猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(6)




 新城夫人はしばらくしてから小走りで戻ってきて、環に一枚のメモを手渡してくれた。
「お友達も残念ながら、こちらの方の入院先は知らなかったの。でもね、このあたりで救急搬送されるのは、大体同じ病院なんですって。そこの住所と電話番号を書いておいたから。もしもそこではない場合も考えて、一応他の病院の連絡先も書いておいたけれど」
 折りたたまれたそのメモを広げてみると、新城夫人の字なのか、流暢な筆跡で病院の名前と、住所電話番号が大きく書かれてあった。ここが最有力候補、ということなのだろう。その下に三軒ほど書かれてあるのが、「一応」 ということらしい。
「すみません、助かります」
 環はそのメモを握りしめ、新城夫人に向かって頭を下げた。
 書かれてあった名前は国道沿いにある大きな病院のものだったから、環も場所を知っている。最近は、病院も患者のプライバシーに関して慎重なところが多い。電話をかけてあれこれ事情を話すよりも、直接行って、素知らぬ顔で名前を出し、病室はどこかと訊ねるほうが早いな、と判断した。そこに入院していなければ、いないという答えが返って来るだろう。
「じゃあ気をつけてね。行ってらっしゃい」
 バイクに跨ったところで、ニコニコと手を振る新城夫人を見て、少し気が咎めた。本当なら、彼女の親切に報いるためにも、タクシーを見つけることくらいはすべきなのだが。通り道とはいえ、まさかバイクに乗せて送っていくわけにもいかないし。
 すみません、ともう一度、今度は謝罪のつもりでそう言うと、新城夫人は細い目をパチパチして、なにが? という顔をした。
「…………」
 ああそうか、言い方が違うんだ、とそれを見て思った。今ここで、口にするのは謝罪の言葉なんかじゃない。
「……ありがとうございます」
 そう言い直したら、新城夫人はニッコリした。
「不破さんには、以前わたしを助けてもらいましたからね。少しは役に立てたのなら、よかった」
「あれは──仕事で」
 もごりと返す。
 環が、骨折して身動きできない新城夫人に代わっていろいろな雑用をこなしたのは数年前、しかも便利屋の仕事として言われるがまま動いたというだけの話に過ぎない。現在の彼女のような温かい情が入っていたわけではないし、報酬としてきちんとそれに見合った料金も返されている。それとこれとは全然話が別だろう、と思ったのだが、新城夫人はくすくすと楽しそうに笑った。
「あの頃、あなたときたら、無口で無愛想で、わたしのお喋りにも、はあとかそうですかとか気のない返事しかしてくれなくてね。ちゃんと仕事はしてくれるけれど、感情の動きがちっとも見えなくて、この人は心の代わりに、機械でも内蔵されてるのかしらとわたしは大いに戸惑ったものだったわ」
 そう言って、懐かしそうな表情で頭上を見上げる。降ってくる雪が、さっきよりも大粒になってきていた。
「でも、あなたが来て、わたしの手や足代わりに動いてくれて、わたしは本当に助かったのよ。主人は優しいけれど、家事はまったく無能な人ですしね。娘は遠くに嫁いでしまって、こんなことで実家に呼び戻すのも気が引けたし。便利屋さんという商売がなければ、わたしはただただ困惑して、途方に暮れていただけだったでしょうよ」
 あの時、長い人生の中では、どうしても人の助けを借りなければいけないことがあるのだと、心底から思い知った──と、新城夫人は静かに言った。
「それが赤の他人でも、対価としてお金を支払わなければならないものでも、それでもやっぱり、生きていくうえで、『誰か』 の手を借りなければ難しいことがある。どうしても、『誰か』 の助けが必要な時がある。以前のわたしのように、今のあなたのように。だからわたしも、自分に出来ることはしたいなと思っただけよ。そうやって、誰かを助けたり助けられたりして、世の中が廻っていけばいいなと思っているだけ」
「…………」
 さあ、早く行きなさい、とやんわり後押しされて、環はもう一度頭を下げると、メットを被り、バイクのエンジンをかけた。


