猫の手貸します

case by case.3

誰が為に鈴は鳴る(1)




 たまきくん、と誰かに呼びかける声に反応して、佳奈子はそちらに顔を向けた。
 よく通りそうな、澄んだ声。高くもなく、低くもなく、ほんの少しだけ甘さの入り混じったようなその声に、聞き覚えがあるような気がした。気がした、というだけで、その声の持ち主の顔も名前も思い浮かばなかったのは、それがもうずいぶんと記憶の下のほうに埋もれてしまっていたものだったからだ。だから、振り返ったのもほとんど反射的な行為で、その時の佳奈子の頭には、特定の誰かのことはまったく浮かんでいなかった。
 視線の先にいたのは、若い男女の二人連れだった。
 やや古びたビルの出口から出てきて、お喋りしながら歩いている。多分声を出したのは女の子のほうだと思うのだが、彼女は相手のほうを向いていて、佳奈子のところからは、背の高い男のいかにも無愛想そうな顔しか見えない。
 後ろ姿の女の子は、ゆるくウエーブのかかった焦げ茶の髪を肩の下まで伸ばしていた。シャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好。男がのっそりと足を動かしているのに比べ、まるでゴム鞠が弾むみたいな足取りで、軽く飛び跳ねるようにして歩いている。口と一緒に手も動かして、元気いっぱいにお喋りしているようだった。
 誰だっけ。知り合いかな? と佳奈子は歩みをことさらゆっくりにして、彼女の後ろ姿を眺めた。聞いたことのある声だけど、思い出せない。年頃は同じくらいだから、昔の同級生か何かだろうか。
 佳奈子は昔から、交友関係は広いほうではない。というか、かなり狭い範囲に限られる。たとえば高校時代の同じクラスの誰かだったとしても、佳奈子にとっては話したこともない遠い存在である場合がほとんどだ。あちらだって、佳奈子のことなんてまったく覚えていないに違いない。昔の同級生だったとしても、そのまま知らん顔をして、通り過ぎてもよかった。それでまったく問題はないはずだった。
 でも──
 なぜだろう。気になる。あの声、あの話し方。心にひっかかって仕方ない。私は彼女を知ってる。知ってるけれど、記憶が重ならない。妙にじれったく、もどかしい。
 と、その気持ちが通じたのか、ふいっと女の子が顔の向きを変えた。
 ビルに向かって──ビルの一階の窓の向こうにいるらしい誰かに向かって、明るく手を振る。
「じゃあ所長、行ってきまーす!」
 笑いながらそう言う横顔を目に入れて、佳奈子はぴたりと立ち止まった。目を見開く。
 思い出した。
 いいや、違う。忘れていたわけではなかったのだ。彼女のことは、意識はしていなかったけれどいつだって、胸の奥のほうにひっそりとしまわれていた。もう取り出すことはなくなっていたものの、どこかに捨て置くことも切り離すこともできなかった。
 記憶が重ならないのも道理だ。今、目の前にいる彼女は、佳奈子がそうやってしまいこんでいたあの頃の姿とまるで異なっている。ううん、見た目はほとんど変わらない。変わったのは、髪型と髪の色くらいだ。
 でも、違う。まったく違う。今の彼女は、あの頃の……いいや、「あの時」 の彼女じゃない。
 あの時、最後に彼女を見たあの時は、何年前だった? 四年? 五年? 自分たちはまだ、学校の制服を着ていた。
 佳奈子は心の中で、そっと彼女の名前を呼んだ。

 ……咲月さん。


          ***


 二人は、突っ立っている佳奈子には気づかずに、ビルの駐車場に停めてあった大きなバイクに乗ると、エンジン音を響かせて、どこかへと去っていった。
 渡されたヘルメットを被るのも、バイクに跨るのも、男の腰に手を廻す仕草も、すべてが慣れているように見えた。そこにはまったく、躊躇も照れもなかった。あの二人は恋人同士なのだろうか。
 ──好きな人が、できたのか。
 二人乗りのバイクが、小さくなって視界から消えていく。佳奈子はしばらくその場に立ち尽くし、数分間、逡巡した。
 本当は、このままここから立ち去るべきなのだろうことは判っていた。束の間、昔の記憶を掘り起こしてしまったけれど、それはまたすぐに元の場所に戻して、何事もなかったように自分の家に帰ればいい。すぐに忘れる。それで終わりだ。
「…………」
 顔を巡らせ、さっき彼女が手を振っていた方向へ視線を向けた。
 さして大きくないそのビルには、いくつかの会社や事務所が入っているらしい。窓の端には、それぞれの看板がくっついている。どこも規模は小さいようなのが窺えた。
 一階にある看板には、「スズカ便利屋」 とある。
 その文字を長いこと見つめて、佳奈子はようやく足を踏み出した。
 ビルの入り口に向かって。


