猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(4)




 時子がスズカ便利屋のバイトを辞めてから一週間以上経ち、決してなくなったわけではないのだが、さすがに鈴鹿の文句も少なくなってきた頃。
 いつものごとく、スーツ姿で鼻歌混じりに事務所を訪れた桂馬の間抜け顔は、なかなかの見ものだった。
「……は?」
 普段は余裕ぶった二枚目が、今はかなり本気で驚きに占められている。環はこれから起こるであろうゴタゴタを予想して早くもうんざりしながら、それでもこの男のそんな顔を見られただけでも、多少はせいせいした気分を味わっていた。俺って本当に心の底からこいつがキライなんだなあ、と思い知り、なんとなくしみじみしてしまう。
「辞めた? 別れた?」
 呟くように、たった今言われた言葉を繰り返して、自分の叔父の顔を見る。
 鈴鹿は複雑そうな表情でそんな甥っ子を見返しながら、「そうなんだよねえ」 と困ったように返事をした。
「なんで?」
「なんでも何も」
 問いかける声に、鈴鹿はわざとらしく肩を大きく竦めて見せた。
「桂馬君の言っていた通りになった、ってだけの話じゃない? 時子君が差し出した別れを、不破君は受けるしかなかった、と。なぜなら不破君は、諸々のことで覚悟を持っていないからだ、と。だから今だって、こうして、なーんにもしないでただひたすらムッツリしてるしかない、と」
 桂馬に対してというよりは、明らかに環に対して言っている鈴鹿の口調は、どこまでも嫌味と皮肉で満ち満ちている。もちろん環は知らんぷりをしているが、目線は事務所の電話に釘づけだ。ここまで切実に、仕事の依頼が来て欲しいと願ったことはない。
 鈴鹿の答えを聞いて、桂馬は険しい顔を環に向けた。つかつかと一直線に近寄ってきて、椅子に座っている環を見下ろし、
「……どういうことなんだよ」
 と低い声で問いかける。
「どういうことも何も」
 鈴鹿の口調と仕草を真似て言ったのは、かなり意地の悪い気持ちからのものだった。こんな状況で完全に苛々が抑え込めるほど、環は人間が出来ていない。相手が、性質的に自分とそっくりな、つまり大嫌いな男だから、なおさらである。
 ……環が桂馬を見るたび腹を立てるのは、まるで 「違う形の自分」 というものを見ているような気分にさせられるからだ。
「お前の望み通りなんだろ。手を離してやれって言ったのはお前──」
 最後まで言い終える前に、いきなり桂馬に胸倉を掴まれた。
 力ずくで乱暴に上体を引き上げられ、反動で座っていた椅子がガタンと大きな音を立てて床に倒れる。「ちょっとちょっと」 と慌てて止めに入る鈴鹿を無視して、桂馬はすぐ鼻先まで近づけた環の顔に、冷え冷えとした目を向けた。
「……けっこうお前、サイテーだね」
 よりにもよってこの男にこんな台詞を言われるとは思わなかったが、反論しようという気にはならなかった。桂馬を正面から見返す自分の目は、どれだけ暗澹とした無気力さを湛えていることだろうかと思う。
「知らなかったか?」
「知ってたよ。知ってたけど、ここまでとは思ってなかった。あの子に何があったのか、知ろうともしないわけ?」
「……知って、どうなるっていうんだ?」
 ぼそりと零すような返答に、桂馬がぐっと片方の眉を寄せる。チッと舌打ちしたのが聞こえた。
 するりと手がほどけ、再び鈴鹿を振り向いた桂馬は、もうまったく環に対して興味を示さなかった。そんな人間はこの場にはいない、ということに決めたらしい。環も黙って椅子を起こし、何事もなかったかのように腰かける。
 頭を切り替えた桂馬は、それからの行動が迅速で、しかも迷わなかった。
「おじさん、時子ちゃんのケータイ番号」
 当たり前のように無造作に手を出して要求する桂馬に、鈴鹿は戸惑った顔をした。さっきからの流れについていけないのは、どうやら自分だけである、ということに気づき、オロオロしているようだ。
「え、っと、番号って」
「知ってるんでしょ、時子ちゃんの番号。今かけるから、出して」
 普段のヘラヘラ顔を引っ込めると、桂馬という男は、非常に傲然とした雰囲気になる。お坊ちゃん育ちだからなのか、人を転がすすべに長けているのかは定かではないが、それはお願いというよりははっきりと命令で、なおかつ拒むことを許さない種類の物言いだった。
 桂馬が何度も時子本人からそれを聞きだそうとしては、不首尾に終わっていることを知っている鈴鹿は、ますますオロオロした風情になった。
「いや、でも、時子君に確認もしないまま君にそれを教えていいのか……それに、個人情報とかの問題もあるし」
「なに言ってんの、おじさん。時子ちゃんはもうここの従業員じゃないんでしょ。そうするとおじさんの個人的な知り合い、ってだけのことじゃん。叔父が甥に対して、自分の知り合いの女の子の連絡先を教えることまで、法律は禁じてるわけないと思うんだけど。それにおじさんは上司として、時子ちゃんが辞める理由をちゃんと知る権利があると思うな。おれはこの便利屋の関係者だし、そのおれがおじさんの代理として電話をかけることに、何か問題でもある? ないでしょ?」
 お前はいつからこの事務所の関係者になったんだ、と環は思ったが、立て板に水のごとくスラスラと桂馬に言葉を並べられて、鈴鹿は目を白黒させるだけだった。
「え、そ、そう、かな?」
 と早くも陥落し、混乱した顔で首を傾げながら、デスクの上に立ててあったファイルを開く。鈴鹿を口で丸め込むのは、赤ん坊の手を捻るよりも簡単だ。
 そのファイルには、時子の携帯番号から自宅の住所まで載っている。いくらなんでも無防備すぎだと腹立たしかったが、今の環にはそこに嘴を挟む権限はないので、むっと口を閉じているしかなかった。
「いや、僕もさあ、未払い賃金のこととかもあるし、何度か電話をかけてみたけど、繋がらなくて」
 言い訳めいたことを言いながら鈴鹿が手渡したファイルをひったくるようにして受け取り、桂馬は自分のスマホを取り出して、素早く番号を入力していった。
 しばらくの間耳に当てて、「駄目だ、電源が切られてる」 と忌々しそうに呟いて、通話を切る。
 桂馬は自分のスマホからかけているわけだから、環や鈴鹿を避けてわざと出ない、ということではないのだろう。環はあれから、時子の携帯に一度もかけていないから判らないのだが。
「じゃあ、時子ちゃんの自宅は、っと……これか」
 桂馬はファイルの上で指を動かし、時子の連絡先を探り当てると、再びさっさと番号を押した。これにはさすがに、環も 「おい──」 と声を出しかけた。自宅にかけて、出るのはおそらく、時子の祖母である。あのおっとりとした女性にまで迷惑をかけるつもりか、と思えば、そう黙ってばかりもいられない。
 桂馬は環のことなんてまったくお構いなしでスマホを耳に当てていたが、こちらもしばらくしてから、息を吐いて通話を切った。
「誰も出ない」
 その言葉に、環も少し顔を顰めた。
 ──誰も出ない?
 時子の祖母は、大体いつも家にいるはずなのだが。もちろん、高齢の女性とはいえ、用事があって外出したり、買い物に出たりすることくらいあるだろう。しかし、それにしたって──

