猫の手貸します

case2:浮気調査

若者達に愛の手を(3)




 朋香の家も、秀一の家も、ここから電車で三駅ほど先にいった場所にあるのだという。
 三人で環のバイクに乗っていくわけにもいかないので、最寄り駅に向かって歩きながら、秀一はずっと無言だった。
 一方、時子はそんな彼には構わないで、実によく喋った。時々、秀一や環に 「ねっ、そうよね」 などと同意を求めたりしながら、返事がなくても一向に気にした様子もなく、思いつくまま今日の天気のことだとか、駅前にある美味しいケーキ屋のことだとか、大学の偏屈な教授のことだとかを、脈絡もなく話し続けている。
 ただ、事務所にいた時とは違って、秀一や朋香のことについては、なにひとつとして具体的なことを突っ込んで訊ねたりはしなかった。
 駅の近くまで来ると、ずっと俯きがちで黙っていた秀一が、ある場所でぴたりと足を止め、顔を上げた。
 彼がじっと見ているのは、「浮気調査はプロにお任せ!」 と大きく書かれた看板だ。
「……僕、中学は電車通学で」
 と、秀一はぽつりと呟いた。時子と環は、彼と同じようにその場で止まって看板を見上げたが、特に返事をしたりしない。それでも彼は独り言のように続けた。
「毎日、電車に乗ってると、この看板が窓からよく見える。いつも流れる景色の一部としてしか認識してないんだけど、時々、ふいに目に付くことがあって、僕はそのたび、心の中で笑ってた。結婚相手が浮気してるかもしれないからって、関係ないまったくの他人にお金を払って 『調べてください』 なんて、ものすごく浅ましいことだよな──って。そんなことする前に、まず、本人に聞いて、確かめて、話し合う努力をすればいいのに、って。でも」
 秀一は、顔を下に向けて、手を拳にしてぎゅっと握った。
「……でも、いざ、自分のことになると、怖くてそんなこと出来ないんだ。だって、面と向かって訊ねてみて、相手にあっさり頷かれたり認められたりしたら、どうしたらいいのか判らない。電話で聞くことでさえ、怖くてたまらないのに。だから、気づかないフリをして、関係ない話とかをしたりして、普通の顔をしてやり過ごそうとする。気のせいだって、無理矢理思い込もうとする。だけど、心の中のどっかは、ものすごく本当のことを知りたがってるんだ。知りたくて、知りたくない。ここしばらく、ずっとそんなことばっかりを考え続けて、頭がヘンになりそうだった。それで、今日になったら、なんかもうたまらなくなって、気がついたら今まで貯めてたお金をありったけ持ち出して、ここまで来てた」
 それだけ言うと、秀一はまたぷいっと顔を背け、さっさと駅に向かって歩き出した。成長途中のまだ小さな背中は、頑なに何かを拒んでいるように見えたので、時子も環も、声を掛けようとはしなかった。
 彼の後について、再びゆっくりと歩き出す。


