猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(7)




 目指す病院に到着した時、すでに雪は本降りになっていた。
 厚みのある大粒の雪が、途切れることなくひらひらと舞い落ちてくる。空は一面が灰色の雲に覆われて、メットを脱いだ途端、痛いほどの冷気が頬に刺さった。これからますます降るのかもしれない。視界が利かなくなる前に目的地に着けたのは運が良かった。
 敷地内の地面や植え込みは、もう薄っすらと雪が積もって白くなりかけている。病院から外に出てきた人々が、みんな同じように頭上を振り仰ぎ、寒そうに首を竦めると、急ぎ足になった。口から真っ白な息を吐き出して、積もるかなあ、と言いながら、母子らしい二人連れの女性が環の横を通り過ぎる。
「…………」
 少し前、同じ言葉を言って、楽しそうに空を見上げていた横顔を思い出した。
 そういえば、時子の誕生日はもうすぐだ。
 なにか欲しいものはあるか? という問いに、環君がそばにいてくれればいいかな、と答えられた日は、そんなに以前のことではないのに。
 自分たちは今、別々の場所から、こうして空から降る雪を眺めている。
 ──時子は、どんな思いでこの雪を見ているんだろう。
 ひとつ白い息を吐いて、環は病院の建物内に足を踏み入れた。


          ***


 受付で名前を出して訊ねると、呆気ないほど簡単に、その人のいる病室を教えてくれた。
 消毒の匂いの充満する、しんとした院内を歩く。
 辿り着いた病室は個室らしく、ドア横にかけてある名札には、「逢坂道江」 と、一人分の名前しか書かれていなかった。とりあえず面会謝絶の札がないことにほっとする。少しは持ち直したんだろうか。それとも、心臓発作といっても、それほど悪くはなかったんだろうか。
 軽くノックをしてから、「……不破です」 と声をかけた。
 一瞬身構えたが、時子の声は返ってこなかった。どうぞ、と中から聞こえたか細い声は、入院している本人のものだ。
 ドアを開けると、まず目に入ったのは、ベッドに横たわる小柄な女性の姿だった。パジャマを着て、栗色に染められた髪もきちんと整えられていたけれど、今まで会った時のいつよりも、弱々しく頼りなさげに見えた。腕には点滴の管が差し込まれ、ベッドの脇には酸素ボンベや、いかめしい四角い箱みたいな医療機器が設置されている。
 ──病室内に、時子はいなかった。
「こんにちは、不破さん。こんな格好で、ごめんなさいね」
 道江は微笑んでそう挨拶したが、その笑顔にも声にも、まったく張りがない。いつも陽気で朗らかだった女性が、ずっと小さくなってしまったように見える。元気な時はぴんしゃんして実年齢よりもよほど若々しい人だったのに、こんなにも一気に年を取ってしまうのかと驚くほどの変わりようだった。
「来るのが遅くなって、すみません」
 まず頭を下げてそのことを詫びると、道江はまたやんわりと笑った。
「とんでもない。来てくださって、ありがとう。……時子は、あなたにこのことを伝えていなかったんじゃないですか?」
「……そうですね」
 言葉少なに返事をしたのは、道江がどこまで事情を知っているのか判らなかったためだ。何も知らないのなら、そのままにしておいた方がいいだろう。今はとにかく、安静の必要な病人なのだから。
 どうぞ、と勧められて、ベッドの近くに置いてある折り畳み椅子に腰を下ろす。気づいてみれば、室内はちゃんと見目良く整頓されて、ベッドの端には温かそうな上着、枕元にはピンク色をした綺麗な花が活けてあった。祖母が少しでもこの狭い病室で心地よくいられるようにと、時子があれこれと心を砕いて揃えている様子が、目に浮かぶようだった。
「心臓発作だと、聞きましたが」
 問いかけると、道江は恥じ入るような顔をした。
「そうなんです。もともとね、少し心臓の具合はよくなかったんですけども、あの日は夜にいきなり苦しくなって」
「もともと──悪かったんですか」
 環の問いに、ゆっくりとした動作で頷く。
「狭心症でね」
「そのこと、トキには」
「言っておりませんでした」
 そう言った時、道江はまるで、悪戯を見つかった子供のように気まずそうにした。そんなに大したものではなかったんですよ、と言い訳のように付け加えたが、目線は布団の上の自分の細い腕に行ったままだった。
 大したものではないといったって、心臓の病気は直接生命に関わるものだ。万一のことはあると、道江自身だって覚悟はしていただろう。多分、彼女が思っていたよりも早く、その時が来てしまったということなのだ。
 そうか、だから──と、環は思った。

