猫の手貸します

case3:部屋掃除

捨てるもの・拾うもの(1)




「環君、ちょっと足上げてー」
 と時子に言われて、自分のデスクでずっと地図を見ていた環は、うん、と返事をしながら大人しく両足を上に上げた。その足との隙間をぬってモップが素早く動き、床を綺麗に拭いていく。
「はい、もういいわよー。環君、さっきから随分と熱心に地図を見てるのね」
 モップを動かす手を止めないで時子が訊ねると、もういいと言われたのに足を上げたまま、「今度、引越しの手伝いがあるんだ」 と環が答えた。目が地図から動かない分、耳から入る言葉は半分そのまま通過してしまっているらしい。
「そのアパート、けっこう入り組んだ場所にあってさ。道も狭いし、トラックを止めるともうそれだけでいっぱいになって、道路を完全に塞いじゃうんだよな。そうすると他の車に迂回してもらわないといけないから、あたりの地理とか道順なんかを頭に入れておかないと」
 この場合、「トラック」 とはスズカ便利屋所有の軽トラのことだろう。アパートに一人暮らしの人などが、近くだし、荷物も少ないし、わざわざ業者を頼むほどでもない、とこの事務所に引っ越しの依頼をしてくることがままあって、そういった場合に大変お役立ちのトラックだ。環によると、廃車寸前のポンコツで、運転するのに技術が必要、とのことなのだが。
「へえ、引越し……」
 呟いて、時子は掃除を一時中断し、事務所をぐるりと見回した。地図を見て頭を悩ましている環は足を上げたままなのだが、どこまでその体勢を維持できるのか興味深いので、とりあえず、それは放置しておくことにする。
「ねえ所長、その引越しのついでに、この事務所の椅子とか机とか、一度外に出しちゃいません?」
「は?」
 時子の突然の提案に、当然ながら、所長の鈴鹿は面食らった。
「ごめん時子君。僕、話の筋道がよく見えない。何のついでに何をするって?」
「ですからあ」
 腰に手を当てふんぞり返る時子は、まるで子供を諭すような口調になっている。
「お客さんの引越しのついでに、この事務所の家具とか事務用品とかも、外に運び出して欲しいんですよ。肉体労働は、いっぺんにやっちゃったほうがあとあとラクです。多分」
「ついでに、の意味がよく判らない。客の引越しとこの事務所のものを運び出すことに、どういう因果関係があるのかも判らないし。いや、根本的に、なんでそんなことをする必要があるのか、そこからしてさっぱり判らないんだけど」
 鈴鹿の質問に、時子はふう、と物思わしげな溜め息をついた。改めて、何度モップで拭いても綺麗になりきれない、薄汚れた事務所の床を見る。
「ワックスがけをしたいんですよねー」
「却下」
 速攻で言い切って、鈴鹿は自分の机の上に目を戻した。ちなみに彼が今やっているのは、年間の光熱費を折れ線グラフにしてみる、という、大変に実のない作業である。
 鈴鹿の返答と態度に、時子はむくれた。ワックスがけをしたい、というのは、ここ最近の時子のひそかな野望なのである。綺麗好きの掃除担当としては、この事務所が全体的に古びているのはしょうがないとしても、床くらいは輝かせてみたいのだ。
「なんでですか。やりましょうよ、ワックスがけ! 机も椅子も棚も外に出してカラッポにすれば、ワックスかけるのも簡単に済みますよ」
「その前段階が既にして全然簡単じゃない。大体、そんなことしてたら、事務所は開店休業状態になっちゃうでしょ」
「いいじゃないですか。どうせ、年がら年中開店休業中なんですから、一日くらいホントに休業にしちゃってもそう変わりませんよ」
「なんてこと言うんだい時子君。世界には、自分ひとりで解決できない厄介ごとを抱えて、藁にもすがる思いでこの便利屋に足を運ぶ人々がいるんだよ。そんな人たちを 『ワックスがけのため本日休業』 なんて冷淡な札だけで追い返すような真似、僕には出来ないね」
「バイトはじめてから一年経ちますけど、そんな人見たことありません。要するに面倒なんですね?」
「まあ、有り体に言うとそうだね」
「ひっどーい! だったら私のこの美しさへのありあまる若い情熱は、どこに向ければいいんですか!」
「……あの……」
「そんなものは、粗大ゴミと一緒に出しちゃいなさい!」
「……あの、ごめんください」
「現在の所長のほうこそ粗大ゴミに近いじゃないですかー!」
「所長、客です」
「君、仮にも雇い主を粗大ゴミ扱いして、客が……え、お客さん?」
 時子と言い争いをしていた鈴鹿は、環の声で我に返って、顔を事務所の入り口方向へ向けた。
 そこには、若い女性が、ドアを半分くらい開けて静かにたたずんでいた。もしかしてノックをしたのかもしれないが、もちろん時子にも鈴鹿にもまったく聞こえなかった。
「あっ、すみません。いらっしゃいませ」
 来客の存在に、ぱっと仕事モードに切り替わった時子が慌てて頭を下げ、その女性を事務所の応接セットへと案内した。そうしてから、手にモップを持ったままであることに気づいて、片付けるため、物置へ向かう。急いでお茶も出さなければ。
 その途中で、「トキ」 と小声で呼び止められた。
 ん? と立ち止まって振り返ると、
「……もう、足、下ろしてもいいのか?」
 と、環が真顔で訊ねてきた。


