばから、煙草の灰がぽろぽろ落ちているので、あんまり意味がない。これが依頼であれば環もそれなりにきちんと掃除をするのだが、もともと性格的にさほど綺麗好きというわけでもないので、モップを扱うその手つきは、あからさまにやる気がなかった。
「なんか、日を追うごとに事務所が荒んでいく……」
 鈴鹿が室内を見回して、悲しげな顔をした。
 ほんの一週間前までは、流しは綺麗に磨かれていたし、観葉植物もしっかり手入れされていたし、タオルだって毎日新しいものに取り換えられていた。こまごまと換気をするから、室内に煙草の煙が充満する、なんてこともなかった。細かいことだけれど、時子がやっていたそういう心遣いがなくなった途端、事務所は確実に張りを失ってしまった。
 もとがもとなので、見た目には、そう大した差ではないのかもしれない。でも、一日事務所にいる人間にとっては、それはかなり大きな変化だった。
 午後になったら明るい声の挨拶が聞こえ、隅から隅までくるくる掃除をしながら続く軽快なお喋りに耳を傾け、それが終わったらコーヒーのいい香りが流れてきていた以前。お疲れさま、と笑顔と共に差し出される湯気の立ちあがるカップに、どれほど自分たちの心が癒されていたか。
 その笑い声が、賑やかな文句が、馬鹿げた軽口の応酬が、どれほど気分を楽にさせてくれていたか、なんて。
 ──なんでも、失ってから、思い知らされる。
「ここが古くて汚いのは、前からです」
 気のない掃除をしながら淡々とした口調を崩さない環に、鈴鹿がむっとした顔をする。
「不破君、君、さらっとなに言ってんのかな。僕が言ってるのは、雰囲気だよ、雰囲気。なんだかもう、空気が澱んで、ぎすぎすしてるんだよね。明るさっていうか、華やぎっていうか、そういうものがちっともない。時子君がいた時はさあ、もっと」
「……やめませんか、そういうの」
 ぶつぶつと続く鈴鹿の愚痴を、環が低い声で遮った。モップを動かす手は止めず、目線はくすんだ色の床に向けられたままだ。
「トキはもう、いないんですから」
「だから、不破君」
「以前と同じになっただけのことじゃないですか」
 時子がバイトに来るまでは、この事務所はずっとこんな感じだったのである。所内は今よりもっと雑然としていたとはいえ、鈴鹿と環の二人だけで、便利屋の仕事も事務処理も切り回していたのだし、それで大した不都合もなかった。
 ……だからそもそも、このスズカ便利屋は、バイトなんて、必要としていなかったのだ。
 バイトの募集をかけていたわけでもない。時子が、「ここで働かせてもらえませんか」 と一方的に押しかけてきたのを、鈴鹿が了承した、というそれだけのことに過ぎなかった。ここが他のどんなバイトよりも低い時給なのは、はじめからそんな余裕があったわけではないからだ。時子がいる間、いつも鈴鹿がヒマそうにしていたのも、それだけ手が余っていたということの、なによりの証明ではないか。
「バイトがいなくなったからって、何も問題はないでしょう」
「いなくなったのは、バイトじゃなくて、時子君、だよ」
「…………」
 鈴鹿の反論に、一瞬、口を噤む。
 それからまた、ぼそりと言葉を落とした。
「──以前の状態に戻っただけのことじゃないですか」
 時子が来る前の事務所に戻っただけだ。それだけのことだ。そうだ、自分だって。

 ……時子と出会う前に、戻っただけのこと。

「バッカじゃないの、君」
 大きく吐き出した息と共に鈴鹿の出した言葉は、ひどく呆れるような、そしてどこまでも突き放すような冷淡さを伴っていた。
「戻るなんて、そんなこと出来るわけないでしょ。出会ってしまったら、出会う前になんて戻れっこない。人と人が一緒に過ごした時間も、記憶も、思い出も、なくなるなんてことは、あり得ないんだから。断言するけど、君はこれから一生、時子君のことをひきずって生きていくことになるね。このまま、なんにもしないでいるのなら」
 びしっと人差し指で環を指して、嫌な予言を残すと、鈴鹿はくるりと踵を返し、銀行に行くために事務所を出て行った。
「…………」
 パタン、とドアが閉じる音を耳に入れながら、環はモップを動かしていた手を止める。
 床を見ながら、どこかで聞いた台詞だな、とぼんやりと考えた。
 ああ、そうだ、川又さんだ。
 以前、そんなことを言っていたっけ。


