猫の手貸します

Last case:ひとだすけ

雪色ロマンス(9)




 時子の姿を見て、まず最初に思ったのは、痩せたな、ということだった。
 もともとあまりふくよかな方ではなかったが、頬のあたりが以前よりも肉の削げた感じがする。首が細くなっているし、V字のセーターから覗く鎖骨がくっきりと浮き出ている。顔色も良くない。ちゃんと食べていないんじゃないだろうか。
 時子は屋上のフェンスを背に、ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、ドアを開けた環をじっと見つめていた。
 せっかくフードがついているのに被っていないから、焦げ茶色の髪にはもう白い雪が薄っすらと乗っている。その雪は下の方から少しずつ融けて、髪の先から冷たそうな滴をしたたらせていた。前髪を伝って落ちた水滴が頬を濡らしているのに、時子はそれを、拭いもしない。
 その顔に、驚きはないように見えた。こちらを見返す眼差しは、どこまでも真っ直ぐで、透徹としていた。大いなる混沌を含んだ瞳は、冷たく澄んで揺れもせず、そのくせどこかがひどく柔らかい。
 口元は一文字に結ばれて、ひとことでも言葉を紡ぎだそうという意志すらないらしい。環は足を踏み出し、雪の上に足跡をつけながら時子の近くまで寄っていったが、すぐ前に立っても、その身体も表情も、ぴくりとも動かなかった。
「……時子」
 喉の奥から押し出すようにして名を呼んだ──瞬間。
 ゆるりと、時子が動いた。
 大きな目をひとつ瞬き、唇がふわりと緩む。淡く微笑んで、首をわずかに傾けた。
「私を見つけてくれて、ありがとう、環君」
 優しい声で、そう言った。
「…………」
 ああ、そうか、と環は思った。今までよく判らなかった自分自身の行動が、一気に腑に落ちるような気分だった。
 俺は多分、そのために、ここにやって来たんだ。


 ほんの少しだけためらってから、手を動かし、頭の上の雪を払い落としてやった。
 時子は大人しく目を閉じ、されるがままになっている。雪と一緒に水滴を落とすため、髪を軽く梳いたら、気持ちよさそうにちいさく息をついた。
「……逢坂さんのところに行ってきた」
 髪に触れながら静かにそう言うと、時子は一瞬だけ薄く目を開けて、また閉じた。
 そう、と呟くように返事をする。
「ごめんね」
 と、ぽつりと言った。
「…………」
 その謝罪は何に対してのものなのか。黙っていたことに対するものなのか、別れを告げたことに対するものなのか。それとも、もっと全然別のことなのか。時子はそれの説明をしようとはしない。きっと、環からの返事も、求めてはいないのだろう。
 時子は、嘘も、罪も、真実も、すべてを一人きりで背負っていた。逃げもせず、言い訳もせず、そこから目を逸らすこともしない。
 ……そして、他の人間からの何も、必要とはしていない。
 ごめんね、という言葉は、許しを求めているわけではない。彼女は、誰に対しても、救いも、赦しも、望んではいないのだ。これっぽっちも。
 ──時子の心のずっと奥深くにあったもの、それがこれだ。
 時子の父親が、母親が、桐子が。
 道江が、環が、時子をそんな風にしてしまった。泣きもしない。取り乱しもしない。そうしたくても、そう出来ない。誰にも弱い部分を晒そうとはせず、いちばん苦しい時に、手を伸ばさずに、引っ込める。それしか出来ない。時子が、たったひとり残った 「家族」 のためには他のすべてを捨ててしまう、という偏った選択しかできないことも、気づかなかった。彼女をそこまで追いつめてしまったのは、すべて環たち周囲の人間の咎だ。
 父は目を逸らし、母は存在を無視して去った。桐子は思い込みの檻から抜け出せず、道江は自分から繋いだその手を離そうとした。そして、環はずっと、気持ちを形にすることを拒み続けて。
 いろんなことに気づかないフリをして、それぞれがそれぞれの思惑を時子に勝手に押し付けた。時子の幸せを求めていながら、結局は今あるものを壊すことしか考えなかった。子供であり続けることを許さない境遇を作り出しておいて、大人になることも認めてやらなかった。時子が現在手にしているほんのわずかなものを、どんなに大事に思っていたか、どんなに死に物狂いで守ろうとしていたかを、本当に理解することもせず。
 大好きだよ。
 時子はずっと、そう言い続けていたのに。
「──トキ」
 頭から指を離して、今度は両方の手で時子の両肩を掴んだ。上体を屈ませ、顔を覗き込み、時子の目線と同じ位置に合わせる。時子は素直に見返してきたが、その瞳からは彼女が何を考えているか、まるで読み取れなかった。
 環と時子の間には、今、どうしても縮まらない距離がある。これ以上なく冷淡に環を切り離すことを選択した時子は、今もその選択肢の示す道を進んでいる。腹立たしいほど、環には、時子の考えていることが判らなかった。
 そう、そうだ、他人が痛みを負っても、苦しみを味わっても、それを芯から理解するなんてことは不可能だと思っていたのは環だ。どんなに言葉を尽くしても、他人のそれを自分のことのように感じ取るなんて傲慢な話だと、「判る」 なんて、単なる自己満足以外の何物でもないと、そう思っていたのは環だった。
 けど──
 人と人の間には、綺麗なものや温かいものもあるって、そう言っていたのはお前じゃないか。永遠に続くものではなくても、存在する何かがあるって信じたいんだと、言ってたじゃないか。
 一緒にいたら、信じられるような気がするって。