 時子にも、時子の祖母にも、連絡がまるで取れないなんて。

 桂馬は口を歪めて、ファイルに目を落としながら、こりこりと頭を掻いた。
「どうするかな。この住所に行ってみてもいいけど、誰もいなかったら無駄足だし」
「……桂馬君は、そうまでして時子君と連絡を取って、どうするつもりなんだい?」
 甥っ子の様子を見ていた鈴鹿が、ここでようやくその質問をした。「うん?」 と面倒くさそうに返事をする桂馬は、手元のファイルから顔を上げもしない。
「どうするもへったくれもないでしょ。今度こそ、時子ちゃんをおれのものにするんだよ。もう遠慮する必要もないからね」
 前からちっとも遠慮なんてしなかったくせに、すっぱりとそう言い切る桂馬に、鈴鹿は曖昧な表情を向けた。
「はあ……。あのさ、前々から思ってたんだけど、どうして君は、そこまで時子君に執着するのかな。時子君はそりゃまあ、それなりに可愛い子だとは思うけど、君の周りには、もっと大人の、綺麗な女性がたくさんいるだろう?」
「…………」
 鈴鹿の問いに、桂馬がやっと顔を上げた。
 そこにあるのはどことなく、意外そうな表情だった。今になってそんなことを聞くの? という呆れではなく、桂馬自身、思ってもいなかったことを訊ねられて驚いた、という感じだった。
「そうだね。ホント、どうしてだろ」
 そう言ってから、思わずといったように苦笑する。
 ちょっと考えるように余所に視線を飛ばしながら、でもさ──と、小さな声で続けた。
「……なんとなく、なんとなくだけど、時子ちゃんといると、自分が 『人間』 になれたような気がするんだよ。あの目におれが映ってると、なんだ、おれってちゃんとここに存在してるんじゃん、ってホッとする。たとえば、おれの中身がなんにもない空洞でも、それでもいいって、許されるような気分になる」
「…………」
 独り言のような桂馬の言葉に、環は口を噤んで目を伏せる。まるで意味が判らないらしい鈴鹿は一人、盛大に疑問符を張り付けたような顔をしていて、桂馬はそれを見てちょっと笑った。
「ま、おじさんには判らないだろうけど」
 なんだかんだいって、堅実にこの世界を生きている鈴鹿には、判らないだろう。環や桂馬のような人間が持つ、底知れぬ虚無感なんて。
 きっと、判らないほうが、幸せだ。
「大体さあ、恋愛ってもんに、理由はないでしょ。自分にだってよく判んないけど、惚れちゃったらどうしようもない、そんなもんでしょ。おれはただ、時子ちゃんに会いたいんだよ」
「……うん」
 鈴鹿は頷きながら、軽い口調になって片目を瞑る桂馬を見て、それから、環を見た。
 珍しく真面目な顔つきで何かを考えていると思ったら、ふいにデスクの一番下の引き出しを開けて、ごそごそとかき回す。
「おじさん?」
「所長?」
 桂馬と環の声を聞き流して、どさっという重い音を響かせ、デスクの上に置いたのは、このスズカ便利屋の宝──つまり、顧客名簿だった。
 ぱらぱらとページをめくり、あるところでぴたりと止まると、電話機を引き寄せて受話器を取り上げる。広げたページを見ながら、ボタンをピポピポと押した。
 少し待ったところで、今度はちゃんと相手が出たらしかった。
「あ、もしもし、久我君かい?」
 その呼びかけに、環が目を見開く。
 久我純は、以前この事務所に依頼を持ち込んできた人物で、時子とは大学の同級生、という関係の青年でもある。
「スズカ便利屋所長の鈴鹿です。すみません、突然電話をして。いや実はね、時子君のことでちょっと──え?」
 鈴鹿の声が唐突に途切れる。眉間に皺を寄せ、黙って受話器に耳を傾けているところからして、純は電話の向こうで何かを話しているようだ。その声が漏れて聞こえることはないので、鈴鹿のデスクの前に陣取った桂馬がじりじりしたような顔をしている。環は──環も、やっぱりじりじりした。
 何を話してるんだ?
「ごめん、ちょっと待ってくれるかな」
 鈴鹿が相手を遮り、送話部分を手で塞ぐと、やっと顔を上げた。
「不破君、桂馬君」