 ──不破君も、欲しいものがあったら、ためらっちゃダメだよ。
 いつもいつもじゃ困るけど、時には、うん、時にはね、一生に一度くらいは、貪欲に手を伸ばして、掴んで、離さないで、しっかりと捕まえるんだよ。
 誰が怒っても、困っても、悲しんでも、どうしてもどうしても欲しいものを、諦めようとしてはダメだよ。手に入れてから失うのも辛いけれど、手を伸ばす前に諦めるのは、もっと辛い。
 そういうのはね、いつまでも、死ぬまで、残ってしまうよ──


「……死ぬまで、か」
 ポツリと呟いた。
 今、自分の中がこんなにも苦いもので満たされているのは、時子を手に入れてから失ったからではなく、手を伸ばす前に諦めようとしているからなんだろうか。鈴鹿の言うように 「なんにもしない」 から、こうまでしんどい思いを抱える羽目になっているのだろうか。
 これが死ぬまで続くのか、と思えば、さすがに環だってウンザリだ。
(……けど)
 欲しいものは欲しいと言い張るんだよ、と言っていた時の、あの老人の幸福そうな表情を思い出す。
 ──けど、判らない。
 たくさんの人を怒らせて、困らせて、悲しませて、それでも幸せだった、と言い切った川又さんには、判らない。
 欲しいものは欲しい、って?
(だって、それは)
 誰かを幸せにしてやれる人間だけが、言えることじゃないか。


          ***


 時子がいなくなって変わったことに、鈴鹿の仕事が増えたという以外に、客の反応、というものがある。
 一言で言って、はっきりと落胆するのである。「時子ちゃん、辞めちゃったの?」 と驚くような声を出してから、依頼内容を訊ねる鈴鹿を見て無言になり、はあーと露骨に溜め息を吐き出すのも、一人や二人じゃない。いつもなら依頼をしていくのかお喋りをしにきているのか判らないくらい事務所で時間を潰していく常連も、内容を告げると、じゃあよろしく、とさっさと腰を上げてしまう。なんとなく肩を落として帰っていく客の後ろ姿を見て、鈴鹿がこれみよがしに 「あーあ」 などと嘆くので、事務所の雰囲気はギスギスする一方である。
 時々、客じゃない人間も来たが、それは同じだった。

「え、時子さん、辞めちゃったんですか」
 と目を真ん丸にして叫んだのは、秀一と朋香の中学生カップルだ。以前に馬鹿馬鹿しい揉め事を持ち込んだこの二人はどういうわけか、たまにデート先として、この事務所を選ぶのである。
 時子がいた時はお喋りしたりからかったりで、それなりに楽しそうに盛り上がっていたが、彼女がいないこの場所には、もう来ることもなくなるだろう。
「どうしてですか?」
 と驚きながら普通の質問をしたのは大人しい性格をした朋香で、
「不破さん、どういうことなんですか」
 といきなり問い詰めるようなことを言ったのは、相変わらず可愛げのない性格をした秀一である。中学生とはいえ、非常に頭の回転の速い少年なので、すぐに原因は環にあると察したらしい。可愛くない。
「……どういうことも何も」
「不破君はね、時子君に、別れを切り出されたんだよ。それで理由も聞かずに頷いちゃったんだよ。こんな大人になっちゃダメだよ、君たち」
 ぼそぼそと誤魔化そうとしていた環の返事は、鈴鹿の大人げない横やりでぶち壊された。環だってあまり青少年に対して配慮するような性格ではないが、それにしたって、中学生相手にそういうことをあけすけに言うのはどうなんだ。
「あの、じゃあ、不破さん、フラれちゃったんですか」
 朋香は遠慮がちながら、けっこうキツいことを言った。
「不破さんがフラれたのはともかく」
 と、秀一が眉を上げて続ける。どうでもいいがお前ら、フラれたフラれたと連呼するのはやめろ。
「理由も聞かずに、ってどういうことなんですか」
「……だから、どういうことって何だ」
 むっつりしながら問い返す。背が高くて無表情、という環の外見は、わりと子供に怖れられがちなのだが、秀一の態度はやっぱり傲岸で尊大だった。こいつ、ちっとも変わってない、と内心で呟く。
「時子さん、僕に言ってましたよね。大事なのは、誠意と愛情だって。たとえば不破さんに時子さん以外の好きな人が出来たとしても、その時、自分はちゃんと話を聞くって。不破さんは、道端に煙草をポイ捨てするような無責任なことはしない、ちゃんと筋を通して、納得するまで話もしてくれるはずだから、って」
「…………」
「それが、信頼ってもんだ、って」
 ああ、そんなことを言ってたな──と環も思い出した。頭がいいだけあって、秀一は記憶力も優れているらしい。
 時子はここにいないのに、時子が以前に口に出した言葉が、別の人間の口から紡がれるのは変な気分だった。まるで、時子自身に責められているみたいだ。
 時子の姿を見ることはなくなっても、こうやって、誰かの心にちゃんと、時子の存在が残っている。そして形を変えて、環の前に現れて、そのたび気持ちを乱される。確かに鈴鹿の言うとおり。時子がいなかった時間に戻ることなんて、不可能なのだろう。