 俺も、それを信じたいんだ。

「トキ、俺と一緒に逢坂さんのところに行こう」
 環がそう言うと、時子の顔に怪訝そうな色が浮かんだ。
「……どうして?」
「お前は言わなきゃいけないことがあるだろ、逢坂さんに。それを、はっきり口にして言わないと駄目だ」
「…………」
 時子は口を閉じ、ふいと視線を逸らした。肩を掴んでいる環の腕に目をやっているが、見ているものはそれじゃない。
「無駄だよ、そんなの」
「何が無駄なんだ?」
「言ったって、しょうがないことだもん」
「そんなことない」
 ぐっと手に力を込める。軽く揺さぶったら、時子が再び環の顔に目を戻した。
「……私、お母さんを助けられなかった。私の言いたいことは、お母さんには伝わらなかった。何ひとつ。私の言葉は、お母さんをなにより傷つけて、命を投げ出す決意のきっかけにしかならなかった」
 淡々とした口調で言って、闇と光の共存する瞳を真っ直ぐ向ける。時子の黒々とした眼差しは、台詞の内容とは裏腹に、悲痛なものは含まれていなかった。怒りもなく、嘆きもない。凛とした輝きだけがある。
 そうだ、この瞳だ。環を惹きつけて離さないもの。
 自分の感じたつらさや苦しさを、他人に押し付けようとも、判ってもらおうとも思わない。それを受け入れて、乗り越えて、なおかつ前へ進もうとする強い意志のきらめく瞳。

 誰かに、救いや赦しを求めることはしない。
 母親を救うことが出来なかった自分が、他人にそれを求めたりはしない。
 結局、人は、自分で自分自身を、救い、赦すしかない。

 ……でも、時子。
 それは希望や強靭さであると同時に、諦めでもあり、拒絶でもあるんだ。
 判ってるか? お前の中に、矛盾が存在していることに気づいているか? 諦めや拒絶の上には、救いも赦しもあり得ないって、理解しているか?
 自分を救うのも赦すのも、一人っきりでは、どうしたって出来っこないんだと知ってるか?
 その矛盾と混沌が、お前にこんな孤独な道を選ばせたんだって、自覚しているか?
 こんな場所で、雪の中、たった一人ぽつりと佇んで、お前が思っていたのは何だった?
「トキ」
 正面から、その目を見据えて口を開いた。
「だけど、お前は今まで、たくさんの人を助けてきただろ?」
「……?」
 時子が眉を寄せた。何を言ってるのかわからない、とその顔に書いてある。
「便利屋の仕事を、俺はただ、自分が道具になったつもりでこなしてきた。客の要望を、金と引き換えに引き受ける、それだけのものだと思ってた。けど、お前は違うだろ?」
 環の言葉に、時子の表情はさらに戸惑ったものになった。
「……違わない、よ」
「違うね。お前はずっと、誰かを 『助けたい』 って思いながらやっていた。いつでも、どんな時でも、どんな客が相手でも、一貫してそうだった。困ってる人がいるから、自然に手を貸す、そういう意識が常にあった。客の方だって、ちゃんとそれに気づいてた。無意識でも、はっきりと言葉にはしなくても。だから今だって、みんながお前を心配してるんだ。お前が困ってるなら助けてやりたいと、心の底から願ってるんだ」
「…………」
 時子が目を伏せ、少し困ったように笑った。
「……私、そんなに大層なことしてない」
「そりゃそうだ。ペット探しとか、浮気調査とか、部屋掃除とか、除草作業とか、便利屋に来る依頼なんて、些細なものばっかりだ。でも、それでも、お前と関わった客は、誰もがみんな、どこかが救われたはずだ。人生を変えるような大きなものじゃなくても、ほんのちょっとの変化でも。お前はいつも、誰かの何かに、きちんと手を差し伸べてた」
 さあ、と笑いながら、いつも迷わず自分の手を差し出していた。