 まだラッシュアワーには早い時間だったので、電車内は比較的すいていた。
 秀一と時子が並んで座席に座り、環が二人の前に立って吊り革に掴まる。電車が動きはじめてから、時子は、友達に話しかけるような屈託のない口調で、隣の中学生に向かって口を開いた。
「ねえ、うさちゃんてどんな子?」
 時子の中で、その呼び名はすっかり定着してしまったらしい。秀一は少しだけイヤそうな顔をしたものの、それでも、事務所にいた時のような、ハリネズミのように刺々しい雰囲気は消えていた。
「……おとなしい、かな」
 ちょっとだけ間を置いて、答える。
 答えてから、わずかに首を捻った。なんだか、その言葉は今ひとつ、彼女の本質とはズレているようでしっくりこないような気がするけど、でも他にどういう単語で言い表せばぴったりするのかよく判らない、という感じだった。そういう顔をすると、秀一は年齢相応に子供っぽく見える。
「気が弱いってわけじゃないんだけど、お人よし、っていうか。小学校の五年と六年の時、僕と朋香は同じクラスだったんだけど、その頃から、自分の係じゃないのに、よく他のヤツらの仕事まで押し付けられてたりしてた。けど、文句も言わないで、ニコニコしながら引き受けて、結局ひとりで遅くまで居残りとかしてやってるような、そういう、ものすごく損なタイプ」
「へえ。で、秀一君はそういうところにクラッときちゃったの?」
 時子の質問はいささかデリカシーに欠ける、とここに鈴鹿がいたら指摘していただろうが、秀一は他のことを考えているのか、それとも慣れてきたのか、大して気には留めていないようだった。
 小さく首を横に振り、一旦、言いづらそうに口を噤む。
「……ずっと、バカじゃないの、って思ってた」
 ぼそりと落とされた言葉には、若干、後ろめたさや悔恨が滲んでいるように聞こえる。
「正直に言って、僕、朋香みたいな子のこと、軽蔑してたんだ。もっと要領よく立ち回らなきゃ、自分ばっかりが損な思いをするってことに、どうして気づかないんだろうって。この世界は、他人を利用して、自分さえ美味しい思いをすればいいやって人間で溢れてるんだから、自分はそいつらよりも更に頭を働かせて、常に優位な位置にいなきゃならない。利用されるだけのヤツなんて、結局は負け組だ。人間は勝ち組と負け組にくっきりと分かれてて、勝ち組に入らなきゃ、なんの意味もない。……だから、朋香みたいなのは、将来苦労するだけのバカだって、見下してた」
 そう言って、恥じ入るように下を向いた。
「でも、それが変わったんだ?」
 時子の声は少し笑みを含んでいる。ちょっぴりからかうように、けれど、優しく柔らかく。
 秀一は下を向いたまま、こくんと頷いた。
「小学校を卒業する前、たまたま、朋香と話をする機会があったんだ」
 その時、秀一は既に私立の中学に入ることが決まっていて、小学校の同級生達とは、大半が別れることになると判っていた。もう、顔を合わせることもなければ、会話を交わすこともない。だから、秀一としては軽い餞別代わりくらいの気持ちで、朋香に忠告することにしたのだ。
 ──宇佐美さあ、もうちょっとしっかりしろよ。いつまでも他人に利用されてばっかりじゃなくて、利用することも考えたら? そんなんじゃ、ろくな将来にならないぞ。
「そうしたら、すごく不思議そうな顔をされた」
 きょとんと、大きな瞳を見開いて。
 でも、伊藤君。
 と、朋香は穏やかに笑いながら首を傾げた。
 ──わたし、人から 「ありがとう」 って言われるの、嫌いじゃないんだよ。
 あっけらかんとそんなことを言うその姿には、虚勢や負け惜しみは微塵も混ざっていないように見えた。普段と同じようにニコニコと笑ったままの顔は、秀一が思い込んでいた 「負け組」 のそれではなかった。
「それで僕、思い出したんだ。考えてみたら、朋香は一度だって、人から何かを頼まれても、それを嫌々やってたことはなかったって。いいよーって気軽に引き受けて、なんでも楽しそうに片付けてた。それで、ありがとう、って言われて、いつも嬉しそうに笑ってた。だから、朋香の周りには、いつだって優しい空気が流れてた」
 そして更に彼女と言葉を交わした秀一は、その時はじめて、朋香には、ちゃんとした 「将来の夢」 があるのだということを知った。
「通訳になりたいんだって」
 だって、言葉の通じない人と人が、わたしの通訳で普通にお喋り出来るようになるかもしれないんだもん。それって、すごく素敵なことじゃない? と瞳を輝かせながら、朋香は言った。
「それで、ずっと教室に通って英語を習ってて、家でも、つい楽しくてそっちを優先させちゃうから、他の勉強にまで手が廻らなくって、お母さんに怒られるって、恥ずかしそうに笑いながら言ってた」
 わたしはそんな風にひとつのことしか出来ないけど、伊藤君は頭がいいから、同時にいろんなことが頭に入るんだよね。いいなあ。
 と羨むように朋香は言ったが、秀一はそれに返事なんて出来なかった。確かに自分は頭がいいし、どんな教科でもまんべんなくよく出来る。それは秀一の自慢でもあったけれど、その時は、その誇りが惨めに打ち砕かれるような気分になっていた。
 秀一の将来の希望は、「いい大学に入ること」、それだけだった。いい大学に入って、いい職に就いて、たくさんお金を貰って、人の上に立つような仕事をすること。利用される側ではなく、利用する側の人間になること。