          ***


 江原美里と名乗ったその女性客は、かなりの美女だった。
 年齢は二十代半ばくらいだろうか。今時珍しいくらいの黒髪は艶々と輝いて、流れるように腰近くまで伸びている。少し伏目がちな瞳に長い睫毛が翳りを作り、ほんのりと頬が色づき、唇も派手ではないが丁寧に彩られていた。彼女の楚々とした雰囲気を完成させているその化粧が、あくまでナチュラルメイクに見えるように、非常にきっちりと手間を掛けて仕上げられたものだ──ということは多分、同性にしか見抜けないことだと思うが。
 そんな相手であるから、もともと女性に幻想を抱きがちな鈴鹿なんかはもう、美里に見惚れてすっかりご満悦である。いそいそと彼女の向かいに座って、「ご依頼ですか?」 と嬉しそうに切り出した。客から依頼内容を聞くのは、近頃ではすっかり時子に任せっきりにしていたくせに。
 所長って正直よね、とある意味感心しながら、彼女にお茶を差し出した時子は、お盆を胸の前で抱くように持ち、ちらりと自分の恋人へと視線を移した。幸いにして、環は相変わらず地図と睨めっこしていて、客の美女には目をやろうともしない。興味がないのか、時子の手前を憚っているのか、その表情からは判別し難かった。
「……あの、こちらは、どんなことでも引き受けてもらえるんですか」
 目の前のお茶には手をつけもしないで、ソファに座った美里は用心深い目つきで、鈴鹿を窺うようにして問いかけた。
「はいはい、もちろん」
 と、鈴鹿は調子がいい。いいのか、そんなこと言っちゃって。
「……実は……」
 ためらいつつ、美里が口を開く。そういう表情をすると、全体的にほっそりとした彼女は、なんとも頼りなさげに見えて、庇護本能をそそられた。いや、正確に言うと、時子は彼女が意図的にそういう顔をしていることが判ったので、別にそそられはしなかったが、鈴鹿は大いにそそられた、らしい。
「はい、どうぞどうぞ。お困りの方を力の限り手助けするのがこのスズカ便利屋です。どうぞなんでも仰ってください」
 ぐっと力を込めて、いつもは垂れ下がり気味な眉を精一杯きりりと吊り上げる。こんなに仕事熱心な鈴鹿ははじめて見た、というくらいだ。
「…………」
 美里は一旦口を閉じ、何かを考えるような顔をしたが、やがて口元を引き結び、まっすぐ鈴鹿と目を合わせた。
「あの、私、もうすぐ引っ越しをすることになっていまして」
「ああ、はい。それでこちらに。もちろんお引き受けしますよ。この事務所は、体力だけはある所員が揃っておりますから、引っ越し作業もお任せください」
 揃っているも何も、正規所員は環一人しかいない。それに、「体力だけはある」 ってちっとも褒め言葉じゃないわ、と傍で聞いていた時子はむっとした。環君は、顔もいいし、頭もいいし、優しいのに。
 それにしても引っ越し続きである。今ってそういう時期だっけ? と考えながら、なにげなく美里の膝の上に置かれた細い手に目をやった時子は、その左手の薬指に、光る石のついた指輪が嵌められていることに気がついた。
 なるほど、あるいはそれが、引っ越しの理由か。
「いえ、それはもう業者に頼んであるのでいいんです」
 美里はあっさりとそう言って、なぜか、鈴鹿の後ろで盆を持って立っている時子の顔を、ちらっと一瞥した。
「私が頼みたいのは、引っ越し前の、部屋の掃除なんです」
「……はあ、掃除」