          ***


 走る車の横をすり抜けるようにしてバイクを操る。
 流れる景色は、見覚えのあるものばっかりだ。時子とよく行った喫茶店や、コンビニや本屋などがある。時子と付き合ってからの数年分の記憶が、このあたりのあちこちに分散されて積まれている。彼女を後ろに乗せて、家に帰る前に寄り道しては、話し、笑い、喧嘩したりした思い出が、ひとつひとつ浮かび上がる。その時の時子の顔や声ばかりでなく、その時店に流れていたBGMや、夜空に見えた月の明るさまでもが、くっきりと甦るようだった。
 とある大きな家の前を通った。
 煉瓦作りの門に囲まれた、濃いブラウン調の壁の、四角い家だ。数年前、ここはクリーム色の壁だった。今の持ち主がリフォームして変えたのだろう。以前の持ち主がこの家を手放した時、状態が良かったのでほとんど手を加えずに買い取ったという話だったが、やっぱり時間の経過とともに自分の趣味に染めたくなってきたということか。門扉の間からちらりと見える庭の様子も、あの頃とはすっかり見栄えが違っている。
 ……ここにはもう、時子が住んでいた頃の面影は、ほとんど残っていないのかもしれない。
 数年前の出来事が、まるで昨日のことのように思い出された。



 スズカ便利屋に所員として働きだしてから、半年くらい経った頃だっただろうか。今と同じような寒い時期だった。昼夜逆転の毎日から、朝起きて夜眠る生活に戻るのはさして困難ではなかったが、便利屋というのは、案外思っていたよりも、他人の日常に密着することが多いんだなと気づき、戸惑いはじめていた頃でもあった。
「食料品は近くのスーパーで大概揃うから、大丈夫と思うわ。でも薬局まで行かないといけないのもあるのよねえ。不破さん、あなた店を何軒かハシゴしても平気? ついでに和菓子屋さんにも寄ってもらいたいんだけど、大丈夫かしら」
 その時、環は 「もう僕が付き添って教えなくても仕事ができるよね」 と鈴鹿に言われ、一人で新城家にやって来ていた。足を骨折して家事も思うようにやれない妻を助けて欲しい、という依頼だった。一日三時間程度の 「買い物・簡単な家事代行」 を一週間。
 仕事自体は鈴鹿がいなくても全然問題なかったが、新城夫人が話好きであるのだけは少々閉口した。この時も、買い物リストを手に新城家の門を出かけたところで、夫人に呼び止められたのだが、なかなか話が終わらない。
「……はあ」
 環のいい加減な返事には構わずに、松葉杖を両手に突いて外まで出てきた新城夫人は、「多すぎるかしら、持てるかしら」 と一人で気を揉んでいる。小学生をお使いにやるみたいな心配の仕方だ。
 この家に来るようになったのは一日前からだが、その短い間にも、この女性が非常に人のいい性質だということは判っていた。夫にも愛される良き妻で、娘がいた頃は良き母でもあったのだろう。優しいし、働き者だし、よく気を遣う。環のような人間に対しても、まるで息子のように接してくれる。
 環は、こういう人がちょっと苦手だった。どういう態度を取っていいのかよく判らないからだ。
 ──結局、便利屋なんて人と関わる商売は、俺には向いてないのかな、という気持ちが強くなる。
「じゃあ、行ってきます」
 新城夫人が一通り話し終えたのを見計らい、二、三、要点だけを問い返してから、環は門から一歩を踏み出しかけた。
「あ、待って!」
 すぐに、新城夫人に抑えた声で制止され、上着を引き戻された。
「……まだ、何か」
 溜め息をつくのをなんとか押しとどめ、新城夫人の顔を見ると、彼女は門からそろそろと頭を覗かせて、何かを窺う素振りをした。新城夫人はもういい年齢の女性なのだが、どこか世間ズレして、のほほんとしたところがあったから、そういうことをすると、非常に子供っぽく見える。