 だから、道江は時子を手離そうとしていたんだ。本当はこうなる前に、時子を父親の許にやるつもりだったんだ。
 事実は何も知らせないまま、黙ったままで。
 道江は、あの小さな腕に、これ以上重いものを抱え込ませたくはなかったんだ。

「……時子は、それはもう驚いたことだと思いますよ。私が飲んでいた薬も、血圧を下げるためのものだと言っておりましたしね。それがいきなり発作を起こして、救急車で運ばれて」
 救急車の中で、時子は、母親が亡くなった時のように真っ白な顔色で、おばあちゃん、と呟いたのだという。震える手で、苦しむ祖母の手をぎゅっと握り、囁くように。
 おばあちゃん、ごめんね、と。
 時子は悪くないのに。母親の時だって、何も悪いことなんてしていなかったのに。
 また、あの子にそう言わせてしまいました、と道江は悔やむように言った。
「私はそのまま二日ほど意識を失っておりましたそうで。かなり危ない状態だった、とあとでお医者様に言われました。……その間、時子は看護師さんに何を言われても、頑として病院を離れなかったそうです。一人っきりで、誰に何を話しかけられても返事もしないで、ただじっと人形のように病院の椅子に座ったまま、動かなかったと」
「…………」
 いいや、少しは動いたはずだ。事務所に電話をした時、そして、環の携帯にかけてきた時に。
 眠りもせず、座っていた椅子からふらりと立ち上がり、時子は一体、どんな顔をして、どんな気持ちで、自分の携帯を握ったのだろう。
 危篤状態が続く祖母の近くで、何を思っていたんだろう。
 環君、と声を出す前の空白には、どんな意味があったのだろう。

 ──環君、ごめんね。別れよう。

「目が覚めた時、私のすぐ傍には時子がおりました。おばあちゃん、よかった、もう大丈夫だからね、と笑っておりました。いつものように、明るくお喋りをして、私を責めることも、怒ることもいたしませんでした。お医者さんや看護師さんのお話を聞いて、家と病院を往復して入院に必要なものをてきぱき整えて、一日中つきっきりで私の面倒を見て……」
 意識が戻ってから三日ほど経ち、その状態が続いたところで、道江はようやく気がついた。
「あなた、学校はどうしたの、って聞いたんですよ。便利屋さんのお仕事は、って。てっきり、どちらもお休みしているものと思ったものですから、いいから行ってらっしゃい、と申しました。容体も落ち着いたのだから、そんなにぴったりくっついていなくてもいいのよ、って笑って言いました。──そうしたら」
 そうしたら、時子はなんでもないように、さらりと返事をした。

 私、大学に休学届を出したから。バイトも辞めたの。

「その時こそ、心臓が止まりそうになりましたよ」
 道江は少し笑いながら言った。冗談めかしてはいるが、実際、血の気が引くほどの衝撃であったのだろう。その衝撃でまた発作を起こすようなことがなくて、本当によかった。
「あなた、まあ、なんでそんなこと、とうろたえて問い詰めましたら、『だって、私のいない時にまた発作を起こしたら困るでしょ?』 って、平然と答えられました。これからはずっとそばにいるからね、って。私はもう、驚いて、口も利けないほどでした。不破さん、あの子は──あなたには、何か」
「…………」
 遠慮がちに訊ねられ、環は一旦口を噤んだ。少し迷ってから、率直に本当のことを言うことにする。ここで誤魔化したって、なんの意味もない。
「……別れよう、と言われました。多分、逢坂さんが救急車で運ばれた翌日に」
 ああ……と溜め息のような声を出し、痛みをこらえるような表情で、道江が横になったまま、目を閉じる。ますます小さくなったように見えた。
「──私は、どこで間違えたんでしょうね」
 ぽつりと言葉を落とした。
 望んでいたのは、孫娘の幸福、それだけだったのに。先の短い自分の近くではなく、経済的にも裕福な父親の許で、新しい家庭を築いていくのが幸せだろうと、そう思っただけだった。
 決して、決して、こんな風になることを、求めていたわけではなかった。
「こうなってみて、はじめて思いました。今までの穏やかな毎日にこそ、時子の幸福はあったのに、私はそれを見ようとしなかったのではないかとね。あの子の幸せは、私なんかが勝手に決めるべきものではなかった。あなたにも、ひどいことを申しました。だから今、こうして、その報いを受けているのかもしれません。……時子は、時子自身の手で、幸せを壊そうとしている」
 道江は顔を動かして、窓の方へと向けた。外では雪が静かに降り続き、景色が白く染まりかけていた。
「…………」
 その小さな後ろ頭を見ていたら、環の胸の中に、突き上げる強い感情が湧いた。考える間もなく、訊ねていた。
「トキは、どこにいますか」
 道江がこちらに向き直った。環と目を合わせると、少しだけ口元を緩める。
「雪が積もりそうなので、屋上に行くと言っていました。……あの子は昔から、雪が降ると、じっとしていられないんですよ」