 そのドアの前に立って、またしばし、ためらった。
 言ってはなんだか安っぽいドアに、貼られた白いプレート。本来そこに黒々と記されてあったであろう 「スズカ便利屋」 の文字はすっかり薄くなって、そこはかとない侘しさを醸し出している。それを見ただけで、この事務所の経営状態が察せられるというか、まず間違いなく儲かってはいまい、という憶測が確定に近くなる。一言で言うと、ビンボーくさいところ、という感じしかしない。
 咲月さんは、ここと、どういう関係があるんだろ?
 と、佳奈子は戸惑いとともに思う。この便利屋を訪れた客? でも、さっき、「行ってきます」 と言っていたような。じゃあ、もしかして、ここに勤めている、とか。
 ──まさかねえ。
 首を捻って、その仮説を打ち消す。佳奈子が知っている、咲月時子、という人物と、このショボい小さな便利屋とのイメージは、まったくそんな形で繋がるようなものではなかった。
 ノックをしかけた手をドアの手前で止める。入って、何を言うつもりなのだろう。大体、何のために、自分はここまで来たのだろう。何かに突き動かされるように足を動かしてしまったけれど、その元となる理由が、自分自身にもよく判っていない。
 客のフリをして訪ねてみようか。でも、便利屋に頼むような用事なんて、何も思いつかない。そもそも、便利屋という職業がどんなことをするのかもよく知らない。これまでの佳奈子の人生で、そんなものに関わることはただの一回だってなかった。
 所長、と呼んでいたけれど、この中にいるのは、どんな人なのだろう。偉そうな? 胡散臭そうな? 怖そうな? 中小企業のワンマン社長っぽい強引で居丈高なタイプだったら、佳奈子がもっとも苦手とする相手である。
 どうしよう……と、ノックをしかけた手を出したり引っ込めたりしていたら、いきなり、内側からドアが開いた。
 がごん! という派手な音を立てて、佳奈子のおでことドアが激突する。
「えっ! わあっ! 人がいた! すみませんすみません、気がつきませんで! 大丈夫ですか?!」
 向こうから出てきた人物は、びっくり仰天して甲高い大声を出した。オロオロと慌てふためいて、おでこを押さえてうずくまる佳奈子に対して謝る。
「だ、大丈夫……です」
 チカチカする目をしばたき、なんとか返事をした。
「いやいや、もう、ホントにすみません! まさか人がいるとは思わなくて」
 しきりと恐縮している相手に、もう一度、「大丈夫です」 と顔を上げたら、うわあ! と悲鳴をあげられた。大げさな声に、びくっとする。
「おでこが真っ赤になってる! あ、わあ、あわわ、どうしよう、若い娘さんをこんな傷物にして、どう責任を取れば」
 ちょっと貧相なその中年男は、誤解を招くようなことを言うと、眉を下げて泣きそうな顔をした。


          ***


 ととととにかく中に、と事務所の中に招き入れられてしまった。中年男があまりにも困り果ててアタフタとしているので、かえって気の毒になって、逆らうことも出来ない。佳奈子はもともと、あまり他人に対して強い態度に出られる性格ではないので、二人してペコペコしながら、すみませんと言い合う、おかしな状況になっている。
「ええーと、まずは、そのおでこを冷やさないといけないな……タオル、タオル……氷はあったっけ」
 ウロウロ、オロオロ、という擬音が目に見えるほどの上擦りっぷりで、中年男が事務所の中を行ったり来たりする。大丈夫ですから、という佳奈子の声は、まったく耳に入っていないらしい。
 狭い室内は、もちろん美しくはないが、それなりにきちんと整頓されていて、気持ちがよかった。佳奈子が座る応接セットも、古びてはいるが、ちゃんと清潔に整えられている。床は塵ひとつ落ちていない。綺麗好きの人が掃除しているのだろう。それは多分、目の前のこの中年男ではないと思うが。
 三つある事務机は、すべて同じ形のものだ。二つが部屋の左右に分かれて置かれ、何に使うのかよく判らない道具やファイルが並べられた棚がすぐ傍にある。残りの一つは、窓際の中央に据えられていて、ここが偉い人の場所ですよ、と主張しているみたいで、なんとなく微笑ましかった。
 どたばたと賑やかに所内を物色していた中年男が、ようやく濡れタオルとビニール袋に入れた氷を持って戻ってきた。じゃあこれで冷やしてくださいね、と佳奈子に渡したタオルとは別に、もう一枚タオルを手にしていて、何に使うのかと思ったら、ふうーと息を吐きながら、自分の汗を拭いている。
「いや、失礼しました。本当に申し訳ない」
「いいんです、あんな所に立ってた私が悪いんですから。そんなに痛くないですし、大丈夫ですよ」
 実際はけっこうまだズキズキしていたが、佳奈子は笑みを浮かべてそう言った。なんだか、そう言わないと、自分がこの相手を苛めているような気分になってくる。
「そういえば、どうしてドアの前に立っておられたんですか? 何かの集金かな?」
 今さらの疑問を口にして、中年男はちょこんと首を傾げてから、はっとしたような表情をした。
「え、もしかして、お客さんですか?!」
 どうしてそこまで驚愕するのか、意味が判らない。
「あ、いえ、そういうわけではないんですけど……」
「ああ……ですよねえ……」
 佳奈子が手を振って否定すると、中年男は肩を落として、露骨にがっかりした風情になった。思わず、ごめんなさい、と謝ってしまう。
「……えっと、あの、私はよく知らないんですけど、便利屋さんって、どんなことをするんですか?」
 どこから話していいのか判らずに、そんなことを問いかけてみたのだが、相手はまったくそれについて不審の念を抱く様子もなかった。どうやら、根っから疑うことを知らない人柄のようだ。
「それはもう、いろいろですよ。掃除や買い物や犬の散歩や。たまに、ちょっと変わった依頼もありますけど」
「ちょっと変わった依頼?」
「あっ、そうそう」
 中年男は、今になって思いついたように、くたびれた背広のポケットから名刺を取り出した。
「僕、この便利屋の所長をしている鈴鹿といいます」
 と、恭しい手つきで、佳奈子に手渡す。
「何かありましたらいつでもどうぞ。お困りの方を力の限り手助けするのが、この事務所のモットーですから!」
 そう言って、鈴鹿所長はえっへんと胸を張った。