「あら、困ったわ、時子ちゃんがいる」

 と、門からまた顔を引っ込めた彼女は、そう言って、本当に困ったような顔をした。
「あの──三軒先に、煉瓦の塀の、大きなお家があるでしょう。そこに住んでいた子でね」
 新城夫人は、環に対して、少し言いにくそうに説明した。こんな風に口ごもる理由が判らないから、環も黙って続きを待つしかない。
「不破さん、出て行くのはもうちょっと待ちましょう。多分、誰にも邪魔されたくないでしょうから」
「?」
 唇に人差し指を当て、こっそりと内緒話のようにそう言う新城夫人に、環は首を傾げた。彼女がその 「時子ちゃん」 とやらに見つからないようにしているのは明白なので、環もなるべくそっと門から顔を出して覗いてみた。自分でも、なんでこんなことをしなければならないのか、さっぱり判らない。
 そこにいたのは、制服姿の女の子だった。
 学校帰りなのか、セーラー服の上にグレーのカーディガン、黒いハイソックスという格好で、スクールバッグを肩からかけている。背中まで伸びた髪は、ストレートで真っ黒だ。どこにでもいるような、普通の高校生の女の子、という感じだった。
 少女は道路の真ん中に立って、彼女が以前住んでいたという家を見ていた。そのまま視線を据えつけて動かないから、環からはその横顔しか見えなかった。
 きつく結ばれた口許、ぴしりと伸びた背筋。静かで、けれど鋭く尖っている雰囲気がある。瞳はひたむきに、生真面目に、そして一途に、すぐ前の家に向けられていた。
 まるで何かに祈りでも捧げているみたいだな、と思ってから、不思議になった。今までの環の人生において、「祈っている人」 なんて、実際に間近で見たこともないのに、どうしてそんなことを思ってしまったんだろう。
「あらっ、時子ちゃんじゃない?!」
 その時、新城家とは反対方向からやってきた中年女性が、びっくりしたような大声を上げた。環のすぐそばで身を縮めている新城夫人が、あらあらあら、とうろたえたように小さな声を出したことからして、あまりこの状況で歓迎できるような人物ではないらしい。
 新城夫人がさらに強く環の上着を引っ張るので、顔を引っ込めて門内に隠れた。どうして自分まで隠れなければならないのか、という疑問はもう棚上げすることにした。しかし距離が近いので、声だけはよく届く。
「まあ、どうしたの、引っ越ししたんだったわよね? 忘れ物でもあった? でももうこのおうち、余所の人が住んでるのよ、知ってるでしょ?」
 そんなこと、住んでいた本人が知らないわけはないと思うのだが、女性の声にはどこか粘着質な、露骨に言うなら、面白がるような気持ちがちらちらと覗いていた。揶揄するような響きは、必要以上に大きい。新城夫人に目をやると、眉を寄せ、口をへの字にしていた。
「はい、知ってます」
 聞こえてくる少女の声は、しっかりしていた。こちらは普通の音量なのに、よく通る。
 媚のない声だな、と環は思った。今まで水商売の女たちを相手にすることが多かったからか、環は声音に混じる作為的な媚や甘えに敏感だ。少女の声には、そういうものがまるでなかった。媚もない、怒りもない、反発もない。さらさらと流れる透き通った川の水みたいだった。
 ──今、どういう顔をしているんだろう、とはじめて他人に興味を持った。
「お母さんは、お気の毒だったわねえ。それで時子ちゃんは今、お父さんと一緒に暮らしてるの? でも、お父さんは、ホラ、あの、例の女の人と暮らしてるんだわよね? イヤよねえ、時子ちゃん、だって相手はお母さんを散々苦しめた人なんだし──」
 中年女性はかなり好奇心もあからさまに、まくし立てるように話しかけている。新城夫人の眉はますます中央に寄っていく一方だ。
「祖母と暮らしてます」
 少女の声はさっきとまるで調子が変わらなかった。逆に、相手のほうが一瞬途切れた。もしかしたら、単に無神経なのではなく、「反応を見たい」 という悪意があったのかもしれない。温厚な新城夫人がここまで顔を顰めているのも、そのあたりに理由があるのだろう。
「あら──そう、お祖母さんも、さぞ気を落としてるんでしょうね。自分の娘さんがねえ、あんなことになっちゃって。これからもいろいろと大変よね、もういいおトシだっていうのに。可哀想にねえ、お祖母さんも、時子ちゃんも」
 可哀想に、という言葉がこんなにもいやらしく発音できるのも一種の才能だな、と環は思った。無関係ながら、聞いていて楽しいものじゃない。いささかバカバカしくなって、このまま門の外に出ようかと思い、身体を動かしかけた。
 が。
「可哀想?」
 問い返した声にはじめて明確な感情が混じって、環は足を止めた。
 そこにあったのは、純粋な驚きだ。……いや純粋というか、どっちかというと、タチの悪い驚き方だった。少なくとも、やられっぱなしで引き下がるような、大人しい性格ではないらしい。
 楽しそうに、ちょっと笑う声が聞こえた。
「あれから、たくさん同情や憐れみを受けたし、いろいろ手紙をもらったり電話を受けたりしましたけど、『可哀想』 って、そんなにあからさまに面と向かって言われたの、はじめてです。そこまで判りやすいと、いっそ気持ちがいいですねー」
 感嘆するように出された痛烈な皮肉に、向こうからの反論は返ってこなかった。きっと、唖然として声も出ないに違いない。さぞかしハトが豆鉄砲を喰らったような顔をしているのだろうと思ったら、実際にその場面を見るよりも面白くて、環は思わず、ぷっと噴き出した。不破さん、と傍らの新城夫人が小さく嗜めたが、彼女の口元も微妙に震えている。
 返事がないからか、少女はそこで一方的に会話を打ち切って、その場を立ち去ることにしたらしい。足音が近づいてきて、新城夫人が慌てて塀の影へと身を隠す。引っ張られたのでやむなく環も従ったが、あるいは、そんな風にして隠れる必要はなかったかもしれない。
 歩いてきて、新城家の前を通り過ぎる少女は、ずっと前方だけを見ていて、他の方向に視線を動かすことはなかったからだ。ただの一度も、後ろを振り返りもしなかった。
 ただ、真っ直ぐ前を向いていた。
 環が見たのは、結局、彼女の横顔だけだった。
「……ごめんなさいね、不破さん。これじゃあ盗み聞きに付き合わせてしまったようなものだわね」
 ふう、と新城夫人が息を吐く。ふっくらとした頬に、手を添えた。
 彼女は話好きではあるが、あの中年女性と違って、他人のことをあれこれ言うのは好きではないのだろう。それきり口を閉じて難しい顔をするだけだった。環は 「……じゃあ、行ってきます」 と言って、ようやく門から外に出た。
 振り向くと、歩き続ける少女の背中が見えた。
 あの短い会話からでも、彼女の身に、何かスキャンダル性を含む不幸な出来事があったことは察せられた。それについて周囲から、決して好意的とは限らないいろいろな干渉を受けていただろうことも推測がついた。他人の醜聞を喜び、ことさら騒ぎ立てる種類の人間は、どこにだっている。
 環はそれについて、特に何も思うことはなかった。夜の世界には、「不幸」 なんていうものは本当に腐るほど転がっていたし、環自身、ふた親を早くに亡くし、親戚を転々とたらい回しされて、結局は家を飛び出したという経歴の持ち主だ。常に近くにあったのは、理不尽な暴力や疎外ばかりだったが、そのことを同情されたいとも思わないし、今さら他人の不幸に同情したいとも思わない。
 ……ただ、なぜか。
 あの少女の横顔が、頭から離れていかなかった。
 今まで周囲の景色も人間も、環の心を単に通り過ぎていくだけだったのに、それだけはしつこく残ったまま、消えることがなかった。