          ***


 屋上へ通じる階段を探す途中で、「ここは携帯使用可能です」 という札がかかっている一画を見つけた。病院というのは携帯の使用が全面禁止になっているものと思い込んでいたのだが、そういうわけでもないらしい。時子も、こういうところから電話をかけていたのだろうか。
 自分の携帯を取り出し電源を入れてから、少し考え、事務所にかけてみることにした。一応連絡くらいは入れておこう、と思ったのもある。
 コール一回で、すぐに相手が出た。
「はいはいー、リンリン参上、あなたの街のスズカ便利屋でーす」
 鈴鹿の間延びした声の後ろで、あはは何ですかそれー、と遠慮なく笑う純の声と、うわダッサ客が逃げるよ、とこきおろす桂馬の声が聞こえた。環が本当の客だったら、多分この時点で電話を切ると思う。
「……所長、そのフレーズ使うの、やめた方がいいんじゃないですかね」
 滅多にない親切心から忠告すると、鈴鹿が 「あれ、不破君かい?」 と驚いた声を上げた。背後の賑やかなふたつの声が、ぴたりと止まる。
「どうしたんだい?」
 問いかける鈴鹿の口調はいつもとまるで変わりなかった。いかにも頼りにならなさそうな、威厳や落ち着きとはまったく無縁のその声音に、環はわずかに息をつく。時々腹は立つが、こういう時に聞くと、妙に気分が落ち着くのは不思議だな、と思った。
 自分は意外と、あの上司が嫌いではないらしい。
「これから、トキと会うんです」
 口をついて出たのは、子供みたいなそんな報告だった。事務所のこととか、仕事のこととかを確認しようと思っていたのに、なぜか、鈴鹿の声を聞いた途端、そんなことは吹き飛んでいた。
「ああ、そうかー。頑張っておいでね」
 判っているのかいないのか、鈴鹿の言い方はどこまでも軽く、無責任である。状況を訊ねることもなく、これまでの経緯についての質問もない。環の張りつめている気を緩ませようと、意図的にそうしているのだったら大したものだ。絶対違うと思うけど。
「頑張るって、何を頑張るんですか」
 そう問い返したのは、別に皮肉でもなんでもなく、純粋に疑問からだった。環自身だって、これから時子と会って、何をしたいのかよく判らない。何を言えばいいのか、どうすればいいのか、まったく判っていない。
 ただ、どうしても、会わないと、という気持ちに突き動かされているだけなのだ。
「時子君を、たすけてあげるんでしょ?」
「…………」
 鈴鹿の答えは単純だった。事情を何ひとつとして知らないのに、それ以外の何があるの? と当たり前のようにそう言われた。
 だから環も、素直に返すことができたのかもしれない。気がついたら、もう勝手に口が動いていたという感じだった。
「……俺に、そんな資格があるんですかね」
 口に出してから納得した。環がこんな所で往生際悪く足踏みして、鈴鹿に電話なんてしているのは、それがずっと自分の中で引っかかっているからだ──と。
 だからどうしても、誰かに聞かずにはいられなかったのだと。
 環は、人間の出来損ないだ。人の心や気持ちを理解したいと思ったことがない。今までずっと、誰かと何かを共有しようという努力を放棄し続けてきた。そもそも、幸福というものがどんなものか、よく判らない。
 そういう生き方しかしてこなかったのに、時子の未来についての責任なんて負えるわけがない。これからだって、なんの約束も出来ない。だからこそ、「別れよう」 という言葉に、身動きがとれなかった。時子のほうから振りほどかれた手を、環はどうにも出来ずに宙に彷徨わせているしかなかった。道江に約束した時のように、ただ受けるしかなくて、そして時子を、手ひどく傷つけた。
 そんな自分に、今さら時子の心の中に踏み込んでいく資格なんて、あるのだろうか。
「資格ねえ……」
 鈴鹿が電話の向こうで呟く。
 それから少し間をおいて、