 鈴鹿が曖昧に返事をして、少しだけ怪訝な表情をする。時子もわずかに首を捻った。考えたのは多分二人同じことだ。
 ……普通、引っ越しに伴う掃除って、家具なんかを運び出した 「後」 にやるもんなんじゃないの?
「えーと、引っ越し前の、掃除ですか」
「そうです」
 不得要領な鈴鹿の確認に、美里がきっぱりと頷く。
「不用品がたくさんありますので、そういうのを片付けたいんです。処分なども、引き受けてもらえますよね? お金は払いますから」
「……はあ……」
 やっぱり鈴鹿の返事は曖昧だ。
 不用品処分自体は、特に珍しい依頼ではない。故人の家の整理などもしたことがあるし、そういう時は多くの家具や家電などを大量に処分場に持ち込んだりする。それにかかる費用は依頼人持ちだし、そういった仕事の料金はけっこうな収入になるから、鈴鹿としてもそのテの依頼を引き受けるのにやぶさかではない。
 が。
 ──それとこれとは、ちょっと話が違う、ような。
「しかしそれでしたら、不用品だけを残しておいて、引っ越しが終わってから処分すれば」
「それじゃ困るんです」
 鈴鹿の言葉を遮って、美里は断固とした口調で言った。
「引っ越し業者が入る前に、部屋を片付けておきたいんです。私、別に難しいことお願いしてませんよね? 決められた料金はちゃんとお支払いすると言ってるんですし」
 大人しそうな外見とは違って、美里はかなり押しの強い性格であるようだった。畳み掛けるように言われて、鈴鹿は目を白黒させている。
「……えー、はい、判りました」
 本当に判っているのか心許ないが、美里の迫力に押されて、とりあえず鈴鹿は頷いた。
「それではあの、近日中にお宅に伺って、まずその不用品というのがどれだけあるのか見せていただき、見積もりを……」
「そんな悠長なことを言っている暇はないんです」
 ぱん、とテーブルを平手で叩かれて、鈴鹿がびくっと身を縮める。
「明日、家に来て、そのまま仕事をしてください。かかった分だけの実費はもちろん、料金も正規のものに上乗せしてもらって構いません。わざわざ見積もりなんて取らなくたって、幾らかかってもいい、と申し上げてるんですよ? 何か文句でもありますか」
「い、いえ、文句は、ないんですが」
 鈴鹿は、豹変した美里の態度にすっかり怯えてしまっている。なんだかもうこうなると、依頼を断るどころではない。完全に美里の言いなりである。
(──なるほどねえ)
 と、時子は感心した。
 それで、このスズカ便利屋に来たわけだ。ここなら、いかにも他に仕事の予定が入っていなさそうで、料金をはずめば無茶な要求も通りそうだと踏んだのだろう。まあ、あんまり間違ってないけど。
「で、では、ここにいる不破君が、担当になりますから」
 鈴鹿は、環にこの怖い女性の依頼を丸投げすることに決めたらしい。実際、いつもまともに仕事をするのは環だけなので、担当もへったくれもないのだが、そう言って鈴鹿が指し示した彼を見て、美里は眉を上げた。
「お断りします」
 はっきり言われて、は? と言ったのは鈴鹿だけではなく、時子もだ。美里はそう言うなり、ぷいっと環から顔を背けてしまう。
 環は最初からずっと知らんぷりで地図を見ているが、なによ、私の環君のどこが不満なのよ、と時子はむかむかした。環を気に入られたらもっと腹が立ってしまうわけだが、それはそれとして。
「見知らぬ男性を家に入れるのはイヤなので」