 ──そんなものを 「夢」 とは言わない、ということくらい、秀一にだって判る。

 ろくな将来にならない、なんてことを朋香に対して言った自分のことが、猛烈に恥ずかしくなった。自分には、そんなことを言う資格はない。朋香のほうが、秀一よりも数段しっかりしていて、揺るぎない何かを持っている。
 この時点で、秀一は朋香に対する見方をがらりと変えた。見下す相手から、尊敬すべき眩しいひとりの女の子になった。
 次の瞬間には思わず、「卒業してからも、電話とかしてもいい?」 と聞いていて、朋香は驚いたようだったけれど、やっぱり朗らかに笑って、いいよー、と答えてくれた。
 それからお互いに別の中学に入って、何度もメールのやりとりをして、電話で話もして、時には二人で遊びに出かけたりもして、一年生の夏休みが終わる頃、秀一は正式に朋香に対して、「付き合って」 と申し込んだ。
 朋香は顔を赤くして、こくりと頷いた。
「僕はほんとうに朋香のことが好きだし、大事だと思ってる。真面目に、真剣にそう思ってる。けど、大人はみんな、それを 『子供のくせに』 って笑うんだ。大人の恋愛はホンモノだけど、子供のそれは全部遊びだって片付けて、笑い飛ばして、それでお終い。好きだっていう気持ちはおんなじでも、頭や身体や心が成熟してないからって、それだけの理由で」
 秀一は悔しそうに吐き出して、唇を強く引き結んだ。それからきっと顔を上げて、自分の前に立っている環と真っ向から目を合わせる。
「……大人と子供では、そんなに違うんですか」
「………………」
 環は表情を変えずに、その視線を受け止めた。
 秀一は、純粋だけれど、頑固な瞳をしていた。子供と大人とで何が違う、と怒りながら、結局大人には判らない、と決めつけて殻に閉じこもる。そしてそんな矛盾を孕んでいる自分に、気がつかない。なるほど、これが思春期というやつだな、としみじみと思う環は、間違いなく 「大人」 の側の人間だった。
「そうだな。まあ……大人になると、もうちょっと複雑になってくる部分はあるな」
 考えながら答えた。秀一の隣に座る時子が、じっとこちらに視線を据えつけていることには気がついていた。痛い、と内心で思うが、そちらには目をやらないようにする。
「複雑って? どういうところがですか。つまり遊んでばかりの世間を知らない子供は、気楽だって意味ですか」
「いちいち先走るな。お前、ちょっと被害妄想気味だぞ」
 つっけんどんに突っかかってくる秀一は、確かに頭のいい子供なのだろう。知恵が廻る分、余計なことを考えすぎるから、こういう可愛げのない性格になるんだ、と自分のことは棚に上げて、環は分析した。
「大人になると、いろいろと入り組んだ事情ってのが見えてきちゃうんだよ。経験を積んだ分、こうするとどうなる、ってのがある程度予測できるようになるから、感情のままに行動することが難しくなってきたりさ。お前みたいに 『好きだ』 とか 『大事だ』 とか思っても、それを素直に口に出せなくなってくることは、ある」
「………………」
 時子は無言のままだ。そちらを見ないようにい続けるのは、正直、意志の力が必要だった。
 眉を寄せている秀一は、環の台詞に納得できないようだ。
「抽象的すぎてよく判らない。好きなら好きって言えばいいのに。そうやって自分を縛っちゃうのが 『大人の恋愛』 ってやつなんですか。そんなの、自分自身で勝手にややこしくしてるだけなんじゃないんですか」
「まったくだ」
 そこは、苦笑して同意する。本当は、環だってそう思うのだ。思うが、周囲の色々なものに捕らわれて身動きが出来ないことは──ある。どうしてもある。しかしそこで、曖昧なまま状況を流そうとするのが、大人の狡さというものなのだろう。
 だけど。
「──けど、やっぱり根っこのところは子供でも大人でも同じなんだろうな。そばにいたい、離れたくないって気持ちはさ」
 あくまで 「秀一に向かって」、環は言った。秀一が口を閉じ、少しだけ目線を下にやってから、また上げる。
 一瞬迷ってから、
「……だったら、大人でも、好きなひとが去っていくのを、怖いって思ったりしますか」
 と、訊ねた。
「………………」
 環はその時はじめて、ちらりと秀一の隣に座る時子のほうへと視線を移した。
 時子は真っ直ぐな姿勢で、自分の向かいの電車の窓に目をやっていた。窓の向こうの、流れる景色を眺めているようで、けれど、身じろぎひとつしない。
「……怖いよ」
 静かに答えたら、秀一はまた何かを考えるように口を閉じて、床に目を落とした。
 車内アナウンスが次の停車駅を告げる。朋香の家は、この駅を降りて徒歩十分程度の距離にあるらしい。目指す場所はもうすぐだ。
 アナウンスが終わってから、環は付け足した。
「でも、子供には出来て、大人には出来ないことってのもあるだろ?」
「なんですか」
 怪訝そうに問い返す秀一に、口の端を上げて、皮肉に笑う。
「フラれたら、みっともないくらいわんわんと大声で泣き叫ぶんだよ。大人になったら出来ないから、今のうちに存分にやっとけ」
 環の言葉に、秀一は膨れっ面になって、「縁起でもないこと言わないでください」 と言い返した。
 相変わらず窓の向こうに視線をやったまま、時子が明るく噴き出して、環はほっとした。



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