「あのねえ、不破君、僕が便利屋なんて商売をはじめたのはね」
 と、唐突なことを言い出した。
「まあいろいろと理由はあるんだけどね、いちばん大きかったのは、誰かを手助けしたいな、っていうものだったんだよ」
 理想と現実は違うけどねえ、と言って、ちょっと笑う。
「だってさ、世の中には、どうしても、一人では解決できない、ってことがあるじゃないか。困って、困って、どうしよう、って泣きたくなることがあるじゃないか。それが小さなものであれ、大きなものであれ、誰かの手を借りたい、って心の底から願うことがあるじゃないか。そんな時に、さりげなく手を差し伸べられたらいいなと思ったんだよね」
「……所長は、そんなに人間愛に溢れた性格をしてましたか」
 つい本音を漏らしたら、電話の向こうで鈴鹿は憮然とした声を出した。
「もちろんだよ、なに言ってんだい、不破君。僕はそういうの、昔から憧れてたんだよ。だっていいじゃないか、ハードボイルド小説の探偵みたいでさあ」 
 夢見るように最後の台詞を付け加えられて、合点がいった。なるほど、憧れの原点はそこであるらしい。
 そういえば、若い頃は本気で探偵になりたかったと、以前に言っていた。そうやって形を変え、鈴鹿は鈴鹿で、夢を叶えたわけだ。
「まあ現実には、ただ単に面倒なことを他人に押し付けようとか、厄介ごとをお金で解決しようとか、そういうことだけでやって来る人も多いんだけどさ」
 後ろで聞き耳を立てているらしく、桂馬のわざとらしい咳払いが聞こえた。
「人の裏側も見えちゃったりするしね、あんまり綺麗なことばっかりの商売でもない。不破君も、それは知ってると思うけど」
「……そうですね」
 確かに知ってる。世間には、面倒なことを誰か別の人間に肩代わりさせて解決しよう、と思う人間はゴマンといて、そういう連中は、便利屋という職業を、ただの金で雇った道具としてしか見なさない。
 なにより、環自身、働きながらそう思っていた。だから、時子がスズカ便利屋のバイトをすると言い出した時、どうしてもいい気分にはなれなかったのだ。自分は別に道具と思われたって気にならなかったけれど。
「でもやっぱりさあ、便利屋の基本は人助けなんだよ。僕は、そう思ってる。自分だけではどうしようもないことに、手を貸して、助けてあげる仕事なんだとね」
「…………」
 お困りの方を、力の限り手助けするのがこのスズカ便利屋です、と鈴鹿がよく言ってたっけ。
 ──だから、今も。
 こうして、立ち止まる環の背中を押してくれているんだろうか。
「君も便利屋の一員なんだから、一人きりで困っている人がいたら、手を差し出してやんなさい。資格とか、この先とか、面倒なことは、とりあえず後回しにしておきなさい」
 考え違いをしてはいけないよ、不破君──と、少し強い口調で言った。
「誰だって、一人で立つだけで何もしなければ、何も出来やしないんだ」
 誰だってね、と繰り返す。
「誰かをたすけたい、と思ったら、その人間はその時点で、誰かをたすけるに足る人間になるんだ。誰かに向かって手を差し出したら、その瞬間から、その人間は誰かを支えるに値する人間になるんだよ。いいね?」
 そして、静かに、はっきりと言った。
「時子君を、たすけてあげなさい」
「…………」
 しばらく口を閉じた後で、
「──はい」
 と、返事をした。
 通話を切り、踵を返して歩き出す。階段を上って、屋上へと向かった。
 屋上へと通じる灰色のドアは、重そうな鉄製だった。ここまでは空調があまり届かないのか、外の冷たい空気が隙間から流れ込んでくるのか、階段を上った先は寒いほどにひんやりとしていた。薄暗く、物音もしない。
 環は、ドアに手をかけた。



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