 環と桂馬の顔を順に向いて、名前を呼ぶ。その声も顔も、常になく厳しかった。
「──時子君、大学に休学届を出してるんだそうだ」


          ***


 時子が事務所を辞めた旨を告げると、純は電話を切った。
 すぐにそっちに行きますから、と。
 鈴鹿がかけた電話を受けたのはバイト先に到着する手前だったらしいが、適当に口実を作って欠勤するという。一時間も経たないうちに息せき切って飛び込んできた純は、もちろん以前のような女装姿ではなく、きりりとした面持ちの爽やかな好青年そのものだった。誰こいつ、時子ちゃんの何、と桂馬が少々憮然とした顔になったのも無理はない。
「……いきなり、大学に来なくなったんですよ」
 純は事務所のソファに腰を落ち着けると、挨拶も前置きもなく話を切り出した。まだ荒い息をしているので、気の毒に思った鈴鹿が、お茶出そうか、と立ち上がりかけるのを、手で制する。
「所長さんに淹れてもらっても、なんかいかにも美味しくなさそうなのでいいです」
 すげなく断ってから、正面に座る鈴鹿としっかり目を合わせた。
「逢坂さんはあれで真面目で、講義なんかもほとんどサボらない子だから、最初のうちは、俺たちもみんな、どうしたのかな、風邪でも引いたのかな、って話してたんです。でもそれも三日、四日と続くと、心配になるじゃないですか。ケータイに何回電話してみても通じないし、メールにも一切返信がないし、どうしたんだって。ひょっとして、病気以外の何か、事故や事件にでも巻き込まれて、連絡も取れない状況なんじゃないだろうなって不安になって、大学の事務局の方に問い合わせてみたんです。そうしたら、『逢坂さんなら、ご本人から休学届がでています』 ってあっさり言われて──もう、青天の霹靂ですよ。理由は、って食い下がってみても、家庭の事情だそうです、としか答えてもらえないし。俺たち、もうすぐ学年が上がるんですよ? 単位だって、十分足りてた。こんな時期に休学なんて、どういうことなんですか」
 眦を吊り上げ鈴鹿に詰め寄る純は、怒りを隠しもしなかった。通常は人当たりのいい青年なのだが、荒々しく目の前の机を手の平で叩く現在の様子は、非常に苛立っているように見える。
「ど、どういうことと言われても……」
 まるですべての責はそちらにある、とでも言わんばかりの純の態度に、鈴鹿はすっかりたじろいでいた。
「えっと、時子君が大学に来なくなったっていうのは、いつのことかな」
 うろたえながら出した問いに純から返ってきた日付は、時子から 「今日は休みます」 と連絡のあった日と、ぴったり一致した。前日まで、時子は何事もなくいつも通りに学校に行き、バイトにもやってきたのだから、「何か」 があったのは、その日の朝か、前日の夜、ということになる。
 そして、その短い期間の間に、時子は環との別れを決意し、大学に休学届を出した。
 誰にも何も、理由を一切言わず。
「…………」
 環は席に座って、じっと動きもせずに純の話を聞いていた。顔が強張っているのが、自分でも判る。
 たとえば、時子が、決断せざるを得ない何かがあって、桐子と父親のいるアメリカに行こうとしたって、こんなに急すぎるほどのスピードで、物事が動くだろうか。
「俺たちには、どうしようもなかったんです。逢坂さんについては、仲のいい友達でさえ、ケータイ番号とメアドしか知らなかった。自宅の場所も知らない。どの高校から来たのかも知らない。お祖母さんと二人暮らしってことだけは知っていても、どうしてそうなったのかは、誰も突っ込んで聞いたことがなかった。……あまりにも全員が何も知らないんで、俺たちは揃って、唖然としたくらいでした」
 悔しそうに俯く純の表情は、本当に友人のことを心から心配するそれだった。
 大学内で、喋って、笑って、はしゃいで──けれどその友人の個人的なことを何ひとつ知らなかった、という事実は、きっと純も含めた同級生たちにとって、かなりの衝撃だったのだろう。
 そこまで考えて、環は強く口元を結んだ。