 たとえばそれが、猫の手くらいの、ちいさな手でも。

「変わってるものは確実にある。救われた何かは、絶対にある。小さかろうが大きかろうが関係ない。お前はそうやって、たくさんの人を助けてきただろう」
「……私、が?」
 ずっと変化のなかった時子の声に、はじめて波紋が入った。
 そうだよ、と頷く。
「母親は助けられなかったのかもしれないけど、お前は他に、何人もの人を助けてきたじゃないか。だから、今度はお前が、助けられる番だ。救った分、救われていいんだ」
 そうやって、助けて助けられて、人の世が廻っていけばいい、と新城夫人は言った。
 今なら、環もその言葉に同意できる。
「──お前ももう、救われていいんだ、時子」
 時子の顔を覗き込みながら、力強く繰り返した。
「しょうがない、なんて諦めたら駄目だ。お前の心の中にだけ閉じ込めておいちゃ駄目だ。言いたいことがあるんだろ、逢坂さんにも、俺にも。『ごめん』 なんて言葉じゃなく、『別れよう』 なんて言葉じゃなく、本当は、もっと言いたいことがあるんだろ」
「…………」
 表情は変わらなかったが、時子の唇が、わずかに引き攣ったように動いた。
 ぐい、と掴んだ両肩を引き寄せる。軽い身体は苦もなくひっぱられ、すっぽり環の腕の中に納まった。
「言えよ、時子。──今度こそ、ちゃんと聞くから」
 耳元に口を寄せて言うと、冷え切った身体が身じろぎした。
 しばらくの沈黙の後で、
「……わ」
 と、震えた声が唇から洩れた。
 ぽろりと、涙が落ちた。
「わ、私を……見て」
「ああ、見てる」
 濡れた頬を指先で拭ったが、瞳からは、あとからあとから涙がぽとぽとと零れ続けている。
「私の名前を、呼んで」
「何度でも呼んでやる」
 時子、と囁いて、雪の貼りついた髪に唇を寄せた。
 時子の喉から、押し殺した嗚咽が絞り出された。
「……っ、そばに、いて……!」
 その言葉を言い終わると同時に、時子の唇に強く口づけた。
 壊れるほどにきつく抱きしめ、お互いの唇を求め合った。息苦しいほど繰り返し、角度を変えてまた交わり、深く激しく絡み合う。
 いつの間にか、背中に廻った華奢な手が、しがみつくように環の上着を握りしめていた。


 唇を離したら、時子が泣き顔のまま笑った。
「……別れよう、って言ったら、わかった、ってすぐに答えたくせに」
 どうやらやっぱり根に持っているらしい。
「言っておくが、俺だってけっこう堪えたんだ」
 言い返し、指で時子の頬を弾く。痛い、と時子が尖らした口に、軽くキスを落とした。
「お前の顔が見られなくて、声が聞けなくて、苦しかったし、つらかった」
 正直に白状したら、時子がぱちぱち瞳を瞬いて、もの珍しそうにまじまじ眺めてきた。もう一度、今度は頬っぺたをつねる。いたいいたい、と騒いだが無視した。
「……うん、私もね、苦しかったし、つらかったよ。いつも、環君に、会いたくてたまらなかった」
 ふふ、と笑いながら時子が言った。頬がピンク色になったのは、環がつねったせいではないのだろう。
「じゃ、同じだ」
「同じだね」
 声を合わせて笑った。
 今まで別々の場所にいたけれど、抱えていた胸の痛みや、苦しさ、つらさは同じ。環はその痛みを想像できる。どんな苦しさだったか判る。ぽっかり空いた大きな心の穴の、深さ暗さを知っている。
 何を見ても、何をしても、会いたいと願う気持ちに繋がった。お互いが、お互いに。
 こういうのを、「共有する」 って言うのかな、と思った。