 ……不可能だから、こんなにも痛い。

「別れようって言い出したのは、トキのほうだ」
「理由も聞かずに放り出したのは、不破さんなんでしょ。時子さんの信頼を裏切ったのは、不破さんだ」
 ぶっきらぼうな環の声に臆することもなく、間髪入れずに秀一が断罪するように言い返した。相手は子供だ、と思っても、当たっているだけに、苛立ちが抑えきれない。
 どうして、どいつもこいつも、同じことを言うんだろう。
 環はそれに対して、同じ言葉しか返せないのに。
「じゃあ、俺に一体、何をしろって言うんだ?」
「何って──」
 我知らず強くなった語調に、秀一がひるんだように声を呑み込んだ。朋香が怯えるように身を縮めているのに気づいて、環はひとつ息を吐いて、力を抜いた。みっともないなと自分でも思う。
 少しだけ目を逸らし、今度は静かな声を出した。
「……理由を聞くのも、話をするのも、簡単さ、そりゃ」
「だったら」
「けど、俺は、『その先』 の責任を負えない」
「責任?」
 秀一は困惑した表情を浮かべたが、環はもうそれ以上話す気はなかったので、そのまま口を閉じた。鈴鹿がひどく仏頂面になっているのが視界に入って鬱陶しい。純粋に疑問しかない秀一とは違って、鈴鹿は環の言葉の意味をちゃんと判っている。判っていて怒っているから、鬱陶しいのだ。
 環が黙り込んでしまったのを見て、秀一はどこか悔しそうに唇をへの字に曲げた。その顔には、「僕が子供だから言わないってこと?」 という怒りとやりきれなさが滲んでいる。子供扱いされると頑なになるところも、この少年は変わっていない。
「……そりゃ、僕は子供だから、よく判らないのかもしれないけど」
 しばらくして、低い声が口から押し出された。
「でも、間違ってるよ、不破さん」
「…………」
 きっぱり言われても、環は返事をしなかった。間違っているとか、正しいとかの問題じゃない、と言ったところではじまらない。
「絶対、そんなのは間違いだ。それが 『大人』 ってやつなら、僕はそんな風にはなりたくない」
「……うん」
 頷いて、環は目の前の少年の、真っ直ぐな瞳を見返す。

 去っていくかもしれない相手に、怒って、迷って、怯えて。
  けれど結局、自分から恋した少女に会いに行き、話をすることを決意した秀一。
 フラれたら思いきり泣き叫べ、と言ったのは、環はあの時本当に、この中学生のことが羨ましかったからだ。
 自分には出来ないことをやれる、その勇気と一途さが。

「そうだな、俺みたいにはならないほうがいい」
 本心からそう思ったから、率直に返事をしたのだが、秀一はそれを聞いて、ますます怒ったような顔をした。
「不破さんはそうでも、時子さんはきっと、不破さんが思ってるほど、『大人』 なんかじゃないよ。不破さんは、バカだ」
 吐き出すように秀一がそう言うと、自分のデスクにいた鈴鹿が、
「本当にねえ。不破君は、ホントに、本当に、ほんっとーに、バカだよねえ」
 と心の底からしみじみした口調で同意した。しかも、ものすごく言い方がねちっこい。
 台詞は大体同じ内容なのに、秀一に言われるのとは違って、けっこう本気で腹立たしかった。



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