 それからすぐに、ぱちぱちと目を瞬く。
「あ、でも、未成年の方からの依頼は受けられないんですけど……お嬢さんは、おいくつですか」
「……二十一です」
 ああそうかあー、と鈴鹿所長は安堵と落胆の入り混じった顔をした。未成年ではないが、そのくらいの年齢では、便利屋を利用することなんてまずないだろう、と思っているのがありありだ。こんなにも考えていることがそのまま顔に出てしまう人が、よく所長なんてやっていられるものだなあ、と佳奈子は感心してしまう。
 でもまあ、落ち着きはないし貫録もまったくないが、憎めない人ではある。我慢できなくなって、ぷっと噴き出したら、つられたように鈴鹿所長もニコッと笑った。中年の男性にしては、下心のなさそうな、有り体に言うと子供っぽい笑い方をする。
「痕が残らないといいんですけどねえ」
 まだ佳奈子のおでこを心配しているらしい。
「大丈夫だと思います。タンコブくらいは出来るかもしれないけど」
 すっかり警戒心も失せて、そう言って笑うと、鈴鹿所長はまたしても眉を下げた。
「年頃のお嬢さんにタンコブなんて……時子君に知られたら、こっぴどく雷を落とされそうだなあ」
 ぶつぶつと呟くようなその言葉に、佳奈子の指がピクリと動く。
「──時子君、って」
「え? あ、失礼しました。いや、この事務所のバイトの子なんですけど、これがもう、怒ると怖くて」
「バイト? 咲月さん、ここでバイトをしてるんですか?」
「は?」
 身を乗り出した佳奈子に、鈴鹿所長はきょとんとした。
「さつき……?」
「時子さんです。咲月、時子さん」
「ああ……」
 何かを思い出したように、声を上げる。それから少し、表情を改めた。
「ひょっとすると、時子君のお知り合い?」
「はい」
 問われるまま、こっくりと頷く。誤魔化すことも、嘘をつく必要も感じなかった。目の前にいる人物は、かなり抜けたところもあるようだが、決して悪い人ではない。そして彼の 「時子君」 と呼ぶ声音には、しっかり信頼の色がある。
 咲月さんが、あんな屈託のない笑顔を向ける人物なのだ。この人は、きっと大丈夫。
「昔のお友達かな?」
「そう……そう、ですね」
 わずかに目を伏せて答える。
 ──友達、なのかどうかは判らないけれど。
 でも少なくとも、佳奈子にとって、彼女は大事な存在だった。
「時子君は、今は、逢坂、という姓になっているんだけど、それは知っている?」
 窺うように訊ねられて、頷いた。ひとつ頷いてから、自分自身に確認するように、何度も頷く。ああ、そうだ。今の彼女はもう、咲月ではない。
 咲月時子、という少女は、もうこの世界にはいない。
「そうでした。はい、知ってます。私はずっと、彼女のことを咲月さんと呼んでいたものですから」
 そう言う佳奈子の様子を、鈴鹿所長はじっと見つめていた。お互いがお互いを、見定めようとしている空気が漂っている。この相手は、どこまで知っているのか、どこまで話していいのか──
「その……時子君の姓が変わることになった事情については」
「知ってます」
 佳奈子はまっすぐ鈴鹿所長の目を見返し、はっきりと答えた。
「私と咲月さんは、同じ中学校だったんです。高校は別でしたけど、彼女の家に起きたことは、あの周辺では知らない人はいないくらいでした」
 そうして、ゆっくりと語りはじめた。



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