 じゃあ、俺は──俺は、時子の何を知ってたんだ?

「考えてみたら、逢坂さんはいつも明るくて賑やかだったけど、ほとんど自分のことは教えようとしなかった。お祖母さんや彼氏のことは楽しそうに話しても、それ以外のことは話題に出そうとしなかった。皮肉屋で、言葉遣いが時々おかしくて、下ネタだってあけすけで、他人にもズケズケ言いたい放題だったから、俺たちみんな、そこに気づかなかった。笑って、ふざけて、大事なところを見逃した」
 純が唇を噛みながら、ぎゅっと拳を握りしめる。
「俺が迷って悩んでいる時に、励まして背中を押してくれたけど、彼女は自分には、誰からのそれも求めなかった。今、何かに困って、悩んでいるかもしれないのに、こんな風に、俺たちも、不破さんも、所長さんも、学校も、仕事も、全部切り離して」
 そして、切り離されて、純は傷ついている。こんなのってないだろ、と憤っている。肝心な時に手を差し出すことも出来ない自分を責めている。純がいちばん怒っているのは、自分自身に対してだ。
 環と同じように。
 間違ってるよ、という秀一の声が頭に甦った。あの時、そういう問題じゃない、と思ったけれど、やっぱりあの賢い中学生の言ったことは正しいのかもしれない。
 間違っている、といえば、そうだ、環は確かに間違っているのだろう。でも。
 ──時子、と心の中で呼びかけた。

 お前も、間違ってる。

 何があったにしろ、こんなやり方はしちゃいけなかった。周囲を傷つけ、自分自身も傷つけるような、こんなやり方は。そんなこと、判らないはずがないのに、それでもこんな行動に駆り立てたものは、一体なんだったんだ。
 外から見るだけでは判らない、お前の中の奥深くにある、黒々とした 「何か」 か。
「不破さん」
 と、純が顔を上げ、真っ直ぐに環を見据えた。
「──たすけてあげてください、逢坂さんを」
「…………」
 黙っている環に、純の、鈴鹿の、桂馬の視線が集まる。
「逢坂さんは今、ひとりで何かに立ち向かってる。でもきっと、あなたを待ってる。判るんだ、俺。逢坂さんは、不破さんが来てくれるのを待ってるよ。俺は以前、彼女にたすけてもらいました。今度は、不破さんが、逢坂さんをたすけてやってください。……どうか」
 純が頭を下げるのをしばらく見つめてから、環は机の上に置いてある、微動だにしない自分の携帯に目をやった。


 誰もいない、時子の家。
 「家庭の事情」 で出されたという休学届。
 何度かけても、繋がらない携帯。
 電源を切らなければいけない場所──


「……病院か」
 ぼつりと呟く。
 環はこの時ほど、自分の頭を殴りつけてやりたいと思ったことはない。



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