 次の日から、新城家を出入りするたびに、三軒先の道路に目をやる、妙な癖がついた。
 意識しているわけではないのに、気づくと視線がそちらに流れてしまっている。特殊な事情を抱えているらしいあの女の子がそんなに何度もここに来るわけはないと思ったし、実際に見かけることもなかったのだけれど、その家の前の道路を見てしまうのは止められなかった。
 ……そうして何事もなく一週間が経過し、環は新城家の依頼を終えた。
 最後の日、新城夫人に簡単な挨拶をして家を辞去して外に出た環は、やっぱりちらりと道路の先を見た。そこには誰の姿もなくて、そりゃそうだよな、と思いながらバイクに乗った。もうここに来ることもないのだから、こんなことがあったこともすぐ忘れてしまうんだろう、と思った。
 少女を再び見かけたのは、事務所に帰る途中のことだ。
 バイクの進路が大きくブレて、後続の車にクラクションを鳴らされた。自分がそこまで驚いたことに、何より驚いた。少女はその音にさえも振り返らず、歩道をすたすたと歩いている。やっぱり制服姿だった。
 ハザードランプを点灯し、バイクを車道の端に寄せて停車する。このまま走ると事故を起こしかねない、と思ったからなのだが、視線はメット越しに、前方の少女を追っていた。
 彼女は環に見られていることなんて全く気付かない様子で、そのまましばらく歩道を歩き、一軒の家に入っていった。新城家の近くにあった家よりも格段に小さな、木造の家だった。
 門には、「逢坂」、という表札がついていた。
 あそこが、祖母と暮らしているという、引っ越し先の家なのか、と環は内心で呟いた。