 引っ越し業者は大部分が見知らぬ男だと思われるのだが、それはいいのか。
「あなた、やってください」
 と言って、美里が真っ直ぐ目を向けたのは、時子だった。
「……は、私ですか」
 いきなり指名されて、腹立ちを通り越し、呆れた時子が間の抜けた声を出す。まさかここで、自分の出番がやってくるとは思わなかった。
「あの、その子は所員ではないんですよ」
 鈴鹿のとりなしにも、美里は引き下がらない。
「あら、だって、さっき、ここの掃除してましたよね? 聞こえてきた会話から察するに、整理とか片付けとか、そういうことが好きなんでしょ? だったら私がお願いするこの仕事だってぴったりだわ」
「………………」
 ま、別に嫌いではないけど、と心の中で呟く。色々と腑に落ちないことはあるが、要するに仕事としては、不用品を仕分けして処分するだけのことのようだ。重いものを運ぶのは時子だけでは無理だろうが、片付けをするくらいなら確かに時子にも出来る。
 どうしようかなあ、と思いつつ、口を開こうとしたら、
「そいつはバイトなんで」
 という言葉が、後ろから飛んできた。振り返ると、やっと地図から顔を上げ、環が仏頂面で美里を睨んでいる。美里はずっと蚊帳の外にいた男の突然の乱入に一瞬怯んだようだが、すぐに態勢を立て直した。
「バイトでもなんでも、ここの人には違いないでしょ。なんだったら、ここでの時給の二倍の金額を払っても構わ」
「そういう問題じゃない。手伝いとしてならともかく、こいつ一人で便利屋の仕事はさせない。どんな内容のことだって同じだ」
 言い返す美里の言葉を強引に断ち切って、環が低い声でぴしゃりと退ける。普段言動がぼーっとして見える分、こういう時の環は少し怖い。
「……だったら、ヨソに頼むわよ。いいの?」
「そうしてくれ」
 美里にしてみれば貧乏事務所の足許を見て言ったつもりなのだろうが、環にすげなく切り捨てられ、はじめて動揺した表情を浮かべた。「……それは、不破君の権限で決めることじゃないんじゃないかな……」 という鈴鹿の呟きは、全員から黙殺である。
「………………」
 しばらく沈黙して迷ったあと、わかりました、と美里はぽつりと言った。
 時子のほうに顔を向ける。
「──不破さんの手伝いとしてなら、来てもらえるのよね?」
 念を押すように言う美里に、環は何かを言おうと口を開きかけたが、時子は目顔でそれを押し留めた。
「はい、行きますよー」
 にっこりしながら、愛想よく返事をする。
 もちろん、環を、こんな美人と二人っきりにさせるわけにいかない。


          ***


 で、翌日。
「…………。環君、こういうの、なんていうんだっけ?」
 美里が借りているアパートの一室に到着して、時子は呆然と隣に立つ環に問いかけた。
 その質問自体はしょっちゅう時子の口から出るものだが、今回はちと種類が違う。さすがにすぐに回答を示してはやれなくて、環も 「そーだな……」 と言葉を濁すしかない。
「あっ、わかった!」
 嬉々として時子が両手を打ち鳴らす。ぴったりの言葉を、思い出したらしい。

「 『汚部屋』 でしょ!!」

 珍しく、時子がさほど古くない言葉を使って、そのゴミ溜めのような部屋の状態を的確に言い表した。



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