 そうか、悪くない。

「──俺たち、一度は別れたけど」
 と環が言うと、時子が真顔になって口を閉じた。息を呑みこむ気配がする。
 頬にくっついた髪の毛を、丁寧に指で整えてやった。
「もう一回、はじめからやり直そう、時子」
「…………」
 時子がしばらく黙り込み、でも、と口ごもる。
「でも私、また、環君よりもおばあちゃんを選ぶかもしれないよ。……同じ状況になったら、また同じことを言うのかも」
「それでもいい」
 と、環はきっぱり言った。本心から、そう思った。時子は何があっても、「家族」 を捨てられない。ひとつしか選べないとなった時、最優先にするのが祖母だということは判っている。時子が選ぶのが、環ではなくて祖母でも、それは構わないのだ。同じ状況になって、同じことを言われても、今度環が返す言葉は違う。
「それでもいい、そばにいる」
「──……」
 時子が、環の胸にぎゅうっと顔を押しつけた。
「……環君て、私がずっと言って欲しかったことが、どうして判るのかな」
「じゃ、他にも言うからよく聞けよ」
 え、と時子が目を丸くして環の胸から顔を離す。環はその顎を掴んで上向かせた。
「好きだよ」
 そう言って、唇を重ねた。



         ***


 二人で病室に戻ると、道江は眠っていた。
 しんとした静寂の中、時子がゆっくりとベッドへと近寄る。枕元に向かって、まるで内緒話でもするみたいに、「……おばあ、ちゃん」 とひそやかな声をかけた。
「…………」
 一拍の間をおいて、道江は薄っすらと瞼を開けた。
 束の間、ここはどこだろうというように視線を彷徨わせた後、時子の顔を見て、ゆるやかに瞬きをする。
「……時子」
 子守歌を歌うように名前を口にして、口許に微笑を刻んだ。
「あら、まあ、大きくなって。……今ねえ、あなたがちっちゃかった頃の夢を見てたのよ」
「そう、私が?」
 時子も静かに笑った。
「あの頃から、時子はおしゃまさんだったわねえ」
 道江の声は弱々しかったが、それでも目は優しく細められていた。
「そうかなあ」
「そうよ。可愛かったわ」
 道江は小さく頭を動かし、目線を時子から天井へと移した。どこか遠くでも見るように。
「その言い方、今は可愛くないみたい」
 時子がちょっとむくれたフリをする。道江は天井に目をやったまま、くすくすと可笑しそうに笑った。
「今も可愛いわよ。……でも、あの頃には、もう戻れないのねえ」
「…………」
 道江の独り言のような言葉に、時子は口を噤んだ。道江はまだ半覚醒の状態なのか、喋り方がどこかぼんやりと覚束ない。
「幸せだった頃には、戻れないのねえ」
 夢見るような口調だった。
 時子はじっと身動きしないで道江の横顔を見つめている。後ろから環が肩に手を置くと、びくりと揺れて、ちらっと振り返った。
 環が目顔で頷くと、時子は口元を引き結んで、再び道江のほうに顔を戻した。
「……おばあちゃん」
 低い声に、道江がまたのろのろと頭を動かして時子を向く。
 時子は一呼吸分沈黙してから、口を開いた。
「おばあちゃん、私、今も幸せだよ」
「…………」
 道江の瞳は動かずに時子に据えられている。
「おばあちゃん、私はアメリカには行かない。ここにいたいの。おばあちゃんと環君のそばにいたい」
「…………」
 黙っている。道江はじっと時子を見て、ただその声に耳を傾けていた。
「私、ここにいたい」
 時子の涙が、ぽつ、ぽつ、と白い布団に染みを作った。息を吸って、吐き出す。
「……いかないで、おばあちゃん」
 ずっと言いたかった言葉、言いたくて言いたくて、でもどうしても言えなかった言葉を、やっと口にした。

 どこにも行かないで。
 ここにいて。
 私を置いて行かないで。

「いかないで、いかないで、おばあちゃん、お願いだから」
 いかないでおばあちゃん、と何度も何度も言って、時子はわあんと声を出して泣き出した。
 駄々をこねる子供みたいに、思いきり泣いた。
「……あら、まあ」
 道江はゆったりとした動作で細い腕を持ち上げ、ベッドに突っ伏して泣き崩れる時子の頭を優しく撫ぜた。
「その泣き方、あの頃からちっとも変わってないのねえ……」
 その目には、涙が滲んでいた。
 時子の泣き声の合間に、環は上体を傾げ、声を抑えてそっと道江に耳打ちした。
「すみません、逢坂さん。……約束を、破ります」
 道江は環と目を合わせ、にっこりと笑って頷いた。
 窓の外では、雪が音もなく降り続いている。



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