 ──いやこれはマズイだろ、とは、自分でも思っていた。
 毎日毎日、仕事が終わってから、自分のアパートへ帰るのにわざわざ遠回りをしてまで、特定の家の前を通ろうとするなんて。自分で言うのもなんだが、少々ストーカーじみている。もちろん、通るだけで、その場に止まることはしなかったけれど。
 その家の前を通って、明かりがついているのを確認するたびに、明日からはちゃんと最短距離を走って帰ろうと思うのに、次の日になると体が勝手にそちらに向かっている。自分の行動が自分で理解できない。こんなこと、はじめてだ。
 そこを通るのはもうすでに真っ暗になってからなので、少女の姿を見かけることはほとんどなかったが、たまに、家の外に出ているところを見ることもあった。コンビニにでも行ってきたのか、私服姿で手に袋をぶら下げ祖母らしい女性と一緒に笑っていたこともあったし、何をしているのかさっぱり判らなかったが一人で屋根の上に座っていることもあった。当たり前だけれど彼女の方は、車道を走るバイクのことなんて、まるで注意を払っていなかった。
 俺は一体何をしてるんだ。
 何度もそう思った。自分でも段々腹が立ってきた。
 明日で本当にもう終わりにしよう、と決心した翌日、何の因果か大雪が降った。バイクを走らせるわけにもいかず、ますます苛々が募った。鈴鹿に、「この雪じゃ、もうお客さんも来ないだろうから、今日は早じまいにしようかー」 と言われたのを幸い、電車に乗ってまでそこへ向かったのは、完全に意地になっていたからだ。早いところ、自分で自分の気持ちにケリをつけて、さっぱりしたかった。いつまでもこんな不可解な感情に振り回されるのは真っ平だ。
 駅を出て、雪の中、傘を差して歩いた。だが、途中でぴたりと足を止めた。その家に行くまでもなかった。
 公園で、少女を見つけたのだ。
 この雪なのに、傘も差さずに、自分の頭も身体も真っ白にして、彼女は道行く通行人たちを眺めていた。周囲の景色に同化しているためか、立ち止まって声をかける人間もいなかった。まるで、そこに立っている女の子のことなんて、誰の目にも見えていないみたいに。
 ──でも、環には見えた。
 白い雪の中で、彼女自身も白く染まっていたけれど、環にはちゃんと見えた。いいや環には、周囲のほうが灰色で、ただ一人、彼女だけが鮮やかな色彩を放っているみたいに、はっきりと認識できた。
 足がずっと小刻みに震えているのも、じっと前を向いている感情のないその顔も。
 なんでそんな顔をしてるんだ、と思ったら、やたらと腹が立ってきた。理不尽だとは判っていたが、どうしても抑えきれなかった。
 環は彼女のそんな顔は見たくなかった。目障りだとさえ思った。だから、傘を差しかけたのだ。押しつけて、帰らせて、これでもうお終いにしてしまおう。そうだ、これでやっと、このわけの判らない感情とおさらば出来る。
 そうしたら、少女がぱっとこちらを向いた。
「あれ、私が見えるんですか?」
 今まで銅像みたいに身動きしなかったのに、たちまち彼女は光を取り戻した。正面からはじめてその強い瞳を向けられて、今度は自分の方が動けなくなった。
 ……その時、やっと判った。
 環を惹きつけていたのは、この瞳だ。少女の横顔を見た時から、環は多分、思ってしまったのだろう。
 この目に、自分を映してみたいと。
「私、逢坂時子です」
 知ってる、と環は心の中だけで返事をした。



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